第27話 帝国の現状2
クラウスです。
第27話を投稿します。
お楽しみください。
1945年6月1日
この日、呉の海軍工廠の中にある第4ドックには、1隻の巨大な戦艦が今や遅しと前線への復帰の為に、修復・改装作業を行っていた。
その艦の名を、『武蔵』と言う…
大和級戦艦の2番艦として建造された『武蔵』は、42年の6月に就役し、その直ぐに連合艦隊旗艦として君臨したのだが…
42年の12月に起こった謎の爆発事件によって、第3砲塔が吹き飛び、艦尾を含めた艦全体の後ろ半分を大きく損傷した『武蔵』には、とてもでは無いが旗艦としての任務に耐えられないと判断され、呉のドックに入船させられた。
しかし、ドックに入船して早速修復作業に取り掛かろうとしたのも束の間、艦自体の損害の大きさが、工員の予想していた以上のも大きさであり、また戦闘機や爆撃機、戦車・火砲といった兵器の増産に拍車が掛った事も相まって、『武蔵』の修復作業は、遅々として進まなかった。
そんな『武蔵』に転機が訪れたのは、44年の末に、雨宮兄妹率いる未来日本軍が現れてからあった。
彼等と共にやって来た技術者達の協力もあって、また修復・改装に必要な資源の確保にもようやく目途が立った事もあって、『武蔵』の修復・改装作業は、急ピッチで進んだ。
損傷から約2年半…
呉の海軍工廠第4ドックには、爆発事件以前とは大分姿が変わったものの、その他を圧倒するような威圧感を放つ、戦艦『武蔵』の姿があった…
大和級戦艦2番艦:『武蔵』
全長322.8m 全幅:39.38m
基準排水量:7万8600トン 満水排水量:8万9060トン
武装:45口径46cm三連装砲4基12門、50口径12.7cm連装高角砲6基12門、50口径10cm連装高角砲10基20門、55口径40mm三連装機関砲58基174門、同連装砲4基8門、55口径25mm三連装機関砲4基12門
速力:30.1ノット 航続距離:16ノット/8200海里
これが、修復・改装後の戦艦『武蔵』の諸元である。
ネームシップである『大和』との最大の違いは、世界で大和級と改装後の長門級だけが搭載している45口径46cm砲を、長門級は勿論、ネームシップである『大和』すら上回る4基12門も搭載している点である。
一方で、全てが『大和』と違う訳では無く、例えば就役時は搭載されていた60口径15.5cm砲は両艦共取り外された事や、性能の向上が著しい米英の航空機に対抗する為の対空火器の増強…これは大和級だけに限らず、連合艦隊の全艦艇に当てはまる…など、ネームシップの『大和』と似通った点も多い。
しかし、そうは言っても、やはり主砲塔の1基増加の影響は大きく、この『武蔵』は一部の技官や将兵から「武蔵級戦艦1番艦」などと言われる事も、別段珍しい事では無かった。
そして10日後の6月10日、遂に『武蔵』が、戦列に復帰する日がやって来た。
この日は朝早くから、呉の工廠近くに住む住民が押し寄せるなど、戦艦『武蔵』の復帰に並々ならぬ注目が集まった日になった。
*史実において大和級戦艦は、徹底した情報秘匿が行われていた事もあって、戦前戦中を通して国民に広く知られていたのは長門級戦艦であったが、この世界では雨宮兄弟の意見により、国威発揚・戦意高揚の為に、遅きに失した感はあるものの、国民にその存在を公表していた。
そしてドック内に海水が満たされ、ドック内からその巨体がゆっくりと出てくると、多くの海軍軍人や国民の目が、復活した戦艦『武蔵』の姿に向けられていた。
城の天守閣を思わせるような巨大な艦橋…他を圧倒するような前代未聞の大型三連装砲塔…そのどれもが、見物していた人々を驚かせた。
しかし、見物していた人達を驚かせたのは、何も『武蔵』だけでは無かった。
『武蔵』が工廠の第4ドックから出てきてから数十分後、けたたましくブザーが鳴った。
第4ドックのから少し離れた第5ドックから、『武蔵』に匹敵する程の大きさの、巨大な空母が出てきたのだ。
その巨大空母こそ、大和級戦艦の4番艦として当初は計画され、後に3番艦の『信濃』と同じく空母へと改装された超大型空母…信濃級空母2番艦『紀伊』であった。
信濃級航空母艦2番艦『紀伊』
全長:308.8m 全幅:38.9m
武装:50口径10cm連装高角砲8基16門、55口径40mm三連装機関砲30基90門、55口径25mm三連装機関砲24基72門、同単装砲23基23門
搭載機数…常用機126機+捕用機23機
搭載機内訳:艦上戦闘機『雷鳴』一一型(常用42機+捕用8機)、艦上爆撃機『彗星』一二型(常用36機+捕用6機)、艦上攻撃機『烈火』一一型(常用36機+捕用6機)、艦上偵察機『彩雲』(常用12機+捕用3機)
史実では、建造途中の段階で、戦線悪化によって建造中止へと追い込まれた本艦が、大衆の目の前で公開される…それも戦時中に…のは、対外情勢や防諜面から考えても、非常に稀有な事態であった。
しかし、国民にもっとも広く知られ、有名だった『赤城』4姉妹や『加賀』姉妹、そして開戦前に完成した「最強空母」と国民からも謳われた『翔鶴』姉妹をも上回る巨大空母『紀伊』の存在は、見物に来ていた呉市の市民に、驚きをもって迎えられた。
ゆっくりとドックから離れた『紀伊』は、先導するタグボートに導かれるように、ゆっくりと航行を開始し、沖合に向かい始めた。
暫くすると、先にドックから出ていた戦艦『武蔵』に追いつき、肩を並べる様に航行しだした。
2隻の巨艦が並んで航行する姿は、誰が見ても「絵になる」光景であった。
呉の工廠から出てきた2隻の巨艦は、護衛の役目を負った4隻の峰風級駆逐艦に護衛されて航行を続け、その数時間後には、ちょうど愛媛県に属する中島・睦月島・興居島の3島の間に位置する釣島海峡を通り抜け、伊予灘に出た。
伊予灘に出た都合6隻の小規模な艦隊は、そのまま足を止める事無く山口県の南側に広がる周防灘を進み、関門海峡を通り抜けて、日本海側に抜け出た。
日本海に出た後、艦隊は直ぐに舵を切り、艦首を南西方面に向け、一路南シナ海方面に向かって突き進む。
無論、修理・改装が終わったばかりの艦艇をいきなり実戦に投入する訳も無く、したがって本当にそのまま南シナ海に向かっていた訳では無かった。
暫く航行を続けた6隻の小艦隊は、長崎県に属する五島列島が見えた辺りで、再び大きく舵を切った。
そして、舵を切って五島列島に沿って南下してから数分後…艦隊旗艦を務めていた戦艦『武蔵』に搭載されていた未来製の対空・対水上複合レーダーに、10隻近くの艦艇で構成された小規模な艦隊が、確認された。
先日の「台湾・沖縄沖海空戦」において、大打撃を被った米国に、帝国の目と鼻の先に当たるこの海域にまで近づく艦艇など存在する筈も無く、当然ながらその艦隊は帝国海軍籍の艦隊であった。
戦艦『武蔵』・空母『紀伊』を含んだ計6隻の艦隊を、態々長崎の佐世保港から出港してまで出迎えに来たのは、再編されて第8艦隊の旗艦となっていた戦艦『大和』以下12隻の第8艦隊の面々であった。
第8艦隊…数度に渡る米国との海戦によって、幾重にも渡る艦艇を失った帝国海軍連合艦隊は、艦隊の再編を行った。その中で新設されたのが、この第8艦隊である。
第8艦隊所属艦艇(予定)
第2戦隊:『大和』(艦隊旗艦)、『武蔵』
第6航空戦隊:『伊勢』、『日向』
第7航空戦隊:『紀伊』、『白百合』、『菫』
第9航空戦隊:『雲竜』、『葛城』
第2防空戦隊:『島風』(戦隊旗艦)以下峰風級駆逐艦6隻、松級駆逐艦2隻、吹雪級駆逐艦4隻
*これは45年の6月当時の編成表であり、46年の1月には艦隊の更なる再編によって、この第8艦隊は他の艦隊と組み合わされて第8航空艦隊へと再編される。
戦艦『武蔵』以下6隻を加えて22隻となった第8艦隊は、翌日から日本海にて猛訓練を開始した。
未来日本軍の協力を得た事が幸いし、南方からの軍需物資(鉱物・石油資源)の輸送が順調に行われた事によって、内地においても十分に訓練を行えた。
−−− 満州国 奉天 −−−
対ソ戦時に満州駐留部隊の司令部が設置されていた奉天であったが、現在は本営がハルピンに、前線司令部がチタへと移動した為、対ソ開戦以前に比べて幾分か静かに…なった訳では無かった。
現在の奉天は、満州国国内における最大規模の工業都市と言える都市であり、満州国に進出した中島や三菱といった企業が建設した一大工場によって、大量の兵器を増産しており、寧ろ対ソ開戦以前より賑わっていた。
その満州の一大工業都市となった奉天では、現在帝国陸軍の主力兵器である三式中戦車や三式戦闘機改、四式戦闘機改の他、四式重爆「飛龍」といった様々な兵器を大量生産していた。
この満州国が存在している位置は、先日帝国が占領した旧ソ連領である東部シベリアの広大な資源地帯に比較的近いという事もあって、また最前線である支那戦線に近いという事もあって、非常に重要な位置に存在していると言えた。
この満州国内で生産された兵器は、順次支那戦線やビルマ・南方といった各地域各戦線に輸送され、現地に展開している各部隊に配備されているのである。
さて、その満州国最大の工業都市である奉天に存在している各企業の工場では、何も兵器の生産ばかりが行われている訳ではない。
当然ながら「新兵器」の開発・テストも行われている。
−−− 奉天郊外の某演習場 −−−
『どうかね大佐…四式中戦車は?』
『芳しくありませんね…やはり砲撃力が不足していますよ』
『五式中戦車もかね?』
『五式は、米軍のM4中戦車の初期型なら、五分の勝負が出来るでしょう…』
『後期型ならどうかね?』
『難しいですね…イージーエイトですか?それに出てこられると、かなり厳しいと言えるでしょうな』
『そうですか…』
『あとそうですね…』
『ふんふん…』
『『………』』
『『………』』
帝国陸軍の戦力は、歩兵の質自体は列強各国に劣らぬ程のモノであった。
しかし、陸軍部隊の根幹を為す機甲戦力の観点から言えば、帝国陸軍は間違いなく2流と言えた。
しかし、根本を探れば、そもそも帝国陸軍の戦車の運用方法に、「対戦車戦闘」と言う概念は無かった。
いや、この発言は誤解を招きそうなので訂正しよう。
「対戦車戦闘」において、戦車同士がぶつかり合う…つまり敵戦車を戦車によって打ち破る…という概念は、あるにはあったものの、余り重視されていなかった。
故に、帝国陸軍が生み出す戦車は、常に他の列強各国から「玩具箱」と呼ばれる程、「対戦車戦闘力」に劣る性能を持つ戦車ばかりであった。
その帝国において、本格的な「対戦車戦闘」を念頭において計画・製造されたのが、四式・五式の両中戦車である。
しかし、悲しいかな…
帝国陸軍が生み出した初の本格的「対戦車戦闘」を考慮した戦車も、中途半端な性能であった。
五式中戦車ならば、米国のM3中戦車「リー(あるいはグラント)」や、M3軽戦車「スチュアート」が相手ならば、互角以上の戦闘が行えたのだが、米軍が主力としているM4中戦車「シャーマン」には、正直苦しいと言わざるをえない。
皮肉な事に、ソ連領内であった東部シベリアや、戦闘があったソ満国境線で鹵獲したソ連製戦車の代名詞であるT−34や、同地で運用されていたドイツ製戦車である5号戦車「パンター」や6号戦車「ティーガー」といった戦車の方が、開戦以来のベテラン戦車兵に好まれていた。
中には、
『こんな棺桶に乗るくらいなら、憎き米英が作った戦車に乗った方がマシ』
と語った戦車兵がいたという記録すら存在する。
しかし、芳しくない評価ばかりを内外から受けていた帝国の戦車だが、決して研究を怠っていた訳ではない。
特に、未来日本軍が現れて以降、戦車の開発を担当する技師達の開発意欲は尚の事高まり、遂にある一つの戦車を完成させた。
『では…本命の「六式中戦車」は…どうかね?』
『この戦車…良いですね。これならアメリカのM4とも十分に戦えると思いますよ』
『本当ですかっ!?』
『えぇ…本当ですよ』
六式中戦車
車体長7.46m×全幅3.68m 重量40.3トン
武装:37口径長砲身88mm戦車砲1門、7.7mm車載機関銃1門(砲塔上部)
解説…五式中戦車の設計を担当した三菱重工業の技師たちの中で、「米英の戦車と対等に戦える」戦車の開発に意欲を燃やしていた一部の有志の技師たちが、未来日本陸軍の運用する戦車をヒントにして設計・開発した戦車である。
この五式中戦車の性能試験に立ち会った帝国陸軍の将官も、この戦車の性能に満足したのか即座に生産の許可を下した。
これにより、満州国の奉天にある大工業地帯において、五式中戦車が大量に生産されるようになる。
それに応じて、一式中戦車の生産ラインを完全に止め、生産中止に動く方針だ。
同時に生産されていた三式中戦車の方は、米ソとの対戦車戦闘には不十分であるも、支那戦線や南方の密林地帯での使用には、一定の有用性があると判断され、多少の生産ラインの縮小こそ行われても、完全に生産停止に追い込まれる事は無かった。
同様に三式砲戦車も生産縮小が言い渡された。
この六式中戦車の開発・生産によって、ようやく帝国も世界の標準的なレベル…多少なりとも見劣りする部分はあるが…の戦車を保有する事が叶う事になった。
それは、帝国陸軍が真に世界の列強各国の陸軍に、また一歩近づいた事を意味していた。
*もっとも、いくら他国の主力戦車とカタログスペック上は互角に戦える戦車を帝国が開発したとは言え、やはり鹵獲したソ連製・米国製の戦車を好む戦車兵も多く存在していたが…。
如何でしたでしょうか?
ここで作者から一つお知らせです。
明日より作者は、この夏休みを利用して、実家に帰省します。
故に、本作品の投稿作業が1週間程滞る可能性が、大いに高いです。
作者の諸事情故の投稿作業の滞り…お許しください。
最後になりましたが、本日8月9日は、長崎に原爆が投下された日でもあります。
亡くなられた多くの方々の、御冥福をお祈りいたします。
失礼しました。