第8話 対ソ戦の始まり
第8話を更新いたします。
今回は、赤に染まった国と、遂に開戦します。
…とは言っても、本格的戦闘は次号に持ちこしですが(苦笑)
…分かっております。
…またまたネタばれになってます(苦笑)
それでは、気を取り直して参りましょう。
どうぞ。
1945年3月26日
この日、満州国とソ連の国境線沿いにある一つの基地に、この当時の帝国陸軍には見る事の出来ない超大型の戦車などの戦闘車両を多数伴った2個師団が到着した。
『ここが我々第7戦車師団の新しい基地か…』
『なんだか辺鄙なとこですね〜』
『そうだな…』
『どう思いますか、師団長?』
『何がだ?』
『ソ連軍の事ですよ』
『…この時代の兵士達にも聞いたが…やはり良い印象は持てんな』
『ですよね…』
『だからこそ、潰しがいがあるってもんだろ?』
『はい。いくらでも潰してやりますよ師団長』
彼等は、この国境線沿いの近くにある名も無い基地に配備された未来日本陸軍所属の戦車師団(機甲師団)の一つである第7戦車師団の者達である。
この基地に配備された部隊は、彼等第7戦車師団の他に第34歩兵師団が配備されると同時に、新たに本土から転出された2個戦車師団が配備される事となっていた。
『まず我々がなすべき事は、この基地をよりしっかりとした基地にする事だ』
『そうですね』
この基地は、一応の基地の形を備えてはいるものの、とてもソ連との本格的な戦闘に耐えられるものでは無かった為に、第7戦車師団の師団長である楠良太郎大佐は非常に不安視していた。
しかし、本土の上官から聞いた話だと、ソ連軍の満州侵攻は早くて4月の第1週だと聞く。
つまり、彼等には時間が無かったのである。
そこで彼等第7戦車師団の兵達は、翌日に到着した第34歩兵師団の兵士達と共に基地の拡大と防御陣地の構築・整備を開始した。
幸いにもこの基地は比較的ソ連領内に対して高地に位置していた為に、防御陣地の構築は非常に有効であった。
彼等は、いざとなれば盾にも使えるブルドーザーなどの重機も多数伴っていた為、順調に基地の拡大と防御陣地の構築は進んだ。
他方、この辺り一帯に航空機の運用を主眼に置いた航空基地は存在しておらず、後方との連携が必須であった。
この名も無い前線基地は「隼峻」前線基地と呼ばれ、すぐ後に始まる対ソ戦の主要な戦場になると同時にソ連領侵攻作戦の為の重要基地になる基地であった。
5日間もの間、昼夜交代の突貫工事を推し進めた結果、当初こそ小規模な基地が大規模な要塞基地に早変わりしていた。
楠大佐は、基地施設の充実よりも防御陣地の構築に主眼を置いたために、僅か4日間で全長4kmにも及ぶ重厚な対戦車陣地の構築に成功した。
他方基地施設の整備も行い、援軍の帝国陸軍2個師団が到着してからは、さらに基地の拡充は進んだ。
最終的に、この「隼峻」基地は、兵力2個戦車師団・2個歩兵師団計5万4千人が駐留するかなり大規模な基地へと変貌した。
「隼峻」基地には、未来日本陸軍の主力戦車である千式重戦車「神威」と零式機動戦車「鎮守」が合計で240両、帝国陸軍の三式中戦車・三式砲戦車・一式中戦車が合計で128両も配備されると同時に、各種火砲が合計で34門も配備され事によって、鉄壁の様相を示していた。
関東軍司令部は、この「隼峻」を始めとしたソ満国境線近辺の基地の拡充を進めていた。
だが、関東軍の新たな司令官となった石原莞爾大将は、国境線での防衛には限界があると考えており、満州各地に暮らしていた日本人の朝鮮半島・日本本土への疎開作戦も同時に行っていた。
また、国境線付近での防衛線が破られた時の為に新たな策も考えていた。
その一つが、2〜3個師団規模の遊軍を編成する事であった。
しかし、師団規模の戦力を複数集めて遊軍として迅速に行動するのは難しい為、早々とこの案は断念せざるを得なかった。
そこで代案として考えられたのが、満州全土を用いた遅滞戦術であった。
概要はこうだ…
ソ連軍が満州侵攻を開始すると共に、前線の部隊は持久・後退戦術を行いつつ敵の進撃を遅らせる。
次に、満州各地に散っている各部隊を集結させた上で、敵が侵攻するであろう途上に配備し、最前線の部隊を航空部隊と後方部隊の援護の元で後退させる。
後はそれを幾度か繰り返して、ソ連軍に多大な出血を強いる。
無論、未来日本空軍の部隊や帝国海軍の航空部隊には開戦当初から活動してもらう。
ここまでが作戦の第1段階。
ある程度ソ連軍が満州内陸まで侵攻してきたら、作戦を第2段階まで移行する。
作戦の第2段階では、侵攻してきたソ連軍に対して後方に温存していた主力部隊で攻勢防御をしつつ海軍の部隊にウラジオストックに対して上陸作戦を行ってもらい、ソ連軍の脇腹を突くとともに、圧倒的な規模の航空戦力で敵の補給部隊を叩く。
そして補給が途絶えがちになった敵(ソ連軍)に対して攻勢に出る。
…と言うのが大まかな作戦の趣旨である。
一部の若手将校は、敵を満州から追い出した勢いに乗じてそのままソ連領に侵攻しようという意見もあったが、兵力の不足や補給の観点から実施される可能性は低かった。
それでも、この満州国全土を用いた壮大な遅滞戦術は、本土の軍上層部の承認も得て、実現に向けて動き出した。
一方の本土では…
『兄上、満州の方はどうですか?』
『あっちは今、てんてこ舞いさ。関東軍を中心とした帝国軍の方は、石原閣下が上手く統制を利かせているから何とかなるだろう』
『李大将の部隊はもう到着したのですか?』
『李の部隊もすでに到着した。彼なら安心して全軍の指揮を任せられる。お前も知っているだろう?彼の実力を』
『私は、海軍出身ですのよ?陸軍出身の兄上とは環境が違いすぎますので…』
『陸の方は俺がやれっつてか?まったく…厳しい妹だ』
『お互い様です』
『やれやれ…』
『でも…本当に兵力は足りますの?』
『今はこれで何とかするしかない。次に援軍を呼ぶとしても半年後だ』
『それまでには戦局は2転3転しているでしょうからね…』
『そういう事だ…』
『樺太はどうなさりますの?』
『無論侵攻する。ただし、我々日本陸軍の部隊のみでだ』
『数は?』
『敵兵力は最低4万。これに対する部隊は第2戦車師団と第87歩兵師団の合計2万1千』
『…9割方勝ちは頂きましたね』
『それだけでは無い。状況にもよるが、最低でも沿海州とカムチャッカ半島は頂く』
『それでは、米国の攻勢後の、我々の攻勢に支障が出るのではなくて?』
『問題は無い』
『そう…』
『何だ?』
『…アリューシャンを狙っていますわね?』
『海軍の力を借りる事になる』
『カムチャッカで先に貸しを作りますわよ?』
『そうだな…』
なにやら壮大な戦略を立てている様子である。
この後、3月の末までに南樺太には予定通り第2戦車師団と第87歩兵師団が到着し、密かに北樺太侵攻の準備を始める一方、在南樺太守備軍の内、南樺太には第233師団の1万1千人以外の2個師団計2万1千人は本土へ帰還した。
完全では無かったが、雨宮兄妹が描いていた帝国の反攻作戦の第1段階である対ソ戦の準備は整った。
一方で、沖縄や台湾、それに支那・南方・ビルマの各戦線の事も気が抜けないのは事実であった。
この中でも特に重視されたのが、沖縄・台湾の防衛力強化とビルマ戦線への戦力増強であった。
マリアナ諸島を占領した米軍は、これ以後日本本土を爆撃するのは必須と考えられた一方で、遊兵同然の米機動部隊は、本土・沖縄・台湾・南方など各地を自由に攻撃出来る為、脅威と認識されていた。
そこで、未来日本軍は沖縄・台湾の両島の防衛力強化を実施した。
具体的に言えば、両島の各地に対空レーダーを設置すると同時に既存飛行場の増設さらには新たに航空基地の増設も行われた。
沖縄・台湾両島に配備された航空機の内、半数は未来日本空海軍の航空機…つまり未来のジェット戦闘機で固められており、両島の戦力は以前の3〜5倍に強化された。
沖縄・台湾の両島に配備された機体は、帝国陸海軍の機体を合わせて1400機も配備されていた。
その半数の機体が未来のジェット戦闘機だと考えれば…その戦闘力は凶悪なモノとなったと言えるだろう。
他方、ビルマ戦線は難しい局面に陥っていた。
ゲリラ戦術を駆使した帝国軍の遅滞戦術は、米英連合軍に多大な損害を与えていたものの、自軍の…帝国軍側の損害も大きく、徐々に押され気味であった。
本土にいる軍首脳部にとっても、このビルマ戦線はアキレス腱と言わざるを得ない問題であった。
元々日本の国土は、併合した朝鮮・台湾・遼東半島や南樺太に加え帝国の傀儡国家と言える満州国と合わせても米英ソ連を中心とした連合国に比べて著しく小さいものであり、それに伴う人口も連合国陣営に比べて少ないと言わざるを得ない。
当時も今も、最も人口を有する国家は中国である。
人口が少ないという事は、戦争で戦地に赴く事になる兵士の人数にも、自ずと限界は見えてくるものである。
もっとも、女子供やお年寄り全員に武器を持たせて戦おうと考えれば別だが…
早い話が、ビルマ戦線に援軍を送る余裕が無いという事であった。
未来日本軍にしても、対ソ戦が一段落つくまで戦力の半数以上を北方に割かざるを得ず、残りの部隊・戦力も本土から満州へ増援として送られた帝国軍の穴埋めの為、更には米国の侵攻が予想される沖縄・台湾の戦力増強の為に配備され、とてもビルマ戦線に増派する戦力は無かった。
結局、フィリピン駐留の第17軍配下の第67師団とボルネオ島駐留の第19軍配下の第96師団の計2個師団3万4千人のビルマ戦線への転出させる事を決定し、実行した。
もっとも、ビルマ戦線で現在攻勢に出ている米英連合軍は当初の11万人から16万人にまで増強されているのに対して、現地の帝国陸軍は3個師団6万2千人であり、増援の部隊と合わせても10万に達する事は無く、戦況の不利は変わらないと予想された。
米英連合軍は、後方から随時送られてくる豊富な補給物資と、圧倒的な数の航空機によるエアカバーによって、着実に進撃していた。
他方迎え撃つ帝国陸軍は、正面からの決戦を最初から放棄してゲリラ戦術による撹乱・持久戦術による時間稼ぎの戦法を採っていた。
それでも、いずれ限界は来る。
やはり抜本的な対策を打たなければならなかった。
後方(フィリピンやインドネシアの各島々)から部隊を引きぬいて前線に送るというのは、今回のビルマ戦線への適切な対処とは言い難かった。
ただ単に、ビルマ戦線の崩壊を遅らせたに過ぎないのである。
現地部隊にとっては、兵力の増強といってもお茶を濁す程度の者であり、根本的な解決策には成り得なかったのでる。
現在の我々の世界の日本の国家・体制と何ら変わりない。
ただポーズを示しただけである。
『我々は決して君達を見捨てない』 …というポーズを。
全ては自己満足に過ぎないのだ。
ビルマ戦線は、しかし崩壊を免れた。
ドイツがエジプトへの侵攻の兆しを見せたからである。
ドイツはアフリカ戦線に展開している部隊16万から4万2千人を引きぬいて、エジプトへと侵攻を開始しようとしていた。
指揮官の名は、「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメル元帥とそのロンメル元帥の薫陶を受けたロイ・レンベリック中将の二人に率いられた部隊がエジプトを狙っていたのであった。
4月2日に在ビルマ戦線の兵力の内、5万人をエジプトへと転出させた。
これにより、ビルマ戦線の双方の兵力差は3万以下になり、何とか戦線崩壊を防ぐ目途がたったのである。
これによって、本土ではビルマ戦線の当面の危機は去った。…と捉えていた。
実際は、米英連合軍・帝国軍双方の戦力が均衡状態になった為に、互いに決定的な打撃を与える事が出来なくなった為に戦線が膠着状態に陥ってしまったのだが…
45年の4月7日
ソ連領空高度1万5千m上空を飛行していた未来日本空軍の偵察機「神空」が捉えたモノは、戦車・火砲を大量に伴って満州国境に向けて南下する合計120万もの大軍であった。
同様の出来事は、南樺太でも確認された。
4月7日…ついに極東において、日ソの戦争が勃発した。
如何でしたでしょうか?
次号は、満州での戦いを描きます。
次号をお楽しみに。
それでは。