第28話 帝国の現状3
どうも、クラウスです。
読者の皆様、お久しぶりです。
約10日間に渡って執筆活動を中断していた作者ですが、今日をもって執筆活動を再開します。
その旨を、この場を借りて、報告させていただきます。
今後とも、本作を宜しくお願いいたします。
『勝てば官軍負ければ賊軍』という諺が、この世には存在する。
この言葉の意味は、決して難しいものではない。
勝った方が「正義」であり、負けた方が「悪」と見なされると言う事だ。
これ程分かりやすい諺は、中々存在しないだろう。
戦争が始まり、多くの血が流れた後、戦争は終わる。
そして近代の国家間同士の戦争には、余程の事が無い限り明確な勝敗がつく。
その時、勝者の立場にいる事が、国家にとっての絶対条件であった。
今の帝国は、正しくその為に、米国を中心とした連合国との戦争行為を続けているのである。
−−− 大日本帝国首都 東京 −−−
『雨宮さん…これからどうするのかね?』
『及川さん、我々が今為すべきは、戦後を見据えて占領地を広げ、現在支配している地域のインフレや治安を、しっかりと安定させる事です』
『ふむ…その為のカムチャツカ侵攻なのかね?』
『カムチャッカ半島には、東部シベリアと同等の量を誇る数多くの鉱物資源が、未だに地下に眠っています。それも、膨大な量で…』
『では、その資源獲得の為に…カムチャツカを攻めるのかね?』
『無論、それが第1ではありますが、それ以外にも理由はあります』
『まさか…そのままアラスカを攻め取ろうと考えているのではないかね?』
『ふふふっ、豊田長官も、随分冗談が上手くなりましたね』
『いやいや、私は真剣だよ…雨宮君』
『うふふっ、これは失礼。ですが、決してアラスカが目当てではありませんよ…』
『それでは一体…』
『簡単ですわ。このカムチャツカに、大規模な一大複合基地を建設するのです』
『『『!?』』』
この雨宮香織が放った一言に、この場に居合わせた将官の誰もが目を丸くした。
雨宮香織が言うには、未来の日本軍には沖縄を始めとした日本全土に陸海軍共同共用の複合基地を、いくつも抱えていた。
この複合基地というのは、未来日本政府が従来通りの全国各地に陸海軍其々の基地を建設・拡充させていく事を、予算の無駄と捉えた事に始まった「基地統合計画」によって新たに生まれた基地施設である。
この複合基地と呼ばれる施設は、未来日本の世界では「那覇」や「鹿児島」、「佐世保」に「呉」・「神戸」、更には「横須賀」・「柏崎」、そして北海道の「函館」といった一大港湾施設を持っていた都市・地域を中心にして、そこに陸軍・空軍の基地施設を移転して基地施設の拡充を行った結果、誕生したのが先に述べた8ヶ所の複合基地であった。
幾つかの不都合が併存していたものの、概ねこの計画は成功を収めたと言えた。
*もっとも、この「複合基地」が完成したからといって、全国各地に点在している陸海空軍の各基地が、完全に無くなったかと言えば、それは違ったが…
雨宮は、未来日本において採用されたこの「複合基地」を、この世界の大日本帝国においても実現させようと構想していたのだ。
もっとも、この彼女の構想には、帝国陸海軍のトップに当たる米内光政や杉山元といった人物が、疑問の視線を投げかけていた。
『本当にこれだけの規模の基地を、建設する必要があるのか?』
…と。
それに対して雨宮は、
『少なくとも、この複合基地は無くて困る事はあっても、あって困る事は無いです』
…と答えた。
実際、有事の際の指揮系統という問題はあるものの、即応性といった観点から見れば、従来型の基地の点在よりも遥かに利点が大きかった。
例えば、未来日本が誇った「呉」の複合基地は、日本全土の中でも最も大きい規模の基地施設であり、海軍の港湾施設では全長が500mに迫る18万トン級の大型空母を4隻と20万トン級の大型多目的強襲揚陸輸送艦を10隻以上を同時に停泊させる事も可能な巨大港湾施設に、海軍の空母艦載機部隊も利用する空軍管轄の4000m級の滑走路を5本も保持している。
そして「呉」を始めとした各「複合基地」には、有事の際の即時即応を念頭に置いた「即応軍団」と呼ばれる複数の師団から構成される軍団が、海空軍の基地施設のすぐ傍で、同じく割り当てられた陸軍用の基地施設において、文字通り「即応」出来る様に待機しているのが常であった。
もし他国と戦争になった場合でも、真っ先に現地に派遣される陸軍部隊は、この「即応軍団」が中心である。
考えてみてほしい。
いざ北の樺太で戦争になったとしても、態々九州にいる陸軍部隊を、輸送艦が存在する呉や関東に移動させるのは非常に効率が悪いし、時間もかかる。
何より内陸にある陸軍基地から、大規模な兵力を輸送可能な輸送艦が待つ海辺の海軍基地まで移動させる事さえ時間がかかる。
だったら、最初から其々の基地機能を統合した基地施設を建設しよう…
そういう考えから作られたのが、この「複合基地」なのだ。
しかし…現実はそう簡単に事を運ばなかった。
『今無理をして作る必要はないのではないかね?』
『現在我々が必要としているのは、基地では無く飛行機や軍艦だよ』
『第一、資源が獲得できれば、それでいいではないか』
などといった言葉が、杉山大将や米内大将から発せられると、雨宮としても「複合基地」の建設と言う金も時間もかかる仕事は、妥協せざるを得なかった…
雨宮香織にとっては、多少なりとも今回の決定に、不満を抱いていない訳では無かった。
それでも、陸海軍の重鎮たちが言った内容は、まったくの正論であった。
その後、彼等は今後の反攻作戦についての諸々の計画を確認し、今回の会談を解散するとした。
舞台は、帝都東京から最前線であるビルマへと移る…
生い茂る木々が、この地の…ビルマという地の環境を物語っている。
熱帯雨林とも言えるほど、巨大な巨木が地面にしっかりと根を張っている光景は、初めてその光景を見る者にとって、唖然とさせるに十分な光景であった。
このビルマの地に、満州・東部シベリア方面から新たに増派・転戦した部隊は、少なく見積もっても8万を数えた。
鹵獲したソ連製の「T−34」やドイツ製の4号戦車・5号戦車を配備した装甲師団や、同じく鹵獲したソ連製・米国製トラックを配備された歩兵中心の師団。
更には物資輸送専門の補給部隊等の裏方部隊まで合わせた合計8万の部隊は、ビルマ戦線の総司令部が置かれているマンダレーに向かうべく、海軍の輸送艦に運ばれて、ラングーンまで進出していた。
史実におけるビルマの戦いは、簡単に纏めれば…
1、41〜42年の日本軍による侵攻・占領期
2、43年の日本軍・連合国軍の間の戦線膠着期
3、44〜45年の連合国軍による反攻作戦期
…といった形に、大まかにではあるものの、纏められる。
だが、この世界のビルマの戦いは、史実通りの展開を辿った訳では無かった。
42年の4月までにビルマの大半を占領下においた帝国軍は、それ以後積極攻勢に転じる事無く、「パトカイ山脈」や「アラカン山脈」という天然の要害を用いた持久戦を展開していた。
しかし、連合国側が有している最前線基地であるチッタゴン方面からの攻勢には、「アラカン山脈」を利用してのゲリラ戦術・遅滞防御戦術によって、日本軍側が寡兵にも関わらず、約2年半に渡って優位に戦闘を行っていたものの、同じく連合国軍側の最前線基地でもある「インパール」が存在していた「パトカイ山脈」方面は、前線基地が非常に近かった事もあり、非常に苦戦していた。
「10台の戦車を撃破しても、翌日には倍の20台で侵攻してくる」…といった事が、日常的に起きていたのが「パトカイ山脈」方面の前線であった。
当初こそ、侵攻してきた時の勢いそのままに迎撃をしていた帝国軍だが、次第に豊富な物量を誇る英米連合軍に劣勢に立たされ、苦戦を強いられた。
43年の初めには、ビルマの西半分の制空権が奪われ、日本陸軍の航空部隊の必死の防戦・抵抗も空しく、英米の戦闘機・爆撃機合わせて700機弱を道連れに、同年の6月にはビルマ全土の制空権を連合国側に奪われた。
帝国軍側は、連合国軍の制空権下での戦闘を余儀なくされ、以前にもまして厳しい戦いを強いられる事となる。
前線で武器弾薬・食糧・医薬品が不足すれば、定期的にやってくる英米の爆撃機部隊・戦闘機部隊の目を掻い潜り、或いは闇夜に紛れて、あの手この手で物資を輸送した。
前線を守備する兵力が不足すれば、現地の治安維持に従事していた所謂「2線級」と目される部隊すら引き抜いて、前線に進出させた。
…兎に角、あの手この手を使って、現地の帝国軍は英米の反攻を凌いでいた。
帝国軍にとっての唯一の救いは、一時期高まっていた現地住民の「反日」運動が、英米の爆撃機・戦闘機による銃爆撃によって帝国軍兵士だけでなく現地住民にも大きな被害を与えた事によって、治まっていた事であった…
しかし、帝国の必死の抵抗も、45年の初めにはこれまでにもない程厳しいと言わざるを得ない状況に陥った。
ビルマ戦線(連合国側)の後方に位置するインドに、少なくとも10〜20万人規模の増援部隊が確認されたのだ。
この増援部隊が前線に出てくれば、それこそ帝国の前線は瞬時に壊滅・崩壊するだろう事は、容易に想像できた。
帝国側にとって幸いだったのは、日ソの戦闘(満州・東部シベリアを巡る一連の戦闘)に一段落がつく4月の末から5月の初めまで、その連合国側の増援部隊が前線に出張ってくる事は無かった。
ようやく前線に連合国側の増援部隊が姿を現すのは、先に述べた帝国の増援部隊がビルマに現れた日時と前後する。
帝国の増援部隊は、間一髪のタイミングで、間に合った(?)のだ。
−−− ビルマ ラングーン −−−
『ようやく着いたか…』
海軍が用意した比較的大型の輸送艦・客船から降り立った陸軍の兵士達の中に、1人の陸軍将校がいた。
史実において、連合国(アメリカ軍)の損害が帝国軍側を上回った唯一の戦闘である「硫黄島の戦い」での帝国側の指揮官である栗林忠道中将その人であった。
右の腰に、アメリカ製の「コルト1911」…通称「ガバメント」…を入れたホルスターを備え、大きな「巾着袋」を両手で抱えた姿は、一瞬「本当に将官か?」と疑いたくなるが、その将官は紛れも無く増援部隊である8万人にも及ぶ兵士達の司令官であった。
到着した栗林中将は、早速ラングーンの基地司令部へと向かい、現地の指揮官で陸軍中将である秋田実介と面会した。
栗林と面会した秋田中将は、開口一番に『栗林さん…感謝します』と、栗林の両手をガッチリ握って感謝の意を示した。
秋田中将は、すぐに栗林中将他、参謀長その他を自身が利用している司令部の一室に案内し、ビルマ前線の現状を説明した。
栗林中将達は、案内された一室の中にあるソファーに腰を下ろし、秋田中将の現状報告に耳を傾けた。
約1時間に及んだ秋田中将の説明は、栗林達増援部隊の将兵が想像している以上の「善戦」の報告であった。
もっとも、多分に過大な報告も、一部には含まれていたが…
『…では、我々はやはりマンダレーへと向かった方がいいな…』
『そう思いますよ…栗林中将』
『しかし…そうなるとこちらの防備が…』
『心配ないですよ。報告では、約3日後に新たな増援部隊が到着するとの報告が、ここにも届いています』
『ふむ…何処の部隊ですかな?』
『えぇ…第76師団と第59師団の2個師団ですよ』
『…となると、指揮官は「青鬼」と「赤鬼」の2人か…』
そう言って苦笑の表情を浮かべた栗林に、秋田中将も同じく苦笑の表情を浮かべる。
2人が苦笑の表情を浮かべたのは、「青鬼」と「赤鬼」と呼ばれた2人の指揮官についてである。
「青鬼」こと武田竜太郎少将
「赤鬼」こと上杉影昌少将
この2人の事である。
『内地でのこの2人の噂は、私も耳にした事がありますよ…』
『そうかい?何でもあの「マレーの虎」こと山下大将に、相撲と剣道で挑んだらしいからね…』
「青鬼」と「赤鬼」の2人に関する武勇伝(?)は、いくらでも存在していた。
先に述べた「山下大将」との勝負もそうだが、他にも
1、憲兵100人相手に大立ち回り
2、海軍との共同演習中による「味方」の海軍側への誤射事件
3、部下の兵士達に対する「地獄」を超える程の猛訓練
…等々切りが無い。
ここに述べた事すら、彼等2人が起こした事件・騒動、はたまた出来事のほんの一部に過ぎないのだ。
だが、彼等2人は、決して精神主義一辺倒の猪将軍では無かった。
若い頃に経験したドイツ・アメリカへの留学によって、欧米への正しい見識を有していた2人は、いざ対米英の戦争が勃発すれば、機甲戦力が弱い帝国に、未来は無いと言う事を正しく認識していた。
その事から2人は、軍上層部に対して陸軍の近代化を強く求める意見報告書を毎年のように提出していた。
*それによって、軍上層部に睨まれてしまったが…
兎に角、あらゆる意味で「破天荒」とも言える2人の指揮官が率いる部隊が、このラングーンに後からやってくるのだから心配は無用…と考えた栗林は、目の前のテーブルに置かれた1杯の緑茶を飲み干した後、秋田中将に挨拶をして北へと向かった。
目的地であるマンダレーを目指して…
如何でしたでしょうか?
次回からは、再び帝国の反攻が始まります。
次回以降を、お楽しみに…といった感じです。
それでは、また次回。