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第19話 米軍が歩んだ軌跡3

さてさて、大分忙しくなってまいりました。


…どうも、クラウスです。



突然ですが、来週月曜から金曜まで、大学の試験が始まります。


よって、暫く執筆が進まなくなると思い、今回の内容はちょっと長くなってしまいました。


ご了承ください。


それでは、第19話、スタートです。

スプルーアンスが率いる第22任務部隊は、メジュロ・クェゼリンの両環礁を攻撃時に失った機体を、ハルゼーが率いていた第41任務部隊から引き抜いて補充した後、進路を一路南に向け、南太平洋上に存在する島…ニューカレドニア島へと向かった。


第22任務部隊は、1週間程の時間を掛けてニューカレドニア島に辿りついた。



しかし、状況はスプルーアンスが想像していた以上に悪化していた。


マッカーサーの指示によって、一部の参謀の反対を押し切り、南太平洋に展開していた数少ない戦力を駆使して、43年の初めにガダルカナル島に進出したものの、反対を示した参謀達の予想通り、戦力不足が祟って南太平洋戦線の航空戦力は擂り潰されていた。


ラバウルから長駆侵攻して来る海軍基地航空隊の零戦、一式陸攻の編隊によって、航空戦力は擂り潰されていった。


もっとも、それは長駆侵攻をしてくる日本側にも言えた事であったが。



スプルーアンスがニューカレドニアのヌーメア港に着いた時、ガダルカナル島を始めとするソロモン諸島に展開していた米軍機の数は、42年当初500機ばかりが展開していたのだが、43年のこの時には80機前後にまで減少していた。


この報告を受けたスプルーアンスは、愕然とした。


報告によれば、日本軍はラバウルとニューギニア全域にのべ1500機近い機数を揃えていると聞く。


そんな状況で、無謀にもガダルカナル島に基地を建設したマッカーサーは、どうしようもないと思ったほどだ。


しかし、今後のへの影響を考えると、これ以上の日本軍のソロモン諸島への進出を防ぐためには、どうしてもニューギニアに展開している日本軍に対して一撃を加える必要があった。



ここで、スプルーアンスは思い切った博打を打った。


自身が率いる6隻の空母を中心とした第22任務部隊によるラバウル空襲作戦であった。


この作戦は、ニューギニアの各基地と連携して鉄壁を誇る日本軍の守りに楔を打ち込む為の作戦であった。


ニミッツによる許可も下り、意気揚々と出撃した任務部隊は、はたして大戦果を上げた。



日本軍の哨戒網を運良く潜り抜けた米艦隊は、ラバウルから東に凡そ400kmの地点で攻撃隊を発進させた。


戦爆混合の138機による第1次攻撃隊である。


スプルーアンスは、戦果の拡大を狙って第2次攻撃隊120機を続けざまに放った。


更に用意周到なスプルーアンスは、ガダルカナルに展開していた陸軍航空隊のB−25「ミッチェル」双発爆撃機の出撃も要請しており、事実ガダルカナル島の基地から24機のB−25が出撃していた。



ラバウルの日本軍は、14万の地上軍と300機の海軍機、120機の陸軍機が常時展開しており、米軍が空襲作戦を仕掛けたこの時は、更に日本海軍の第8艦隊…重巡洋艦2隻と軽巡1隻、駆逐艦11隻の軽快艦隊…も入港しており、大変賑わっていた。


日本軍が異変に気が付いたのは、既に米軍機が目と鼻の先にまで近づいた時であった。


真っ先に護衛を務めていたグラマンF6F「ヘルキャット」が、まるで急降下爆撃を仕掛けると言わんばかりの角度で降下し、滑走路脇に並べられた戦闘機や陸攻に銃撃を仕掛ける。


そして基地に配備されている僅かな対空砲が、地上掃射を仕掛ける米戦闘機に気を取られている内に、基地上空まで接近してきたSBD「ドーントレス」爆撃機が、本当の急降下爆撃を仕掛ける。


機体に搭載されていた爆弾が切り離され、地表に向けて次々と落ちて行った。


爆弾が投下された目標は、主に航空基地であった。


滑走路はズタボロにされ、所々に隕石が落ちた後のクレーターのような大きな穴が、そこかしこに存在していた。


日本軍は、機械化が進んでいない為、この穴だらけの滑走路を修復するのは、さぞかし骨が折れるであろう事は容易に想像がついた。


また、一部の機体は港に停泊していた第8艦隊に対しても攻撃を行っており、駆逐艦2隻に爆弾が命中し大破させた。



続く第2次攻撃隊は、第1次攻撃隊の攻撃が終了してから僅か20分後に現れた。


第1次攻撃隊によって滑走路を全て破壊された日本軍に、米軍機を迎え撃つ戦闘機を発進させる事は敵わず、ラバウルは再び蹂躙された。


第2次攻撃隊の主目標も、第1次攻撃隊と同じ航空基地であった為、ラバウルの航空戦力は数カ月の間出撃すら敵わないと思わせる程、徹底的に叩かれた。


そして、第2次攻撃隊の攻撃から30分後に、止めの攻撃隊が到着した。


ガダルカナルからやって来た、B−25の編隊である。



前日、ガダルカナル島の米軍基地は、米軍の将兵から「ラバウル・エキスプレス」と揶揄された、ラバウルから出撃した基地航空隊による定期便的な爆撃隊の攻撃を受けていた為、当初こそ作戦への参加が危ぶまれていたものの、海軍へと恩を売りたいマッカーサーの指示によって、重機を駆使した米軍の本領を発揮した結果、見事出撃に成功したのであった。


しかし、日本軍も唯やられる訳にはいかなかった。


ようやくニューアイルランド島の「ケヴィアン」からやって来た6機の零戦が、遅きに失した感は否めないものの、防空戦を展開した。


もっとも、零戦の機体数がたった6機では、24機もの米軍機を完全に止める事は敵わず、3機を撃墜した所で遂に米軍機の爆弾槽が開き、格納されていた爆弾が投下された。



スプルーアンスが企図したラバウル空襲作戦は、見事に成功した。


ラバウルに展開していた420機の日本軍機の大半…実際は134機…を地上撃破し、滑走路を徹底的に破壊した。


入港して敵艦隊も、駆逐艦3隻とその他の輸送船4隻の撃沈も確認され、米軍将兵は久々の勝利に心を踊らされた。


しかし、一方的にやられた日本軍が黙ったままでいる筈が無い。



ラバウル空襲から早くも3日目には、比較的損害が少なかった滑走路の1本を、昼夜問わない突貫作業で修復し、生き残っていた280機余りの機体をニューギニアのウエワクへと一時的へと退避させると同時に、本土に向かって米軍に空襲された事を伝えた。


日本軍は、米軍が今後も空母を使ってニューギニアの各地にある基地を、電撃的に奇襲する作戦を続けると正しく予想し、哨戒任務の充実を図る。


一方で現地の指揮官達は、内地や台湾、南方に展開している航空隊のニューギニア方面への展開を望んだり、海軍の機動部隊の出撃も進言していた。


その甲斐があったのか、南方に展開していた一部の陸海軍の航空部隊のニューギニア方面への配備が決まった。


さらに、トラック空襲時に活躍した第3機動部隊が、航空機の補充が済み次第再びトラック環礁にまで進出する事が決まった。


第3機動部隊は、第1機動部隊と第2機動部隊の生き残りである赤城級空母2隻と翔鶴級空母2隻、そして改装空母である飛鷹級空母2隻で、当初は編成されていた。


しかし、改装空母である飛鷹級空母は、搭載機数こそ正規空母に次いで多いが、速力は同じ改装空母である赤城級よりも6ノット以上も低速であり、この差は艦隊を組む上で非常に問題であった。


しかし、40年の6月に起工を開始した装甲空母『大鳳』が、43年の1月に就役した事もあって、急遽第3機動部隊へと編入された。


*代わりに2隻の飛鷹級空母は、2隻の千歳級空母と昨年のダッチハーバー空襲作戦時に第2艦隊に編成されていた空母『龍驤』を加えた計5隻によって第4機動部隊を編成し、機動部隊の搭乗員達の錬成に従事した。


『大鳳』と2隻の赤城級空母の1番艦『赤城』・4番艦『白城(しらき)』、そして開戦直前に完成した2隻の翔鶴級空母…1番艦『翔鶴』・2番艦『瑞鶴』…の計5隻に改めて、編成されていた。


客船改装の大型空母2隻の代わりに、大型正規空母1隻を加えた第3機動部隊は、所属する全空母が速力30ノットを超える高速機動部隊となった。


しかし、その代わりに第3機動部隊が保有する機体数は、『大鳳』が装甲空母で元々の搭載機数が少なかった事も相まって、『飛鷹』級2隻が所属していた時の466機(最大時)に比べて60機以上も少ない403機(最大時)であった。


無論、航空機数で全てが決まるという訳ではないが、それでも航空戦は数の要素も重要であり、その点で言えば第3機動部隊は高速化を果たした半面、戦力的に弱体化したとも言えた。



さて、帝国が戦力の充実を図っていた頃、米軍は先のラバウル空襲の成功によって得た勢いそのままに、次の侵攻を速行おうとしていた。


目標は、昨年末に一度失敗している東部ニューギニアの重要拠点…「ラエ」であった。



しかし、米軍が再侵攻を計画している東部ニューギニアには、単純計算で28万もの帝国陸海軍将兵が、展開していた。


更に、当初ラバウルやニューギニア全域に配備されていた陸海軍の航空機は、ラバウル空襲を始めとする米軍との数度の戦闘で目減りしていたものの、本土や南方からの増援を加えた現在は、当初を上回る1700機近い機数を揃えるまでになった。


*その代わり、本土や南方に展開・配備されていた機数が著しく減少していた。


対する米軍は、スプルーアンスが率いる機動部隊にポートモレスビー・ガダルカナル島の陸軍航空隊を始めとした部隊と合わせて、艦艇各種52隻、航空機計782機、陸軍兵士5万8千人、海兵隊1万8千人の兵力が「対ニューギニア・ラバウル戦線」に展開している全兵力であった。


マッカーサーなどは、これだけの兵力があれば、ニューギニア全域を陥落させるのに半年も掛らないとまで豪語していた。


しかし、知将と名高いスプルーアンスは、マッカーサーの言葉を耳にした時、


『バカには戦いを任せられない』


…とまで言ったとされる。



事実、スプルーアンスの言は、当たってしまった。


4月の末に再開されたニューギニア侵攻作戦は、海軍の補助を(支援を)受けた陸軍が主導で再び開始されたものの、苦戦の連続であった。


ラエへと上陸したクレイブ・マッキャビン少将率いる第7海兵師団が真っ先に上陸を開始した。


スプルーアンス率いる第22任務部隊による援護によって、援護された上陸作戦は、一滴の血も流す事無く成功した。


何故米軍は、一滴の血を流す事無く上陸に成功したのだろうか?



日本軍は、昨年末に米軍が上陸してきた時は、水際作戦を中心に防衛作戦を展開した。


しかし、水際作戦時に大量の兵員を動員したにも関わらず、結局米軍に橋頭保を確保され、本格的な地上戦へと発展してしまった。


しかも、水際作戦に投入した兵員の損耗も多く、水際作戦の有用性が疑われたのである。


よって、今回の作戦では、予め兵力を後方へ後退させて、持久戦を行う方針となった。


もっとも、膨大な物量を擁する米軍相手に通じるかどうかは、定かではない。



上陸に成功した米海兵隊であったが、上陸したのも束の間…その日の夕刻には、早速日本軍の歓迎が行われた。


まず、一部のベテラン搭乗員のみで編成された爆撃隊が、ウエワクから飛び立ち、上陸した米軍部隊に対して盛大に歓迎を開始した。


120機の護衛の零戦と一式戦「隼」に護衛された124機の一式陸攻が、米海兵隊の上空へとやって来て、機内に格納されていた大量の60kg爆弾、250kg爆弾を投下し始めた。


中には800kg爆弾を搭載していた機もおり、これ等の爆弾は大きな損害を与えた。


上陸した第7海兵師団は、上陸地で1日も経たない内に千人を超える死者を出し、揚陸した戦車や火砲の大半も失ってしまった。



この時、本来なら彼等海兵隊の頭を守るべきスプルーアンス率いる機動部隊は、残念な事に現場にいなかった。


偶然にも機動部隊から発進した哨戒機が、敵艦隊を発見し、一部の軽快艦艇を除く艦艇を引き連れて応戦に向かってしまったのだ。


米機動部隊から出撃した哨戒機が発見したのは、金剛級高速戦艦2隻(『比叡』・『霧島』)と妙高級重巡洋艦4隻、更に2個水雷戦隊を中核とした「陽動艦隊」であった。


この艦隊は、読んで字の如く「陽動」を主目的とする艦隊である。


ラエに上陸した米軍の上空を守る機動部隊を、ラエ近海から引きずり出し、ラエに上陸した米軍に対する傘を外す。


そして、ウエワクを中心とする各拠点から出撃した航空隊によって、米軍に対して航空攻撃を行い、敵戦力を損耗させる。


さらに、引きずり出した敵機動部隊も、陽動艦隊に呼応して動く第3機動部隊によって撃滅する。


最後に航空戦力の援護の下、陸軍部隊による総攻撃を行い、米軍を殲滅する。



これが、帝国陸海軍の首脳部が狙っている東部ニューギニア防衛作戦の構想である。


しかし、これは多分に博打要素が強いモノであった。



そして日本軍が作為的に作り出した今回の海戦は、米軍…米海軍にとって、非常に衝撃的なものとなった。


5隻の空母を擁する帝国海軍第3機動部隊は、艦載機の大半を艦上戦闘機である零式艦上戦闘機に統一していた。


無論、偵察を兼ねる九七式艦攻も搭載していた。



陽動の動きを見せていた艦隊を追撃していたスプルーアンスは、遂に攻撃隊を発進させた。


しかし、長い間上陸部隊の援護を務める艦隊が、持ち場を離れている訳にもいかず、攻撃は1次のみと決められていた。


午後2時半…


攻撃隊168機が、飛行甲板から次々と出撃して行った。


しかし、攻撃隊が出撃してから数十分後、スプルーアンスは信じられない報告を耳にした。


それは、敵艦隊…陽動艦隊…を追跡していた偵察機からの報告であった。


敵艦隊の逃走方向に、5隻の大型空母からなる機動部隊の存在を確認したというのだ。


最悪な事に、攻撃隊の護衛を務める戦闘機…F6F「ヘルキャット」…の数は、たった32機。


敵機動部隊は、未だマリアナ近海を航行中という情報を信じ込んでいたスプルーアンスの、珍しい失態であった。



第3機動部隊の5隻の空母から飛び立った160機の零戦は、陽動艦隊に属していた戦艦『比叡』からの誘導に従い、陽動艦隊もとい前衛艦隊となった艦隊の上空へ向かって一気に飛んで行った。


米攻撃隊が、前衛艦隊となった「元」陽動艦隊の上空へ辿りつく頃には、その上空には既に零戦160機が闊歩していた。


32機の「ヘルキャット」は、悲壮な覚悟の下で敵戦闘機に向かって突撃を開始した。


しかし、32機の戦闘機で、160機もの零戦を押し留められる筈も無く、都合120機以上の零戦は、圧倒的な数の敵戦闘機を前にして攻撃を躊躇している米攻撃隊へ、問答無用に攻撃を開始した。




僅か20分にも満たない空戦の内に、米攻撃隊は161機の機体を失った。


生還出来た機体は、たったの7機。しかも、全て戦闘機であった。


艦爆・艦攻は全滅…


米艦隊の将兵…特に、スプルーアンスに与えた衝撃と怒りは、後にハルゼー大将以上とまで言われた凄まじいものであった。



この時点で、スプルーアンスが擁する艦載機数は、計289機。


スプルーアンスは、参謀達の反対を押し切って、第2次攻撃隊を強行出撃させた。


この時点で、時刻は午後4時を回ろうとしていた。


第2次攻撃隊として出撃した機体は、計162機に及んだ。



しかし、運命は米軍…いや、スプルーアンスに対して残酷だった。


陽動艦隊改め、前衛艦隊と合流した第3機動部隊は、先程まで空戦を行っていた零戦を艦に降ろし、素早く補給を終えて再び空へと上げた。


更に、念のためと格納庫に温存していた零戦も、出撃させる事となり、最終的に出撃した機体は、計184機にも及んだ。


先の空戦による損失機17機を除いても、十分すぎる戦力であった。



空戦の結果は、言うまでもあるまい。


第2次攻撃隊は、180機を超える零戦の豪勢な歓迎を受け、9割を超える損失機(正確には169機)を出した。


攻撃隊の戦果は、自爆覚悟で弾幕に突っ込んだ2機の「ドーントレス」が、装甲空母『大鳳』に1発命中、1発至近弾の戦果を上げただけであった。


*しかし、米攻撃隊の意地を見せつけた2機の「ドーントレス」も、狙った得物が「装甲」空母である『大鳳』であった為、装甲甲板を軽く凹ませただけであった。



残存機の収容を行った米艦隊は、敵艦隊の突入を危惧し、退却を開始した。


途中、残存機をエセックス級2隻に集約し、その2隻と護衛の艦艇25隻をラエ近海まで戻す一方で、スプルーアンス自身は中身が空の1隻のエセックス級と3隻のインディペンデンス級を引き連れて、ニューカレドニア島のヌーメアまで後退した。



ヌーメアまで後退したスプルーアンスが目にしたのは、4隻の空母を率いるハルゼー中将の姿だった。


開口一番でハルゼーは、


『後は任せろ』


…とその一言だけをスプルーアンスに告げ、その日の内に出港していった。



その後の東部ニューギニア戦線は、スプルーアンスと後退したハルゼー中将指揮下の第41任務部隊とポートモレスビー・ガダルカナル島に拠点を置く米陸軍航空隊双方の、連携を生かした粘り強い戦いによって、徐々に占領地を拡大させていった。


当初こそ戦闘を有利に展開していった帝国軍であったが、度重なる米軍の攻撃によって次第に弾薬を消耗(注:飽くまで弾薬だけであり、航空機を始めとする機材は許容範囲内)し、戦線の後退を余儀なくされていた。


一部の地域・拠点で、徹底抗戦をして玉砕した部隊がいたものの、その報告を耳にした昭和天皇のお怒りによって、玉砕は禁止された。


故に、東部ニューギニアに展開していた約7万の帝国陸軍将兵は、戦線が不利になれば即後退を開始する部隊もあった。



43年の11月を迎えた時点で、東部ニューギニアに残された日本軍の最後の拠点であったウエワクも陥落し、日本軍の最前線ラインは丁度現代の世界のパプアニューギニアとインドネシアとの国境線近くの地域まで後退していた。


しかもこの数カ月の間に、ニューギニア全域に展開していた陸海軍機は、凄まじい勢いで消耗し、残存機は僅か300機前後にまで激減していた。


もっとも、その間に起きた空戦の大半がニューギニア島の日本軍占領地域下での空戦であったお陰で、機体の消耗数の割に搭乗員の消耗は抑えられた。


現に、撃墜された機体は1000機を超えるものの、その航空線による搭乗員の死者数は、都合380機分であり、戦死者の割合は決して高い訳ではない。



ニューギニアに展開している日本軍将兵は、米軍の本格的反攻作戦後も増強され、今では30万を超える将兵がいた。


当然、それだけの将兵を養っていけるだけの食糧を、態々本土から輸送するのも大変である為、現地の将兵には自活の指示が出ていた。


30万の将兵と、現地人が手を取り合って作業を行い、43年の12月末には、広大な水田や畑が耕作され、結果として長期持久を可能とする程の規模の土地を開発していた。



一方の米軍である。


4月の末に行われた海戦…日本名「第3次ソロモン海海戦」、米軍名「スプルーアンス・ショック」…において、多大な損害を受けた米軍ではあったが、その日本とは比べようがない程巨大な工業力を生かして、続々と艦船・航空機を始めとした軍需物資を建造・生産し、前線に送りだしていった。


その結果、11月の時点で真珠湾に停泊していた米海軍の戦力は、正規空母19隻、軽空母13隻、最新鋭の『アイオワ』級6隻を含む戦艦各種計16隻を中心とする200隻近い艦隊であった。


更に、これとは別に、ニューカレドニアのヌーメア港には、開戦以来の歴戦の武勲艦『エンタープライズ』・『サラトガ』を含む4隻の正規空母と、4隻の軽空母が展開していた。



11月の初めまでに、米軍は東部ニューギニアの日本軍の一大拠点であったウエワクを落とし、東部ニューギニアの大半を連合国陣営側の占領地として奪還した。


ニューギニアに上陸した米軍将兵は、陸軍・海兵隊を含めて40万を遥かに超え、50万人近くにも達する。


その一方で米軍は、今村均中将が指揮する第16軍が駐留するラバウルへの直接攻撃は、控えていた。


何せラバウルには、第16軍指揮下の計10万8千人に加え、第18軍隷下の2個師団計3万9千人を含めた14万7千人がおり、早々簡単に落とせるとは考えられていなかったからだ。



12月の初め、ワシントンにある白い家の主人が、一つの指令を発した。


『中部太平洋諸島を占領し、マリアナへの道を確保せよ』



この有名な一言によって、米軍は中部太平洋諸島への侵攻を開始する。


無論、ニューギニアでの戦闘も継続される。



戦火はさらに拡大を続けようとしていた。

如何でしたでしょうか?


えぇ〜、前書きでも述べましたが、作者である私が現在籍を置く大学が、来週から試験が始まります。


よって、場合によっては来週金曜まで更新できない可能性があります。


毎回楽しんで(?)読んで下さっている読者の皆様には、大変申し訳ないのですが、作者の都合上、投稿が送れる可能性があります。


無論、試験期間中でも時間が空けば、作品の執筆を続けて行きますので、もしかしたら投稿できるかも知れません。



話が長くなりましたが、以上で終わります。


それでは、また次回。



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