第18話 米軍が歩んだ軌跡2
どうも、クラウスです。
今回は、前回に続く内容の第2段です。
今回は主に43年の前半を中心に執筆しています。
今回も余り戦闘描写はありません。
悪しからず………
それでは。
1942年の6月と7月に行われた2度の大海戦によって、米軍は日本軍の進撃を食い止めた。
この2度の海戦によって、米軍は3隻の空母を失った代わりに6隻もの帝国海軍の空母を沈めた。
しかし、7月に行われた第2次ソロモン海海戦から2ヶ月後の9月に、米太平洋艦隊司令部が予想だにしない出来事に見舞われた。
なんと、アリューシャン列島に属するウラナスカ島の港湾都市「ダッチハーバー」が、戦艦6隻を主軸とする帝国海軍の第2艦隊に砲撃され、壊滅的損害を受けたのである。
これに対して太平洋艦隊司令長官であるニミッツ大将は、第2次ソロモン海海戦によって損傷した個所の修復作業を終えた2隻の空母…『エンタープライズ』・『サラトガ』…を中心とする艦隊を派遣し、追撃に移った。
2隻の空母に搭載された艦載機の合計数は170機前後であった。
対する第2艦隊には、3隻の軽空母が確認された。
『龍驤』・『瑞鳳』・『龍鳳』の3隻である。
この3空母には、本来ならば艦戦以外にも艦攻も多数が搭載される筈であったが、2度の大海戦の戦訓によって艦隊上空の直掩の戦力が少なかった為に損害が発生したとの考えから、今回の作戦に参加した3空母には、1機の艦攻も搭載されず、艦載機の全てが戦闘機であった。
米軍は、敵艦隊に軽空母ながらも3隻もの空母が確認された事から、これまでの戦訓に倣って艦隊直掩の為の戦闘機の数を増やし、逆に攻撃隊の護衛を務める戦闘機の機数を大幅に減らしてしまった。
このため、米攻撃隊の第1波が第2艦隊の上空に迫った頃には、3空母に搭載された全艦戦の7割に相当する69機もの零戦の御出迎えを受け、壊滅的損害を受けてしまった。
第2次攻撃隊も同様で、2波に渡って行われた航空攻撃の結果、出撃した約100機の機体の内、母艦に帰投出来たのはたったの艦戦・艦爆合計9機だった。
実に全体の9割が落とされたのだ。
第2艦隊は、8機の零戦と引き換えに90機以上の敵機を撃墜し、意気揚々と本土へと帰還した。
対する米軍は、一部の参謀が艦隊の一部を分離して追撃に出るべきだと主張し、時間を浪費していた。
これが、航空戦力を大きく削られた米艦隊に更なる損害を与える事になる。
そう、深海からやって来た狩人に、盛大なプレゼントを貰ってしまったのである。
米軍の将兵が気付いた時には、既に3隻の潜水艦から計12本もの魚雷が発射された後であり、既に回避不能の地点まで魚雷は接近していた。
狙われたのは、最上級の得物である2隻の空母である。
艦隊に命中した魚雷は5本。
その内、空母に命中したのはたったの1本。
サラトガの左舷に命中した。
当たり所が良かったのか、浸水して航空機の発着艦が不可能になるも、沈没の危険は無かった。
とばっちりを受けたのは、『サラトガ』の右舷後方の位置にいた戦艦『ワシントン』であった。
残った4本の魚雷の内の3本を左舷に食らい、その内の1本が第2砲塔の弾薬庫付近に命中し、爆発。
第2砲塔の弾薬庫が誘爆し、第2砲塔の前後で艦体が真っ二つに割れてしまい、そのまま深海へと引き込まれていった。
残る1本は、輪陣形を形成していた艦隊の一番外側に展開していた1隻の駆逐艦に命中した。
命中した魚雷は、駆逐艦に搭載されている魚雷発射管付近命中し、搭載していた魚雷に誘爆し、轟沈。
あっと言う間に海中へと船体が飲み込まれていった。
米艦隊は、今回の海戦において戦艦と駆逐艦を其々1隻ずつ撃沈され、同時に艦載機の6割近くを失った。
特に艦載機の損害は、攻撃隊として出撃した艦攻・艦爆隊に多く見られ、艦攻に至っては出撃した38機が全滅するという事態にも見舞われた。
*この時2隻の空母に搭載された艦攻の合計数は42機であり、4機が捕用機として空母の格納庫内に格納されていた。つまり、艦攻は襲撃しなかった4機を除いて全機が出撃し、全機撃墜されてしまったのである。
米軍にとって何よりの損失は、第2次珊瑚海海戦・第2次ソロモン海海戦において、帝国海軍の空母を撃沈した事もあるベテランの艦攻・艦爆の搭乗員の多くを失ってしまった事である。
この損害は、戦艦『ワシントン』を撃沈された以上の損失であった。
この後米軍は、年内の対日反攻作戦を延期し、来年度以降に持ち越した。
一応西海岸で、エセックス級空母1隻とインディペンデンス級軽空母2隻が慣熟訓練を続けて、一定のレベルには達していたものの、すぐに実戦に投入できるレベルでは無かった。
仮にこの空母3隻を前線に投入しても、未だ6隻の正規空母(改装空母である『飛鷹』級を含む)を擁する帝国海軍に敵う筈も無く、徒に損害を増やすだけであるとして前線への投入は控えられた。
結局、米軍が42年の間に対日侵攻作戦を本格化させる事は無く、ただ只管空母を始めとする戦力の増強を行っていた。
米国は、少ない戦力でリスクの大きい作戦を行うより、大きい戦力でリスクの小さい作戦をする事を選んだ。
しかし、対日侵攻作戦を遅らせる事は、日本側にも戦力の回復と充実をもたらす事でもあった。
一部の軍人や政治家はその事を危惧したものの、大統領やキング大将を始めとする軍・政府首脳は取り合わなかった。
日本とアメリカの国力の差を、しっかりと認識していたからだ。
太平洋艦隊司令長官であるニミッツ大将などは、
『日本が正規空母1隻を戦力化する内に、我が国は同規模・同性能の正規空母を5隻も10隻も戦力化できるだろう』
…と大統領に語っていた。
流石に10隻は言い過ぎ…かと言えば、そうとも言い切れない。
現在の米国は、東海岸と西海岸の双方にある軍民双方の工廠で、エセックス級を始めとする新型空母・戦艦を建造していた。
駆逐艦や輸送船は、何と1週間に1隻の割合で完成する程のペースで建造されていた。
1943年の2月21日…
この日、ハワイ真珠湾港に太平洋艦隊への増援艦隊の第1陣である艦隊が到着した。
エセックス級正規空母6隻とインディペンデス級軽空母5隻、サウスダコタ級戦艦2隻を中心とする80隻を超える大艦隊である。
指揮官は、猛将で名高いウィリアム・F・ハルゼー中将であった。
この内エセックス級を中心とした全艦艇は、全て41年以降に建造を開始されたものであった。
この内、2隻のサウスダコタ級戦艦は42年の5月に既に前線に配備されていた。
第2次ソロモン海海戦に参加していたのである。
しかし、帝国海軍の機動部隊による攻撃によって1番艦『サウスダコタ』、2番艦『インディアナ』は共に被雷してしまい、西海岸に回航されて修復作業を受けていたのである。
元々の太平洋艦隊の残存艦艇を加えて都合13隻もの空母を擁するようになった米軍は、遂に対日侵攻作戦を開始する本格的準備に入った。
そして43年の3月29日…
エセックス級空母3隻、インディペンデンス級軽空母3隻を中心としたスプルーアンス中将率いる第22任務部隊が、日本軍が占領していた中部太平洋にある各島々に対して、攻撃を行った。
同時にエセックス級3隻と『エンタープライズ』・『サラトガ』の2隻、更に2隻のインディペンデンス級空母を中心とした第41任務部隊が、ハルゼー大将(2月の末に昇進)に率いられて、日本が擁する太平洋上の要衝である「トラック環礁」を攻撃した。
米軍のトラック空襲は、2段階に渡る作戦内容から成り立っていた。
1段階目は、スプルーアンス率いる第22任務部隊が中部太平洋の各島々(主目標はメジュロ環礁とクェゼリン環礁)を攻撃。
その第1段階の作戦中に、ハルゼー率いる第41任務部隊がトラック環礁付近にまで密かに進出し、航空攻撃を仕掛けるという2段階から成る多分に投機的作戦であった。
猛将と言われるハルゼーが指揮するとあって、第41任務部隊の士気は高く、航空隊は勇躍出撃して言った。
しかし、このトラック空襲は、結局失敗に終わる事となる。
米軍にとって予想外だったのは、母艦から航空隊が出撃する以前に日本軍に発見されていた事であった。
しかも、驚くべき事に米軍はこの時、敵機に発見されている事に気がつかなかったのだ。
お陰でハルゼー大将は、幕僚たちに、
『ジャップの連中は、自分達が攻撃を受けて初めてこの部隊の存在に気が付くだろう』
…といった楽観論を述べてもいた。
出撃した攻撃隊は、7隻の空母から合計222機にも上った。
これは第1次攻撃隊に参加した機数であり、すぐに第41任務部隊の空母では、第2次攻撃隊の出撃準備も行われた。
一方の迎え撃つ日本軍は、どうであったのだろうか。
日本軍は、航空機と潜水艦による警戒網を各地に敷いており、今回は運良くハルゼーの艦隊が警戒網に引っ掛かってくれたのだ。
早速トラック環礁に駐留する海軍の各航空部隊が、機体を出撃させた。
さらに、この時マリアナ諸島近海に展開していた機動部隊…第3機動部隊に暗号で通信を送り、出撃を要請した。
トラック環礁上空には、各島々にある飛行場を飛び立った海軍の戦闘機…零式艦上戦闘機が、今や遅しと米軍機の接近を待ち受けていた。
第2次攻撃隊を送り出した第41任務部隊の司令官であるハルゼーは、非常に心穏やかな心境だった。
2波合計360機を超える攻撃隊を送り出したのだから、必ず敵を殲滅出来るだろうと…
しかし、次にハルゼーの耳に飛び込んできたのは、耳を疑うような内容だった。
『トラック環礁上空で、敵戦闘機の迎撃を受く』
『ゼロの大群に襲われた』
『第2次攻撃隊の侵攻ルート上に、敵機を確認す』
…どれもハルゼーの心を揺さぶる事間違いなしの内容だった。
トラック環礁上空の空戦は、合計280機もの零戦を揃えた日本軍が有利に戦局を運んでいた。
第1次攻撃隊として出撃した米攻撃隊の総数より多いのである。
護衛戦闘機が84機しかいない米攻撃隊に、都合200機の零戦が襲いかかる。
第1次攻撃隊は222機の機体の内、実に179機もの機体とその搭乗員を失い、這這の体で逃げ帰っていた。
第1次攻撃隊に続く形で出撃した第2次攻撃隊は、母艦を出撃してから僅か30分程の地点で、大規模な編隊に遭遇してしまった。
最初は戸惑っていた米軍機の編隊であったが、一機の艦攻が撃墜されるに及び、ようやく接近してきた編隊が、敵機である事を認識した。
第2次攻撃隊138機が遭遇したのは、何とマリアナ近海に展開していた帝国海軍第3機動部隊から出撃した、零戦48機の編隊であった。
第3機動部隊は、運悪く艦載機の大半(艦爆は全機、艦攻は偵察に使用する機体を除く全機
)をマリアナ諸島に降ろしており、搭載している機体も零戦ばかりであった。
しかし、流石は開戦以来の兵達が操る零戦であり、護衛の戦闘機を適当にあしらいつつ、確実に1機また1機と艦爆・艦攻を撃墜していく。
この時米軍の機動部隊の艦上戦闘機は、全てF4FからF6Fへと機体が更新されていた。
にも拘らず、彼らの戦闘機の妨害を物ともせずに戦い続ける第3機動部隊所属の零戦部隊は、一騎当千の兵達の集まりであった。
さらに、トラック環礁からやって来た零戦の部隊が空戦に加わると、第2次攻撃隊の被害は鰻登りに上昇し、遂に爆弾を捨てて退却する機体が現れた。
唯では返さないと意気込む零戦隊の追撃を凌いで母艦に帰投出来たのは、たったの23機。
2波合わせて360機が出撃し、帰還したのはたったの66機。
出撃した機体の8割を失ってしまった。
そして294機もの犠牲を支払って得た戦果は、トラック環礁の基地機能の一部破壊と敵戦闘機…零戦…31機撃墜(不確定)であった。
割に合わない戦果…
ハルゼーはトラック環礁へ突撃せよと酔狂な命令を出させる程の損害であった。
スプルーアンスは、ハルゼー艦隊が多大な損害を受けたと知るや、すぐに作戦を中止し、ハルゼー艦隊の撤退を援護すべく西進し、ハルゼーの艦体の護衛を務めた。
実は、スプルーアンスの機動部隊も、迎撃に出た日本軍機によって80機以上を失っていた。
無論、メジュロ・クェゼリンの両環礁に駐留する日本軍は、軒並み全滅したものの、少なくない損害を受けていたのだ。
ハルゼー・スプルーアンスの両将軍が、艦隊を率いて真珠湾に帰港したのは、作戦開始から僅か10日後の事であった。
華やかな凱旋を期待していたニミッツ長官の期待を、大きく打ち砕く帰港であった。
艦艇数自体は減っていないものの、空母艦載機の数はかなり減少していた。
特にハルゼーが率いた第41任務部隊は、艦載機の半数を失っており、今後の作戦に多大な影響を与えた。
一方のスプルーアンスが率いた第22任務部隊は、損害も少なかった。
そこで、失われた機体分の補充を受けた後、第22任務部隊は再び出撃した。
僅か1週間ばかりの休息の後に、艦隊が向かった先は、南太平洋戦線であった。
大日本帝国は、米国との開戦後、素早く軍を動かして南方地域を占領し、ニューギニアの地にやって来た。
当初こそニューギニア地域は、米豪遮断作戦を実施する上での通過点に過ぎない地域であったのだが、42年に起きた2度の大海戦による敗北を受け、米豪遮断作戦の実施が不可能であるとの認識により、陸海軍首脳部の協議の結果、同地域の要塞化を決定したのであった。
要塞化した同地域に多数の航空戦力と地上部隊を配置し、米軍の侵攻を遅らせようとしたのである。
その為、僅か半年間しか時間が無かったにも関わらず、ニューギニアに地は米軍が当初予想していた以上の航空戦力・地上兵力が配備されており、また内地から輸送してきた貴重な資材を用いた対戦車陣地や、洞窟を利用した天然の防御陣地を建設するなど、要塞化は着実に進んでいた。
米軍が42年の12月に、旧式戦艦3隻の下でニューギニア東部の「ラエ」に対して上陸作戦を実施した時には、日本軍の前線基地であり、ニューギニア方面の一大拠点である「ラバウル」や、同じく東部ニューギニアに位置する都市「マダン」の飛行場から出撃した陸海軍の航空隊による攻撃を受け、旧式戦艦3隻を全て失い、作戦にさんかした米陸軍及び海兵隊総計2万3千人を失うなどの大損害を受けた。
不幸にしてこの作戦には、空母の随伴が無かったのだ。
エア・カバーが無ければ、上陸作戦が如何に困難なものであるかを、まじまじと示したものであった。
この作戦は、オーストラリアにいるダグラス・マッカーサーが、強く実施を求めていたものであり、空母が無い中で無理をして行われた作戦であったのだ。
マッカーサー側は、海軍の言う所の戦闘機による艦隊直掩を、空母艦載機の代わりにポートモレスビーから陸軍の戦闘機隊を派遣すると言って、お茶を濁した。
しかし、航続距離や機体性能の限界から、出撃できる機体数は120機前後であり、ニューギニア・ラバウル方面に凡そ570機の戦闘機を揃えている日本軍を相手にするには、役不足な感が否めなかった。
予想通り米軍の作戦は、陸軍機の出撃遅延を始めとする陸海軍の犯した連携のミスも相まって、甚大な被害を出してしまったのだ。
この米陸海軍の犯した信じられないミスの中には、上陸作戦時に直掩を務める筈の陸軍戦闘機が、上陸した味方を誤射するといったミスや、海軍の戦闘艦艇が誤って自軍の陸軍戦闘機を撃墜するという、到底信じられないようなミスも起こったのだ。
43年になって、戦力が段々と揃ってきたため、マッカーサーはニミッツに作戦への協力を要請し、仕方なく第22任務部隊を派遣する事になったのである。
43年は、南太平洋に嵐が訪れた年でもあった。
如何でしたでしょうか?
次回は、今回の続きで43年の後半についての内容になります。
内容の都合上、後2話程今回のようなお話が続きます。
それでは、また次回。