君が忘れてしまっても
【望まぬ出会い】
私の人生は数々の不運に彩られてきた。
生まれは分からず孤児院育ち。道を歩いて出会すのは鳥のフン、犬のフンあと泥水。
商店街の福引は毎回ティッシュで、大抵次に回した人が一等を出す。
電車の遅延は朝飯前、時によっては車さえ止まる。
何故か怪我をする様なことは無いが、地味な不幸の数々。
一つ一つ上げていけばキリがない。
……しかし、私の人生は不運であっても決して不幸ではなかった。
孤児院の先生と仲間たちは私の家族だ。世間一般の家族とは呼べなくとも、彼等がいる所が私の帰る所なのだ。
学校に通う歳になってからは友人も出来た。私の生い立ちを色眼鏡で見ない得がたい友人達だ。
かくして私の人生は幸せと呼ぶに値するものだったのだ。
閑話休題
そう、私は不運だ。
……だからと言ってこれは無いだろう。
目の前をゆっくり歩いていく男。
校内にも関わらず革靴を履いて黒装束に身を包む姿、血のように紅い唇から零れる真珠色の八重歯、そして黒々とした闇を湛えるがらんどうの眼孔は異様の一言に尽きる。
整っていると言えなくもない青白い顔を苛立ちに歪める男に気付かれないように、掃除用具箱の中で必死に息を殺す。
男は目が見えている筈もないのに、教室の中を見渡し人が隠れられそうな箇所を探していく。
不味い、直にこの用具箱も開けられてしまうだろう。
しかし、絶妙なバランスで収まっている用具箱の中は少し身動ぎしただけでも崩れてしまうような危うさがある。
打開策を考えている間にも硬質な足音は此方へ向かってくる。
どんどん早くなる鼓動が五月蝿くて聞こえてしまいそうで余計に焦り、手のひらにじっとりと汗をかいているのを感じる。
そして、ついに足音が止まった。
断末魔のような音を立てながら扉がゆっくりと開かれた。
射し込んできた光を遮るように男の顔が入ってくる。
死人のような顔からは想像出来ない生温い息が鼻先に当たる。
狭い用具箱を覗いて一言、
「……酷い臭いだ」
そう呟いて男は教室を出ていった。
痛いほどに脈打つ心臓が今更に自分は恐怖を感じていたのだと告げる。
足音が遠く離れたことを確認して、そろそろと掃除用具箱から出る。
何故かは分からないが幸運にも私は逃げられたらしい……いや、そもそもこんな事に巻き込まれている時点で不運なのか。
息を整えながらどうしてこんな事になったのかと事の始まりに思いを馳せる。
至って平凡な朝だった。
いつも通りにバグを起こして鳴らないアラームに頼らず起床、みんなで朝食を摂る。降ってくる鳥のフンとばらまかれている犬のフンを回避しながら登校。
友人____七海と挨拶を交わしながらホームルームの始まりを待つ朝。
「先生遅いね」
「それな〜八時半過ぎてるよね」
「今日って職員会議の日だっけ?」
何時もなら始業の鐘より早く教室にいる担任が八時四十分を過ぎても来ない。
「何かあったのかな?」
「何かって?」
「ほら、最近の……」
「……あぁ」
おそらく彼女が言いたいのは最近起きている連続誘拐事件のことだろう。
一番最近はここから二駅離れた街の高校生が、先月は隣の市の中学生。その前は……どこだったか。
今年に入ってから相次いで誘拐事件が起きている。攫われたのはほとんどが中高生で一度に複数人攫われることもあり、被害者は既に莫大な数になっている。
犯人から身代金の要求などもなく、それこそ神隠しのように人が消えてしまうらしい。
警察も躍起になって犯人を探しているが、まだ有効な手がかりは見つかっていないようだ。
だから最近は少しでも不審者情報などがあると職員会議が開かれ、早退の指示が出ることが増えた。
「確かに最近の事件、結構近いところで起きてるよね……」
「ほんと、塾の帰りとか怖すぎて毎回親呼んでるもん」
七海と喋っていると、突然校内放送の前触れのチャイムが鳴った。
『…ジッ……ジジジッ…ジジッ…』
「うわ、何怖っ」
スピーカーから流れてきたのはテレビの砂嵐の様な途切れ途切れの不気味なノイズ。
放送の内容は聞き取れそうにない。
何だろう、嫌な感じだ。
例えるならそう、嵐の前の静けさの様な…
『…え…すか……こ…送…聞こ……職……さ…』
だんだん音声がクリアになってくる。
しかし、この放送は誰が掛けているのだろう。放送を流すのは大抵、副校長なのだがどう聞いてもこれは彼の声ではない。
清らかさの中に艶を含んだうっとりするほど美しい女性の声。
ずっと聞いていたくなるような、呼ばれているような不思議な声。
『聞こえますか、この放送が聞こえた人は職員室まで来て下さい』
ようやく明確に聞き取ることが出来たが、その内容に首を傾げる。
「……この放送、変じゃない?」
そう七海に問いかけて返事が来ないことを不審に思って見て、愕然とした。
いつも表情豊かな彼女が全くの無表情でぼんやりと座っている。
「ちょ、どうしたの!?」
声を掛けても肩を揺すっても反応がない。
ふと、あまりにも教室が静かすぎやしないかと教室を見回すと、クラスメイトはみな彼女と同じように虚空を見つめてぼんやりとしていた。
「何、これ……」
時計は八時四十五分を示し、始業の鐘が鳴っている。
異様な教室に対して、あまりにもいつも通り過ぎたそれは却って不気味さを感じさせた。
一限目の数学の教師が来る気配はなく、時計の長針が十二を示した辺りで腹を決めて廊下へ出る。
外を走る車の排気音が聞こえるような静寂の中、私の足音だけがパタパタと鳴る。
隣のクラスも、そのまた隣のクラスも同じだった。
私の他に動いている人は居ないのだろうか。
……いや、少なくとも放送をかけた人物がいるはずだ。
確か放送では職員室に行け、と言っていた。
他に行く宛もない。
私は一階の職員室へ向かった。
職員室も教室とほとんど変わらず生徒の代わりに魂の抜けたような先生達が居るのみだった。
内接する放送室への扉を開こうとした時、腕を強く引かれてたたらを踏む。
「ッ……!?」
驚いて振り返ると何のことは無い、袖口が壁から飛び出た釘に引っかかって引っ張られていただけだった。
外そうと腕を振っても繊維に引っかかってしまったのかなかなか取れない。
制服の袖口を裂くのは嫌なので、膝を着いてゆっくり取り掛かる。
突如、けたたましい音を立てて放送室の扉が開かれる。
「……何だ、誰もいないのか。期待外れだな」
扉を開けたのであろう人物は低い声でぽつりと零した。
私が居る位置は扉の影に当たるので、声の主からは死角になって私がいることに気付いていないようだ。
声をかけようとした時、ふとこれは誰の声なのかと疑問を持った。
結果として、一瞬の逡巡が明暗を分けた。
「また適当に何人か連れて行って終わりか……最近のニンゲンはハズレばかりだ。そうは思わんか?」
「そうね……何十年か前までは鋭いニンゲンも多少居たのだけれど、最近はほとんど見ないわ……」
退屈そうな男の声に応えたのはあの放送の主だった。
穏やかな声とは裏腹な会話の内容に、私の脳内では警報が鳴り響いていた。
「この前のは特に酷かったな、わざわざ姿まで見せてやったというのに泣き喚くばかりだった……あれでは眷属どころか家畜にもならん、せいぜい餌だな」
「魂も貧弱で、すぐに死んでしまいそう」
「まぁ、ろくに抵抗も出来ない連中なら仕方がないか……」
こいつらは何を言っているのか。
頭が理解することを拒否している。
「俺は適当なやつを見繕ってくる。お前は放送を続けろ」
「えぇ、分かったわ…あんまり長引かせないで、番犬が来てしまったら面倒だわ」
「もちろんだ、何人欲しい?」
「一人で結構よ、でも女にして欲しいわ……最近、男ばかりで飽きてしまったの。塩辛いものを食べた後は甘いものが食べたくなるでしょ?」
人を食物かなにかのように扱う会話に目眩を感じる。
何とかしてこの異常な空間から離れたかったが、相変わらず扉越しに男がいる以上私に出来ることは気付かれないように静かに隠れ続けることだけだった。
会話を終え、放送が再開されるのを聞いた男は優雅に職員室を後にした。
黒に包まれたその後ろ姿は吸血鬼か死神のようだった。
その背中が見えなくなるまで待ってから私も職員室を出る。
これからどうしたら良いのか分からない。
けれど、奴らに見つかってはいけないということだけは分かっていた。
助けを、呼ぼう。
その考えは天啓のように降ってきた。
電話するなり直接呼びに行くなりして助けを呼べば良いのだ。
職員室は校舎の奥に位置しているから教室を経由して昇降口に向かえばいい。
そうと決まれば行動は早かった。
リノリウムの階段を二つ登って、右に曲がって四つ目、そこが私のクラス。
怖いくらい静かな教室で自分の荷物を回収して一息着いていると、聞こえる筈のない硬質な足音が廊下から迫ってきた。
咄嗟に席に着いてクラスメイト達に紛れ込むようにぼんやりとした表情を浮かべる。
この足音の主は誰だ。
私の他に動いている人がいるのか、それとも……
あぁ、昔から知っていたことだ。
私の予想が当たるのは絶対悪いことに関してだけだって。
教室の扉をガラガラと開いたのは、職員室で見た男だった。
男は品定めをするように教室内を歩き回り、ついに私の真横で動きを止めた。
心臓が、五月蝿い。
バレたのか?それとも偶然?
背中に冷たい汗が流れる。
得体の知れない男への不安と恐怖が一気に膨れ上がる。
男が真っ白な指で掴んだのは……隣の席の七海の顔だった。
「ふむ……まぁこいつで良いか。他の連中に比べれば多少は美味そうだ」
その瞬間、恐怖を感じなくなる程の怒りを覚えた。
こいつは何様なのだ。
何の権利があって私の友人を、表情豊かで誰よりも優しい七海を、孤児院出身と言っても変わらない笑顔を浮かべてくれた彼女を、畜生のように扱うのか。
無意識だった。
七海を連れて行こうとしていた男の背に思い切り体当たりをしていた。
「七海に触らないでっ!!」
細い身体が飛ばされ、整頓されていた机の列を乱す。
「うぐっ……お前、動けるのか!?」
荒い呼吸の中必死に睨みつけた男の顔は驚愕と歓喜に染まっていた。
「とんだ上物がいるではないか、何年ぶりだろうなぁ完全に抵抗出来た奴は!!」
男は七海への興味を失ったようでがらんどうの眼孔を此方へと向け、真紅の唇を釣り上げて笑う。
「お前は食べるのではなく眷属にしようか……どうだ、永遠の命が欲しくはないか?ずっと今の若さと美しさを保つことが出来るぞ?」
「何、言ってるの……?」
「矮小なニンゲンに教えてやろう。俺は吸血鬼、永遠を生きる夜の住人。……さぁ選べ、従うか食われるか!」
「私は…あんたに従う気も食べられる気もない!あんたは泥水でも啜ってろ!!」
そう言い放って脱兎のごとく駆けだした。
背後からは男____吸血鬼の怒声が聞こえる。
こうして、命がけの鬼ごっこが始まったのだ。
思い返してみるとまるで現状が漫画や映画のようで、しかしどうしようもなくそれが現実であることを知っているから、思わずため息がでた。
助けを呼ぼうにもスマホは何故か圏外で、今は男から逃げながら昇降口を目指す他ない状況だ。
しかし、いつまでこれを続ければ良いのか。
永遠にあの男から逃げ続けるのは不可能だ。
かといって待っていた所で助けは来るのか?
もし学校の外も同じように魂の抜けたような人々しか居なかったら…
私は、どうすればいい?
自問自答しても答えは出ず、不安が募るばかりで何の役にも立たない。
重たい足を引きずりながらノロノロと歩く。
ようやく昇降口までもう少し、という所まで来た時、突然後ろから口を塞がれ引き倒される。
「っ!?むー!!うむー!!」
死にものぐるいで暴れ、何とか手を剥がすことに成功する。
「いきなり何すっ」
「黙れ、良いというまで動くな」
振り返って抗議しようとした瞬間、喉を掴まれ床に身体を押し付けられる。
仰向けになった自分に馬乗りになっていたのは、自分と同じ____いや、自分より幼いくらいの子供だった。
「お前何だ?悪魔……にしては随分脆い、かといって下級吸血鬼特有の牙も爪もない……しかしただの人間が半人半鳥の歌を聴きながら正気でいられるか……?」
白磁の肌、黄金を紡いだ髪、大空を思わせる透き通った蒼の瞳。
神に愛されたとしか思えない美貌は宗教画の天使のようで、でも考え込むように言葉を零す姿は年老いた学者のようでまるで噛み合っていない。
「…あぁ、お前憑かれてる人間か、しかも自我が残ってる……珍しいな」
ぱっと手を離されて急に呼吸が楽になって咳き込む。
「手荒にして済まなかった」
反省しているのかいないのか分からないような簡素な謝罪に苛立つが、それより自分以外に動いている人間がいることに安堵した。
「ゴホッ……あなた、誰?どこから来たの?」
「それは……」
「見つけた、よくも俺に要らん手間をとらせたな。……お前は屍鬼にしてやろう。自我も尊厳もない俺の可愛い下僕だ、素晴らしいだろ?」
底冷えするような低い声が響く。
何時の間にか男がすぐ近くまで来ていた。
唇は弧を描いているが、その実全く愉快だと思っていないことがありありと分かる顔だった。
「ん、一人増えたのか?……ふむ、今回はつくづく運が良い。決めた、お前はあいつにくれてやろう、それで金色の方は俺の物だ」
そう言って満足気に笑う男はもう既に私達を手に入れたかのような口ぶりだ。
「……ねぇ、あなただけなら逃げられるかもしれないわ。あいつが喋ってるうちに早く逃げて!」
この子がどこから来たかは結局分からなかったけれど、この子は私と会わなければ男に見つかることも無かったかもしれない。
ならばせめて、せめてこの子だけでも逃がさなくては。
そう思って話しかけると、一瞬きょとんとした顔をして、その後可笑しくて堪らないといったふうに笑いだした。
「な、何がおかしいの!早く逃げて、じゃないと……」
「いやはやまぁまぁ……長生きはするものだな、こんな……こんな状況でも他人を守ろうとするお人好しに会えるとは……いやぁ笑った」
「どうした、余りの恐怖に気でも触れたか?」
気付けば男は眼前まで迫っていた。
「ふむ、自己紹介が遅れたな」
「何言って……」
私を背後に庇うような配置で男の前に立ち塞がる小さな背中。
「『境界の守護者』討伐部隊所属、レリック・グリード……お前ら風に言うなら猟犬だな。あぁ、覚えなくていいぞ。お前らに名を呼ばれても不愉快なだけだ」
そう言って不敵に笑う子供____レリック・グリードに私は目を奪われた。
「さぁ、起きろ【強欲】、仕事の時間だ!」
小さな手を覆っていた黒い手袋の下から紺碧の紋様が現れる。
「捕らえろ」
あっという間だった。
突然現れた大きな腕が男を捕らえ、恐ろしいほどの力で締め上げる。
腕は紋様と同じ紺碧で炎のように常に揺らめいていて、しかし確かな質量を持ってそこにあった。
「ぐあっ……き、貴様が……あの忌々しい猟犬だと!?どうしてここを嗅ぎつけた!」
「ウチの諜報部隊は優秀でね……中級吸血鬼になったばかり、といった所か。さて、今までに攫った人間は何処にやった?食ったのか、まだ生きてるのか」
淡々とした問いに男は嘲笑で返す。
「はっ……そんなもの全て食ったに決まっているだろう。本当は眷属が欲しかったんだがなぁ……つまらんニンゲンばかりだった」
男への嫌悪と恐怖がさらに募る。
本当に……こいつは人間を何だと思っているのだろうか。
「……そうか、予想通りの畜生で安心した。これで心置き無くお前を殺せる」
紺碧の腕の拘束が強まり、男は身動ぎは愚か声すら出せないようだった。
何時の間にか紋様のある手にはほっそりとした銀色のナイフが握られていた。
「眠れ怪物、永遠に」
それはなんの躊躇いもなく振り下ろされ、寸分違わず男の胸を貫いた。
「………!!!」
「ヒッ……」
男の身体が拘束を逃れんと藻掻く。
不思議と血は流れず、声にならない叫びを上げ続ける男もその胸から生えている銀色もまるで夢を見ているようで現実味が無かった。
大きく身体を震わせたのを最後に、男は灰となって空気に溶けるように消えていった。
「死んだ、の……?」
「アレは元々死んでいる。在るべき姿に戻っただけだ」
思わず零れた言葉への返答に、結局分からなかった質問を思い出した。
「結局……あなたは何なの?」
「先刻も言ったが、境界の守護者討伐部隊所属レリック・グリード。それ以上でもそれ以下でもない。簡単に言うなら何だ…退魔師、ヴァチカンの奇跡狩り……ニホンなら陰陽師、か。まぁ要するに『境界の守護者』ってのは『この世』と『それ以外』の間の境界を護る組織だ。先刻の男は大体百歳位の吸血鬼で、最近起きてる誘拐事件の犯人でもあるから討伐要請がウチに来たんだよ」
分かったか?
とばかりに首を傾げられても、すんなりあぁそうですかと受け入れられるほど幸せな頭をしていない。
「何、それ……そんな非現実的なことありえない……」
「非現実的だろうと何だろうとお前の見た物は変わらないし信じたくないなら信じなくても良い。……が、無知と弱さは罪だ。死に際に後悔するなよ」
理解の範疇を超えた出来事の連続で、私の精神は限界だった。
……これを不運の一言で済ますには無理がある。
朝から無意識に溜まっていたのであろう疲労と緊張の糸が切れたことが重なり私の意識は闇に沈んでしまったのだった。
私が意識を手放した後、放送を掛けていた女の人____半人半鳥という海の妖魔?だったらしい____は捕えられ、連続誘拐犯が催眠ガスを流して生徒を誘拐しようとした所をたまたま遅刻した生徒が通報したことにより事なきを得た、というシナリオで学校には一応の平穏が訪れた、らしい。
何故こんなあやふやな言い方なのかといえば、これらは私自身が見聞きしたことでは無いからだ。
私は今、これまでの人生で踏み入ったことの無い所謂高級ホテル、と言われる場所にいた。
意識を失った後、私はそのままこのホテルへ運ばれたのだとレリック・グリードの同僚?の男性が教えてくれた。
建前としては催眠ガスを深く吸ってしまった生徒に後遺症等が無いかの検査をする、という名目らしいが。
「あの、結局私は何で連れてこられたんですか?」
普通だったらもっと騒いだり慌てたりするのかもしれないが、今までの不運と共に在った人生の経験と、思考を鈍らせる疲労が私から恐怖の二文字を消した。
目の前で優雅に紅茶を飲む子供____レリック・グリードに質問をぶつけると、ちらりと視線を寄越した後深く溜め息を吐いた。
「お前、不思議に思わなかったのか?他の人間が半人半鳥の声に意識を奪われてる中自分だけ自由に動けること、大した訓練もしていないのに吸血鬼から逃げ続けることが出来たこと」
「それはまぁ、気にはなりましたけどそれ所じゃ無かったです」
「それはそうか……端的に言おう、お前は悪魔に取り憑かれてる。その悪魔はお前を守っているようでな、そいつのお陰でお前は半人半鳥の声の影響下でも問題なく動けたし、多分吸血鬼から逃げ続けられたのもそのせいだ」
「……は?」
驚くほど透明度の高い蒼い瞳が真っ直ぐに此方を見る。
そこに冗談や悪ふざけの色は見られなくて余計に混乱する。
「そんな……巫山戯た話、通用するのは小学生までですよ?吸血鬼とか悪魔とか……そんなの御伽噺にもならない」
自分でも声が震えているのが分かる。
返答はあくまでも淡々としていて、それがまるで世界の真理であるように聞こえる。
「巫山戯てなどいない……人間は目に見えないものは愚か、目に見えるものさえ都合が悪ければ無かったことにする。それは自ら自分の首を絞めることに他ならない。客観的に冷静に考えろ、眼球のない人間に視力があるのはありえない、普通の人間は銀のナイフで胸を貫かれても灰にはならない。ならば何故あの男はそうなった?……普通の人間じゃないからだ」
「嘘、そんなこと……ありえない」
本能ではとっくに理解していた。
男が、明らかに自分とは違う異質なものだと。
でもそれを認めてしまったら、私が見てきた、生きてきた世界は何だったというのだ。
「さぁ、選べ。今日起きたことを全て忘れていつも通りの日常に戻るか、こちら側の人間として生きるか」
「こちら側、って……?」
「世界には神秘が満ちていることを知る側、何も知らない人間と人ならざるものとの境界線が交わらないように守護する側……守りたい『何か』を守ることが出来る側」
守りたい『何か』と言われて、孤児院の家族達の顔が浮かんだ。
決して現実にはなり得ない仮定の話だが、もし今日学校を襲った男が孤児院を襲ったとして、もし私の家族の誰かが攫われたとしたら……
背筋が凍るような恐怖を覚えた。
この仮定は今となっては決して起こりえないことだけれど、もし万が一にでも起こってしまったとしたら、私はきっと耐えられないだろう。
「もし私がそっち側に行ったとして……それで本当に守りたいものが守れるの?」
「あぁ、保証しよう」
「……その言葉、忘れないでよね」
小さな黒手袋に包まれた手を取る。
これが私とレリックさんが最初に結んだ約束だった。
それからは怒涛の日々だった。
私は慣れ親しんだ街と学校、そして大切な友人と家族に別れを告げた。
私は養子としてレリックさんに引き取られることになったのだ。
外見からして私より歳下だと思っていたのだが、少々特殊な事情により実は遥かに歳上であるらしい。
だから書類上は何の問題もなく、私はレリックさんの養女となった。
「別れは済んだか?……恐らくもう二度と会えんぞ」
七海に転校することを告げて最後に二人で買い物に行って、オシャレなパンケーキを食べて、馬鹿みたいな写真を撮って……思い出を作った。
私が引き取られることを家族達は豪華な送別会を開いて、みんなで祝福してくれた。
「はい、大丈夫です」
さよなら愛しい家族達
私の人生は数々の不運に彩られてきたけれど、貴方達と会えた人生は幸福でした。
どうかこれから、お幸せに
……願わくば二度と出会いませんように
【変わる世界】
「……つまり、悪魔・妖精・天使・妖怪等々人知を超えた存在を総称して『夢幻』と呼ぶんだ。ここまでは大丈夫?」
「はい」
ステンドグラスから美しい光が差す。
日本から遠く離れた異国の地にある小さな教会で、私は講義を受けていた。
「俺達、『境界の守護者』は本来在るべき世界から俺達のいる世界に迷い込んでしまった『夢幻』が一般人に見つからないように保護したり、人に害をなす『夢幻』を討伐したりするのが主な仕事だね」
柔らかい口調と常に微笑んでいるように細められた目元は酷く優しげで、ここらでは珍しい見慣れた黒髪黒目と相まって、彼のことを無条件で信頼してしまいそうになる。
彼は言うなればレリックさんの同僚にあたるらしく、私に『境界の守護者』の一員として生きていく為に必要な知識や技術を教える事となったようだ。
「『境界の守護者』の内部構造は知ってる?……分かった、それも説明しよう。ざっくり分けると『境界の守護者』は四つの部隊で構成されているんだ。まず『夢幻』と一般人が関わることのないように野良『夢幻』の保護や隠匿をする防衛部隊、彼らを番犬と呼ぶ『夢幻』も居るね。次に世界中から情報を集めて『夢幻』の発生や場合によってはその弱点を調べる諜報部隊。隊員達の体調管理から怪我の治療までを一手に担う医療部隊。そして人間に害をなす『夢幻』を速やかに排除する討伐部隊。防衛部隊と対比して猟犬とも呼ばれる。配属は基本的には本人の希望に沿うんだけど、特定の分野に高い適性があると有無を言わせず配属が決まることもあるよ」
説明を聞いていて疑問に思ったので尋ねてみた。
「安倍さんは討伐部隊なんですよね、自分で希望したんですか?」
この優しげな青年が好き好んで討伐部隊を希望するとは思えなかった。
「いや、俺は有無を言わせず配属が決まった方だね。……俺の実家がちょっと特殊でね、俺としては諜報部隊とか希望だったんだけど適性が完全に討伐部隊向きだったから……」
少し眉を下げて困ったように笑う姿に少し同情した。
「……疑問なんですが、『夢幻』って死ぬものなんですか?」
討伐部隊、というものがあるのならきっと何か倒す手段があるのだろうが、人知を超えた存在を人がどうこう出来るのか、甚だ疑問だった。
「……それを説明するには、そもそも『夢幻』とは何ぞや、という話になるんだけど」
曰く、彼の話を纏めると『夢幻』とは、人の感情や欲望が寄り集まって生まれた存在、である。
例えば天使は信仰心や願いの集合体、悪魔は恐怖や嫌悪、欲望の集合体、といったように
そしてそれらに『名前』や『逸話』が付く____『個』を持つようになると、それらは非常に強力な『夢幻』になる。
そして『夢幻』は人の心から生まれたものである故か、人からどう思われているか、が存在を左右する。
「君が出会ったのは吸血鬼だったね、彼らは非常に高い知名度を持つ強力な種族だけれど、それ故に弱点や対処法が知れ渡っている。それに『吸血鬼』は有名でも、名前や逸話を持つクラスとなるとドラキュラ伯爵や女吸血鬼カーミラくらいに限られてしまう。結論としては『夢幻』は消滅させることは可能だよ……それを死と呼ぶかどうかは別として」
『夢幻』はその存在の明瞭さにより五段階に区別される。
一番下がD級で、これは生まれたての『夢幻』のようなもので名はなく知性すらない。
C級は知性や種族としての名前を持つが、自我は持たない。
B級以上になってようやく個体名と自我を持ち始める。
A級になると個体名の他に二つ名や逸話を持ち、非常に高い知性を持つ。
そしてA級より強力な『夢幻』はS級と分類される。
しかしS級に相当するのは世界中に名の知れたほんのひと握りの存在だけで、ほとんど存在しないに等しいらしい。
「実在するかどうかは別として、S級に成り得る存在としては高い知名度を持つ悪魔や天使かな。それらは広く信じられているから」
逆に都市伝説や伝承などに出てくる怪物は酷く限定的な地域でしか知られていない為、強力な『夢幻』が生まれることは珍しく、ましてやS級となることはほぼ不可能である。
安倍さんと話し込んでいると、重厚な鐘の音が鳴る。
「おや、もうお昼だね。今日の講義はここまで、午後は地下の運動場で訓練だから動きやすい服装に着替えておくこと」
「はい、ありがとうございました」
この寂れた小さな教会の地下には、『境界の守護者』の基地とも呼べる空間がある。
ここは支部であり本部がどこにあるのかはまだ知らないが、世界中に同じように支部が展開されているらしい。
安倍さんの後を追って食堂へ行けば、意外と多くの人がいることをこの数日で学んだ。
「……そういえば、レリックさんはどこにいるんですか?」
私をここへ連れてきてから数回しか顔を見ていない。
「あの人は忙しいからね、多分任務で飛び回ってるんじゃないかな」
「同じ討伐部隊なのに一緒に行動しないんですか?」
「討伐部隊は個人主義でね、余程強力な『夢幻』でも現れない限り、基本的には個人で行動している隊員が殆どだ」
安倍さんはともかく、レリックさんが誰かと一緒に協力して働いているところ、というのは確かにあまり想像がつかない。
「じゃあ、安倍さんも任務に行くんですか?」
「いや、俺は前の任務で足をやってしまってね、今は療養中なんだ。だから当分は君の教育係を務めることになってるよ」
「そうなんですか!?全く気付きませんでした。足は大丈夫なんですか……?」
歩いている姿に違和感は無かったが、療養するほどの怪我をしているならばかなりの重体なのではないだろうか。
「大丈夫、大丈夫。怪我というか呪いみたいなのだからゆっくり解くしかないけど、医療部隊のお陰で痛みはほぼ無くて済んでるし」
ちらりとズボンの裾から見えた足首は、どす黒い鎖のような痣があった。
安倍さんの足がすっかり治る頃、私はようやく一人前として認められ、そして初めての任務の命令が降りた。
支給された端末はこの教会がある町、ヴィルベイからそう遠くない所にある森を示していた。
森の中から奇妙な音がするという近隣住民の訴えと諜報部隊が森を調べた結果、C級相当の人に対して敵対的な『夢幻』がいる、という確信が得られた。
肝心の『夢幻』については可能性のあるものがいくつか絞られていたが、未だ確証を得るに至っていない。
この任務は私一人で対処する。
何故なら、私が討伐部隊の一員だからだ。
……私は諜報部隊や防衛部隊を志望したのだが、私の周りはそれを許さなかった。
私には悪魔が憑いてる。
それは寄生虫と宿主のような関係で、宿主である私が死ねば自分も危うい為、悪魔は多少私を守ってくれる。
といってもあくまで一方的な関係なので必ず助けてくれる訳でもなく、また悪魔は私の身を守ることはしても私の願いを叶えてくれる訳でもない。
しかし、他の人間に比べれば遥かに死ににくいのは確かだ。
これが契約となれば話は変わる。
契約は人間が対価を差し出し、悪魔が力を貸す対等な関係。
多分、レリックさんと『マモン』____おそらく七つの大罪の【強欲】を司る大悪魔____がその関係にあたる。
あの日以来、全く顔を合わせていない彼の人は複数の悪魔と契約して数々の『夢幻』を討伐してきたと聞いた。
悪魔との契約で彼の人の身体は十五歳で時を止め、S級の『夢幻』と契約しているという噂さえある。
閑話休題
ただでさえ危険な任務が多く、人材不足に悩む討伐部隊にとって悪魔に守られた人間というのは喉から手が出るほど欲しかっただろう。
結局私も安倍さんと同じように、半強制的に討伐部隊の一員となったのだった。
「はぁ……」
無意識にため息が漏れたのに気付き、気を引き締め直す。
目的の森はもうすぐだ。
秋と冬の境目の今、地面は色とりどりの葉で覆われ何の痕跡も見出すことは出来ない。
証言によれば、奇妙な音は森の中心部から聞こえるらしい。
慎重に森へと踏み入った。
森に入って一時間は経った頃、私は一つの確信を得ていた。
馬の足跡、私の頭より高い位置にある複数の切り傷、これらから導き出されるものは……
馬の嘶きが聞こえる。
あぁ、荒々しい蹄の音が迫ってくる。
「首無し騎士……!!」
デュラハン、スリーピーホロウ、数多くの名前を持つそれの本質は『死を告げる者』。
死を予言し、執行する妖精としての側面と生者を憎み、その首を狩る不死者としての側面を合わせ持つ存在。
今回は、不死者としての要素が強い個体と思われる。
……このまま放置すると一般人が襲われる可能性が高い、決して逃がさず討伐しなくては。
蹄の音が止む。
首無し騎士は、もうすぐそこまで来ていた。
悼ましい姿だった。
時代錯誤の古びた鎧と血と脂で汚れた身の丈ほどある大きな刃。跨る黒馬は騎手と同じく首が無い。そして何よりも左手で脇に抱えられた血の滴る頭!
紛うことなき怪物がそこにいた。
基本的に不死者を討伐する方法は酷く限られる。
銀の武器で身体のどこかにある核を破壊する、もしくは再生が追いつかない速度で焼く、など。
通常、首無し騎士の核は頭の部分にある。
どうにかして頭を奪い取り、破壊しなければ。
『Aaaaaaaaaaaaa!!!!』
怪物の咆哮が開戦を告げた。
叩きつけるように振り下ろされる刃を後ろに跳んで躱し、体勢を整える。
首無し騎士の一撃は強力ではあれど、その分大振りで隙が多く狙いも大雑把だ。
それを回避し続けるのは難しくないが、それだけでは怪物は倒せない。
再び振り下ろされる刃を、今度は後ろに跳ぶのでは無く逆に前へ踏み込む。
「今だっ……!」
攻撃直後の硬直を突いて首をもぎ取る。
兜に詰まった青白い頭に銀のナイフを振り下ろす。
柔らかい腐った肉を裂く感覚とその中で薄いガラスが割れるような感覚。
『Aaa、Grrrraaaaa!!!』
首無し騎士の咆哮が苦しそうなものに変わる。
核は破壊した、直に崩壊が始まるだろう。
痙攣する頭から離れてふっと息を吐く。
……その時、女性の笑い声が聞こえた。
「……え?」
振り返ってももちろん誰もいない。
でも確かに小さな、本当に小さな笑い声が聞こえたのだ。
「何なの……」
気味が悪いと思いながらも首無し騎士に向き直ると、そこには何も無かった。
「…っ!」
突如、背後から風を切る音がする。
咄嗟に前方へ跳ぶと、足に鋭い痛みを感じる。
いつの間に背後に、いやそれ以前に核を破壊された状態でここまで動けるものなのか。
振り返った先にいる首無し騎士は、異様だった。
全身に罅が入り今にも崩れてしまいそうなのに、全身から黒い霧のようなものを噴出しながら此方へ向かってくる。
足が熱い。
逃げようとしても力が入らない。
甚振るようにゆっくりと近付いてきた首無し騎士が、上段の構えをとる。
振り下ろされる刃がスローモーションのように見える。
……黒く染まる視界の中、私の前に立ちはだかる人物と長い鮮やかな金髪が見えた気がした。
目を覚ますと、見慣れた教会の地下にある自室の天井だった。
「あれ、私……」
「目が覚めたな、大丈夫か?」
簡素な木の椅子に、天使が____いや、レリックさんが腰掛けていた。
「……天使かと思いました」
「頭は打ってないはずなんだが……まぁ元気そうだな。足の傷もそう酷くはない、後遺症も残らないらしい」
今更に毛布の下の足を見ると、包帯が巻かれていたが大した痛みは無い。
「それで、どうした?今回の任務はC級の首無し騎士だった、そうそう遅れをとる相手じゃないと思うが」
此方を見つめる静謐な蒼い瞳にだんだんと記憶が戻ってくる。
「核を破壊するまでは順調でした。その後、女性の笑い声が……聞き間違えかもしれないんですけど聞こえて、それに気を取られていたらいつの間にか背後に首無し騎士が居て、避けたつもりだったんですけど……」
「ん?核を破壊した後に後ろに移動されたのか?」
「はい、本当に速くて切られるまで気付きませんでした。……あと、何か黒い霧みたいなのが噴出していて崩壊寸前に見えるのに恐ろしく強かったです」
「……女の笑い声、黒い霧、崩壊寸前……」
「でも、レリックさんが助けてくれたんですよね。迷惑をかけてごめんなさい…でもどうして私の居場所が分かったんですか?」
「いや、お前を助けたのはそいつだ」
レリックさんが指差す方を向くと、中世の貴族のような服を着た白髪の青年がいた。
……空中に。
「やぁ、ちゃんと会うのは初めてだね」
そう言って青年は片眼鏡の奥の赤い瞳を細めて微笑んだ。
「オレはダンタリオン、ソロモン七十二柱序列七十一位の情報と幻の悪魔……そして、十二年前に君に封印を解いてもらった者だ」
「封印……?」
「君、僕の封印されてた本に血を垂らしたんだよ。それで二百年ぶりに外に出られたからね、お礼に君を守ってあげようと思って憑いてたんだ…まぁ助けてあげる対価にちょっとした不運に見舞われるのはご愛嬌だよね」
昔、見慣れない外国語の本を孤児院の図書室で見つけた。
小さかった私はその本を読もうとして、ページで指を切ってしまったことがあった。
……まさか、それが?
というか私の不運には原因があったのか。
助けてくれたことを喜ぶべきか、不運をもたらしたことを恨むべきか。
呆然としていると、レリックさんがため息を吐いたのが聞こえた。
「B級以上の気配はしていたが、ダンタリオンか……面倒だな」
「そんなにダンタリオンは強いんですか?」
「単体の戦闘能力で言えば、首無し騎士より断然弱い。が、ダンタリオンの能力は思考操作と幻術、それに加えて高い知能と教養を持つ……敵に回すと厄介なことこの上ない」
「そんなに褒められると照れてしまうな」
にこにこと笑う姿は普通の人間のようで調子が狂う。
「で?何で今になって出てきたんだ。契約する気にでもなったのか?」
「宿主が危険だったからって言うのもそうだけど、不思議な魔力を感じたんだよね。美味しそうというか魅力的というか……これが欲しいな、って思ったんだ」
「……不思議な魔力?」
「『何』とは言い難いんだけど、言うなれば透明で何にでもなれる原初の魔力、かな」
「それは……」
ダンタリオンの言葉を聞いて、レリックさんが考え込むように視線を下げる。
あの蒼い瞳が今何を写しているのか、私には到底分かりえなかった。
「それで?お前はこれからどうするんだ。またこいつに憑き続けるのか?」
「オレ?……そうだね、特に何かしたい訳じゃないんだ。この子に憑いてて退屈しないしね」
意を決して口を開く。
「あの、ダンタリオン……私と契約して欲しいの!」
「それは構わないけど……どうして急に?」
「急じゃない、ずっと思ってた。……私は強くなりたい、誰かを____大切な人を守れるように」
この数ヶ月、訓練して改めて思った。
人間は脆い。
『夢幻』に対して人間はあまりにも弱く、小さい。
ほんの少しの油断が自分の、そして何の罪もない人々の死につながる。
「その為に一番の近道があなたと契約することなの」
「……ふふふっ良いね、君は頭の回転が速くて度胸も据わってる。悪魔と契約することの意味は知っているだろう?」
「当然」
悪魔と契約した人間は歳を取らない。
そして対価を差し出さなくてはならない。
……それがどんなに大切な物だろうと。
「気に入った、君をオレの契約主にする。対価は……【知識欲】」
「【知識欲】?」
「そう、オレは人間の好奇心や知識欲で構成された悪魔だ。……君はこれからずっと何かを『知りたい』という欲を抱えて生きていくんだ」
「元々好奇心は強い方なの」
「それはそれは」
ダンタリオンがパチンと指を鳴らすと複雑な紋様の魔法陣が現れる。
「君の名前は?」
「栞です、萩原栞」
「うん、良い名前だ」
ダンタリオンの指が私の額に触れる。
『Dantalion nomen meum、Dux magna ex inferno, qui in crimen artis et scientiae Vide autem Information manipulate robustas calumniando domum et homo voluisse illudere Shiori Hagiwara、tu redde possibile Omnis scientia evanescet Usque ad id tempus, nomen meum et virtus mea Ego offerre』
聞き慣れない言葉を歌うように連ね、私の額に紋様を描いていく。
『posthac eGO vos gladio、vos clypeus Et,Quidquid disciplinam!』
ダンタリオンの詠唱が終わった瞬間、心臓がドクリと大きく鳴った。
「何なりとご命令を、主殿」
そう言って傅くダンタリオンを見て、あぁ自分は本当に『悪魔』と契約したのだな、と今更ながら思った。
【モノクロの思い出】
雪が降っていた。
朝から妙に肌寒いなとは思っていたが、外が一面の銀世界になっているとは流石に思わなかった。
「わぁ……」
思わず外で立ち尽くしていると、背後から上着を掛けられる。
「阿呆、風邪をひきたいのか?」
「あ、レリックさんおはようございます」
初任務の日からレリックさんと会うことが増えた。
といっても相変わらず忙しそうだが、必ず任務を終えるとこの教会に帰って来るのだ。
今まではそのまま次の任務に向かうことがほとんどだったのに。
一度、どうしてわざわざ帰って来るのか、と聞いてみたところ
「……一応、お前は家族だからな、家族の顔を見る為に帰ってくるだけだ。……お前をここに連れてきた責任もある」
とそっぽを向きながら答えてくれた。
どうやらこの人は、不器用に私のことを想ってくれているらしい。
安倍さんが言うことには、私を孤児院や学校からこちらへ連れてきたことと初任務で私が怪我をしたことを大分気にしているらしい。
……最終的には私が望んで来たのだからレリックさんが気にすることはないと思うのだが、それがこの人の不器用さであり優しさなのだと思う。
「……足の傷は大丈夫か?」
「もうとっくに治りましたよ、昨日も任務に行ってきましたし」
「そうか……ならいい」
白い息が小さな口から溢れる。
「今日の朝ご飯はシチューがあるみたいですよ」
「争奪戦だな、急ごう」
他愛もない話をする時間こそが一番尊いのだと知っている。
降った雪が全て溶けてしまった頃、任務から帰ってきたレリックさんが高熱を出して倒れた。
討伐対象の『夢幻』が水を操るものだったようで、寒い中で濡れたまま長時間過ごしたことが原因らしい。
レリックさんは身体が成長途中で止まっている分、それ相応の体力しかない。
……あまり無理をしないで欲しいのだが。
「レリックさん、大丈夫ですか?」
看病の為に部屋を訪れる。
コンコンと扉をノックしても返事はなく、ドアノブを捻ると鍵は閉まっていなかった。
「……お邪魔します」
恐る恐る扉を開けると、以外に華やかな室内に驚かされる。
てっきり任務に明け暮れているから、必要最低限の物しか置いていないだろうと思っていた。
壁際にあるガラスの戸棚には大きな宝石のあしらわれた装飾品や繊細な絵柄の磁器がディスプレイされ、反対側の壁には私でも知っているような絵画が掛けられていた。
数々の宝物がある部屋のその奥で、豪奢な調度品に埋もれるように部屋の主は眠っていた。
あの力強い瞳が伏せられ、長い金髪を流している姿はあどけない少女にしか見えなかった。
起こしてしまわないようにそっと額に触れるとまだ熱は下がっていないようだったので、額の上の布を冷やし直す。
「……ラ?」
「あ、起こしてしまいましたか。体調は大丈夫ですか?」
「カミラ、なのか……?」
何時になくぼんやりとした様子のレリックさんは目の焦点も定かでなく、私と誰かを見間違えているようだった。
「レリックさん……?」
「頼む、置いて行かないでくれ……頼む……」
そう言って弱々しく腕を掴む姿があまりにも小さく見えて、私はその腕を離させることは出来なかった。
「……私はどこにも行きませんから、大丈夫ですよ」
「そうか……」
そう告げれば安心したように微笑んで、再びゆっくりと目を閉じて眠りへと落ちていった。
カミラ、とは誰のことなのだろうか。
もやもやとした疑問が胸に残った。
食堂で食事を貰ってから再びレリックさんの部屋を訪ねると、早くも目が覚めたようで今度は返事があった。
「まだ熱は下がってないんですから、大人しく寝ててくださいね」
「……」
むぅと口を尖らせる姿が頑是無い子供のようで少し微笑ましかった。
「……そう言えば、レリックさんって意外と物持ちなんですね」
「あぁ、この部屋にあるのは全部マモンへの対価だ。気に入った物があればやるぞ?……あいつは『手に入れること』には執着しても、手に入れた後は興味を無くすからな」
合点がいった。
確かに【強欲】の悪魔であるマモンが欲しがりそうな物達だ。
……あまり考えたくは無いが、マモンへの対価の総額は恐ろしいことになっているのではないだろうか。
「お前の対価よりは分かりやすくて楽だと思うぞ」
「いや、確かに私の対価はちょっとアレですけど……」
額に刻まれたダンタリオンとの契約印からダンタリオンの
「アレとは何だ、アレとは」
とでも言いたげな雰囲気が伝わってくる。
私のダンタリオンへの対価、【知識欲】は具体的に言うなれば『新しい知識を得ること』だ。
おかげで先日大きな任務を乗り越えた後は、対価を支払う為に図書室に籠りきりにならざるを得なかった。
「レリックさんって三体の悪魔と契約してるんですよね、他の悪魔の対価ってどうなってるんですか?」
私が知っているのは【強欲】だけだが、一度雷のようなものを放っている所を見たことがある。
「他の……マリーは見たことがあったか?」
「雷みたいなのなら一度」
「あいつは特殊でな、【正義】を司る悪魔であらゆる不正や悪を裁く能力がある…んだが、その基準となる【正義】はあくまであいつにとっての正義だから、一般的な意味合いのそれとは少しズレてるんだよな……」
苦笑いするレリックさんのシャツから覗く胸に刻まれた蛇のような意匠の紋様____おそらくアンドロマリウスとの契約印____が抗議するように数度瞬いた。
「もう一体は…これは、企業秘密だな」
レリックさんはそう言って悪戯っぽく笑った。
レリックさんが契約している三体目の悪魔は誰も知らない。
一番最初に契約したというその悪魔は一体何者なのだろうか。
「ここまで言っておいて内緒ですか……?」
「【知識欲】の契約者相手には少し酷だったか?……仕方ない、それ以外だったら何でも答えてやろう」
駄目元でお願いすると、思ったより譲歩してくれた。
やはりこの人は私に甘い。
「じゃあ……カミラさん、ってどなたなんですか?」
この人が頼るような人、それがどんな人なのか酷く知りたかった。
「な、んでそれを……」
蒼い瞳が見開かれる。
この人がこんなに驚く所を初めて見た。
「ごめんなさい、レリックさんが魘されてる時に私と誰かを間違えて呼んだのを聞いてしまったんです」
「いや責めるつもりは無い……そうか、見間違えたか……」
蒼い瞳が何かを懐かしむように細められた。
「カミラは……とても大切な、人なんだ」
レリックさんが緩やかに語り始めたのは、遠い日の思い出だった。
カミラに出会ったのは確か……六歳の時だった。叔母さん____母さんの妹で流行病で亡くなった両親の代わりに哀れな孤児を育ててくれた人だ____にお使いを頼まれたんだが思ったより遅くなってしまって、近道をしようと思って廃墟になった洋館____大昔の貴族様だかの屋敷だったらしい____の庭を突っ切ろうとした。
新月の真っ暗な晩だった。
恐る恐る庭を進んでいたら誰もいないはずなのに、館の中にランプの灯りみたいなのが見えた。
その時はそれがどうしても気になって、屋敷へ入った。
灯りが見えたのは一階の左側の部屋、そこは図書室だった。
色の無いそこに彼女は居た。
古典的なカンテラを傍においてゆっくりとページを捲る指先は一度も日を浴びたことがないように白くて、俯きがちな横顔に零れた髪は周囲の暗闇と同じ漆黒だった。
「……あら、珍しいお客さんね」
こちらを見やる瞳は美しい銀色だった。
「お姉さん、何でこんな所に居るの?」
「居たくている訳じゃないわ、でも私は外には出られないのよ」
当時はよく分からなかったが身体が弱いのだろうか、とぼんやり思った。
「一人で寂しくないの?」
「寂しい?……そう思ったことは無いわ、一人で居るのが普通だもの」
膨大な数の本に囲まれて淡々と発せられたその言葉が何だかとても悲しく思えて、気付けば彼女に向かって宣言していた。
「明日も来る!今日はもう遅いから帰るけど、明日もお姉さんに会いに来るよ。そうすれば一人じゃないでしょ?」
「……変な子ね、勝手にしなさい。ただし本を傷付けたら許さないわよ」
「分かった、じゃあまた明日!」
その日から、毎日のように彼女のいる洋館へ通った。
「おはようお姉さん、約束通り来たよ!」
「ねぇ、何の本を読んでるの?」
「今日ね、来る途中で綺麗な花を見つけたんだ。お姉さんにあげる」
「これはなんて読むの?」
「サンドイッチ持ってきたんだ、一緒に食べない?」
彼女のいる洋館へ通い始めてから季節が一巡りする頃、初めて彼女から話しかけられた。
「あなた、どうしてここに通い続けるの?」
何時もは本に向けられている瞳がこちらを向いている。
今まで質問には答えてくれても、それ以外には全く答えてくれなかった彼女から話しかけられたことにとても驚いて……嬉しかったことを覚えている。
「どうしてって……最初はお姉さんが寂しくないようにって思ってたけど、今は違うよ。お姉さんと一緒に居たいと思ったから来てるんだ」
彼女は無表情で無愛想で……優しい。
質問には丁寧に答えてくれる、高い所にある本を取ろうとすれば転ばないように見てくれている、昔あげた花を押し花にして持ってくれていることも知っている。
「居心地が良いから、ここに来たいから来たんだ」
「そう……」
「……迷惑だった?」
不安になった。
ここで静かに生きていた彼女にとって自分は酷く騒々しい存在なのではないか。
「別に、あなたが居ようが居まいが何も変わらないわ……それと、いつまで私をお姉さんと呼ぶつもり?」
「え、名前を教えてくれるの?」
「あなたが聞かないからよ……カミラ、これからはカミラと呼んで」
「分かった、カミラ!」
「私は教えたんだからあなたも教えて頂戴」
「レリック、レリック・グリード。レリックって呼んで!」
それから彼女____カミラは他愛もない世間話にもぽつぽつと返事をしてくれるようになった。
「今日、ここの庭に猫が居たよ。ちっちゃくて目がまん丸で可愛いんだよ」
「……猫ってどんな生き物なの?」
「見たことない?」
「無いわ、文書で読んだことはあるけどいまいちどんな姿なのか分からなくて……」
「じゃあ絵に書くよ」
ここの図書室は数多くの本がありながら、図鑑や挿絵の入った本はほとんど無い。
ランチボックスに入っていた紙ナプキンにカミラに借りた羽根ペンで簡単な絵を描く。
「猫はね、四本足で長いしっぽが生えてて三角の耳がぴょんってしてるんだ」
線はガタガタでお世辞にも上手な絵ではなかったけれど、カミラはそれをじっと見つめていた。
「……私も猫を見てみたい」
それは初めて聞くカミラの願いだった。
「じゃあ次に猫に会ったらそいつを捕まえて来るよ、待ってて」
「それは……楽しみだわ」
少し視線を下げながらほんの微かに口角を上げたあの表情は、確かに笑顔と呼べるものだった。
……結局、彼女に猫を見せることは出来なかったのだけれど。
彼女と出会ってから十年近く経った頃、叔母の元から自立し彼女の居る洋館の近くにある小屋で暮らすようになった頃、彼女は最大の理解者であり一番大切な存在になっていた。
「なぁ、どうしてカミラは外に出られないんだ?身体が弱い訳じゃないんだろ」
ある日、かねてからの疑問を口にするとカミラは一瞬きょとんとして、その後唇の端を微かに歪めた。
「レリック……あなた、悪魔について知っている?」
カミラは悪魔だった。
それも普通の欲で構成された悪魔でなく、【衝動】の悪魔。
【衝動】の能力は悪魔の____ひいては『夢幻』の強化。
それが『夢幻』にとってどれほど魅力的か____想像に難くなかった。
「私が生まれた時、ある大悪魔が私をこの屋敷に封印した」
その時の記憶は朧気だけど、と微笑む横顔があまりに儚くてカミラが消えてしまいそうで怖かった。
「その悪魔は私に能力を使えとは言わなかったわ。でも外に出ることも許してくれなかった」
私はこの屋敷に監禁されているのよ
その言葉は酷く淡々としていた。
「でもある日、あなたが……レリックが来てくれた。……あの時は分からなかったけど、確かにあなたが来てくれて嬉しかったの。あなたに会ってから、私の世界に色が着いた。あなたと居ると全てが美しく見える、会えない時にあなたを想う時間も好きになったわ。……あなたがいつの日か来なくなる、それは多分……避けられないことだから。けど、お願いだからもう少しだけ、側にいて」
そう言って全てを諦めたように笑う彼女に酷く腹が立った。
「何で、カミラが決めるんだ!言っただろ、ここに来たいから、カミラに会いたいから来てるんだ!それを否定するのはたとえカミラでも許さない」
どうにもならないくらい言葉が溢れてしまう。
「カミラが本気で拒絶しない限りずっと通ってやるからな、覚悟しろよ!」
ぜいぜいと乱れた呼吸を整えていると、頭上から小さな笑い声が聞こえた。
「何笑ってるんだ……!」
「ふふっ……ごめんなさい、でもレリックの言葉が……まるで……熱烈な、告白みたいで……ごめんなさい、笑うつもりはなかったんだけど……」
口元を抑えて本当に楽しそうにカミラが笑うものだから、何だか毒気を抜かれてしまった。
「レリック、ありがとう。……私、あなたと一緒の時間を過ごしたいわ」
その言葉が聞きたかった。
彼女がそれを望んでくれたことが何よりも嬉しかった。
だから、無謀とも言える覚悟を決めた。
「ねぇ、カミラ。もしこの世から全ての『夢幻』が消えたら、君は外に出られる?」
昔と違って同じ高さにある銀色をまっすぐに見る。
カミラは【衝動】の悪魔なんかじゃない、読書が好きで寂しがり屋で猫が好きな____普通の女の子だ。
「……本気で言ってるの?」
「カミラと一緒に買い物に行って、オシャレなカフェでご飯食べて、可愛い猫を探して、そうやって一緒に過ごしたいんだ」
君を自由に出来るなら、全ての『夢幻』を狩り尽くそう。
その次の日、まずは『夢幻』について学ばなくては、とカミラに教えを乞いに屋敷に来た時そこに彼女は居なかった。
「……は?」
床に落ちている壊れたカンテラ、開いたまま放置された本、そして姿の見えないカミラ。
嫌な予感がした。
「カミラ、何処に居るんだ!」
大声を上げて探し回っても何の返事もない。
焦りが募る。
「カミラ……?」
「……!」
本当に小さな声が聞こえた気がした。
それはほとんど入ったことのない二階からした。
恐る恐る軋む階段を登って行くと、奥の執務室と思われる部屋の扉が開いていた。
「今日はこっちに居たんだ…な」
言葉を失った。
見知らぬ男が彼女の首を絞めて、殺そうとしていた。
「っ……!!」
全身の血が沸騰するような怒りに任せて男に殴り掛かる。
「カミラを、離せっ!!」
男の手が緩んだ隙にカミラを引き寄せる。
元々白い肌からは更に血の気が引き、ぐったりとしていた。
細い首に着いた赤い痕が痛々しい。
「大丈夫か、しっかりしろ!」
「レリ…ク……逃げて……」
「カミラ?カミラ!」
ゆっくりと目を開いたカミラがよろめきながらながら男の前に立ち塞がる。
「美しい友情だな……反吐が出る。人間まで誑かしたのか」
男の蔑むような言葉が酷く癇に障る。
「カミラを悪く言うな!そもそもお前は何なんだ」
真紅の瞳を睨めば、男は愉快そうに笑った。
「俺様はルシファー、矮小なニンゲンよ、貴様ではこの女は手に余る。痛い思いをしたくなければ引け」
この男は何様のつもりなのか。
どこまでも傲慢な言葉が酷く不愉快だ。
「お前がすっこめクソ野郎!!」
そう吐き捨ててカミラを連れて部屋から走り出す。
カミラを、大切な人をこんな男に奪われてたまるか。
その態度は男の癇に障ったようで、男の顔からニヤニヤとした笑みが消えた。
「この俺様が忠告してやったと言うのに……後悔しても遅いぞニンゲン!」
「レリック、やめて!あいつには敵わない、あなたが死んでしまうわ。お願い、あなただけでも逃げて」
「……たとえ敵わないとしても、目の前でカミラを連れていかれるのを指をくわえて見ていられると思うか!?」
カミラの手を握って必死で走る。
どこまで逃げればいいのか、どうすれば逃げ切れるのか、全く分からない。
それでも足を止めることは出来ない。
森の中をどれだけ走っただろうか。
男の声も姿も見えなくなった時、ようやく足を緩めた。
「カミラ、大丈ぶっ……!?」
背後から突き飛ばされるような衝撃を感じる。
振り返るとそこには、振り切ったはずの男が居て……男の腕が胸を貫いていた。
「えっ……」
「レリック!!」
カミラの悲鳴のような叫びが聞こえる。
口から夥しい量の血が溢れた。
男の腕が引き抜かれると、身体を支えられず無様に崩れ落ちた。
「可哀想になぁ、お前に関わったせいで何の罪もない愚かなニンゲンが死ぬんだ。【衝動】、お前は封印されるべき害悪なんだよ」
「嫌、嫌よ!レリック、ごめんなさい、お願い死なないで!」
「カミ……ラ……」
銀の瞳から零れる涙が雨のように降ってくる。
身体が鉛のようだ。
言うことを聞かない身体を叱咤して、手を伸ばす。
「カミラ、泣か……ないで……君に、泣かれると……どうしたら……いいのか、分からない……んだ」
そっと頬に触れると、彼女の白い肌に血が付いてしまった。
あぁ、君の涙を拭いたかったのに。
「無理に喋らないで、どうしよう……血が止まらない……お願い、何でもするからレリックを助けて」
カミラが男に懇願する。
駄目だ、そいつから逃げなければカミラは……
「ならば俺様に服従すると誓え。そうすればそのニンゲンは助けてやる」
「誓うわ!誓うから、早くレリックを助けて」
「カミラ……やめ……」
「契約成立だな」
男が指を鳴らせば、胸の傷はあっという間に消えた。
「さぁ対価は払った。お前は俺様のモノだ」
「やめろ……行くな、カミラ……」
血を失いすぎた身体は思うように動かない。
必死で腕を伸ばした。
「さようならレリック……私、あなたと過ごす時間が何よりも幸せだったわ」
最後に見たのは哀しいくらい美しいカミラの笑顔だった。
「その後、カミラを屋敷に閉じ込めた大悪魔____ベルと出会った。……あいつはカミラの母、だったらしい。多分…カミラを閉じ込めたのはあいつなりの愛だったんだろうな……ルシファーからカミラを取り戻す、それで利害が一致したからな、ベルと契約した。それからずっと……ずっとカミラを探しているんだ」
レリックさんの表情は終始穏やかだったけれど、蒼い瞳の奥には愛しさと……深い悲しみの色が見て取れた。
「さぁ満足したか?」
「え、えぇ……不躾なことを聞いてしまってごめんなさい」
「まぁ隠していた訳じゃない、そもそも何でも答えると言ったしな」
そう言って微笑んだ時には何時もの凪いだ瞳に戻っていた。
「……あ、もしかして、初任務の時の首無し騎士がいきなり強くなったのって…」
「あぁ、カミラの能力かもしれないと思ったんだが……如何せん彼女が能力を使う所を見たことが無くてな……」
考えても答えは出ない。
その日はもう遅いから、とレリックさんに部屋に帰された。
翌日、もう熱は下がったから任務に行くと言うレリックさん対まだ安静にしているべきだと主張する医療部隊による熾烈な鬼ごっこが開催されていた。
もちろん医療部隊側として参加した。
休んで下さい。
【君が忘れてしまっても】
その日は珍しく私もレリックさんも任務の無い日だった。
「おはようございます、今日は任務無いんですか?」
「あぁ、お前も無いのか?」
「はい、今日はのんびり出来ますね」
「鍛錬はサボるなよ、身体が鈍るぞ」
「分かってます〜」
穏やかな朝。
他愛もない会話。
至って平凡な朝…だった。
「……うわっ」
「何だ……!?」
食後のコーヒーを飲もうとしていた時、地面が大きく揺れた。
「地震……ではなさそうですね」
「上で何かあったか?」
階段を登っていると、再び大きな揺れが起きる。
何が起きているのだろうか。
念には念を入れてダンタリオンを呼んでおく。
「【知識欲】来て!」
悪魔の全体を呼び出すのはかなりのエネルギーを使う上、効率が悪い。
だから通常は悪魔を象徴する一部のみを呼び出すのだ。
例えば【強欲】なら全てを手に入れんとする両腕を、【正義】なら罪を裁く為の天秤を。
そして【知識欲】なら物事を仔細に知る為の片眼鏡を。
左目に片眼鏡をかけて、気を引き締める。
当たり前の日々が一瞬で崩れることを知っている。
私の平凡な日常を破壊した原因は、絶対に取り除く。
地上に出ると、そこは酷い有様だった。
ステンドグラスは砕け散り、長椅子は尽く破壊され見る影もない。
「これは……」
「巣を壊すとぞろぞろ出てくる……蟻みたいだなぁ」
場違いにのんびりとした声がする。
「誰っ……!?」
猫のような耳の生えた巻き毛の少年と真っ黒な翼の生えた青年____そして無数の『夢幻』がそこにいた。
「僕ね、キミ達を『殺せ』って言われたの」
だから早く死んでね?
少年は可愛らしい笑顔で言い放った。
「シオリ!」
「はいっ!」
少年の言葉が終わると同時に襲いかかってきた炎を躱す。
今日この教会にいる討伐部隊は私とレリックさんのみ。
諜報部隊や医療部隊は言わずもがな、防衛部隊も『夢幻』との戦闘経験は豊富とは言えない。
増援が来るまで二人で持ちこたえなければ。
「人型のやつらはどちらもB級以上、炎を操る能力と豹の耳から一体はフラウロスと推定、そいつの相手はお前に任せる。C級ともう一体は任せろ」
「了解しました」
レリックさんの指示を聞いて散開する。
「おねーさんが僕の相手?すぐ死んじゃいそうだね」
「弱い犬ほどよく吠えるって言葉、知ってる?」
返事は大きな火球だった。
ダンタリオンの能力は思考操作と幻術、それらを駆使すれば大抵の攻撃を躱すことは造作もない。
「おい卑怯だぞ、正々堂々戦え!!」
「獣は戦術という概念を知らないのね」
軽く挑発すれば面白いくらいに冷静さを失ってくれる。
怒りに任せた攻撃は単調になる、そこに思考操作で追い討ちをかければ……攻撃は当たらず更にフラウロスは頭に血が上っていく。
「幻だろうが何だろうが全部燃やせば死ぬくせに!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう、空を覆い尽くさんばかりの莫大な数の火球が無軌道に放たれた。
……煙が晴れた時、そこには一面の焦土が広がっていた。
「あはははははっ!!ぜーんぶ燃えちゃったぁ、やっぱり弱かったねぇおねーさん」
「……あなた結構短気ね、戦場で冷静さを失うなんて、下策中の下策よ」
全方位無差別攻撃に対して一番安全な位置は何処か____攻撃を放った本人が居る位置だ。誰だって自身に攻撃を当てようとはしない。
ダンタリオンの幻術で姿を隠して、思考操作で少し視野を狭めさせれば簡単に背後を取ることが出来た。
驚愕を貼り付けたまま振り返った顔に膝を叩き込み、そのまま地面に押さえつける。
「くそっ、ニンゲンなんかに……!」
「本物を見分けられない三流が勝てるわけないでしょう」
勝敗は決した……私の勝利だ。
「ダンタリオン、何でニンゲンに味方してるんだ、この裏切り者!誇り高きソロモン七十二柱の面汚しめ!」
『別に悪魔同士仲良くしろって法は無いだろ?……というかニンゲンに負けたお前の方がよほど面汚しでは?』
「うるさいうるさいうるさいっ!」
「五月蝿いのはあなたよ、じゃあね」
核が有るであろう心臓を目掛けてナイフを振り下ろす。
……そして、フラウロスが口を開くことは二度となかった。
妙だ。
戦闘が始まってからうっすらと感じていた違和感が、形を結ぶ。
____弱すぎる。
仮にもこの教会は『境界の守護者』の基地だ。
それなりの対『夢幻』の結界や罠が仕掛けられている。
それを突破してきたにしては、あまりにもあっさりと倒せたのだ。
……まだ他にも仲間がいるかもしれない。
胸に巣食う不安は消えなかった。
「レリックさん、終わりました」
「ご苦労、こっちもこれで最後だ」
いつかと同じ紺碧の腕が翼の生えた青年を締め上げている。
「さて、あんまり得意じゃないんだが……来い【正義】」
閃光と共にレリックさんの手元に天秤が現れる。
「お前達、何故ここを襲った。…【正義】の前で嘘がつけると思うなよ」
「ぐっ………俺達、は……命令されただけ、だ」
「誰に」
「そ、れは……」
「もういいわアンドラス」
突如、女性の声がした。
それと同時に青年を拘束していた腕が崩壊する。
「申し訳…ございません……」
「フラウロスは?」
「……消滅しました」
「そう、残念だわ。あなたはもう帰りなさい」
淡々とした感情の読めない声が硬質な足音と共に近付いてくる。
声の主の姿が露わになった時、レリックさんの顔色が変わった。
長い漆黒の髪、一度も日に当たったことがないような白い肌、そして此方を睥睨するような金属めいた冷たい銀の瞳。
これは、この人は……
「カミ…ラ……?」
「……あなた、誰?許可していないのに馴れ馴れしく呼ばないで頂戴」
それは、あまりにも残酷だった。
何年も…何十年何百年と想い続けた人は、自分のことを覚えていない。
それがどれだけ悲しいことなのか、私には計り知れない。
「……これは失礼、それで?お仲間を助けに来たのか?」
毅然と振る舞うレリックさんの手は、強く握りすぎて白くなっていた。
「部下が死にかけてるのを見逃すほど冷酷じゃないの」
「……この襲撃はお前が指示したのか?」
「答えてやる義理はないのだけれど……何でしょうね、機嫌がいいから教えてあげる。指揮をとったのは私だけど命令したのは違うわ……ルシファー様よ」
「ルシファー……今、ルシファーと言ったか?」
レリックさんの声が低くなる。
「様をつけなさいニンゲン、そうよ偉大なる大悪魔ルシファー様……母に捨てられた私を育ててくれた方よ」
『違う!!』
レリックさんの口からレリックさんでない声がした。
「違わないわ、だから私はあの方の恩義に報いているの」
「我が娘は本当に良い子だなぁ、可愛いカミラ」
何の予兆もなくカミラさんの背後に男が現れた。
「S級『夢幻』【傲慢】!?」
「お前っ……!!!」
レリックさんが吼える。
今までに聞いたことのないどす黒い憎悪が籠った声だった。
「……おや、面白い気配がするからと来てみれば、貴様はあの時の……」
「……【暴食】!!」
レリックさんが三体目の悪魔を呼ぶ。
それは美しい女性だった。
黒と見まごうほど濃い赤のドレスを纏った女性は、美しく編まれた漆黒の髪を振り乱さんばかりに怒り狂っていた。
「おのれルシファー!!貴様、どこまで妾から奪えば気がすむ!!愛しい我が子だけでは飽き足らず、親としての立場まで奪うのか!!!」
それは血を吐くような叫びだった。
「はっ、奪われた貴様が愚かだっただけだろう。俺様に責任転嫁するな」
「……【暴食】、【傲慢】を殺せ。魔力はいくらでもくれてやる!」
「えぇ主、全て食い尽くしてあげるわ」
一瞬でベルゼブブとルシファーの姿が消えた。
「ルシファー様っ!」
「お前の相手は、こっちだ!」
二人を追おうとしたカミラさんをレリックさんが阻んだ。
「退いて頂戴!ルシファー様がっ……」
「絶対に行かせない……君を行かせるわけにはいかないんだ」
決して手を上げることはせず、攻撃に耐えながら、ただ道を阻み続ける。
「……どうして反撃しないのよ」
「……君を、傷付けることが出来ないんだ」
頼む、行かないでくれ
血を吐きながら、レリックさんが祈るように言葉を零した。
「レリックさん!?」
「口の中が切れただけだ、問題ない」
「……い、嫌……いやぁぁぁあああ!!」
突然、カミラさんが苦しそうに叫ぶ。
「カミラ!」
「レリックが……死んでしまう……レリックって誰……私の……大切な……私を助けてくれたのはルシファー様……でも……」
「カミラ?どうしたんだ、しっかりしろ!」
「あなたは……」
一瞬だけ蒼と銀が交錯した次の瞬間、軽い音をたてて細い身体が崩れ落ちた。
雷が落ちたような轟音が鳴り響き、凄まじい揺れが走る。
発生源と思われる方に目をやれば、空中に君臨する女性____ベルゼブブと彼女に地面に叩きつけられてクレーターを構成するボロ布____もといルシファーの姿があった。
「妾の怒りを、嘆きを、絶望を知りなさい」
言葉と共に地面がぐわりと牙を剥く。
大きな地割れがルシファーを飲み込んだ。
「ぐぁっあ"あ"あ"あ"あ"あ''あ''あ''あ''あ''!!!」
「……傲慢の報いよ」
一度閉じられた地表は二度と開かれることはなかった。
こうして『境界の守護者』史上に残る『エレディア教会襲撃事件』は幕を閉じたのだった。
【何度でも君を愛すると約束しよう】
あの日からカミラさんは眠り続けている。
恐らく、ルシファーに記憶を改竄された彼女の脳が、レリックさんと接触したことにより強い負荷を受け一時的な休眠状態になっている、というのがベルゼブブさんの見解だ。
「ベルは病と豊穣、死と再生の力を持つからな、医療への理解も深い」
レリックさんは以前と変わらず任務に励み、他愛もない会話をして……暇があればカミラさんの元に行っている。
「……レリックさん、夕食の時間ですよ」
「あぁ……もうそんな時間か、ありがとう」
「レリックさん、酷い顔してる自覚ありますか?」
「酷い言い草だな……昔のシオリはもうちょっと可愛げがあったぞ。教育係だった阿部のせいか?」
「私は元からこの性格です……ではなく、酷い顔というのは顔色のことです。ちゃんと寝てますか?」
元々色白なレリックさんの顔はもはや蒼白で目の下にはどす黒い隈がありありと見て取れた。
「……あぁ、寝ているぞ」
「嘘ですね、昨日も一晩中ここに居たでしょう……カミラさんが心配なのは分かりますけど、私はレリックさんが心配です。このままじゃカミラさんが目覚める前にレリックさんが倒れてしまいます」
「……心配かけてすまない」
レリックさんが眠っているカミラさんの顔を覗き込んだ。
長い金髪が檻のように二人を覆い隠してしまって、表情は見えない。
「何年でも何十年でも……たとえ何百年掛かろうとも君を待つ覚悟はある。……あるけれど、それでも胸が苦しい時はあるんだ」
小さな、本当に小さな囁きが零れた。
「君が目覚めた時に、最初にその目に写りたい」
そう思うと眠れないんだ。
苦しそうに愛しそうに溢れる言葉は止まらない。
唐突に、この人は涙の代わりに言葉を零しているのだと、気付いた。
「……なんて、夢見がちなガキみたいだな。分かったよ、今日はちゃんと寝る。シオリに怒られてしまったしな」
「寝てくれるなら良いんです」
パチンと電気を消して部屋を後にする。
暗い部屋の中で白いシーツだけが朧気に浮かび上がっていた。
たとえ君が全てを忘れてしまっても、何度でも君の全てを愛すると約束しよう
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