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Over the ClockSpeed!  作者: 大野 夕葉
Over the ClockSpeed! Ⅲ C-1 Stepping【第3巻中編】
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0x07 最期の思い出

 十二月三日、火曜日。

 その日は、穏やかな一日だった。

 最低気温は一度、最高気温は八度。

 学校が終わった後、僕は冬の薄い日差しを浴びながらいつものように病院へと向かった。

 今日の天気も決して良くはないが、時々陽がのぞくだけでもマシだ。

 だからだろうか。僕の中には根拠もなく、母さんは大丈夫だろう、という気がしていた。

「母さん、起きてるー?」

「弘治? 入っておいで」

 いつものようにノックをしてから病室に入ると、ベッドに寝たままの母さんの姿。

 それ自体は珍しいことでもないし、昨日と肌の白さもあまり変わらない。

 心の中で小さく安堵の息をついてから、いつものようにランドセルを置いて母さんの隣に向かう。

 それからは、本当にいつものように話をした。

 学校の話、早瀬の家の話。特になんてことない話でも、母さんはいつものように、穏やかな春の太陽のような笑顔で聞いてくれている。

 その表情には、いつも感じていた『辛さ』を感じていないような、そんな風に見えた。

 太陽が稜線に隠れ始め、窓の外が暗くなり始めたころ。

 僕は、久々に父さんのことを思い出していた。

「ねえ、どうして父さんは帰ってこないの?」

「それはね、弘治。父さんは、この世界を照らすような……大事なものを、作っているからよ」

 この時点で、僕は異変に気が付くべきだった。

 母さんの声には、いつしか力が無くなっていたことに。

 でも……この時の僕は、父さんのことに気を取られて気が付くことが出来なかった。

「こんな時なのに、お見舞いにも来てくれないなら……そんなの、太陽なんかじゃないっ! もう何年も父さんと会ってないのに、母さんは寂しくないのっ!?」

 あれからめっきり姿を見せなくなった父さん。最後に別れたあの日の空港での姿を思い浮かべて、今ここに父さんが居ないことへの怒りに声が大きくなってしまう。

 そんな僕の姿を見てだろうか。いや、もう母さんの目は何も映していなかったのかもしれない。

 母さんは顔を動かさず、優しく、どこか諭すように言った。

「寂しくなんてないわ。だって、あの人の技術が……今も、そして未来も、みんなを繋ぐから」

「いつかじゃないもんっ、今必要なんだよっ!」

 さらにヒートアップした僕は、涙さえ浮かべながら母さんの手を取った。

 そして、ようやく気付く。

 その手が、明らかに普段より温度が低いことに。

 僕の手を優しく握り返してきたことだけが、母さんの生を伝えている。

「ふふ、いつか、弘治にもわかる日が来るわ」

 そう言って、母さんはまた笑った。その目は優しく閉じられたまま。

 明らかな母さんの異変に、父さんへの鬱憤なんて一瞬で消え去った。

「母さん、母さん!?」

「弘治、父さん……大樹さんのことを、よろしくね」

 ゆっくりと、どこか言い聞かせるような声。

 僕の手の中にあった母さんの手はゆっくりと上へと向かい、少し宙を彷徨ってから僕の頭に乗せられた。

「いい子だね。いい子だからこそ……もっと他人を頼っていいんだよ。わたしが教えてあげられればよかった」

「そんな最期の言葉みたいなっ、嘘、だよね……?」

 母さんは柔らかく僕の頭を撫でながら、言葉を続けた。

 明らかに、恐ろしいものが母さんに近づいてきている。来春から中学生という僕にも、それだけははっきりと判った。

 異変はもう、見た目にも明らかで。

「金江のことは、本物のお母さんだと思って……でも、あんまり困らせないであげてね?」

 母さんの優しい声は止まらない。

 僕は、頭に乗せられた手を握って、しっかりと胸に抱きこんだ。

「母さん、病気を治して、一緒にっ……! あの家でっ、っ……!」

 必死に言葉を紡ごうとするけど、言葉が出てこない。

 つっかえつっかえになりながら必死に思いを紡いでいると、母さんの手が僕の手を握り返してきた。

 それは……まるで、父さんが教えてくれた別れの挨拶の握手。

 突然、母さんに繋がれていた機械が大きな音を鳴らした。鳴り響くアラームの中、母さんの手はゆっくりと力を失っていき。

「弘治、ほんとうに、ありがとう……」

「母さん、嫌だよっ、母さん……!」

 必死に声を上げる。景色がにじんで、涙が流れているのはわかった。

 そんな僕の手を母さんは弱々しく握り返してきて、小さく呟く。

 けたたましい音が鳴り響く中、それでも、僕ははっきりと聞き取ることが出来た。

「ありがとう――ごめんね」

 次の瞬間、母さんの手から力が抜ける。

 僕の体温を受け取っていたはずの母さんの手は、それでも――徐々に、温度が下がっていくのを嫌でも肌で感じて。

「母さん、母さんっ!」

 声を掛けても、もう母さんからの返事はない。

 ドアの外から聞こえるバタバタという音が大きくなった。すぐにお医者さんと看護師さんがやってくる。

 一方の僕は、呆然と座りつくしていた。

 何が起きたのか、理解できないわけじゃない。でも、理解したくなかった。

 母さんの周りの機械は相変わらずけたたましい音を立てており、お医者さんたちは必死に何かをやっているのは判る。

 それから、さらにどれくらい時間が経っただろうか。

 五分だったのかもしれないし、十分だったのかもしれないし、三十分だったのかもしれない。

「天先輩っ!」

 病室に飛んできたのは、涙を浮かべた金江さんだった。

 二人が何を話していたのか、呆然としていた僕は聞き取ることは出来なかったけど。

 お医者さんが、小さく首を振ったのだけはわかった。

 僕が感じていたのは、どこまでも落ちていくような喪失感と孤独さ。

 そして、非現実さだった。

「……天さん、どうしたの?」

 どうやら金江さんと一緒に蒼と翠ちゃんも来ていたらしい。動けない僕に、不安そうな蒼がおっかなびっくりと話しかけてくる。

 僕は、言葉を発することすらできず。

 ただただ、嘘のような現実に取り残されていた。


◇


「手は尽くしたのですが……申し訳ありません」

 そういってお医者さんが頭を下げた時には、午後四時半になっていた。

 実感なんてない。もう、母さんが居なくなってしまっただなんて。

 だけど、次に僕を襲ったのは突然の忙しさ。

 もちろん金江さんや蒼の父である昌平さんが手伝ってくれたとはいえ、人を一人失った家族がやらなくてはいけないことは多い。

 僕は、葬儀の手配などを極力手伝うことにした。

「父さんには、連絡は行ってるんですよね?」

「ええ、もちろん。一番大事なところだから確認したわ、病院から電話……は繋がらなかったんだけど留守電で、あとはメールでも連絡を取ってくれたみたい」

「ありがとうございます」

 心の中で小さく息を吐いた。

 今はきっとこちらに向かっているのであろう父さんが、安心して帰ってくることができるように準備を進めよう。

 父さんならきっと、すぐに帰ってきて助けてくれる。

 そう信じていた。母さんが信じていた、父さんを信じようと。

 それに、もう一つの理由もあった。

 何かの作業に追われている間は、現実から逃れることができたから。

「葬儀社さんには連絡してくださったんですよね?」

「ええ、寝台車も手配をしてくれているわ。でも、弘治くん……」

「いいえ、手伝います。父さんがいないのはウチの問題ですから、金江さんに頼りきりになってしまうのはいけないと思うんです」

「……わかったわ。場所はどうしようかしら? 会場を借りることもできるし、自宅でもいいみたいだけど」

「ご存じの通り、うちはそんなに大きくないですから。会場を貸してもらいましょう」

「ん、いいと思うわ」

「ある程度動かせるお金はあると思うんですが、どれだけあるかわからないので、あまり高すぎるところは避けてもらえると……」

「わかった、じゃあそれで見繕っておくわね」

 母さんの生きていた証が急速に拭われていくように、急ピッチで葬儀の準備は進んでいく。

 会場と火葬場のスケジュールもあり、四日に通夜、五日に告別式というハイペースで進めざるを得ないことも判明した。

「丸一日で通夜、早いわよね……」

「でも、これしか無いのであれば仕方ないですよ。ありがとうございます、金江さん」

 そう僕が言ったときに金江さんの見せた、申し訳なさそうな、それでいてどこか泣きそうな表情は……どこか、鮮烈な印象を残した。

 それから、金江さんが連絡してくれたのだろう。悠のところの親御さんにも必要な手続きを手伝ってもらい。

 関係各所への連絡も分担して進めていき、僕の分が終わってひと息ついていると。

「兄さん、何か手伝うことはありますか?」

「翠ちゃん?」

 ちょっと不安げな声の翠ちゃんに声を掛けられた。

 そんなに僕は大変そうな表情をしていたのだろうか。でもあいにく、翠ちゃんに手伝ってもらえそうなことはない。

「特に無いんだけど……どうして?」

「姉さんが、手伝えることがないか聞いてきてくれと言うので」

 不安げな翠ちゃんの声。

 でも今までは蒼と翠の手を引いて走ってきたのだ、そんな僕が二人に頼るのはどこか違う気がした。

 それに、大人たちが僕のことを沢山手伝ってくれているから問題ない。

 そんな思考を巡らせた僕は、笑顔で翠ちゃんの頭を撫でた。

「……ありがとう、僕は大丈夫って伝えておいて」

「兄さん……。でも、無理はしないでくださいね」

 そう、この時は本当に大丈夫だと思っていた。

 最初の異変が現れたのは、母さんが居なくなったその日の夜。

 明日もやらなくてはいけないことが山盛りだ。早く寝なくては体が持たないだろう。そう、思ってはいるのだけど。

「……っ」

 布団に入っても一向に眠気はやってこない。

 胸の中で渦巻いていたのは、不安と恐れ。

 今までは多忙で紛らわせていた感情が鎌首をもたげる。

 でも幸い、この日はばたばたと動き回っていたからだろう。いつしか不安と戦う体力さえ 尽きた僕は、眠気を感じるまもなく意識を手放した。


◇


 翌日も、朝起きてすぐに忙しい一日が始まる。

 色々な準備の中、葬儀場で納棺される母さんを見送った。

「……本当に、嘘みたいね。天先輩……」

 その様子を見て、金江さんはぽつり、と言葉を漏らす。

 死装束を施され化粧を受けた母さんは、死んでいるのが嘘のように穏やかな表情に見えた。

 こうして大人たちと準備を行い、未だに返事が帰ってこない父さんを通夜で待つ準備が終わり。

 僕は、父さんがいつ来るのかとずっと待っていた。

 こんな時だから、父さんはすぐ帰ってくると思っていた。

 でも、通夜式に父さんは現れなかった。


◇


 十二月五日、午前十時。

 母さんの告別式が始まる。

 本来ならば喪主には父さんがなるはずだったけど、準備の間に来なかったので僕が喪主を務めることになってしまった。

 最初に僕が焼香を終え、参列者の人たちが焼香をしていく。

 どうやら母さんが働いていたところの関係の人も駆けつけてくれたようで、通夜よりもよっぽど多くの人が来てくれていた。

 でもそこに、僕の探していた姿はない。

 父さんは、まだ現れていなかった。

「……だめ、出ないわね」

 何度か金江さんが連絡を試みていたけど、電話も繋がらないらしい。

 その時。

 走ってくる音が聞こえ、誰かが入り口に立ったのが判った。

「大樹さん……!よかった、間に合って……」

 金江さんの声で僕は顔を上げる。

 そこには、見ない間にすっかりとやつれた父さんの姿があった。

「父さんっ……!」

「ああ、弘治か……大きくなったな」

 三年ぶりの親子の会話は、ただそれだけ。

 父さんはそのまま棺の方へと向かうと、開かれた顔のところから母さんの姿を見て泣き崩れた。

「ああ、天……どうしてだよ、天っ……!」

 読経が続く中、父さんの慟哭が響く。

 その姿はまるで、僕とそう変わらない少年のようだった。

 一方の僕は、とても安心したのを思い出した。父さんが帰ってきてくれた。これなら、もう安心だろう。


◇


 粛々と告別式は終わり、火葬が行われ。

 骨上げを行ってもまだ、僕にはどこか実感が乏しかった。

 この骨は母さんのものなのだという。でも、それを信じることは出来なかった。

 それから、母さんの一家がお世話になっているのだというお寺に骨を収め、葬儀は終わる。

 僕の手元に残ったのは、今も母さんの机の上にある小さな位牌だけ。

「あの、大樹さん……」

「はい、なんでしょう?」

「あの、これを天さんから預かってまして。何かあったら大樹さんに、と」

 お寺を出たところで、金江さんは父さんに白い封筒を渡した。

 それを受け取った父さんは、封筒から折りたたんだ便箋を取り出して目を通していく。

「っ……、天っ……」

 涙を流す父さんに、僕は慌てて駆け寄った。

「父さん、大丈夫? 何が書いてあったの?」

「ああ、大丈夫、だ……」

 涙を拭きながら父さんが答える。

「弘治、ちょっと蒼ちゃんと翠ちゃんと遊んでてくれるか? 大人だけで話があるんだ」

「うん、わかった……」

 一緒に来ていた蒼と翠ちゃんの元に向かう。僕は出来るだけ、いい子であろうと思った。

 あの日、父さんのことをあんな風に言ってしまったから、母さんは居なくなってしまったのかもしれない。

 そんな罪悪感が、どこかにこびりついたように離れなかったから。

「弘治くん、どうしたの?」

「大人だけの話があるんだって。だから、ちょっと待ってよう」

「おとなだけの話って、何を話すんでしょう?」

「わからないわ」

「僕もわからないんだ、教えてくれなかった」

「気にならないの? 兄さん」

「気にならないわけじゃないけど……きっと、僕には知られたくない話なんだろうから」

 どこか不満げな蒼たちから、話をしている大人たちに目を移す。金江さんと昌平さん、それに柳洞夫妻と何かを話し……金江さんに何かを渡したようだった。

 大人たちの表情は皆浮かない。何か良くない話をしているのであろうことは、容易に想像がついた。

「待たせたな、弘治」

「ううん。何の話をしてたの?」

 十分ほど経っただろうか。父さんは僕の元へと戻ってきた。

 何を話していたのか聞くと、父さんは表情を明らかに曇らせる。まるで、本当にいいのかと悩んでいるかのように。

「ああ。そうだな……」

 それからたっぷり数秒、父さんは複雑そうな表情を見せ。

「……弘治、俺はまたすぐに戻らないといけない」

 そう、僕に告げた。

 てっきり父さんはずっと、そうでなくてもしばらくは一緒に過ごしてくれるのだと思っていた僕は、その言葉に体を硬くして立ち尽くすしかなくて。

「……そう、なんだ」

「ああ。早瀬さんとこの言うことをよく聞くんだぞ」

「わかった」

「よし。じゃあな」

「っ……いって、らっしゃい」

 これが、正真正銘最後の会話。

 それから父さんは、また何言か大人たちに声を掛けてからお寺を去っていく。

 いつの間に呼んだのだろう、道路にはタクシーが停まっていた。

 泣いて父さんを止めることも、強引に手を引いて止めることも出来たはずだ。

 しばらくでいいから、一緒に暮らして欲しい。

 そう言えば、何かが変わっていたのかもしれない。

 でも、心にどこかひびの入っていた僕はそれが出来ず。

 ただただ……数年前とは違い、どこか悲しげに歩き去っていく父さんの背中を見送ることしかできなかった。

 それから、金江さんたちと家に戻る。呆然とリビングで過ごしている間に、日は沈み切っていた。

「弘治くん、今日から一緒の家で暮らさないか?」

 夕飯を早瀬家のみんなで取っていると、蒼のお父さん……昌平さんが切り出す。

「子供一人であの家に暮らすのは色々と大変だろう。ウチには知っての通り空いてる部屋もいくつかある、どうかな?」

「弘治くん、うちに住むの?」

「蒼や翠はどうかな? 金江も」

「兄さんが本当の兄さんになってくれる、ということですよね? 私は賛成」

「それは少し違う気がするが……まあいい。蒼は?」

「私も、弘治くんなら……いいよ」

「もちろん私が止めるわけなんてないわ。ということなんだけど、どうかしら? 弘治くん」

 早瀬家からの温かな言葉。でも僕は、その温かい提案に首を横に振った。

「いいえ、ありがたいですが……遠慮させてもらいます。あの家には、色々な思い出があるので」

 もちろん、口にしたのは一つの事実でもあった。あの家には、母さんとの思い出が沢山あるから。

 でも、もう一つの感情も僕がここに来ることを拒んだ。

 それは、恐怖。

 いつ自分も母さんのように消えてしまうかわからない。その時に、皆を悲しませるのは嫌だったから。

 歪んだ喪失への恐怖は、僕の心の中で変換され……遠慮という名の、拒絶になっていた。

 僕の近くにいると、いつか傷つけて悲しませてしまうだろうから。

 大切な人たちだからこそ、僕のような悲しさを味わってほしくない。

「……わかった。いつでもうちは大歓迎だ、気が変わったらいつでも言ってくれ」

 そう言ってくれる昌平さんは、どこか悲しそうな目をしていた。

 夕食を終え、少しだけ早瀬家の団らんに混じり。

「ただいま」

 僕は一人で、誰もいない家に帰ってきた。

 静かで、真っ暗な家なのは変わらない。でも今日は、普段の何倍も寂しく……寒く感じた。

 でも、これから僕は一人で生きていかなくてはいけないのだ。

 そう自分に言い聞かせると、靴を脱いで氷のように冷たいフローリングへと足を進めた。


◇


「……はぁ」

 記憶の全てを取り戻し、僕は目を覚ました。

 日付は十二月三日。母さんの六回目の命日。

 目尻には幾重にも涙の筋がある。それを袖で拭うと、まずは時計を見た。

「げ、もう昼なのか」

 時刻はもう十二時に迫ろうとしていた。遅刻という次元ではない。

「昨日、あいつらに先行っといてくれって言ったのは正解だったな」

 そして、ふと気が付く。心は全く健康ではないのだが、体だけは元気なようだ。

 毎年、この日の朝に感じていただるさや頭痛が無い。

 今となっては確かめる術はないけれど、もしかしたら抑え込んでいた記憶のせいだったのかもしれなかった。

「……抑えこんでいた、か」

 今日で全てを取り戻したはずだったけど、どこかすっきりしない。

 まだ何か、大事なことが欠けているような不快感。

「きっと気のせいだな、うん」

 時系列的には、記憶はこれで全て終わりのはずだ。

 全てを取り戻したことによる落ち着かなさだと自分を納得させる。

「……親父は、何を考えてんだ」

 そして次に湧いてきたのは、純粋な疑問だった。

 母親を亡くした子供を一人残し、半日も居ないで帰ってしまうなんて。

「今なら、教えてくれるのかな」

 でも、いくつか手がかりを再び手にすることが出来た。少なくとも、早瀬夫妻や柳洞夫妻なら何かを知っているかもしれない。

 あの日は知ることの出来なかった、親父のことを。

 そこでふと気付いた。胸の底にあった父さんへの怒りがそこまで強くないことに。

 今までは不快感で一杯になっていただろうけど、今はどうしてかそこまでではない。

「……あの背中、か」

 若松を去る父さんの、悲しげで小さな背中。

 記憶から抜け落ちていたその姿が、怒りを向ける気力を削り取るには十分だったからだろうか。

 だからこそ、残ったのは純粋な疑問。

 どうして親父は、ああなってしまったのか。

 親父が帰ってきて出ていくまでの数時間に、何を思ったのだろう。

「いい機会、なんだろうな」

 それを直接確かめることが出来る機会が、あと四カ月弱で訪れるのだ。

 僕はあの時から初めて、父さんと会って話したいと思った。

「……つっても、あと四か月あるんだもんなあ」

 きっとその間に、僕の中でも聞きたいことはまとまるだろう。

 立ち上がって伸びをして、制服に手をかけようとして……やめた。

 今日くらいは、みんなに甘えてしまおう。そんな考えが湧いた自分に驚いて、同時に納得のため息をついた。

 気のいい仲間たちを心配させてしまうのはもう同じだ。それなら、折角だから一日ゆっくりさせてもらって、明日元気な姿を見せた方がいいに違いない。

 階段を降りて、母さんの部屋の前に立つ。ノックをして開くと、そこは相変わらず暗く、自分も死んでしまいそうなほどに淀んだ空気に満ちている。

「まずは換気だな」

 カーテンと窓を開けると、湿気った冷たい風が入り込んできた。

 外には雪が舞っており、あっという間に部屋は冷えきってしまう。

 それでも、この少し埃っぽい空気よりは何倍も生きているような気がした。

「……母さん」

 それから、遺影の前にある母さんの椅子に座って線香に火を灯す。

 線香立てに立てた後、位牌と遺影に小さく手を合わせた。

 線香の香りと物音ひとつしない環境が、鮮明に取り戻したあの日と重なる。

 母さん、僕は元気にやっています。

 仲間にも恵まれて、部活なんかもできるようになったんだ。

 ずっと奥底にしまっていた辛い記憶も、全部取り戻すことができたんだよ。

 近況を静かに報告していると、ぱさり、という小さな音が聞こえた。

「何だ?」

 その音は、母さんが死んですぐに遺品整理をやって以降触れていなかった、机の引き出しの中からだったように思う。

「……虫でも湧いてたら嫌だな」

 木製の机とはいえ、虫を呼ぶようなものも入っていなかったはずだ。そう思いながら、下から引き出しを開けていってみる。

 一番下、二番目、三番目。今のところ特に変わった様子はない。

 だけど、最後の一番上の引き出しを開けて異変に気付いた。

 母さんが残した筆記用具たちの上にあるものが落ちていたからだ。

「これは……封筒?」

 そこに佇んでいたのは、白い封筒。見間違いでなければ……金江さんが父さんに渡していた記憶の中の封筒と、同じように見える。

 一つ違うのは、両面テープが貼ってあったこと。

「……天板に張り付いてたのか、これ」

 だから、遺品整理の時には気付かなかったのだろう。いくら遺品整理とはいえ机の奥まで覗き込むことなんてないし、そもそもモノが少なくなっていた母さんの部屋だ。

 そのテープの粘着力が六年という月日の中で弱まって、剥がれ落ちたに違いない。

 封筒を手に取って裏返すと、鼻をつんとした感覚が襲った。

「弘治へ」

 そこには、見慣れていた母さんの字で僕の名前が書いてあったから。

 ゆっくりと封を切って中身を取り出す。中に入っていたのは、一枚の便箋だった。


『弘治へ

 これを見ている弘治は、今何歳になっているのかな?

 机の中に隠しておくつもりだけど……二、三年くらいは見つかってないよね。

 母さんは、そんな弘治の姿が見れないのが悲しいです。

 背はどれくらいになったかな、父さんくらいにはなったかな?私の背は高くないから、そんなに伸びなかったらごめんね。


 さて、この手紙はこの部屋を出る前、最後の夜に書いています。

 将来の弘治へのタイムカプセルとして、これを遺そうと思ったからです。

 多分、母さんはもうここに戻ってくることはできないでしょう。

 それくらいに、私の体は弱ってしまっているから。


 まず、まだ小さな弘治を遺して逝ってしまってごめんなさい。

 母さんはあなたのことがとても大切で、大好きでした。

 本当は、大人になるまでちゃんと見守ってあげたかった。今はただ、生まれつき強くないこの体が本当に嫌になります。


 それと、父さん……大樹さんのことです。

 大樹さんは、帰ってきているかな?

 もし帰ってこなくても、責めないであげてください。


 大樹さんは、ずっと夢を追いかけていました。

 世界を変えてしまうような、そんな技術に携わるという夢に。

 覚えてるかな? 母さんが最初に体調を崩してしまったときのこと。

 あの時、大樹さんの夢を諦めないでほしいと頼んだのは母さんなの。

 だから、全部悪いのは母さんなんだよ。


 本当は、母さんの体調がある程度戻ったら一緒にアメリカに行くつもりだったんだ。

 でも一向によくなる気配は無くて、むしろ悪くなる一方で。

 大樹さんも一番忙しい開発チームのエースに抜擢されてしまったから、日本に帰ってくるのも難しい状況が続いていました。

 だから、大樹さんが作ったチップを載せたパソコンで、メールをしたりビデオ通話をするのが精一杯。

 体の弱い母さんには、応援するくらいしか彼を助けてあげる方法が思いつかなかったんだよ。


 でも、母さんはそれでも幸せでした。

 大樹さんを日本から応援することしか出来なくなってしまった今でも、それは変わりません。

 だからね、弘治。

 母さんのことを大樹さんが不幸にした、なんて思わないであげてください。

 これは、身勝手かもしれないけど……母さんが選んだ道だから。

 不器用な母さんは、それしか支えてあげる方法を知らなかっただけ。


 だからこそ、弘治のことを最後まで育ててあげられないことが一番の心残りです。

 幸い、母さんのことも、弘治のことも大好きで助けてくれる人が近所には一杯います。

 だから、もし父さんが帰ってこれなかったとしたらその人たちに頼ってください。

 きっと皆、喜んで手を貸してくれると思います。もちろん母さんも、出来るだけ頑張るつもりではいるけどね。

 もちろん、受け取るだけではいけないよ。逆に、いつも助けてくれる人たちが困っていたら助けてあげてね。


 弘治。

 この手紙を読んでいるとき、母さんはもう居ないでしょう。

 今までさんざん母さんの体調で振り回してしまって、その上で遺して逝ってしまうなんて 全然いいお母さんじゃなかったよね。本当にごめんなさい。

 でも、こんな悲しいことは人生でそう起きることじゃないんだよ。

 だから、幸せになることをためらわないで。

 もし、大切な人と出会えたのならその人と過ごす未来を恐れないで。

 弘治は父さんに似てくれたから、元気に生きていけるはずです。

 母さんだって、とても幸せな人生でした。


 母さんの元に生まれてくれて、ありがとう。

 鷲流 天』


「っ……ううっ、母、さん……」

 最後の文まで、ちゃんと読むことなんてできやしなかった。

 母さんの字で書かれた六年半前からの手紙は、親としての愛情と後悔が詰まったもの。

 こんなものを見せられたら……僕は、母さんにありがとうとしか言えなかった。

 そして、僕の気持ちも六年半という遠い月日からお見通しだったのだろう。

「母さんの、言う通りだったよ……」

 全てを取り戻して、母さんの手紙を読んではっきりと判った。

 僕の心に沈殿する、どこかほの暗い申し訳なさ。それは、恐れから来るものだった。

 いつ自分が母さんのように消えてしまうかわからない恐れ。

 これが、あと一歩を踏み出す勇気を消し去る根源だったのだ。

 それはあの日の夜、早瀬家にお世話になるのを止めたものをさらに煮詰めたような、暗くて深い感情の闇。

 だけど今、それは杞憂だと母さんが言ってくれている。

 簡単には完全に消えてくれないだろうこの恐れだけど、その暗い淀みはいくらか明度を上げていた。

「……?」

 憑き物が幾分軽くなった気がして、手紙を畳もうと手に取る。

 そこでふと、最後の一枚の裏側に何かが書かれていることに気が付いた。

「これは……パスワード?」

 PW:Skyl@ke0805、と書かれている。この書き方だと、何かのパスワードだろうか。

 そこまで考えを巡らせて、僕は一つのものを思い出した。

 紙を片手に、一番下の引き出しを開ける。そこには、母さんが入院中もずっと手放さなかったパソコンが入っていた。

 母さんの遺品として残ってはいたけどパスワードがわからず、かといって初期化することもできずに空いていた引き出しにしまい込んだノートパソコン。

 ACアダプタをコンセントに繋ぎ、恐る恐る電源を入れる。

 六年前から放置されていたパソコンだ、もしかしたらデータを保存しているハードディスクがダメになっているかもしれない。

「ハードディスクって、ずっと使ってても壊れるけど使わずに放置してても壊れるんだよ。機械部品は難儀だよねえ」

 いつぞや砂橋さんが言っていたことがちらりと脳裏をかすめるけど、心配は杞憂に終わった。

 カリカリと小さな音を立てながら、今はもう懐かしくさえ感じる古いWindoxの画面が現れたからだ。

「パスワードを……通った」

 現れたログイン画面の母さんのアカウントに、パスワードを入れてログインする。

 今のパソコンと比べると、明らかに遅い起動時間。

 しばらく待たされたのち、画面が切り替わる。そこには、六年の時を経てデスクトップ画面が表示された。

 そしてすぐに、一つのアプリケーションが立ち上がってくる。

「なんだ? 何もしてないのに……」

 僕が首をかしげると同時、それはメールをやり取りするソフトであるメーラーであることに気が付いた。

 数秒の待ち時間ののち、今僕たちが使っているものとあまり変わらないメーラーの画面が表示される。

 見えているのは受信メールの一覧。送信者には、ある一人の名前ばかりが並んでいた。

「ダイキ、シュウリュウ……」

 一番新しい物は、二〇一三年の十二月三日。母さんが死んでしまう前日だ。

 それを開くと、そこに並んでいたのは……なんてことない、日常のメールだった。

 今日はこんなことがあった、仕事が大変だ。それに対して母さんが頑張れと励まし、その返信では逆に親父が母さんと自分のことを心配している。

「何が、ちょっと調子が悪いけど大丈夫、だよ……っ」

 その日には、母さんの肌も雪のように白くなっていた。パソコンにはビデオチャット用のソフトも入っていたから、ビデオ電話をすればすぐに異変に気づいただろう。

 でも、母さんはそうせずメールを選んだ。

「母さんも、同じじゃないか」

 思わず言葉が漏れる。ほかのメールに目を通しても、親父を支えようと、心配させまいと。そんな気持ちばかりが伝わってきた。

 そして……親父も、母さんに励まされて。母さんの期待に応えなきゃと、仕事に打ち込んでいたのかもしれない。

 放心状態になりながらも、メールを読み進める。どこまで進んでも、そこに流れているのは幸せそうな夫婦の会話だった。

「そうか、母さんも……幸せ、だったんだな」

 てっきり、親父とはやり取りもしていないのだと思っていた。

 だけど、そんなことはなかった。ちょっと距離は離れているが、母さんができる限り支え、親父が頑張る……二人はそれでよかったのだ。

 僕も親父が帰ってこない不満こそあれど、あの日までは十分幸せだった。唯一不幸せだったとすれば、母さんが死んでしまったことだけだ。

 でも、そこまでして母さんは支えたかったということ。

 であれば、僕が親父……父さんを恨む理由なんて、取り戻した思い出の中には存在しない。

「一つ、メールがある……?」

 ふと画面の中に覚えた違和感。よく画面を見直すと、それは一通のメールの存在を告げる下書きフォルダから来るものだった。

 そのメールの題名は、「ごめんね」。

 慌てて開くと、最後の更新日時は母さんが死んでしまう日の午前十一時。

「ごめんね、体調は悪かったんだけど……結構、しんどいかも。

 大樹さん、もし何かあったら弘治のことはよろしくね。

 今日まで、いっぱい頑張ってくれてありがとう。いっつも私が思う以上に頑張っちゃうあなただから……少しだけ、この静かな若松の街で休憩してもいいと思うんだ。

 金江からの手紙、渡っちゃってたら無視してもいい。やっぱり、弘治には」

 文章は、そこで途切れていた。

 そこで母さんに何があったのかはわからない。電池が切れたのかもしれないし、キーボードをタイプできない何かがあったのかもしれなかった。

 もしかしたら、母さんとしても、予想外に早くその時が来てしまったのかもしれない。

「やっぱり、あの手紙か」

 記憶の中で金江さんが父さんに渡していた白い手紙。あれは、同じように最後の入院の日に託したものなのだろう。

 その手紙に何が書かれていたのかは、今となっては父さんしか知らない。

 だけど、この書きかけのメールが、もしきちんと送信されていたなら。

 あるいは危篤になってから一度でも意識を取り戻して、金江さんに手紙を渡さないようお願いできていたなら。

 僕の運命も、父さんの運命も変わっていたのかもしれない。

「誰も、悪くないじゃないか……」

 一つだけ恨むとしたら、母さんの命を急に奪った神様だけだ。

 いじわるな神様ににらみを利かせても、帰ってくるのは沈黙だけ。

 そうしていると、ふと一つの可能性に思い当たった。

「父さんも、もしかしたら」

 そう、もしかしたら。

 父さんも僕と同じように、あの日の呪縛から逃れられていないのではないだろうか。

 だとしたら……それを救ってあげられるのは、僕だけだ。

 ようやく、そして思ったよりも早く。

 父さんと何を話せばいいかがはっきりと見えた。

「世界大会、か」

 僕には、父さんとほぼ確実に会う機会がある。

 頼れる仲間たちが掴んでくれた、一世一代の機会だ。

 大まかなタイムスケジュールは届いているけど、話す時間さえ取れないほどみっちり詰まっているわけではない。

 ここでならーー

 ぴんぽーん。ぴんぽーん。

「ん? 誰だろ」

 どこか間抜けなチャイムの音が来客を告げる。通販で買い物をした記憶はないんだけど、と思いながらインターホンの画面を見てすぐ。

 僕の足は玄関に向けて駆け出した。

「やっほ、シュウ。思ったより大丈夫そうね」

「……よかった。お兄ちゃんがひどい顔してなくて」

「蒼、それに道香も? どうしてここに」

「もう放課後よ? シュウが心配で、二人で帰らせてもらったの」

「……ありがとう」

「おっ、思ったより大丈夫そうだな」

「悠まで来てくれたのか」

 ドアを開けると、そこに立っていたのは蒼と道香、そして悠。

 部活はどうしたんだ、と言おうとしてやめた。忙しい中なんとかやりくりして来てくれたのであろう友人たちに、その言葉は失礼すぎる。

「部活なら気にしなくて大丈夫よ。星野先輩が踏ん張ってくれてるわ」

「でもさすがにこの時期に全員離れるのは難しいから、わたしたちが代表して、ね」

「そんなに筒抜けだった?」

「真面目なシュウが気にすることなんて、お見通しよ」

「気を使わせたな、ごめん」

「もう墓参りは済ませたのか?」

「いや、まだだった。ちょうどいいし、これから行ってくるよ」

「そう……あのシュウがお墓参りを後にするなんてね」

 言われて初めて思い出す。確かに、まだお墓参りには行っていない。

 去年までは、学校を休んで起きてすぐにタクシーを使って墓参りに行っていた。どこかそうしないといけないような気持ちがあったから。

 だけど、今年は……言われるまで気にしてなかったくらいに優先度は下がっていた。

「それだけいろいろあった、ってことだ」

「……わかった。ちょうど雪も止んだし、今からお墓参りに行きましょ?」

「じゃあ車出してもらうわ。見た感じどっちも家に居そうだから、ちょっと待っててくれ」

「悪いな、手間かける」

「今更だろ、気にすんなって」

「それでも、だよ。線香とか取ってくるわ」

 悠が家に走って行って数分、電気屋の大きなバンが家の前に停まる。運転席から出てきたのは、何というか……悠に似て背が低く、どこかかわいげのある悠のお父さんだ。

「やあ、弘治くん」

「どうも、なんだかすみません。ありがとうございます」

「はは、気にしないで」

「今日は私と、後輩の道香もお願いしてもいいでしょうか?」

「道香ちゃんって言うんだね。悠の父です、いつも悠がお世話になってるね」

「いえいえ、こちらこそお世話いただいて。桜桃道香です、よろしくお願いします」

「よし、乗った乗った。ちょっと汚いけど許してね」

 バンに乗り込むと、四人で乗るにはどこか広い車内に寂しさを感じている間に、音を立てて走り出す。

 道中、道香がぽつりとつぶやいた。

「血は争えない、ってことなんですねえ」

「悠のお母さんも小さくてかわいらしい方なのよ。そういう意味ではサラブレッドね、悠は」

「なんとなく理由がわかった気がします」

「ははっ、その通りだろうなあ」

「……シュウ、笑えるんだ」

 蒼がそういうのも無理はない。去年までは、この日だけは本当に何も出来ないくらいに塞ぎこんでいたから。

 心身ともにしんどかったんだけど、今年はそういう感じもない。

 それに、少しだけ緊張していた車内の雰囲気も緩んでくれた。道香には感謝しないといけない。

 道中、供える花をスーパーで買って。

「……一年ぶり、か」

 やってきたのは公営の墓地。

「僕はここに残るから、弘治くんたちは行っておいで」

「ありがとうございます。そんなに掛からず戻ってくると思います」

「こっちは気にしないで、ごゆっくり」

 車を後にして、薄雲が覆いつくす空の下、僕たちは駐車場からお墓へと向かう。

 一年に一度しか来ないとはいえ、足は思ったよりもしっかりとその場所を覚えていた。

「ここ、が……」

「そうよ。さ、まずは水を汲んできましょ」

「だな。柄杓とかも持ってくるよ、あと何か必要なものはあるか?」

「悪いな、大丈夫だと思う」

 咲場家、と書かれている墓石。母さんの旧姓が書かれたこの墓の下には、母さんの家系の人が眠っているのだという。

 手早く鋏で茎を切り、生ける準備をしている間に皆は戻ってきた。

「天さんの旧姓、咲場さんって言うんですね」

「そうなんだって。僕も物心つく頃にはおじいちゃんとおばあちゃんは居なかったから、ちょっと新鮮なんだ」

「まずは掃除からかしら」

「だな。ちょっと手伝ってくれ」

 まずは皆でいい感じにお墓の掃除をする。今日も雪がひらひらと舞っていたように、一年もすると雨の跡などが目立ってしまう状況になってしまう。

 だけど、一人でやるとそれなりに時間が掛かる掃除も、皆でやったらあっという間に済んでしまった。

 それから花立に花を生けると、一気に無機質だったお墓が華やいだ。

「はい、線香に火を付けといたわよ」

「ありがと」

 火のついた線香を蒼から貰うと、そっと香炉に置いて静かに手を合わせる。

 数時間前は、過去を振り返って手を合わせた。

 でも今は、未来に向けて。

 母さん。父さんに会ってくるよ。何を話すかも決めたんだよ。

 だから、少しだけ……勇気を貸して欲しいんだ。

 当然、返事はない。でも、いつの間にか覚悟は決まっていた。

 手を戻すと、顔を上げる。

 振り返れば、どこか心配そうな表情で皆が待っていた。だから、さも当然のように僕は笑顔を向ける。

「皆もよければ線香をあげてってくれ、母さんも喜ぶと思うから」

「そう? ありがとう。じゃ、あげさせてもらうわ」

「わ、私もいいんでしょうか」

「もちろん、成長した道香ちゃんの姿を見せてあげて」

 蒼、悠、そして道香の順に線香を供えて手を合わせた。

 雲に覆われてこそいるけど、周囲が暗くなってきているのがわかる。

 もう、今日という一日が終わろうとしていた。

「……まさか、ここに皆と来ることになるとはな」

「っていうことは、蒼先輩と柳洞先輩が来るのも初めてなの?」

「いや、初めてじゃないわ。でも、皆で来るのは初めてかもしれないわね」

「ああ。ウチの墓もここだから、お盆とかで墓参りに来た時には一緒に手を合わせてるけど」

「そう、なんですね」

「道香は初めてよね?」

「はい。私がここを発つときには天さんはまだご存命でしたし、戻ってきてからはご存じの通りなので」

「……みんな、ありがとうな」

 白い結晶を今にも降らせようとしている天を見上げて、僕はもう一度、心の中で小さく手を合わせた。

 こいつらが、僕の大事な友達なんだ。今ここには居ないけど、ほかにももっと居るんだよ。

 だから、僕はもう大丈夫。

「シュウ……」

「お兄ちゃん……」

 母さん、今までありがとう。

 友達の力を借りてだけど、僕は何とかやっていけそうだよ。

 母さんと父さんが見ていた世界は、どこまでも広くて、難しいけど……楽しかったんだね。

 今度ここに来るときは、父さんも連れてくるよ。

「はい、使ってちょうだい」

「あれ、僕……」

 視線を水平に戻すと、蒼がそっとハンカチを差し出してくれていた。

 いつの間にか、目からは幾筋の涙がこぼれている。それを拭って、あらためて皆に笑顔を向けた。

「今日は来てくれてありがとう。お墓参りも済んだし、帰ろうか」

「もう、いいのか?」

「ああ、十分だ」

「なんだか変わったね、お兄ちゃん」

「そうかもな。ようやく、全てを取り戻せたから」

「そう、なのね」

 道香と悠は、安心したように柔らかな笑みを見せてくれる。

 ただ一人。蒼だけが、すこし複雑そうな表情を見せていた。

 少し気にかかるけど、皆の前で聞くのもなんだか憚られる。だから、とりあえずは見ないふりをすることにした。

 車で家に戻り、玄関の前で解散して。

 リビングに入ったとたん、スマホが震えた。

「もしもし、どうしたの蒼?」

「シュウ? お母さんがね、今日は夜ご飯を一緒に食べない? って」

「じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」

 もう、親切で優しい早瀬家の皆さんにお世話になることにも遠慮はいらないんだ。

 そう思うと、言葉は自然と口からこぼれていた。

「わかったわ。三十分後くらいに来てちょうだい?」

「了解」

 短い返事だけど、僕たちの間にはそれで十分だった。

「あっ、兄さん! 来てくれたんですね」

「翠ちゃん? 蒼から聞いてなかった?」

「聞いてましたけど、本当に来てくれると嬉しいんです! ささ、どうぞどうぞ」

「そんな言い方しなくても」

 必要な家事だけ進めて早瀬家のお屋敷を訪ねると、ばたばたとやってきたのは翠ちゃんだった。

 そのどこか調子の外れた雰囲気も、気を使ってくれた結果だとわかる。

 今日うちを訪ねてくれた三人もそうだし、翠ちゃんも早瀬夫妻も柳洞夫妻も。それに、きっと部活のみんなも、これだけ心配してくれているのだ。

 それが嬉しくて、代表して翠ちゃんの髪をくしゃっと撫でる。

「わわっ、何ですか急にっ」

「いや、ありがとう、って思ってさ」

 ちょっとくすぐったそうな表情を見せる翠ちゃん。その様子に少し安心した。

 僕が関わっても、必ず不幸にするわけじゃないんだ。

 改めて自らに掛かっていた呪いが少し緩むのを感じる。

「さ、行こうか。リビングできっと蒼が首を長くして待ってるよ」

「翠ー? シュウー? ご飯出来てるわよ?」

 リビングの方から蒼の声が掛かる。

 あまりにもいいタイミングに、翠ちゃんと顔を見合わせて、それから笑顔を交わした。

「ほらね?」

「ふふっ、兄さんの言う通りです。行きましょうか」

 リビングには、既にあたたかな料理が並んでいた。昌平さんも金江さんも、そして蒼も食卓を囲んでいる。

 今日は母さんの命日。

 同時に、僕以外にとっては普通の平日でもあるということを改めて実感する。

 それがどこか嬉しくて、温かいと……そう、思えた。

 腫れ物に触れるような扱いを受けることもなく、本当に温かな早瀬家の食卓で夕飯を頂き。

 食後のお茶を待っている間、蒼にさっき気になったことを聞いてみることにする。

「そういえば蒼」

「何かしら?」

「お墓参りに行ったとき、なんだか複雑そうな表情をしてたから。何かあったのかなって」

「あー……」

 蒼にしては珍しく言葉を濁した。表情も、言うべきか悩んでいるように見える。

「もしかして、何か嫌な思いをさせちゃったか?」

「いやいやいや、そういうわけじゃないの。うん、決してそんなことはないわ」

「そっか、ならいいんだけど」

 それからたっぷり数秒の沈黙の後、蒼は言葉を選ぶようにしながら口を開いた。

「シュウ……全てを取り戻したって、本当?」

「ああ、告別式のあの日まで。全部取り戻したよ」

 それを聞いた蒼は、大きくため息をついた。

「やっぱり、そうなのね」

「やっぱりって、どういうことだ?」

「いいえ、何でもないわ。これは、私から話さなきゃいけないことだから……」

 返ってきたのは、さらに意味深な返事。

 僕が小さく首をかしげていると、蒼は小さく続けた。

「でも、もうちょっと待ってちょうだい。私の心の準備ができるまで……」

「? わかったけど」

 蒼の言動に疑問はたっぷりあったけれど、とりあえず頷くしかできない。

「はい、お待たせ。お茶にしましょう」

「あっ、私も手伝います」

 どういうことか改めて聞こうと思ったけど、金江さんがお茶を持ってきてしまったからこれ以上の追及は出来なくなってしまった。

 まあいいや、蒼もそのうち話すって言ってるし。その日を待つことにしよう。

 それからしばらく穏やかな家族の温かさを受け取って、僕は家に戻った。

 布団に入ると、思い浮かんだのはあの時の光景。

「好き、です。お兄ちゃん……ちがう、弘治先輩のことが、好き」

 顔を赤くしながら、思いつめたように言葉を紡ぐ道香の姿だった。

「……ついに、終わっちゃったもんな」

 僕の記憶は、全て戻ったのだと思う。

 その欠けていた記憶たちは僕の奥底で封をされていた罪悪感と、その源にあった恐れさえも払ってしまった。

 それは、彼女と向き合う準備ができてしまったことを意味している。

「将来、か」

 つぶやいた言葉は、残酷なまでに静かな部屋の中に響いて消える。

 今までは考える気にもなれなかった未来のこと。

 なんとなく頭を巡らせた時に――

「……蒼」

 隣に居たのは、蒼だった。

 思い浮かんだのは、幸せそうに笑う蒼の姿。

 こんな蒼の笑顔を、できればすぐ隣でずっと見ていたい。

 ということは、自ずと答えは決まってきてしまう。

「勇気、いるなあ」

 胃がきりきりと痛みだす。でも、こんな僕に対してきちんと向き合ってくれた道香だ。僕もまっすぐに答えをぶつけないといけない。

 それが、未来に目を向けた僕が一番最初にしないといけないことだから。

 まずは約束を取り付けるところから始めないと。僕は早速、WINEを道香に送ることにした。

 書いてはなんだかしっくり来なくて消すことを繰り返すこと四度ほど。

「今週末、会えないかな? 話したいことがあるんだ」

 結局紡げたのは、ただそれだけ。どこまでもシンプルなメッセージになってしまった。

 数年も人らしいコミュニケーションを取っていなかった自分を改めて恨んでも、僕の頭はこれ以上の結論を出してくれず。

「えいっ」

 結局、勇気を声にして送信ボタンを押した。

 これが、僕の未来への第一歩だ。そう信じているから。

 一仕事終えると、気を張ったからだろうか眠気が襲ってくる。

 あまりにも色々あった一日だ、今日はもう寝てしまおう。そう思って布団に入り、電気を消して。

 僕の意識が睡魔に連れ去られている直前、僕は再び謎の不快感を覚えた。

 記憶は全て取り戻したはずなのに、何かが足りない気がする。

 眠気のベールに包まれた脳を動かして、ようやくその理由にたどり着く。

「……どうして、今まで」

 それは、とてもシンプルな疑問だった。

 どうして僕は今まで、こんなに大切なことをたくさんしまい込んでいたのだろう。

 その最後の一ピースだけが、足りない気がした。

 思い当たるのは……あの雪の日、川沿いでの蒼との思い出。

 そこで何かがあったのだろうか。でも、僕の頭はこれ以上思い出すことはないと告げていて。

 いまいち釈然としないまま、僕はゆっくりと意識を手放した。

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