第3話 日本が歩んだ道
今回の内容は、1920年代のワシントン会議から日米開戦までの大まかな世界・・・とは言っても帝国中心ですが・・・の流れを書きました。
開戦までにいったい何があったのか・・・
御覧下さい。
*後書きに、最近の北朝鮮の事についてふと思った事を、少しだけ書いております。よかったら御覧下さい。(但し、内容は北朝鮮批判の文となっております。)
1920年の春。
ワシントンで、一つの歴史的偉業が成し遂げられた。
『ワシントン海軍軍縮条約』の締結である。
日本は、当初この条約締結に猛反対した。しかし時代の流れには逆らえず、条約に調印した。
結果大日本帝国海軍が計画していた『八八艦隊計画』は、最初に建造された『長門』級戦艦2隻をもって打ち切らた。
いや、日本が主力艦保有率を対米英6割8分で妥協する代わりに建造途中だった『加賀』級戦艦2隻と、『赤城』級巡洋戦艦4隻の航空母艦への改装を可能とする条項を米英から引き出した点に置いては勝利と言えた。
これが帝国の国際協調路線の始まりであった。
中国への深入りを止め、内需拡大を促進。
軍縮からくる軍事費の削減は、帝国の厳しい台所事情にとって地獄で仏状態であった。
26年には、ロンドン海軍軍縮条約にも参加して同条約のも締結した。
しかし、この条約への締結は日本に暗い影を落とすことにもなった。
補助艦保有率は、各艦種合計では対米英7割を獲得したものの、巡洋艦に限れば対米英6割弱と帝国海軍首脳部に大きく不満を抱く結果となった。
しかし、この会議を開く切っ掛けとなったのが結果に不満を抱いている帝国海軍が保有している4隻の『妙高』級重巡洋艦にあった事を考えると、どうであろうか。
これ以後各国は、ポスト条約型艦船を建造する事となる。
帝国も、重巡洋艦の枠に割り振られた合計12万トン分に収まるように艦を建造しなくてはならなかった。
しかし、すでに帝国海軍は『妙高』級重巡洋艦(基準排水量:1万1500トン)を4隻保有しており、残りは合計7万4千トン分であった。
そこで帝国は、思い切った事をした。
まず内外に『妙高』級重巡洋艦の排水量を1万トンと公表した上で、新たに1万1千トン級の重巡洋艦を、『妙高』級重巡と同様に1万トンと公称して建造を開始した。
そして完成したのが『高雄』級重巡洋艦(基準排水量:1万850トン)4隻と、『最上』級重巡洋艦(基準排水量:1万1060トン)の4隻である。
新たに建造されたこの8隻は、妙高型と兵装を含むほとんどの点で瓜二つで、長く条約型重巡洋艦の完成形と謳われた艦であった。
しかし、日本の国際協調路線は長続きしなかった。
まずロンドン軍縮条約に調印した時の首相である浜口雄幸首相と、軍縮条約に首席全権として出席した若槻禮二郎の二人が暗殺された。
両者とも首相経験者であり、共に国際協調路線を採っていた事もあり、この二人が同時に亡くなられた事は帝国の国際協調路線に暗い影を落とした。
これを口火に、日本各地で政府の国際協調路線を非難するデモが多発。
首都圏では政府首脳を狙ったテロも起こった。
そして、帝国の国際協調路線に終止符を打つ事件が起きた。
満州事変である。
この時満州事変は起こったのであろか?
理由は多々あるが、やはり帝国の経済不況と軍縮に遠因があった。
帝国は2度の軍縮条約以外にも、独自に軍縮を行ってきた(もっとも、その軍縮の対象とされたのは陸軍であったが)。
政府は軍縮で浮いた予算を国内の整備に使ったのだが、それにも限界があった。
相変わらずの経済不況状態の中で、一部の軍人が朝鮮半島から陸続きにつながっている中国東北部・・・満州に活路を求めるようになった。
しかし政府の方針が国際協調路線である以上、政府が満州へ手を出す事は出来なかった。
頭の硬い政府が動かないなら我々が動く! ・・・と陸軍の一部の軍人が活動を開始し、満鉄爆破事件を契機に満州への派兵を行った。
事態は陸軍の思惑通りに進み、折からの不況で政府に対して不信感を抱いていた帝国の国民の大多数が陸軍の行動を支持し、事態は政府の不拡大方針とは正反対に拡大していった。
満州全土を占拠した陸軍満州方面軍は、満州一帯を帝国の植民地とする為にさっそく行動を開始し、それに反発した時の首相である犬養毅は右翼に襲われて重傷を負い、一命はとりとめたものの、これ以後公務を行うのは難しい為に首相を辞任した。
犬飼の後を受けたのは、海軍出身の齋藤実であった。
リベラル派であり条約派であった齋藤の首相就任は、国際協調路線を採ろうとする者達にとって最後の砦であったが、齋藤首相も時代の流れに逆らう事は出来ず、『満州』の植民地化を否定できなくなってしまった。
だが、さすがに直接日本が支配するのはまずいと考えた陸軍首脳(主に満州方面軍首脳)は、かつての清朝最後の皇帝である康徳帝(愛新覚羅溥儀)を皇帝に据えて、裏で操ろうと画策し、遂に満州国として建国した。
齋藤首相は、当初こそ満州国を否定しようとしたものの、陸軍や財政界・右翼などの過激派の圧力もあり、身内の海軍内からも一部の者が満州国建国を支持した為にやむを得ず承認した。
しかし、国際社会・・・特にアメリカ・・・反応は素早かった。
真っ先に国際連盟に提訴した英国は、英国人のヴィクター・リットン卿を団長とする調査団を派遣して調査を開始した。
まず問題となったのが、事件の発端となった満鉄爆破事件であった。
しかし、この問題はすぐに解決を迎える。
史実のような小規模な爆破ではなく、約全長2kmに渡って15か所近くも爆破された事に、日本軍の作為的な意図は見受けられないと判断して、満州侵攻への一応の正統性は証明された。
1ヶ月近く行われた調査の結果は、日本軍の徹底した情報隠蔽・捜査が実り、『満州国の建国はいくつかの不自然性が残るものの、建国事態に問題は無い』という調査団団長のリットン卿の発言を引き出し、国際社会での一応の承認を得た。
さっそく日本は、満州の近代化発展を手伝うという名目のもとに満州に眠る地下資源の開発を開始した。
同時に、満州事変で味を占めた関東軍(陸軍満州方面軍が改名)の首脳部は、中国の北部・・・俗に河北も満州同様勢力圏に収めるべく、密かに行動を開始した。
もっとも、全ての国が満州国の建国を承認したわけではなく、特に米国と中華民国の反発は凄まじいものであった。
さて、ここで以後帝国と密接な関係を取る欧州のある国についてスポットを当ててみよう。
無論ドイツについてである。
1932年の4月に、故ヒンデンブルク大統領の後を受けて国家元帥へと就任したのは、ナチ党出身のアドルフ・ヒットラーであった。
彼は、当初こそ米英との協調路線を採りつつも、裏ではドイツを欧州の覇者とするために再軍備の為の準備を着々と開始した。
まずヒットラー率いるドイツが狙ったのは、オーストリアであった。
35年に再軍備を宣言したドイツは、翌36年に軍事力を背景にした圧力をオーストリアにかけて併合した。
さらにドイツの触手は、チェコスロバキアへと伸び、37年の3月には同国を併合した。
こうしたドイツの鮮やかな欧州での覇権の拡大は、当時米国から圧力を掛けられていた帝国にとって、是が非でも手を組みたい相手であった。
さて、まずドイツと帝国が結んだのが、『日独防共協定』である。
近年勢力を拡大させつつあるソビエト連邦に対抗するための協定であった。
しかし、親独感情の強い陸軍は、さらに一歩踏み込んだ軍事同盟の締結を求めていた。
1938年になって、欧州は急激に暗雲が立ち込めるようになった。
ドイツ軍による単独でのポーランド侵攻が行われたのである。
この世界では、ドイツが『独ソ不可侵条約』などを結んでおらず、ドイツ単独での侵攻となった。
ポーランドは、国土の面では大国であったが、軍の装備等でドイツ軍に大きく後れを取っており、一部の戦闘では進撃して来たドイツ軍にひと泡吹かせる事が出来たものの、結局2週間と持たずにポーランドは降伏した。
ドイツ軍の勝因は、新型戦車である3号戦車・4号戦車を多数投入した電撃戦と呼ばれた戦術を使用した攻撃方法にあった。
全体で2千機と豪語された航空戦力の空からの援護の元、合計で1200両の戦車を中心とした機甲師団の進撃は、旧式装備のポーランド軍にとって未知の生命体に襲撃をうけている状態に等しいものであった。
ポーランドが呆気なく降伏した為に、英仏両国は有効な対策をできず、徒に無駄な時間を浪費していった。
ドイツの快進撃に魅せられた帝国は、急速にドイツとの関係を強めて行く。
そして1939年の12月・・・
日独両国にイタリアを加えた3カ国による『日独伊三国同盟』が締結され、米英仏を中心とした国々に大いに警戒感を持たせてしまった。
特に米国の警戒心は、異常ともいえる程であった。
しかし、それは仕方が無いことであった。
なぜなら三国同盟を締結する二ヶ月前に、日本軍は盧溝橋事件を契機とした戦争状態に突入した。
同盟を締結する39年の12月には、河北省一帯を始めとした華北の大半と、中国の沿岸部で俗に華東と呼ばれる一帯の大半が日本軍によって占領されていた。
*中国沿岸部といっても全域ではなく、山東半島や南京、合肥、南昌や上海といった主要地域・都市を押さえているだけである。
米国は、中国からの要請もあって次第に日本に対して圧力を掛け始めていた。
1940年の7月に、遂にドイツはフランスへの侵攻を開始した。史実に比べて戦力は少ないが、主力である4号戦車を中心に戦闘車両凡そ5千両を中心に、戦闘機・爆撃機合わせて2千機を集めて侵攻した。
陸上部隊は、必要最低限の戦力をポーランドのソ連国境線に配備した上での浮いた戦力と、ドイツ国内で編成された新しい師団を中心とした270万の兵力であった。
ドイツは前年の12月から2月の3ヶ月間にベルギー・オランダ・ルクセンブルクの三国を陥落させており、フランスを北と東の二方向からの侵攻を仕掛ける事が可能であった。
戦いは、約2ヶ月で終局へ向かい、フランスはドイツへ無条件降伏をした。
フランスの敗因は、軍の充実(新型戦車・航空機・携帯火器などの開発・配備)を怠った事と、十分な数の兵員を集められなかった事であった。
結局フランスは、ヒットラーの判断によってドイツへの併合ではなく、保護国とする事でフランス人の対独感情の融和を画策した。
フランスの陥落は、日本にも恩恵(?)をもたらそうとしていた。
フランス本国の陥落を受けて、在印英軍の一部の部隊が仏印への侵攻を開始したのである。
これがフランス人の対英感情に火をつけた。
もともとフランス人とイギリス人は、仲があまり良くなく、過去の経歴からむしろ憎しみの感情の方が大きかった。
元々英国政府は、フランス本国がドイツに降伏してからのフランスの植民地の動向に注意を働かせていた。
表向きフランス植民地の保護を名目に英国は、どんどんフランス領への進出を始めており、それがフランス自治政府の危機感を煽った。
結局フランス自治政府は、『英国に捕られるなら位なら、ドイツの同盟国である日本に守ってもらおう』という国民感情を考慮して、ドイツ経由で日本へ通達。
結果、40年の8月には日本軍が出兵し、仏印全土を日本の影響下に置いた。
英国軍が仏印に侵攻を開始する僅か1週間前の出来事であった。
労せずして南方の橋頭保とも言える地域を得る事に成功した帝国であったが、米国や英国がそれを黙って見ている筈も無く、さっそく対日非難を開始した。
米国に至っては、対日輸出の制限を開始し、石油に至っては日本への輸出を禁止する程であった。
工業機械や、屑鉄・鋼鉄などは、その大半を米国から輸入していた帝国にとって、輸出制限は重要な問題であった。
特に危機感を煽ったのは、航空機用燃料を含んだ石油の禁輸であった。
帝国は、状況打開の為に米国との直接交渉・・・日米交渉を開始したが、進展する様子は全く見えずに徒に時間を浪費するだけであった。
米国との交渉は、年が明けた41年の1月から早速始まったわけであるが、軍首脳部は(特に海軍は)交渉が難航しているのを聞くや対米開戦の準備を始めた。
特に1937年から建造を開始して完成した『1号艦』(大和)・『2号艦』(武蔵)の戦力化を急ぐとともに、姉妹艦である『3号艦』・『4号艦』(後に『信濃』級空母へと改装)の建造ペースを加速させた。
こうした帝国の和戦両様の構えは、米国の不振を招き、交渉の最中に米国の政治家の一人が『帝国に平和を望む意思があるなら、軍備の解体をしろ』・・・といった発言を誘発する程、矛盾に満ちた態度であった。
41年の10月
日米交渉は大詰めを迎えた。
帝国・米国共に、ギリギリまで妥協できるラインの模索をしたが、遂に実る事は無く、11月に米国側が『ハル・ノート』を帝国側に突き付けた事により、いよいよ開戦間近となった。
帝国側は、最後まで一縷の望みを抱くも、『ハル・ノート』の内容を見た途端に交渉の継続は不可能を悟った。
『ハル・ノート』の内容は、到底帝国側が納得できるものでは無く、後には『ルクセンブルク大公国やバチカン市国でさえ、米国に弓を引いただろう』と言われた程であった。
41年12月6日
帝国は、米国が突き付けた『ハル・ノート』の受諾を拒否し、両国は事実上の戦争状態に陥った。
それは、択捉島単冠湾を出港した第一機動部隊・・・別名南雲機動部隊・・・所属の6隻の空母から攻撃隊が発進して、ハワイ真珠湾基地を攻撃する僅か二日前の事であった。
帝国の奇襲攻撃・・・決して『騙し討ち』では無い・・・によって幕を開けた太平洋戦争は、長い長い戦いの始まりであった。
如何でしたでしょうか?
多少無理な流れがあったかな? ・・・っと考えていますが、あまり厳しい突っ込みは勘弁下さい(汗)。
それにしても、最近の北朝鮮の態度には、言葉が出ませんね。
日本が日本海に自衛隊の艦艇を回航させれば、『過去の軍国主義の〜』という無茶苦茶な理論を振り回して・・・
そもそも軍国主義とは、
『戦争あるいは軍事のための配慮が社会の中で最高の地位を占め、国民生活の全領域を軍事的価値に従属するものとみなす思想・行動様式』
・・・という定義であり、別段日本海に海自の艦艇を回航したからと言って軍国主義がどうのと言えるものでは当然ない。
私に言わせれば、GDPにおける軍事費の割合が約25%(一説には30%ととも40%とも言われる)の割合を占める北朝鮮こそ軍国主義の国ではないか?と思っている。
当然読者の皆さまには、『それは違う!』と考える方もいるだろう。
しかし、そこはご容赦願いたい。
話が長くなった。次回の更新もなるべく早く行うので、楽しみに待っていただければ幸いです。
それでは。