第9話 灼熱の日ソ大戦1
どうも、クラウスです。
ついに赤の御国と戦争が始まりました。
…史実での赤軍は、日本軍以上に酷い軍隊ですからね。
報復の意味合いもあったのだろうと思いますが、赤軍がドイツの首都であるベルリンに入城した時には、多くの女性(上は60代から下は7歳まで)が赤軍兵士に強姦・陵辱されたそうです。
それは、ソ連が満州に侵攻した時にも起きたそうです。
多くの現地日本人女性が、赤軍兵士に陵辱されたと言います。
こういった出来事は、戦争には付き物と言われますが…
作中では、このような描写は描かないつもりです。
そもそも小説の内容上、このような出来事は起こりません。
…逆のパターンなら、あり得るかも知れませんが…ねっ。
おっと、話が長くなりました。それでは、スタートです。
日本とソ連が武力衝突をするのは、かれこれ4度目である。
第1次大戦後の20年3月から僅か1ヶ月という短期間の間だけ出兵した「シベリア出兵」、38年に起きたソ満国境線をめぐるいざこざの「張鼓峰事件」、39年に勃発した本格的な戦闘の「ノモンハン事件」に続く4度目の戦争である。
さらに、ソ連の前身のロシア帝国時代を含めれば5度目の戦争とも言えるだろう。
ソ連軍…正確にいえば赤軍…は、何処からどう見ても陸軍が一番重視されていた。
無論海軍・空軍も存在していたが、その規模は陸軍に比べて小さいと言わざるを得ず、規模の大きさから言えば、トップに来るのはやはり陸軍であった。
前身のロシア帝国は、陸軍大国であると同時に海軍大国でもあったのだが…
対する日本は、日露の時代から海軍大国であった。
国土の立地条件からして陸軍大国になる事は不可能であった。
故に陸軍の整備は遅れていた。
その2国が今、満州という土地をめぐって戦争を再び行おうと言うのである。
戦いの先手は、ソ連軍が取った。
圧倒的な地上兵力を用いて、ソ満の国境が接している全ての地方から侵攻作戦を仕掛けてきたのである。
先陣を切って満州国になだれ込んだのは、78個師団計162万人にも及ぶ狙撃兵師団の兵士達であった。
狙撃兵師団とは、ソ連軍の歩兵師団の事である。
彼等は、その圧倒的な物量を持って敵の防衛線の突破する事を任務としていた。
その歩兵の大群の後ろには、7千両もの戦車・自走砲と1万門もの火砲を伴った部隊が続き、その背後にソ連軍を督戦する政治将校の部隊がついていた。
この政治将校が率いる督戦部隊という存在は、ソ連の進撃を支えたとも言える敵にとっても、また味方のはずのソ連軍にとっても厄介な相手(部隊)であった。
何せ彼等は、前線に出ることなくただ前進を命じ、いざ部隊が(兵士が)退却・逃亡しようものなら、味方である筈の兵士を殺す事を許可された部隊であった。
ソ連軍は、前方・後方の両方に敵がいたとも言えるかもしれない。
ソ連軍は瞬く間に国境を越え、満州の地に足を踏み入れた。
その瞬間に、大日本帝国軍の猛烈な反撃が各地で一斉に始まった。
ソ満国境沿いにある各地の要塞・基地・陣地から、まるで何かのお祭りではないかと思える程の量の火砲が火を噴いた。
特に対ソ戦の為に建設され、逐次増強をされた「虎頭要塞」・「海拉爾要塞」の二つの要塞は、共に海軍の『金剛』・『扶桑』・『伊勢』各級で採用された45口径35.6cm連装砲の予備の砲門を分解して運び込み、組み立てて備え付けた物も含めて、合計で280門を超える火砲が備え付けられていたのであった。
その中でも特に目を引くのは、やはり「虎頭要塞」に備え付けられた試製41cm榴弾砲であろう。
その威力は絶大であった。
各要塞・基地・陣地にある火砲が火を噴き、敵軍の下に弾着する度に何十人何百人ものソ連兵を葬送した。
それでもソ連兵は、圧倒的な物量を生かして遮二無二突っ込んできた。
その様子は、日露戦争時の旅順要塞を攻略しようとした帝国陸軍の兵士達と似ていると言えた。
そう…ただソ連兵達は突っ込むことしかしようとしなかったのだ…
『…奴さん、体を隠す遮蔽物の無い平原をそのまま突っ込んできますよ』
『…やれやれだな。奴らに教えてやるか。日ソ中立条約を一方的に破棄して我々を裏切り、宣戦布告なく我々に戦争を仕掛けた事の愚かさを…』
『そうですね。戦車部隊は攻撃準備っ!全戦車は榴弾を使用しろ!』
『覚悟しろ、ソ連軍』
ズダーン! ズダーン! ズダーン! ズダーン!
ヒューーーン………
ズドーーンッ!! ズドーーンッ!! ズドーーンッ!! ズドーーンッ!!
『ぐわーーっ!』
『ギャーーッ!!』
『グァアーーッ!!』
『なっ、なんだ?何処から打ってきたんだ?』
『知るか!そんなことより隠れる場所を探せっ!』
『バカかっ!こんな何も無い草原に隠れる場所なんかあるかっ!!』
『んなぁーにぃーー!』
『兎に角今は敵を見つけ…』
ドガーーーンッ!!
ドガーーーンッ!!
『『ギャーーッ!』』
ソ連兵達は、帝国軍陣地に念入りに偽装された三式中戦車・三式砲戦車(自走砲)・一式中戦車の砲撃を受け、混乱の局地に陥っていた。
このような現象は、戦線の至る所で見受けられた。
ソ連軍の攻撃は、夜明け前の午前4時から侵攻を開始したものの、全く順調に侵攻計画を遅らせられていた。
朝日が顔を出す午前6時を過ぎてからは、帝国陸海軍の航空部隊も活動を開始した為に、前線に展開するソ連兵達は次々と葬送された。
帝国陸海軍の各航空部隊は、夜明けと共に満州及び朝鮮半島北部・中国北部の河北一帯に建設された各飛行場から発進して、ソ連軍を爆撃したのであった。
何せ陸軍航空隊は、「秋欄」エンジン搭載の三式戦闘機「飛燕」二型改、四式戦闘機「疾風」一型甲改の二種類の主力新鋭機の他、「春欄」エンジン搭載の「雷光」三一型に、最早旧型機の烙印を押された「隼」・「鍾馗」の各種を戦線に投入し、爆撃機に関しても新鋭機の四式重爆撃機「飛龍」・百式重爆撃機「吞龍」の他、旧型の九七式重爆・九九式襲撃機なども後方から引っ張り出して来て、爆撃作戦に参加した。
対する海軍は、
『陸戦に直接参加出来ないのだから、せめて陸軍が少しでも戦い易くなるように精一杯協力しよう』
…と語った海軍大臣米内光政、軍令部総長の及川古志郎という両大将の意を受けた豊田副武連合艦隊司令長官は、満州・朝鮮半島北部に進出していた海軍航空隊に出撃を伝え、陸軍の作戦を援護するよう命じた。
結果、海軍は前述の各基地を発進した各機各部隊が、各地の侵攻中のソ連軍に対して爆撃を開始した。
ちなみに海軍側は、「秋欄」エンジン搭載の艦戦「雷鳴」一一型に海軍でも運用されている前述の「雷光」三一型・一一型(艦戦タイプ)の二種類の新鋭機に、在来機の「雷電」・「紫電」及びその改良型の「紫電改」、各種改良された「零戦」が大空へ飛び立つ一方、新型艦攻の「烈火」一一型(陸軍も運用)を始めとする単発の艦攻・艦爆各種に基地航空隊の主役たる双発の陸攻隊も出撃した。
彼等帝国軍の航空部隊は、侵攻してきたソ連軍部隊の前衛である歩兵部隊の他、歩兵部隊の後から後続してくる機甲部隊に対しても銃爆撃を敢行した。
一方のソ連空軍部隊はと言えば…
夜明けと共にソ連領内にある各地の飛行場から千機を超える戦闘機・爆撃機が出撃して、帝国軍を攻撃した。
当然満州国の領空では、日ソ両軍の戦闘機・爆撃機が入り乱れ、乱戦の様子を示していた。
だが、戦闘機対爆撃機ならいざ知らず、戦闘機対戦闘機の空戦では、明らかにソ連軍側に分が悪かった。
ソ連空軍主力戦闘機は、Yak−9UとLa−7の両機種が主力であったが、この2機種は前述の帝国陸海軍の新鋭機である「雷光」・「雷鳴」・「飛燕改」・「疾風改」の各機を相手に劣勢に立たざるを得ず、場合によっては同性能の海軍機「紫電改」や能力的に劣る筈の「零戦」や、あろうことか弱武装を指摘されている「隼」にすら撃墜される機体すらあった。
更に、満州戦線には僅か60機しか配備されなかった未来日本空軍の戦闘攻撃機であるSFF−343「朱雀」が、大量の対レシプロ機用ミサイルを大量に抱えて日ソの航空機が入り乱れる空戦に参加したからたまらなかった。
西でドイツとの空戦を経験したパイロットもいたが、彼等にしてもその他を圧倒する性能を持った未来の戦闘機には敵わなかった。
ミサイルが「朱雀」の翼下のウェポンベイから発射されると、シューーッっという音と共に敵機に向かって進んでいき、敵機に命中した。
ミサイルが直撃した機体は、空中で木端微塵に爆砕し、バラバラと機体の小さな破片が未だ戦闘の続く満州の台地にまるで雪のように降り注いだ。
満州での戦闘一日目は、空戦においてソ連軍を圧倒し、ソ連が投入した2千機近い機体の内、凡そ8百機以上を撃墜破し、陸戦に置いても満州に侵攻してきた160万を超える兵力を国境線沿いの防衛線に釘付けにする事に成功し、早速ソ連軍の満州侵攻プランを狂わせる事に成功した。
更に、実際のソ連軍陸軍の被害も大きく、160万を超えた兵力はたった1日の戦闘で3万を超える兵士が戦死し、15万を超える兵士が戦闘不能な程の傷を負った。
戦車・自走砲合わせて7百両と、1500門を超える火砲を一発も砲弾を放つ事無く失った。
翌日の戦闘は、侵攻を開始した初日以上の激戦が、防衛線の各地で繰り広げられた。
「虎頭要塞」にはソ連軍46万が500両の戦車と300両の自走砲、1800門もの火砲が数を頼りに攻めよせて来た。
対する帝国軍は、「虎頭要塞」に籠城している第29軍配下の第66・76・82の3個師団と第31軍配下の第301師団の計4個師団10万2千人が籠城していた。
要塞内に設置された試製41cm榴弾砲や『扶桑』級戦艦の予備の砲身を流用して作られた45口径35.6cm砲、九〇式24cm列車加農砲に『最上』級重巡洋艦の改装前の主砲であった60口径15.5cm三連装砲を流用した砲等大小合計187門が、防御陣地内に巧みに偽装された戦車・砲戦車、未来日本軍より提供された対戦車ロケット弾を装備した対戦車兵等と共にソ連軍を迎え撃った。
「虎頭要塞」での戦いは熾烈を極めた。
ソ連軍は、その圧倒的な火力と兵力をもってしての攻略を目指した。
対する帝国軍は、長期持久による敵戦力の疲弊を狙っていた為、基本的に要塞や構築した対戦車陣地郡を出る事は無く、ひたすら火砲を放ち、機関銃・小銃を発射していた。
朝日が昇る前から始まった戦闘は、正午の時間帯に一番激しさを増した。
ソ連軍は、「虎頭要塞」の包囲網を僅か100m狭めるのに3千人の兵士を失い、戦車などの車両を20両以上失った。
正午前後にソ連軍の最前列に位置する部隊が、帝国の防御陣地の最前列に位置する陣地の目の前に到達した。
その瞬間に、熾烈な小銃・拳銃・銃剣・日本刀・ナイフ・手榴弾などの様々な武器を用いた白兵戦が始まった。
ソ連軍はその最前列の敵陣地を攻略して、「虎頭要塞」攻略の為の橋頭保にしようと物量差を生かして遮二無二攻めかかって来た。
対するは、当の陣地守備をする帝国陸軍兵士達である。
当時の日本軍は、扱う兵器こそ欧米の最新兵器に対して劣っているものの、それを操る兵士達の個々の技量・精神力は優っていると考えられていた(無論帝国軍幹部達の都合の良い考えではあるが…)
中でも有名だったのは、帝国陸軍兵士達のその白兵戦の強さであった。
陸軍の兵士達の大半が、白兵戦の技量に長け、個々の力で他国の兵士達を圧倒していた。
その白兵戦の強さが、この満州の地でも遺憾無く発揮された。
橋頭保を得ようと突撃してきたソ連軍兵士達に対して、無数の弾丸が四方八方から撃ち込まれ、ようやく辿りついた兵士達にも容赦なく手榴弾が投げ込まれた。
陣地内に侵入した兵士も、あっと言う間に日本刀・銃剣等を用いた帝国軍兵士達に討ち取られた。
さらに午後2時を回った頃には、満州内陸にあった航空基地を出撃した陸海軍の航空部隊が到着して、攻囲中のソ連軍の大部隊に対して銃爆撃を仕掛けて、かなりの損害を与えた。
結局、この日の両軍による「虎頭要塞」を巡る戦いはソ連軍が一部の防御陣地を陥落させるものの、航空機による空襲を受けて攻略は失敗した。
当初46万いた軍勢は、要塞内からの砲撃や航空機による銃爆撃によって37万にまで減少(3万人が戦士、6万人が戦傷)し、戦車・火砲の被害も大きい。
何よりソ連領から前線へ補給物資を輸送していた補給部隊が攻撃を受け、開戦2日目にして早くも食糧・弾薬に不安を覚えたのは何よりの痛手であった。
ソ連軍は、満州侵攻から早2日目にして参加航空機の凡そ6割を失い、火砲・戦車などの被害も鰻登りの損害を受けた。
兵士の方も、侵攻当初は160万を超えた人数は、2日目にして140万を割り込んでしまった。
しかも碌に帝国軍に損害を与える事さえ敵わずにである。
もっとも、後方にいる指揮官達はさして心配はしていなかった。
確かに航空機の大量損失は痛かったが、未だに強大な戦力を擁しているのだから心配はいらないと考えていたのである。
対する関東軍司令部にいた司令官の石原莞爾は、この2日間の戦闘をどう考えていたのであろうか?
まず石原は、開戦初期に徹底して敵航空戦力の撃滅に務めるように各部隊に命じた。
航空機の傘が無ければ、戦闘に多大な影響が出る事を知っていたのである。
また石原は、前線での戦いぶりから当初の満州内陸への退却しつつ敵を徐々に懐に引き入れて叩く戦略の変更を早速行い、後方にいた部隊の半数を前線部隊の支援に廻し、自身の司令部も奉天へ移動させた。
それと同時に、釜山・佐世保・舞鶴にいる連合艦隊の各艦隊に暗号を打ち、「例の」計画を発動するように命じた。
策士である石原の、命を掛けたソ連軍撃滅作戦が今、本格的に動き出した。
如何でしたでしょうか?
次話では、日本軍の猛攻の前にソ連軍が以外…でも無いですが…な戦法で、帝国軍に攻撃を仕掛けてきます。
次話をお楽しみに…
それでは。