何も悪くありません!(3)
先生からいろいろ言われたが、まずは噂の真偽を判断しなければどうしようもない。あの少女があの男子生徒に対して暴力をふるっているという噂。
担任の先生は見たところ、それをあんまり本気にしているようには感じなかった。そもそも常識的な思考では女子が男子を殴るというのは考えにくいだろう。逆ならそれなりにあり得そうな話だが。ただ、そのことを仮に他人から突っ込まれた場合、体面が悪いからそれが真実ではないことを明らかにしておこうかな、くらいの軽い思いのように感じた。
だが、私はその噂は真実、ないしそれに近いものなのではないかとほぼ確信している。
ここ数日、彼女と頻繁に放課後を共にした。その中で見えたもの。それは、その噂を彼女が実現するには十分なものがあるように見えた。
とはいえ、証拠がなければどうしようもあるまい。まずは何かしらの証拠を得るか、もしくは――。
――――あとは言わなくてもわかるだろう?
しーちゃんとは別れ、独り、帰路へ着く。
というのはうわべだけだ。
みんなの姿が見えなくなった後、すぐさま回れ右をして少女の後をつける。気づかれないように。バレしまっては意味がない。それでは、隠された一面は露出しない。
今は最近のトレンド通りに、しーちゃんとあの二人とぶらぶらした後のことだ。まるで何もないかのような笑顔でみんなと別れを告げた後、あの少女が、あの少年が。その真相を確かめるために、それが事実であることを確認するために私は動いている。
さて、どうか。
ひっそりと彼女らの後をつける。少女と少年はともに行動している。それはいつものように少女が少年を引っ張っていく光景で。それは遠目に見るとただの仲のいい友達、もしかすると男女の仲のようにも見えるかもしれない。
何も知らなければ。
彼女らは周りに気を配るでもなく。ただ無造作にゆっくりと歩く。風に乗って、話し声もわずかに聞こえてくる。
その会話は何の益体もない、いや、それどころかその会話は成り立ってすらいない。だが、それすらもいつも通り。少女が独りでしゃべり続け、男子生徒がひたすら卑屈に呟き続ける。明らかにおかしいのに、なぜかおかしく感じない光景。
もしかしたら、それすらも認識を歪まされているだけかもしれない。度重なる彼女らとの邂逅で、無意識のうちにそうさせているだけかもしれない。人間の意識など容易く歪むものだ。ほんの少し、なにかの事件が起こるだけで。それすらもなしに、日常の何気ない一コマで。ヒトは、“異常”を“普通”に容易く変える。
何にせよ、そんなことはどうでもいいだろう。本当に相手が「腐敗」であった場合、それを考えることに意味は無い。相手は蘇生すらもしてくる奴だ。何をしようが不思議ではないだろう。
ちなみに、「腐敗」ではなかった場合はそれが完全な杞憂となるだけだ。
「腐敗」かどうかはわからない。しかし、噂は確実だ。ならば、揺るがぬ証拠をつかんで、やるべきことをやるだけだ。
そんな私の覚悟も虚しく、本日の彼女らは何をするでもなく、それぞれの帰路についた。本当に何もなく。
尾行に気づかれたか?
その可能性もある。まだしばらくは様子見かもしれない。続きはまた明日、することとしよう。
それから数日、私は放課後の尾行をつづけた。それはしーちゃんと一緒に遊びに行った時だけではなく、直接家に帰る時も同様である。しーちゃんはいつも放課後暇というわけではなく、最近は時々用事ができるようだが、このタイミングではちょうどいい。
さて、本日も仕事だ、仕事。
いつも通り、彼女らの後をつける。
正直、今日もあんまり期待はしていなかった。いつものように帰路について、いつものように別れて、何事もなく終わると思っていた。いつかは尻尾を出すとは思っていたが、まだ当分先だろうと、噂を確信していたにもかかわらず、そんな甘い考えをしていた。
ああ、なんて甘い考えだろうか。
その日はいつもと違った。
いつも通り別れて、それぞれの帰路につくまでは何も変わらない。だが、今日は少女はいつもの道に行かなかった。
どこに行くつもりだろうか。
いつもと違う挙動に、少しだけ驚く。しかし、私のやることは変わらない。いつもと違う行動を起こしたというならば、それは何らかの新たな情報が得られる。それが確かな証拠になるかどうかまでは、見てみないことにはわからないけれども。
仮に振り返られても気づかれにくいように、たびたび上着を羽織ったり、帽子を被ったりする。歩き方も少しずつ変える。それだけで意外と気づかれないものだ。念のため足音も紛れるように、時々変える。
さあ、彼女は一体どこに向かっているのか。
集中して尾行していると、いつの間にか辺りの景色が見覚えのあるものになっていた。
ある程度どこに行くのか、その予測はついてきた。
そして辿り着いたそこは――。
「学校まで、何しに来てるのー?」
「……なっ!?」
目の前には、私が尾行していたはずの少女がいた。
「ま、でも真夜中の学校ってなんか、こう、ドキドキするよね!うんうん!」
私が返事をする前に、一人腕組をして何かを納得したかのようにうなずいている。
いったい何を考えているのだろうか。やはり、尾行に気づかれていたのだろうか?
「うーん、じゃあ、一緒に行く?一人で学校探索するよりも、皆で行った方が楽しいもんね!じゃあ、コレ、貸すね?」
そう言って差し出されたものは、小さめの懐中電灯。電源をつけてみると結構明るく、光源としては申し分ない。
彼女の様子に、尾行に気づいていたかのような不信感は微塵もない。それどころか、彼女の接し方はとても好意的だ。
彼女の考えていることが分からない。何をしにここに来た?私に本当に気付いていなかったのか?彼女は「腐敗」なのだろうか。彼女の正体は一体――。
「肝試し、すたーと!」
様々な思考が頭に渦巻く中、彼女は高らかにそう宣言し、夜の学校に入っていった。
・・・・
初めてここに来た日以来、夜の学校に来るのは久しぶりのことだ。その理由は単純なことで、来る理由がなかったからだ。
いつだったか、夕方に誰かを殺した覚えがあるが、その時も適当に処理した後はさっさと帰ったので、夜の学校はあんまり見ていない。だから、やっぱりこの時間のこの場所はとても特別に感じる。
少女の後につきながら、じっくりと彼女を観察する。
目の前に見えるのは、どこまでも無防備な小さな背中。その姿には、こちらを警戒しているような雰囲気は感じられない。
こちらを舐めているのか、それとも何も知らないだけか。
私が考え過ぎなのだろうか。
確かにあの引きこもりを殺して、その最期の言葉を聞いてから、「腐敗」のことを少し気になりすぎている感じはある。私を誰がここに連れてきたのか、そしてその目的は。あまり気にしていなかったそれらの事項が、最近はなぜか私の心に引っ掛かる。
まあ、いいか。今見るべきは目の前で歩いている少女。
「なんだかワクワクして来たねー」
唐突に少女が話しかけてきた。
「そうですかねー?別に普通じゃないですかー?」
というより、私は目の前のやつを警戒していて、自分の中では緊張感の方が勝っている。今この状況を楽しむ余裕がないわけではないが、それよりも少女の正体に対する未知が、私を襲っている。
人間は未知な事柄に強い好奇心を抱くと同時に、それを最も恐れるものである。
「えー、そんなはずはないでしょ?だってこんなにも楽しいのに」
「それは貴女だけじゃないですかねー?」
そんな軽口をたたきながらも、校舎に向かって歩く。
「貴女は何しに夜の学校に来たんですかねー?特に用事もなかったらこんな時間に来ないと思うのですけどー?忘れ物でもしたんですかー?」
特になんの気なしに尋ねてみる。
「それ、聞いちゃう?えっとね、じゃあ、あんたはなんで来たんだと思うかな?どう?なんでだと思う?」
逆に聞き返された。
「そうですねー、先ほども言った感じで、明日の授業の忘れ物でもしたんじゃないですかね?」
無難なところを突いてみる。この辺りであれば別に藪蛇をつつくまい。
「ぶっぶー!残念!答えはねー?学校の七不思議を見に来たんだよー。今日の昼休みにね、そんな話聞いたんだー。面白そうでしょー?」
なんだそれは。マジの肝試しではないか。
「あー、そうなんですかー」
七不思議にはそんなに興味もわかないな。
「でも、それなら校舎に入るつもりなんですよね?どうやって入るんですかー?」
「えー?そんなの簡単だよ?……ちょっと待ってねー?」
少女は適当な窓までたどり着くと、そこで立ち止まり、カバンの中を探り始めた。
「え……まさかですけどー……」
嫌な予感がする。本当にまさかとは思うのだが……。
「じゃあ、行くよー。せーのっ!」
せーのも何も、やってるのは彼女一人なのだけど。そんなことを思う暇もなく。
盛大にガラスが割れるとともに、警報が鳴り始めた。当然のことである。学校で、しかも夜となると人も少なくなるので、警備システムもしっかりとなされるだろう。窓を割れば警報なり何かしらの連絡なりが伝わるようなシステムが作動するのは必然である。
「え、えー!ど、どうしよう!?なんか鳴っちゃった!?どど、どうすれば……!?」
鳴り響く警報に狼狽する少女。
「とりあえず逃げましょうかー」
割った瞬間からこうなることは半分くらい予測済みなので、落ち着いてそう提案する。というよりなんだこいつは。本当に何がしたいんだ。
「そ、そうすべきなのかな!?じゃあ、とりあえず逃げようか!?」
初めて話が通じた気がする。ちょっと感動。そんなことを密かに思っていたら。
「じゃあ、あんたも早くこっちに来なよー!」
いつの間にやら、少女は校舎に入り込んでいた。
「え……?」
ふつう逃げると言ったら、校舎の外ではないだろうか、どちらかというと。なぜわざわざ中に入り込んでいるのだろうか。
「もう、置いてくから!早く来てよ!」
そんなことを言いながら、廊下の闇に消えゆくその姿。唖然としていた私は、その姿が完全に消える前に我に返った。
「あ、ちょっと……!」
私は急いで窓を飛び越え、彼女の後を追いかけた。
「チッ……!」
あいつは一体どこに行ったのだろうか。あまりに見つからなくて、思わず舌打ちが出る。
ここに来たのがかなり遅めであったにしろ、時刻はもうすぐで午前零時を回りそうだ。ということは、かれこれ1、2時間は探し回っている。
こんなに探し回っても見つからないのは流石におかしい。そう思って、私たちが入り込んだ窓の方もたびたび見ているのだが、入り込んだ形跡は残っているものの、出ていった痕跡はいまだ見えない。
つまり、彼女はまだ中にいるということで間違いはないのだ。
あの少女の謎の隠密能力の高さは一体どこから湧いて出てくるのか。一応、一通り見て回っているため、恐らく動き回っているのだろうが、どこかで鉢合わせしても全くおかしくはない。
実を言うと、全然見つけられていないわけではないのだ。
たまに、少女のものらしき人影が目に映る。つい数分前にも、黒い小さめの影が廊下の先に見えた。その影は旧校舎の方へ向かった気がしたため、今私は旧校舎に足を延ばしているわけなのだが。
「……全然見つからないですねー」
今度はそんな言葉が思わず口を突いて出る。
口に出したところで大した意味もなさない言葉の羅列が、真っ暗な校舎に反響する。今夜は月もなく、あの少女から受け取ったこの懐中電灯の明かりだけが頼りだが、そこから延びる光もどこか心許ない。
私は自分で言うのなんだが、夜目が効く方である。とはいえ、明かりが全くないところで何かが見えようはずもない。この懐中電灯は自分で用意したものでもないため、電池の方の心配もある。できればさっさと見つけてしまいたいところではあるのだが。
足音を潜ませて、昼とはすっかり様子を変えた廊下を歩く。
この時間帯にいるかどうかはわからないが、校舎巡回などをこなす日直の教師がいるかもしれない。実際教師の仕事内容など調べたことはないが、ドラマなんかではよく聞くことだ。実際どうかは知らないけれども、辺りを警戒して、息をひそめて歩くに越したことはない。
さて、あの少女はどこに行ったのか。この校舎のどこかにいると思うのだが。
垣間見える黒い影を追い求めて、ひっそりと歩く。せっかくいつもと違う行動をしたのだ。日常から逸脱した行動は、心の隙になり得る。この今日の行動が、もしかしたら彼女の尻尾を掴む手掛かりになり得るかもしれない。
なんの気なしに歩き、角を曲がった先で。人影が見えた。
そこにあるものは、階段だった。
この校舎で唯一つ、四階に続く階段。
もちろん下階にもつながっているが、きっと彼女は上に行くだろう。あの少女はそういう奴だ。私があの少女のことをよくわかっているとは言い難いが、彼女は初めに言っていたではないか。「七不思議を見に行く」と。
ならば、この上階にある教室は七不思議にもってこいだ。
見つけた。
やっと追いついた彼女の背中を追いつつ、私はいつかの言葉を思い出していた。
――依頼はしっかり遂行することよ。
階段を昇った先に鎮座するは、他の教室よりも一回り大きな扉。具体的な構造は知らないが、きっと防音などの処理が施された扉の向こうにある教室は、音楽室だった。
扉を開く。その先には。
「遅い!」
開扉早々怒っているような声が私の耳に届く。
「これでも急いできたんですよー。でも暗い廊下は歩きづらいのなんのって感じでですねー。追いつくのに時間がかかってしまいましたよー」
笑顔を浮かべながら、なだめるように答える。
「もう!なんかビービー鳴るし、うるさいし!七不思議も特にないし!あーもう、つまんないつまんない!なんで!?あーもーー!!」
それでも少女は、なぜか怒っている様子だ。私としては、数時間前まで上機嫌だったのに、なゼ少女がそんなに怒っているのかがよくわからないため、できることと言えば、いきなりのことにただ困惑しながら薄目で彼女を観察することくらいである。
しかし、先ほどまで上機嫌だったくせに、なにか気に入らないようなことがあるとすぐにへそを曲げる少女の姿は、小さな子供のそのものである。
これは演技なのだろうか。だが、どうにもそれにしても意味が分からない。ここまで来てそんな頭の悪そうなキャラを演じることに何の意味があるのか。だが、「腐敗」自体、元から意図の分からないことばかりしてくるため、私にはわからない理由があるだけなのかもしれないが。
もしくは本当に怒っているのか。それはそれでなにゆえなのか。
何にせよ、ただボケっと突っ立っているだけでは、ひたすらにわめいて、うめく少女をどうにもできないため、とりあえず何か引き出そうと口を開きかける。
「えー、なんでそこまで怒って……」
「あんたのせいだ!そうだ、あんたのせいでうまくいかないんだ!」
しかし、言葉を遮られたうえ、なぜか何かを私のせいにされてしまった。
彼女はそのまま言葉を続ける。
「学校に入るのもうるさいし、七不思議もなかったし、こんなにいらいらするし!全部あんたが一緒にいたからだ!あーもう!そんなうざいんだったら関わらなければよかった!悪いことしかしないんだったらさっさと消せばよかったんだ!」
そこで、彼女は言葉を区切った。それと同時に、なにか、いいことでも思いついたかのように、口元をにっこりと歪ませた。
「……そうだ、消せばいいんだ。全部全部ぜーんぶ!邪魔なもの全部目の前から消しちゃって!面白いものだけを残せばいいんだ!」
その笑顔はひたすらに純真無垢で。そこに悪意などは微塵もなくて、ただ少し、本当に素晴らしいことでもひらめいたかのような眩しい表情で。
色々釈然としないし、急なことで思考はあまり追いつけていないが。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。
彼女のその言葉に、その笑顔に、私はあの噂はやっぱり正しかったと確信を改めて得ると同時に、私のやるべきことを再確認した。
「依頼」を遂行すること。ただそれだけだ。
暗闇の音楽室の中で、少女がこちらをゆらりと、覗く。
「ねぇ、消えて?」
やはりこの少女は、ただの狂気の塊だ。
・・・・
ヒュッと風を切る音が聞こえたかと思うと、目の前を何かが横切った。
「あぶなっ……!」
とっさに頭を後ろに引いたおかげで、紙一重でそれを避けられたものの、この暗闇のせいでそれが何であるかがよく見えない。
懐中電灯はまだ手に持っているが、それを照らしてその物体を確認している暇はない。彼女は躊躇なくこちらに踏み込んでくる。
「なんで避けるのかな?なんでなんでなんでなんでなんでなんで?邪魔なものは邪魔じゃない?ねえ、あんたもそう思うよね?だから消えてよ、ねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえ……!」
少女の動きは、目には映っているのに、なぜか私には“視えて”いない。それはまるで私の認識の隙間を掻い潜るかのように。無意識を縫って繰り出される攻撃は意外と厄介だ。
それがどれだけ稚拙に振り回されたものだとしても。
「これがある意味天才ってやつですかねー……!」
ひたすらに振り回される何かを、ぎりぎりで避けながらぼやく。
そうだ、仮に「腐敗」もしくはそれに類する存在でないとすると、目の前にいる彼女は確かにある意味天才だ。最近少し日和気味だったとはいえ、殺し屋たる私の意識から目の前ではずれ、接近する。尾行していた私の存在に気付いて声をかける。どれも普通ではない。一度なら偶然かもしれない。だがこいつは。
目の前で何度も少女の姿を見失いかける。
もしも彼女が殺し屋だったら。彼女は誰よりも簡単に目標を殺せるだろう。
「まあ、ただの仮定の話ですけどね……っ!」
再度振るわれた彼女の攻撃に対し、今度は退くのではなく、前に出てそれを受け止める。それと同時に残った腕で私は、その顔を思いきり殴り飛ばした。
やはり、経験の差が出てくる。
殴られた少女は、その箇所を抑えながら、ただふらふらと立ちすくんでいる。
そして。
「ううぅーー……痛い……痛い………痛いよ……………痛いの……?痛い……?痛いね……?痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、痛い……!!い、あ、あ、ああぁぁぁぁぁあああぁあぁあぁぁぁぁぁああ!!!!」
唐突に彼女は叫び始めた。
「……情緒不安定ですねー」
しかし、それでも私は取り乱したりはしない。優秀な殺し屋はただ淡々と、己がすべきことのみを見据えて、その刃を突き付けるだけだ。
真っ暗だった教室に、ほのかな月の明かりが差した。
少女が持っていたのは、少し大きめの金槌。窓を割る時にも使っていた奴だ。持ち運ぶには多少の不便はあるが、殺傷力は十分すぎるほどだろう。むしろ過剰であるといってもいい。
女子の細腕で持つには、少々重いような気もするが、彼女はそれを難なく片手でブンブン振り回している。アレに当たれば間違いなくケガでは済まされない。
だが。
「人を殺すのに、そんなごつい金槌なんて必要ないんですよねー」
未だ手に持っていた懐中電灯を投げつける。それは弧を描いて少女の顔まで飛んでいき。彼女の視線がそれる。少女の腕が大きく横薙ぎに振り回され、懐中電灯を弾き飛ばす。
無駄が多い。
彼女の腕は自らの視界をつぶす。注意は私から投げつけられた懐中電灯に移る。しかし、それらは私にとってはただの隙だ。思いきり身をかがませ、地を這うように。闇に紛れ。少女のすぐそばまで漸近し。同時に懐から一本のナイフを取り出し。
そして、そのナイフを持った右手を振りかざし。
そこで気づいた。
先ほど横に振った腕が、今度は逆に返ってきている。こいつはそのまま手に持った金槌で私の頭をかち割る気なのだろう。
少女が嗤う。どこまでも無垢に。ひたすらに純真に。
「じゃあね、バイバイ」
「……ッ!」
ここで死ぬことに未練はない。だが、依頼をこなさずに果てるのは御免だ。死んでもその首はもらう。
目と目が合う。視線が交差する。
ちょうどその時。
ゴーン。
どこからか、小さく鐘の鳴る音がした。それは0時を知らせる音色。
それがきっかけだったのかどうか。
私と合わせていた目が、突然虚ろを見た。
「あれ、何したかったんだっけ……?」
そんな言葉を残し、その身体は固まり。
銀色の刃が、その柔らかな首を撫で、鮮血が宙を舞った。
・・・・
――どこからか、鐘の音の余韻が聞こえる気がする。
――なんだか、とても面白いことをしていたような、そうでもないような。
――何でここにいるんだっけ?ていうかここ、どこだっけ?
――全部、忘れてしまった。
――首が、熱い。
――痛い。
――なんでかな?何かの罰なのかな?
――罰だというなら、なにか、悪いことしちゃったのかな?
――何でだろう?邪魔な人を突き飛ばしてる自分を思い描いたのは。
――何でだろう?気に入らない人を殴ってる自分を思い出したのは。
――もしかして、アレは悪いことだったのかな?
――分からない解らない判らない。
――わからない。だって。
――何にも、覚えていないから。