第11話 灼熱の日ソ大戦3
第11話を更新いたしました。どうも、クラウスです。
今回は樺太を巡る戦いを描きます。
それでは、どうぞ。
1904年に始まった日本とロシアの戦い…日露戦争は、陸軍の身を削るような戦いと海軍の活躍もあって、1905年に講和条約を結ぶ事が出来た。
北緯50度以南の領有が認められたのは、この時からであった。
−−− 4月11日 北樺太 ポギビ近郊 −−−
『砲撃よーいっ……てぇーっ!!』
ドーーンッ! ドーーンッ!
ヒューーン…
ドガアーーンッ! ドガァーーンッ!
『敵T−34ー85、2両撃破っ!』
『よしっ!もうすぐ「ポギビ」だっ、気を抜くなよ!?』
『『了解っ!』』
ソ連軍が、満州に侵攻を開始した4月7日…
この日、戦端が開かれたのは何も満州だけでは無かった。
そう…大日本帝国と直接陸地で接しているこの樺太の大地でも、戦端が開かれたのであった。
北樺太に陣取るソ連軍は、開戦以前から3万強の兵力を配備していた。
今回の開戦にあたってスターリンは、北樺太に新たに2個師団3万8千弱の兵力を増強した。
合計で7万を超える大兵力である。
そのソ連軍の大軍を迎え撃つのは、ソ連軍が装備している兵器を遥かに凌駕する性能を誇る装備に身を固めた、未来日本陸軍部隊である。
千式重戦車・零式機動戦車を配備している第2戦車師団に、未来日本陸軍の中でも最強の歩兵師団と謳われる第87歩兵師団の2個師団。
そして、元から南樺太に配属されていた帝国陸軍の第233師団と合わせて、計3個師団3万2千が南樺太…いや、樺太戦線と呼ぶべきか…に配属されていた。
4月7日の日ソ開戦により、ソ連軍部隊は早速南進を開始した。
ソ連軍の兵士達の頃には、未だ日露戦争に参加した古参兵も多く、日本に分捕られた領土を奪回しようと士気は旺盛であった。
未明に北樺太にあるアレクサンドロフ=サハリンスキーの基地を飛び立ったソ連空軍は、一気に北緯50度の日ソの国境線を飛び越え、南樺太にある各地の帝国軍基地を空爆しようとした。
しかし、満州戦線と同じくそれは不可能だった。
北海道の北部、稚内飛行場から飛び立った未来日本空軍のSFF−343「朱雀」の編隊が、今まさに空爆しようとしていたソ連空軍の機体に襲いかかったからである。
「朱雀」の両翼下に搭載されたミサイルが、相次いで発射された。
狙われたソ連機の大半は、ミサイルの接近に気付かずに撃ち落とされた。あわよくば気づけたとしても、マッハ4で迫るミサイルを避けることなど不可能であった。
ソ連機は、「朱雀」に狙われた時点で助かる見込みは無かったのだ。
結局ソ連空軍の攻撃は、北緯50度付近の小規模な基地を空爆する事しか出来ず、豊原…現在のユジノサハリンスク…や、大泊…現在のコルサノフ…といった南樺太の一大拠点・都市を空爆する事は敵わなかった。
しかし、南樺太侵攻を指揮するソ連軍将校達には、例え今回のように空襲に出撃した200機の航空機が全滅しようとも、侵攻を中止するという考えは無かった。
彼らにとっては、日本軍と戦うよりもスターリンに首を切られる事の方が、恐ろしかったのである。
かくして南樺太に侵攻を開始したソ連軍であったが、戦闘は緒戦から足払いを喰らった。
大日本帝国との国境線である北緯50度を、兵士の足が一歩越えた途端に凄まじいまでの火線が、ソ連軍の兵士達の目の前を覆った。
部隊の指揮官が、戦闘用意の掛け声を掛けた頃にはソ連軍部隊の第1陣として侵攻した部隊の3分の1が失われた後だった。
ソ連軍は、いくつかの部隊に別れて侵攻をしたものの、全て似たような状況に陥った。
仕方なくソ連軍は、各都市を攻略するための火砲や少数ながら運び込んだ戦車を前面に出して、物量で押し切ろうとした。
ソ連軍の機甲師団を迎え撃ったのは、第2戦車師団の各部隊であった。
北樺太に配備されたソ連軍の機甲師団の中には、精強なナチスドイツの戦車部隊と戦った兵士や、ノモンハン事件時に関東軍の戦車部隊と戦った事のある経験豊富なベテランたちも多くいた(肝心の満州戦線で戦う部隊よりも比率の面で多かった)。
彼等にとって、「手強い」という印象を与える戦車は、ナチスドイツの「パンター」や「ティーガー」といった戦車であり、日本軍が保有する「タイプ1」…一式中戦車は玩具同然であった。
*この時彼等は、日本軍が三式中戦車を主力としている事を知らなかった。
ソ連軍戦車兵達が目にしたものは、自分達が見た事の無い「超大型」の戦車であった。
それもそうだろう。
機動戦車と呼ばれる零式機動戦車「鎮守」ですら砲身を含めた全長は、10.68mにも及ぶのだ。
彼等がドイツとの戦いで見た「ティーガー」すら一回りも小さく見える。それが更に大型の千式重戦車「神威」と比べたらもう…
ソ連軍の主力戦車T−34−85が、主砲である85mm砲を発射した。
打ちだされた砲弾は、狙い外すことなく敵大型戦車へと吸い込まれていった。
必中の信念の下に敵戦車に命中した砲弾は、しかしその傾斜装甲によって貫通することが敵わずに弾かれてしまう。
ソ連軍戦車兵達が茫然としている中、日本陸軍戦車部隊の反撃が行われた。
零式機動戦車部隊は、車体を前進させながら射撃を行った。
所謂…行進間射撃である。
高度に電子化された…未来日本軍の主要戦車全てに共通する…零式機動戦車では、敵目標を自動追尾する事によって、高い命中率を誇る。
155mm滑空砲の砲弾が、面白いようにソ連軍戦車部隊に命中していき、あっと言う間に殲滅してしまった。
第2戦車師団は、敵戦車を殲滅すると後方にいた火砲や歩兵といった部隊にも照準を合わせていった。
開戦初日にして、既にソ連軍に組織的な南樺太侵攻は不可能であった。
否…逆に自分達のいる北樺太を防衛できるのかといった所まで追い詰められた。
開戦初日こそ侵攻してきたソ連軍を、迎撃するに徹していた日本軍であったが、明日もそうであるとは限らない。
現に翌日、日本軍は北進を開始した。
昨日ソ連軍の侵攻を食い止めた第2戦車師団が、主力となって北進を開始したのである。
未来日本陸軍の侵攻は、順調に進んだ。
前日の侵攻を阻止されたソ連軍に、北樺太防衛という考えは無かったらしく、国境線沿いの小規模な防御陣地でそこそこの防衛戦をした以外では、大した抵抗は出来なかった。
ソ連軍の兵士達の脳は、恐怖で満たされていたのだった。
自分達の見た事も無い様な巨大な戦車が、味方の戦車をいとも簡単に撃破して自分達に向かってくる…
その光景を目にして、戦わずして降伏してくる兵士もいたほどであった。
完全に機械化された未来日本陸軍の部隊は、航空部隊の支援の下、あっと言う間にアレクサンドロフ=サハリンスキーを占領してしまった。
開戦から僅か3日目の事であった。
さらに同日中に、大泊を出港した第2任務艦隊12隻が、帝国陸軍第333師団1万2千人を満載した輸送船・強襲揚陸艦(未来日本海軍からの貸与品)計50隻が、北樺太の港湾都市「オハ」へと強襲上陸作戦を実施した。
元々後方都市であった同都市に、帝国軍を迎え撃つ力は無く、即日降伏した。
開戦から3日目が過ぎた時点で、ソ連側に残った主要拠点は間宮海峡に面する都市「ポギビ」のみであった。
4月11日…遂に「ポギビ」に対する総攻撃が始まった。
ポギビを攻囲する帝国軍は、未来日本軍を主力とする3個師団3万人であった。
迎え撃つソ連軍は、各地で撃破されたソ連軍部隊の寄せ集めで、数だけは若干上回る4万弱の規模を揃えていた。
しかし、既に制空権を奪われており、帝国側の攻撃開始と同時に豊原・稚内を飛び立ってきた航空部隊の空襲を受けた。
さらに、前日「オハ」上陸部隊の護衛をしていた第2任務艦隊が回航され、同都市に対して艦砲射撃を実施した。
第2任務艦隊は、南方の船団護衛作戦に従事した未来日本海軍のイージス重巡洋艦「秋津洲」の同型艦である「大八洲」を旗艦とし、「橘」級護衛艦15隻で臨時に編成された艦隊である。
艦砲射撃・空爆双方の援護の下、帝国側は順調に進撃した。
そして遂に…
4月11日、午後5時38分…
「ポギビ」の市庁舎に本陣を置いていたソ連軍の樺太方面軍司令部が陥落し、司令官達が降伏した。
遂に、大日本帝国は樺太全土を手に入れたのである。
大日本帝国軍は、今回の樺太を巡る戦いで2千人近くの兵士を失った。
しかし、ソ連軍は2万近い兵士が戦死し、4万人弱が捕虜となった。
さらに、無傷の火砲150門弱にT−34−85中戦車50両、そしてドイツ軍の「パンター」・「ティーガー」戦車を各10両前後を鹵獲。
止めの一撃は、小銃4万挺に各種の弾丸20万発と、北樺太にあった油田をほぼ無傷で手に入れられた事であろう。
所で、何故ソ連軍が敵国の兵器である…それもドイツの…「パンター」・「ティーガー」を保有していたのであろうか?
もともとこれ等の車両は、ドイツ軍が東部戦線で運用していたモノであった。
ドイツ軍が遺棄した物を、ソ連軍が鹵獲して修復し実戦に使用していたのである。
*その為に、独ソの戦車戦で「パンター」同士が撃ち合う事もあった。
今回のモノは、スターリンが対日戦に利用すべく、シベリア鉄道を利用して運んで来たものであった。
それを鹵獲したわけである。
なにはともあれ、大日本帝国は北樺太のソ連軍の脅威を取り除く事ができ、大いに助かったのである。
勿論北樺太戦線で鹵獲したソ連軍兵器は、一部を性能試験などを行うために本土へ輸送された以外は全て満州戦線へ運ばれていった。
北樺太での戦いは終わったが、本命の満州戦線は未だ終わる気配を見せていなかったからだ。
如何でしたでしょうか?
次回の更新は、なるべく急ぐ方針ですが、大学の講義・レポート等の課題により大きく遅れる事も考えられます。
なるべく善処いたしますので、ご了承ください。
それでは、また次回。