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短編小説

僕は勇者になれない

改題:ママと呼ばないで

 学校では習えないものが、この世の中にはたくさんある。

 例えば、あんまり仲の良くなかった家族が亡くなった時の気持ちの整理の仕方とか。

 例えば、電車に乗っていたら、猫耳を付けた友達が入ってきた時の対処法とか。

 例えば、言葉の通じない宇宙人に会った時の交流の仕方とか。

 あるいは――学校帰りに通り抜けようとした公園のベンチに、布一枚にくるまれた赤ん坊がぽつんと取り残されているのを見つけた時に、するべきこと、とか。

 

 今日は、これといって特別な日ではなかった。いつも通り、睡魔と憂鬱と戦いながら地元の中学に行き、片方の上靴がなくなっていたからスリッパを借り、座ろうとした椅子を引かれて床に転び、持ってきたはずの教科書が行方不明になり、お弁当が鞄の中で不自然にひっくり返っていて、帰る時には掃除ボックスの中に隠されていた鞄を引きずり出し、スリッパを返して、泥で汚れた靴を履いて学校を出た。いつも通り憂鬱で、いつも通り最低な日々だった。太陽が真っ赤に燃え上がりながら沈んでいくのを見ながら、今日も何とか終えたのだとほっとした。そして、家まで帰る最短ルート上にある、その小さな公園に足を踏み入れたのである。


 その公園は閑散とした住宅街の中にある。周りの住民は高齢者や、子供が巣立ちした中年夫婦ばかりで、その公園で遊ぶ子供を見たことがない。いつも悲しそうにブランコが佇んでいる。

 そんな公園の、古ぼけたベンチに、白い塊がぽつんと置いてあったのである。


 ――何だろう? 僕は純粋にそう思った。もし、そこでその正体に気付いていたら、何も見ていないふりをして、そのまま通り過ぎていたかもしれない。結局、僕は気付かなくて、特に何も考えることなく、ふらふらとベンチに近づいた。そしてその白い塊が、真っ白な布にくるまれた赤ん坊(・・・)だと気付き、心底驚いたのだった。


 その赤ん坊は目を閉じ、すやすやと寝息を立てていた。むにむにとその小さな唇が動く。赤ん坊を間近で見たことがなかった僕は、その予想外の可愛さに、状況を忘れて胸を打たれた。その時、冷たい風が吹き、僕の身体がぶるりと震えた。今は十一月。もうとっくに風は冷たくなり、マフラーとコートを着用する季節になった。それなのに、この赤ん坊は大きな布一枚にくるまれているだけだ。


 寒さで風邪を引いてしまう。僕が思ったのはそんな単純なことだった。状況や善悪の判断は頭から抜けていて、僕は慌てて腕を伸ばすと、その小さな赤ん坊を抱きかかえようとした。しかし、想像以上に赤ん坊って重たい。僕は一旦手を離し、ベンチに腰掛けると、自分の膝に赤ん坊を乗せるようにして、抱き上げてみた。


 赤ん坊は暖かかった。けれども、頬を撫でれば、顔は外気に触れているからか、ひんやりと冷たい心地がした。僕はマフラーを外して、さらに赤ん坊をくるんだ。少しでも暖めてあげようと思ったのだ。

 ひゅるりと風が吹き、曝け出された首を撫でる。その冷たさに背筋が震えた瞬間、僕は我に返った。


 ――どうしよう。


 頭が真っ白になった。

 この世のどこに、自分の赤ちゃんを公園のベンチに置き、公園から出て行く親がいる?

 この赤ん坊は、きっと、捨てられたのだ。

 捨てられた赤ん坊を、僕はどうすればいいんだろう。そんなこと、学校で習ってもいなければ、親に聞いたこともなかった。


 警察に届ければいいのかな、という考えはすぐによぎった。けれども、僕は携帯を持っていなければ、近くに公衆電話もないし、近くの交番はここから歩いて三十分はかかる。僕は赤ん坊を抱いた経験がないから、そこまで無事に運んでいけるかどうか不安だった。無理やりに運ぼうとして、途中で落としたりしたら、と思うと、ぞっとしすぎて頭がくらくらする。


 家に連れて帰るか? 家だって遠い。なら、人が通るまで待つ? 来なかったらどうするんだろう。本当にこの子が風邪を引いてしまう。なら、もう一度ベンチに置いて、交番まで走る? けれども、通報するまでこの子が無事である保証はない。


 どうしよう――と困り果てた時、ふと、声をかけられた。


「その子を渡してくれないかしら」


 近くに人が来ていたことに、まるで気が付かなかった。赤ん坊から顔を上げれば、そこには、一組の男女が立っていた。年齢は二人とも四十代くらいで、女はいかにも気の強そうな顔をしており、ビビットなカラーののワンピースを着こなしている。一方で、男の方はいかにも気が弱そうで、丸い眼鏡の奥で、小さな目があちこちに泳いでいた。


 突然の登場に僕が驚いていれば、彼女は不思議そうに首を傾げた後、もう一度、はっきりとした声音で言った。


「その子を渡して」

「……えっと、あなた、たちは?」


 僕が尋ねれば、女性は「どうしてそんなことを聞くの?」とでも言いたげに眉を寄せた後、またもやはっきりとした口調で述べた。


「私はママ。こっちはパパ」


 女の赤色の爪が、後ろに立っている男を差す。男は恐縮した様に両肩を縮めると、ぺこりと頭を下げた。


「あ、この子のママとパパ……?」


 そうに違いない、と思いながら言ったが、彼女はさらに眉間の皺を深くする。


「ママとパパじゃないわ。MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)よ」

「……はい?」

「その子を渡して頂戴」


 怪しい。あまりにも怪し過ぎる。

 思わず僕は赤ん坊を抱きしめる手に力を込めた。すると女性はムッと唇を歪める。


「何をしているの? 聞きわけが悪いのね」

「いや……その、どうして、この子を?」

「それをどうしてあなたに説明しなきゃいけないの?」


 喉の奥が乾いていく心地がする。


 よくよく女の目を見れば、その瞳の奥で何かがキリキリと動いているような気がした。それは僕の錯覚だろうが、何か得体のしれないものと向かい合っている心地がして、僕は心臓を握られているような気味の悪さを覚えながら、乾いた声で言った。


「えっと……僕、この子の、兄、なんで」


 まるっきり嘘だ。でもこういえば、実の両親ではない限り、ちょっとは動揺するのではないだろうか?

 しかし、その女性は一切動じた様子を見せず、不可解そうに首を傾げた。


「あなたは一人息子でしょ?」

「え」

「佐藤太郎のデータはもう貰ってる。一人息子で、妹はいない」

「……え?」


 ――どうして僕の名前を知っているんだ?

 ぎょっとした拍子に、心臓が激しく鳴り始めた。少なくとも、僕は彼らとは初対面のはずだ。


「どうして、僕の名前を……」

「だから、あなたのデータはもう貰ってるの。何度も言わせないで」


 ハァ、と溜息を吐きながら女性が首を振る。僕のデータを貰っている? どういうことだかさっぱりわからなかった。


「あ、あんたなんか知らないんだけど。誰だよ」

「だから、私はMAMA(マ・マ)でこっちはPAPA(パ・パ)

「名前じゃなくてさ――」

「説明しなきゃいけないの?」


 女性はますます鬱陶しそうな表情になり、眉をひそめた。その時、ずっと後ろでおろおろしていた男性が、やんわりとした声で口を挟んだ。


「まぁまぁ。見ず知らずの相手に、いきなり赤ん坊を渡せって言われても、そりゃ混乱するだろうし。彼には知る権利くらいあるんじゃないかな?」


 こちらの男性の方は、まだ話が通じそうだ。そう言われて、女性は大仰に肩を竦めると、男性の胸を突き飛ばすようにして軽く押し、ふいとそっぽを向いた。


「じゃ、PAPA(パ・パ)が説明して」


 わかった、と男性は頷く。僕は赤ん坊をぎゅっと抱きしめながら、彼を見上げた。彼は優しい笑顔を浮かべると、軽く膝を折り、ベンチに座っている僕と視線を合わせるようにしながら言った。


「僕たちはパラノグラリアという生物だよ。君たちにとっては化け物といってもいいかもしれないね。僕たちは夢の世界から、この地球を侵略しにやってきたんだ」


 ――何が、話が通じそうだ、だ。


 僕は自分の考えを恥じた。女性よりも、この男性の方が危うそうだ。彼はにこにこと微笑んだまま、訳の分からない話を続ける。


「僕らは、この世界の人間によって生み出された。京都の大きな病院で今も眠っている、植物状態の人の夢の中に生まれたんだ。僕らは『夢から現実へ移動することができる』という特性を持って、その夢の中に生まれた。君たち人間のように、夢の世界で平和に暮らしていたんだけど、夢を見ている人間が死んでしまったら、その世界も終わってしまうことに気が付いたんだ。だから、僕ら自身の特性を使って、夢の世界から現実へやってきたんだよ……わかったかな?」


 全くわからない。妄想にも程がある。僕はそう思いながら、違和感を覚えて、男性の目を眼鏡のレンズ越しにじっと見つめた。やはり、目の奥で、何かがキリキリと動いている気がする。

 僕が目を見つめていることに気付き、男性はあぁ、と声を上げ、眼鏡を外した。そして、さらに僕に顔を近づけて、言った。


「歯車だよ。よく見てごらん」


 確かに、それは歯車だった。目の奥で、小さな歯車がキリキリと回っているのが見える。明らかに人間ではありえないものだ。人間の目を覗き込んだところで、見えるのは写り込んだ自分自身である。


 歯車はキリキリと回っている。それは酷く気持ち悪くて、僕は悲鳴を上げそうになった。けれど驚きの余り、声が喉に詰まる。踏み潰された蛙のような声を上げれば、男性は笑いながら僕から身を離した。


「そんなに驚くことかい? まずいなぁ、どうしようか、MAMA(マ・マ)……」

「目の歯車がバレて、この世界に居られなくなったパラノグラリアはたくさんいたわよ。今残ってるパラノグラリアは、目が黒くて、子供にもそれがわからないというだけ」

「そうなの? それじゃあ、僕たち、まずくないかい?」

「だから、出来るだけ人間との接触は避けるの」

「えっ、佐藤太郎は?」

「今回は仕方がないでしょ。佐藤太郎とこの赤ん坊以外との接触はなるべく避けるわ」

「わ、わかった……君も誰にも言わないでね、僕らがパラノグラリアだってこと」


 男性は人差し指を口に当て、「しーっ」という態度を取ってみせる。そう言われたところで、誰に言おうが、信じてもらえる気がしない。

 夢の世界で生まれた生物が、地球を侵略する為に、夢から地球へやってきた?

 ありえない。けれども、人間だと考えると、瞳の奥の歯車の存在がありえない。

 僕の頭がおかしくなってしまったのか? そう思った時、女の手が伸びてきて、僕の腕から赤ん坊をひったくるようにして奪い取った。


「説明義務も果たしたわ。この子は貰っていくわよ」

「ちょ、ちょっと待って! さっぱりわからないよ。どうしてその子を連れて行くの?」


 そこまで尋ねてみて、僕はハッとした。


「もしかして……食べる、とか?」


 そう言えば、女性はあからさまに怪訝そうな顔をする。


「どうして食べるのよ。私たちの子供として育てるの。人間の中に交わって生活するには、子供を持った夫婦のふりをするのが一番いいのよ。本物の人間を子供に出来れば、一番ラッキーだわ」

「僕らより先に地球に来たパラノグラリアはたくさんいるんだけど、家族のふりをして人間に混じった者だけが生き延びたんだ。僕らがそれを踏襲しない理由もないだろ? ちょうどよく捨て子もいたわけだし」


 まるで至極当然のことのようにさらりと言われ、僕は一瞬思考停止した。ベンチで固まっているその間に、彼ら二人は踵を返し、赤ん坊を抱えたまま、それじゃ、と言って立ち去ろうとする。


「ちょ……待って」

「しつこいわね、佐藤太郎。それともこの子をあんたが育てるの?」


 女性は苛立ったようにそう言った。そう言われると、僕は押し黙るしかない。僕にそんな責任は負えないし、僕の家族だって、いきなり赤ん坊を連れ帰ったりしたら困るだろう。


 言葉を失って、思わず俯いてしまった。困ると俯くのは僕の悪い癖だ。一瞬、僕は、俯いた瞬間に、何も見なかったことにしようかと思った。これは瞬きの間に見た夢で、公園で捨て子なんか見なかったのだと。パラノグラリアとか名乗る、訳の分からない男女にも会わなかったのだと。けれども、そう思い込むには、腕にまだ赤ん坊の熱が残っていた。


「こっ、このまま連れて行くんなら、後で警察に通報する」


 僕は両手で拳を握り、何とかそう言った。すると、男性の方が、相変わらず優しげな笑みを浮かべて答えた。


「そこまで心配なら、ついてくるかい?」




                   *


            

            

「つまり、ここは――」


 先生の真っ黒な髪が揺れる。コツコツと、黒板をチョークで叩く音がする。僕は欠伸を噛み殺し、窓の外へ視線を放った。


 昼休みの後の国語の時間は、やけに眠くなる。しかも、昨日はなかなか寝付けなかったから、余計に眠たい。仕方がないだろう。パラノ何とかだと名乗る、わけのわからない男女と、捨て子とに出会って、すやすや眠れる人間がいるなら会ってみたい。


 ――昨日、あの奇妙な男女が赤ん坊を連れて行ったのは、なんてことはない、ただの古ぼけたアパートの一室だった。ろくに家具もない部屋の中央に、彼らはそっと赤ん坊を置いた。僕は出来るだけ扉に近い位置に腰を下ろすと、正座をして、膝の上で拳を握りながら、二人を見比べた。僕史上最大の勇気を振り絞っている心地がしていた。見知らぬ男女についてきてアパートの中に入るなんて、相当危険なのではないだろうか。不安のあまりに心臓を吐き出しそうだった。


PAPA(パ・パ)、彼らに連絡とっておいてくれる? ちょうど良さそうな赤ん坊が手に入ったって」


 女が声をかけると、男はにこりと微笑み、スマートフォンのような機器をもって、ベランダへと出て行った。


「……彼ら、って?」

「先に地球に来たパラノグラリアよ」


 僕が尋ねれば、女は赤ん坊を見つめたまま答える。

 この地球には彼ら以外にも、彼らのような生物がいるのか。僕は不安が増す思いで、唾を呑み込み、喉の渇きを誤魔化すようにして尋ねた。


「それは……何人くらい、いるの?」

「最初にこっちにきたのは、百人くらいだったかしら。でも、今は二人しかいないわ」


 二人。思ったより少なくて、僕はほっとした。しかし、どうしてそこまで減ったのだろうか? 

 僕の疑問が顔に浮かんでいたのか、僕が尋ねる前から、彼女はさらりと答えた。


「パラノグラリアは地球で生きていくのが難しいのよ。地球の法則は私たちを地球人にしようとするけど、パラノグラリアが地球人になってしまったら、夢から現実に移るという能力も失って、夢の世界に戻されてしまうの」


 答えてくれたものの、何を言っているのかさっぱりわからなかった。返事が出来ないでいると、気まずい沈黙が生まれる。もしかしたら、気まずいと思っているのは僕だけかもしれないが。


「えっと……あなたは……ママ、だっけ?」


 母親のことはいつも母さん、と呼ぶので、ママなんて呼ぶのは恥ずかしかった。言葉を見失い、何となくそう呼んだ途端――何か強烈な違和感が起きた。ぐにゃり、と女の全身が揺れたような。それはまるで、テレビを消すときに一瞬起こる、画面の歪みによく似ていた。


 その違和感は一瞬で消えたが、女はぎゅっと両眉を寄せ、不快感を露わにし、低い声で言った。


「ママと呼ばないで。MAMA(マ・マ)よ。間違えないで」

「だから、マ――」


 僕が言いかけると、いきなり口を塞がれた。冷たい手が僕の口を掴むようにして、僕の声を掻き消した。


MAMA(マ・マ)


 女はぎろりと僕を睨みながらそう言った。僕はぞくりとした恐怖心を覚え、口を抑え込まれたまま、こくこくと頷いた。ややあって、冷たい手がゆっくりと離れる。


「ま……MAMA(マ・マ)

「そう」


 ようやく、女――MAMA(マ・マ)は安堵したように微笑んだ。しかし、その目はまだ笑っていない。僕を警戒しているように見えた。


「どうして、そんなに名前にこだわるの?」

「私はMAMA(マ・マ)という名のパラノグラリアよ。別の名前を与えられたら、そういう名前の人間になってしまう。つまりは、夢に戻されるの。しかも、夢から現実へ移る能力を失った、ただの人間としてね。そうなれば、待っているのは、夢を見る人と共に死んでいく末路だけだわ」

「そうなんだ……」


 ――つまり、裏を返せば、彼女たちを別の名前で呼び続ければ、夢の世界へ追い返せるということだ。


 僕はもう彼らがパラノグラリアという生物であることを疑ってはいなかった。その上で、彼らについて、真面目に考え始めていた。


「……地球侵略、って、何するつもりなの?」

「さっきから質問ばかりね」


 くす、とMAMA(マ・マ)が笑う。思わず身を固めたが、彼女はひらひらと手を振った。


「いいのよ。あなたには知る権利くらいあるでしょうよ。……夢の中にいるパラノグラリアをみんなこっちの世界へ連れてくるの。その分、地球の人口は圧迫されるわ。だから、その分だけ、地球人を夢の世界へ送り返す。ちょうど日本の人口と等分じゃないかしら。地球侵略というよりも、日本侵略といった方が正しいのかもしれないわね。私たちはその下準備にきたの」


 僕は開いた口が塞がらなかった。

 パラノグラリアと日本人を交換する、ということだろうか。夢の消滅と共に死ぬのを避ける為に彼らがこちらへ来るのなら、夢に送られる日本人はいずれ死ぬこととなる。あまりにも現実味はないが、確かに日本侵略に違いないと僕は思った。


「それ、どうやるの?」


 僕は思わずそう尋ねたが、それには彼女は首を横に振った。


「流石にそこまで教えられないわよ。教えても理解できないと思うけど」

「……そこの赤ん坊も、向こうに送るの?」


 そう尋ねれば、彼女はにこりと微笑んだ。勝気な笑みだった。


「血は繋がってなくても家族になるんだもの。そんなことしないわ」


 パラノグラリアにも家族の情はあるらしい。僕はほっとしたが、しかし、安心している場合ではないと思い直した。少なくとも、僕自身の安全の保障だってされていないのだ。


 そもそも、どうしてこんなに教えてくれるのだろう? 知る権利があるってなんだ? ――もしかして、この後、早速、僕を夢の世界に送って始末するつもりなのか?

 思わず腰が浮いた。しかし、僕が動く前に、笑みを浮かべたまま彼女は言った。


「さて、十分話してあげたでしょ。そろそろいいわよね?」


 浮いた腰が抜けて落ちる。僕は尻餅を着き、また俯いてしまった。どきどきと心臓が跳ねる。喉がカラカラに乾いていた。何にも楽しいことがないまま、人生が終わってしまう。それなら、もう少し、勇気を振り絞って、いじめてくる奴らを一発くらい殴ってやればよかった!


「――赤ん坊の育て方、教えてくれない?」


 けれども、聞こえてきた言葉は、そんなものだった。顔を上げれば、女は、まるで人間のように、困り果てて両眉を押し下げていたのである。


 僕の答えは、こうだった。


「ご、ごめんなさい、僕も知らないんです……」


 結局その日は、泣き出した赤ん坊を三人がかりであやし、PAPA(パ・パ)がスマートフォンを駆使して情報を集め、オムツを替えたりミルクを作ったりしているうちに日が沈んでしまった。僕は二人が赤ん坊にミルクをあげているのを見ながら、その部屋を出た。一体僕は何をしてるんだろう、と我に返ったのは、自宅の風呂に入った頃だった。




「――佐藤くん」


 ハッとした。前を向けば、先生がこちらを見て微笑んでいる。


「ここでの、『傾城』は、どういう意味?」

「あ……えっと、」


 僕は開けたままのノートを見た。確か、傾城の意味なら、予習の際に調べたはずだった。記憶は正しくて、ぺらりと一枚紙をめくれば、眠そうで汚い字が現れる。


「……君主が心を奪われて、国が滅んでしまうくらいの美人、という意味です」


 そう答えたなら、何故か教室が静まり返った。パッとノートから顔を上げ、先生を見れば、彼女は困ったように眉尻を下げている。ややあって、くすくすという笑い声が周囲から聞こえてきた。


 先生が咳払いし、後ろの黒板を指差す。


「ええっと、ありがとう。聞き方が悪かったかな? 傾城の意味はさっき聞いたから……」


 そう言われて、黒板に目を向ければ、僕が答えたものと全く同じ文章がすでに書かれていた。


「えっと、つまり、ここで、傾城は、どの登場人物のことを指す?」


 先生が優しい声で尋ねる。

 授業を聞いていないことがばれてしまった。思わず顔が熱くなり、心臓が変に早くなる。あちこちから漏れて聞こえてくる笑い声がやけにうるさく聞こえた。


 傾城。傾城を示す登場人物。考えるけれど、焦りのあまり、頭が動かない。顔を真っ赤にしたまま、教科書を睨んでいれば、同情してくれた先生が、「じゃあ、」と違う人を指名し直してくれた――恥ずかしい。


 シャーペンを握り直し、余計な思考を追いだして、一旦は授業に集中する。その時、どん、と衝撃がした。椅子の背中を、後ろの席の男子が蹴ったのだ。くすくすと彼の笑い声が聞こえ、そしてその意地悪な声が言った。


「お前さぁ、友達もいないくせに、勉強する気もないなら、何で学校来てんの?」


 ひっどーい、と隣の席の女子が笑う。僕は何も聞こえなかったふりをして、黒板をひたすら睨んでいた。

 

 

                   *

                

                

 キモイ、という言葉は、僕は好きじゃない。あれこれ意地悪されたり、痛いことをされたりするより、この一言が本当に心に刺さる。たったその一言で、僕の全てを全否定された気がする。今日は鞄も教科書も隠されず、すぐに教室を出れたけど、扉から出ようとしてすれ違った男子に、そう言われた。ただすれ違っただけで気持ち悪いって、どういうことなんだろう? 僕はゴキブリと同じか?


 ――僕はそれ以上考えるのをやめた。靴を履き替え、憂鬱な気分を引きずりながら学校を出て行く。


 今日は、まだましだ。パラノグラリアたちのことを考えていれば、クラスメイトのことを考えなくて済むから。まぁ、日本侵略と、いじめとを比べるのはおかしいとは思うけど。


 パラノグラリアのMAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)。赤ん坊の世話をしている様子を見ている限りでは、そんなに悪い人たちには見えない。けれど、日本人を夢の中に送り込むための下準備をすると言っていた。放っておいたら、僕も夢の中に送られてしまう。僕の人生は散々だけど、でも、だからこそもう少しでも長く生きて、ちょっとでも幸せになりたい。というか、せめて、来年発売予定のゲームをクリアするまでは生きたい。僕の生きる望みだ。クラスメイトにキモイと言われても生きているのはそのお陰だ。


 パラノグラリアを夢の中に追い返すには、違う名前で呼び続けていればいい。だから、MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)を違う名前で呼んでいれば、いつかは消えてくれる。


 ――侵略しに来た敵を追い返すなんて、まるで勇者だ。


 勇者は、たとえ、周りから認められなくたって、褒められなくたって、自分の仕事をやり遂げる。やり遂げてから、誤解されたって、何も気にしない。罵られても、俯いたりしないんだ。僕もそんな風に生きて行こう。侵略者を追い返して、たとえキモイと言われても、僕は勇者だから、と自分を誇りに思って生きて行こう。毅然と前を向いて、凛とした態度をとろう。僕はそんな夢のような妄想を繰り広げながら、またいつも通り、家への最短ルート――パラノグラリアたちと出会った公園に足を踏み入れた。


 楽しい妄想が壊されたのはその時だった。


「あれ? 太郎じゃん」


 公園には珍しく人がいた。しかも、僕をキモイキモイと言ってくる、クラスの男子たちだった。彼らは公園でたむろし、遊んでいたらしく、『キモイ』僕が通りかかったのを見て、明らかに顔を歪めた。


「え、お前、こんなところで何してんの?」

「キッモ、こっち来るなよ」


 ここは公園だから、誰が通ったって何の問題はない。けれども、彼らはここが彼ら自身の王国であるかのように、僕への理不尽な嫌悪感を曝け出しにする。


「ご、ごめん……」


 けれども、僕は言い返すことなんて出来なかった。慌てて踵を返し、公園から出て行こうとして――何で、そういう時に限って、身体は変に動くのだろう。僕は足を滑らせ、その場に転んだ。僕が地面に倒れるのと、爆発的な笑い声が起きるのは同時だった。


「やっば」

「あいつまじキモイわ、何あれ」

「だっさー!」


 笑いって、ポジティブなもののはずだ。それが、他人を傷つける道具に変わるのだから、おかしなものだ。立ちあがろうとして、肩から鞄がずり落ちる。中の教科書が飛びだして、砂に汚れた。拾い上げる間も、笑い声は止まらない。みじめだ。どうしてこんなにみじめなんだろう。勇者だなんて、夢物語だ。こんなみじめな人間は、勇者になんかなれない。


 もう一冊、教科書を拾い上げようと手を伸ばしたら、しかし、それを先に拾い上げた手があった。


「……怪我は?」


 教科書を拾ってくれたのは、MAMA(マ・マ)だった。白い指が、教科書についた砂を払い落とす。公園に大人が入ってきて、男子たちは笑い声のトーンを落とした。けれども、くすくす、という含み笑いは聞こえてくる。


「……MAMA(マ・マ)


 思わず名前を呼んでから、僕はしまった、と口を噤んだ。案の定、呼び名を聞いた男子たちが、また笑った。


「あいつ、親の事、ママって呼んでんの?」

「やべー、思った以上に気持ち悪いわ」


 顔が火を吹くほど熱くなる。思わず俯いてしまった。悪い癖だ。こういう時、毅然と顔を上げ、言い返すことさえ出来たなら。


 そう思った時、理想通りの、凛とした声が響いた。


「ママって呼ばないで」


 ――けれども、内容は頓珍漢だ。


「私はMAMA(マ・マ)。ママじゃないわ」


 顔を上げれば、MAMA(マ・マ)は怒ったような顔をして、男子たちを睨みつけていた。訳の分からないことを言われた男子たちは、ぽかんとした顔でMAMA(マ・マ)を見ている。


 MAMA(マ・マ)は腕を組み、仁王立ちになって、ふんと鼻を鳴らした。


「人が転んだのを笑ったりして楽しいの? 人間って、聞いていた以上に器が狭いのね。あんたたちの方がよっぽど気持ち悪いわよ」


 威勢よくそう言われ、男子たちは顔を見合わせた。何か言い返すだろうと思ったが、彼らはお互いに罪を被せ合うように、おい、おいと肘で突きあうばかりだ。しびれを切らし、またMAMA(マ・マ)が言った。


「何か言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ!」


 すると、彼らはびくんと肩を竦ませ、すみません、と小声で言うと、逃げるように公園を出て行った。お前のせいだぞ、と押し付け合う声が聞こえてくる。


 ……言い返さなかった。


 何だか、高くそびえたっていた壁が、思ったよりも低かったような気がした。何だ、あいつらって、あの程度なんだ。困ったら、何も言えなくなる。僕と同じなんだ。そう思うと、少し気持ちが楽になった。


「ありがとう、MAMA(マ・マ)


 思わず感謝すれば、MAMA(マ・マ)は鼻を鳴らし、首を横に振る。


「何で感謝されてるのかよくわからないわ」

「揉め事起こさないでよー。大事になると、困るのは僕らなんだよ、MAMA(マ・マ)


 困ったような顔をしながら、PAPA(パ・パ)が公園に入ってきた。その腕にはすやすやと眠る赤ん坊を抱いている。どうやら後ろで隠れていたらしい。


「ああいうの、嫌いなの」


 MAMA(マ・マ)は嫌悪感を隠さずそう言った後、僕をぎろりと睨んだ。


「佐藤太郎もちゃんと言い返しなさい。お前の方がキモイんだよバーカとかアホとか何でもいいから言い返しとけばいいのよ」

「お、おんなじレベルに落ちちゃうようなことは、言わなくていいと思うけど……」

PAPA(パ・パ)は気が弱いの! だから赤ん坊の世話も上手くいかないのよっ」


 MAMA(マ・マ)はそう言うと、PAPA(パ・パ)の腕から赤ん坊をひったくった。しかし、赤ん坊はMAMA(マ・マ)に抱かれた途端に目を覚まし、いきなり大声で泣き始めた。慌ててPAPA(パ・パ)が抱き直せば、赤ん坊はみるみるうちに穏やかな顔になり、またすやすやと眠り始める。それを見て、MAMA(マ・マ)は悔しそうに唇を噛んでいる。


「あぁ、もう、赤ん坊って難しいわ。やることがたくさんあるのに、この子にかかりっきりじゃないの。下準備が全然進まないわよ」


 MAMA(マ・マ)は盛大に溜息を吐きながらそう言い、おもむろに僕を見た。


「下準備、手伝う気、ない?」

「……いや、さすがに、ないけど」


 どうして自らの寿命を早める真似をしなくちゃいけないのだ。そう答えれば、MAMA(マ・マ)は「まぁ、そうよね」と肩を竦めた。


「そういえば、その赤ん坊の名前、何ていうの?」


 ふと気になって尋ねれば、MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)はハッとして顔を見合わせた。


「決めてなかったわ」

「え? もともと、ついてる名前はないの?」


 僕が佐藤太郎だということを知っていたように、この子の名前を知っていてもおかしくはない。そう思ったのだが、MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)も首を横に振った。


「この子に関するデータはないんだ。女の子っていうのは確かなんだけど。捨てるところは見てたから、親が何故捨てたのかも大体把握してるんだけどね、名前は言ってなかったし……」


 何故捨てたのか、知っているのか。尋ねようかと思ったが、僕はすぐにやめた。今更聞いたところで、何にもならない。


「じゃあ、名前をつけてあげたら?」


 僕が提案すると、またMAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)は顔を見合わせた。彼らは確かに、と納得するように頷く。先に口を開いたのはMAMA(マ・マ)だった。


「花子にしましょう。苗字は……山田で」

「やっ、それはやめてあげて⁉」


 思わず素っ頓狂な声が出た。流石に山田花子は可哀想だろう。太郎も大概だと思って生きてきたが、その上を行くひどさだ。


「どうして? 可愛い名前だ」

「か、可愛いかもしれないけど……」声が尻すぼみになる。けれども僕は続けた。「そういう、名前は、いじめられる、からさ」


 太郎。僕がいじめられるきっかけになったのは、その名前が原因だった。小学校でも、中学校でも、まず名前で笑い物にされた。名前を笑われるうちに、いつしか人格を笑われるようになり、そのうち、キモイ、と罵られるようになった。本当に僕が気持ち悪いのかもしれないけれど――でも、もし、僕が違う名前だったら、とはよく考える。そうしたら、もう少しマシな人生を送れてたかもしれない。少なくとも、友達はいたかも。


 思えば思うほど憂鬱になり、溜息を吐けば、MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)にも気持ちが十分に伝わったようだった。


「じゃあ……そうね。花、にしましょう」


 MAMA(マ・マ)がおそるおそる、といった調子でそう言った。


「あなたたちの名前を借りて、佐藤花、でどうかしら」


 佐藤花――悪くない名前だ。僕は頷いた。


「いいと思うよ」


 MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)がほっとしたように笑う。僕もつられて微笑んでから、ふと我に返った。


 どうして、侵略者と一緒に赤ん坊の名前決めなんかしてるんだろう。


 MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)は満面の笑みを浮かべ、赤ん坊――花の顔を覗き込んでいる。


「可愛いわねぇ」


 MAMA(マ・マ)がそう言いながら、花のふっくらした頬をつつく。するとまた花は目を覚まし、泣き出す準備を始めた。慌ててPAPA(パ・パ)が腕を振り、あやし始める。日本侵略にきたくせに、赤ん坊一人にてんやわんやらしい。


 ――傾城。


 そんな言葉がひらりと蘇った。まさしくそれだ、と僕は思う。MAMA(マ・マ)も、PAPA(パ・パ)も、花に心を奪われて、本来するべきことを忘れてしまう。本当にそうなったら嬉しいな、と僕は思って、MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)を見つめた。わりと可能性は高そうだ。


 そうだ、と僕は急に思いついた。


 MAMA(マ・マ)PAPA(パ・パ)を無理に追い返さなくても、二人より先に来たというパラノグラリアを追い返してしまえば、侵略の妨げになるのではないだろうか?


 二人が花に夢中になっている間に、何とかして、あと二人の居場所を聞き出そう。素直に教えてくれるとは思わないけど、侵略の下準備も、この様子ではなかなか進まないだろうし、安心して長期戦に持ち込めそうだ。


 日本を守って、勇者になろう。そして、もう何を言われても俯かないで、毅然と前を向いているのだ。それから、言い返してやろう。お前の方がキモイんだよバーカって!

 


                   *

 

           

 家に帰ると、すでに両親は帰っていた。母さんが鍋をしきりにかき混ぜていて、父さんはソファーに座ってテレビを見ている。カレーの匂いが鼻腔をくすぐった。


 ――ふと、いたずら心が胸に芽生えた。


 小さい頃から、僕は両親のことを母さん、父さんと呼んでいた。ママ、パパだなんて呼んだ覚えはない。もし、そう呼んでみたら、二人はどんな反応をするだろう? 


 僕はうきうきしながら、いたずらを実行してみた。


「ただいま、ママ、パパ」


 どきどきと胸が高鳴る。さぁ、うちのママとパパはどんな反応をするだろう?


 すると、母さんが言った。


「ママと呼ばないで」


 静かな声だった。


「母さんと呼びなさい。ずっとそう言ってきたでしょう」


 鍋をかき混ぜていた手が止まる。母さんが僕を見る。今まで笑いながらテレビを見ていた父さんも僕の方を見ていた。二人とも、少しも笑っていなかった。その真っ黒な目に、僕が写り込んでいる。


「母さん、よ。ママじゃないわ。母さん」

「そうだ。父さんだ。パパじゃない。父さん」


 僕は思わず俯いた。何も言えないでいれば、二人は繰り返す。


「母さんって呼びなさい」

「父さんだ。父さん」

「母さん」

「父さん」

「母さん」

「父さん」


 言い聞かせるように、何度も、二人は繰り返す。僕は床を睨んだまま、顔を上げることが出来なかった。もう一度、二人と目を合わせてしまったら、その目の奥に、キリキリ(・・・・)と動く歯車を見つけてしまいそうな気がした。

                     


僕は勇者になれない。

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