パンと塩を食べても真実を言え
テーブルの上の温かいスープと、肉汁の溢れるローストチキンが空気を彩るように香ばしさを振りまいていた。それに負けじと多種多様なパイがテーブルに所狭しと並べられたが、これが何よりも絶品だった。肉や魚、キノコや野菜を詰めて包み焼きにしたパイを『ピローク』と呼び、モースコゥヴではスープと一緒に出てくることが一般的だ。レイラはキノコが大好物なのだが、キノコのピロークが格別に美味かった。一口サイズに分けて、それをスープに漬けて食べると更に味にアクセントを与えることもでき、飽きが来ないのだ。
普段、小食な彼女であったが、幼馴染との会話も弾むこともあり、ステキな夕食にお腹一杯食べてしまう。
「ピローク、凄くおいしいね」
「だろう。オレもここのピロークは病み付きになってる。なんでこんなに美味いんだろうな?」
「素材かなあ?」
「レイラは調理できるのか?」
「……全然できない……」
「ははは、魔法使いになっても料理の腕は関係ないのか」
「魔法関係ないしっ……」
いつしか二人の会話はもう壁などなくて、自然な物になっていた。ユーリが軽くレイラを茶化し、レイラはそれに口を尖らせ反論しながらも、その瞳は楽しげに煌めいていた。
これが幸福と言わずなんというのか。このひと時がいつまでも続いて欲しいと願うのに、ラカニトのボトルは空になって、テーブルの上の料理も減ってくる。やがて訪れる晩餐の終わりが近づくことが物悲しい。幸せを実感すると、それがいつまでも続くものではないとレイラは良く分かっている。それを思い知らされたのが、あの御前試合の日だったから。
いつまでも変わらないことなど不可能なのだ。
この夢のような再会の宴もいずれ終わりがやってくる。楽しそうに笑うユーリを見つめれば見つめるほど、少女の心の内側でまたこの笑顔と離れ離れになることが怖くなってくるのだ。
「ユーリは、騎士団に入ってからどんなことがあったの?」
少しでもこの時間を長引かせたくて、レイラはユーリに話題を振った。
ユーリのこれまでを聞きたかったのは事実だが、その内面ではもっと大きな想いが歪に蠢いていた。
――告白をするべきなのか? ということに関してだ。
この夕食で二人はもう打ち解けたと思っているが、二人を『幼馴染』に戻したからこそ、『恋愛』に結びつくのが遠のくのである。
今、二人は、あくまでも『幼馴染』という関係を取り戻したに過ぎない。恋愛感情も、男も女も無かったあの頃にだ。
だから、今この時に、告白をするのは少しばかり空気が違っているのではと、レイラは感じてしまう。そんなレイラの渦巻く想いをユーリは気が付くこともなく、質問に素直に返答する。
「最初三年間はずっと見習いでな。徹底的に扱かれたよ。遠征にも行って未開の地で一ヶ月生き抜くとかさ。それに礼儀作法や決まり事を叩き込まれた」
「そっか、だからあんなに立派になったんだね」
「オレなんか、立派でもなんでもないさ」
ユーリはほんの一瞬だが、ふっと苦笑いを浮かべたのをレイラは見逃さなかった。
先ほども似たようなやり取りをしたが、その時もユーリは自分を卑下するように顔を曇らせていたのだ。何か騎士の生活の中で問題を抱えているのかも知れないが、レイラはそこを踏み入って良い所なのか判断できずに「そんなことないよ」と相槌を打つしかできない。
少し空気が落ちてしまったことで、この会談は御開きになりそうな流れを生み出していく。それが何より怖くて、レイラは話題を変更しようと頭をめぐらせた。
やがて思いついたのが、彼との王宮でのファーストコンタクトの際の言葉であった。
「……そ、そういえば、ユーリ。最初に王宮で道案内をしてくれた時に、『氷柱』のお話、してくれたよね」
「ああ、そう言えば……」
「あれはどういう意味なの……?」
確か、氷柱を毎日折っていると、その内慣れるとかそういう話だったと思うがレイラにはその真意が見えないままであった。いい機会だし、ここで『氷柱の人』の秘密を解明するのもいいかもしれない。
ユーリはその質問に恥ずかしそうな作り笑顔を浮かべ、そして、なぜだか椅子から立ち上がり、姿勢のいい直立をして見せた。
「どうだ?」
「……え?」
質問に質問が返ってきてレイラは首を傾げてしまう。何がどうだと言っているのだろう。
不思議そうな顔をするレイラの表情を楽しんで、ユーリはニカっと少年の時そのままに笑った。
「デカくなったろ」
「あっ、うん……。か……、大きくなったね」
思わずかっこよくなったと言いそうになって、レイラは言葉の選択肢を直前で変更した。
かつてユーリは十二歳の頃、レイラと身長が大して変わりなかった。それがこうやって改めてユーリを見ると、立派な男性の背の高さまで成長している。今や並び立つと、レイラの頭の位置に彼の肩がくるほどだ。
レイラの身長も並より少し低めではあるが、それでもユーリは頼もしい肉体を鍛え上げたのだと分かる。
ここに連れられてくる最中、腰に手を回されエスコートされていた時にレイラは密かに思っていたのだ。彼のしなやかで丈夫な体つきとその成長を。
「でもさ、オレ騎士団に入りたての頃はチビの中のチビでな。騎士団に入ったヤツの中で歴代一、小さいと言われたよ」
確かに、十二歳の時のユーリは同い年の男の子と比べても小さかった。だからこそ、レイラはユーリのことを怖がらずに仲良くなれたというのもあるが。
「だから、最初は他の先輩騎士達からはバカにされててさ。剣の腕じゃ負けないと思っていたのに、王宮騎士の中ではオレの剣なんて児戯のようなもんだったんだ」
「うそ……。ユーリ、あんなに強かったのに……」
ユーリの御前試合の活躍は今でも思い出せるくらいに素晴らしいものだった。何せ一撃たりとも相手の剣を受けずに勝ったのだから。
それでも騎士団に入れば大したことなどないということか。国の誇る戦力の一員とはそういうものなのだろう。王宮騎士は伊達ではないのだ。それはレイラ自身も思い知った口だった。自分の魔法の腕はそれなりにあると自信を持っていたが、いざ王宮魔術師の先輩の技術を見てみれば、自分はまだまだ駆け出しなのだと良く分かった。
「ま、そんなこんなで最初は先輩騎士達から相当扱かれてな。ともかく先輩方のように強く逞しくなりたかったんだ」
ユーリの告白にレイラはうんうんと頷いてはいたが、結局氷柱の話はどこへ行ったのだろうかと頭の隅でもやもやしていたのだが、ユーリの話は続いた。
「で、ある日、軒下にできた氷柱を見て思ったんだ。あの氷柱を簡単に折れるくらいに背が大きくなれば、とな」
「あ……氷柱……」
「そう。その日からオレは毎朝氷柱を折ることを始めた。最初は飛び跳ねても氷柱の先しか折れなかったが、毎日日を重ねるごとに、オレの手は氷柱へと届くようになった。今はもう、簡単に右手で氷柱に手が届く」
ユーリは軽く拳を作って上に向けた。
これまで小さかった自分に対して色々とコンプレックスがあったのかもしれない。それを騎士団で際立たされることになり、彼は彼なりに苦悩したところもあるのだろう。いつしか自分の中で決めた理想の男への見定めに、ユーリは氷柱を見つけたということか。
(ユーリらしい……)
「そういうワケでな。オレは今でも王宮内の氷柱を折るのが、なんだか日課になってしまっていて。あの時は、毎日続けていれば直ぐに慣れると言いたかったんだ」
最後の方は自分でもバカな話だろ、と云うように照れながら上げていた拳を力なく開き、ゆっくりと席に座りなおした。
「男の子ってすごいね……。こんなに大きくなるんだもん……」
ユーリの成長っぷりにレイラは心から感心して改めて、ユーリは男の子なんだな、なんて考えていた。今の氷柱を背比べの目標にしたなんて実に男の子っぽい。自分じゃ氷柱なんて見上げても、冷たそうくらいにしか思わない。
「レイラだって……。女性って、凄いなと……思うが……」
「……え? そんなことないよ……私……こんなだし……」
何故だか、ユーリは赤くなりながら不明瞭な言葉でそんな風に言うから、レイラはすっかりお世辞なのだと思った。ユーリが騎士団時代に叩き込まれた作法の一つ。女性に対する紳士の心だろうと。
実際、自分の体は自分が一番分かっている。とてもじゃないが、貧相だ。レイラは自分の体をユーリに開いて見せるみたいに軽く腕を広げて見せたが、ユーリはふいと横を見てしまった。
そんなユーリの反応を受けて、レイラの中で渦巻いていた『告白』の思いは萎みだしていく。
そうだ、こんな情けない自分で告白なんておこがましい。せめてするにしても、ユーリが男を磨いたように、自分も女性を磨かなくてはならないのだ。そうしてないと、一緒に並べない。今日、こうして共に食事をしたのは、それを気づかせるために神様が与えてくれた機会なのだ。
今日は告白の機会ではなく、自分とユーリの差を明確に理解するための日だったのだと、レイラは考えた。
そして、人知れずレイラは胸に誓う。
(――告白は、する。でも、今日じゃない。私も、女の子を磨くんだ……綺麗になって、ユーリに相応し
い女性になる。私にとっての氷柱は、ユーリなんだ……!)
そして、いつかユーリの隣に居てもいいのだと思えた時。その時こそ、告白しよう。
そう心に誓いを立てた時、レイラは「うん」と一人呟いてやる気を固めるのだった。そんな様子を見て、ユーリがきょとんとした。
「なんだ、どうかしたのか?」
「ううん――。でも、やっぱりユーリは、私にとって『氷柱の人』でいいみたい」
「な、なんだそれ……?」
「へへ、へへへ……ひみつ……」
恥ずかしいので、レイラはそのままうつむいてしまい、笑うだけであった。そんなレイラを暫しぽかんと見つめていたユーリだったが、なんだかレイラがとても満足しているように思えたから、彼はふっと柔らかく目を細めた。
すっかり料理もお酒も空になり、再会の宴は名残惜しくも終わりの時がやってきた。
二人は最後に見つめあい、笑顔で互いに「今後とも、よろしく」と挨拶をするのであった。
店から出た後、雪はもう降ってはいなかったが寒さが一段と厳しくなって、冷気が二人の間を走り抜けた。
レイラは、うっと身を小さくさせて寒さを堪える。
「すまない。本当は送ってやりたいんだが、オレはこのまま王宮に戻らなくてはならなくて……」
「い、いいよ。大丈夫。もう子供じゃないんだよ……」
「子供じゃないから……送りたいんだが……」
ひゅぅっと吹き抜ける風に紛れたユーリの声はレイラの耳には小さすぎて拾いきれなかった。ユーリが何やらむず痒そうな顔をしてもごもごとしていたので、なんだろうとは思ったが、ユーリはこの後王宮に戻らなくてはならないらしいし、あまり引き止めるのも悪いだろう。
「ユーリ、今日はありがと……。逢えて、本当に嬉しかったよ……」
「それはオレもだ……。また……こうして……、二人で逢いたいんだが……」
ユーリが心苦しげに苦々しく言う。レイラもその言葉に、あぁ――そうだよね。と少しうつむく。
そのまま暫し、二人の間に沈黙が響いた。
冷たい夜のモースコゥヴの街中で、幼馴染の二人から、徐々に大人へと戻っていく。――魔法が解けて行くようだった。
レイラが目の前の青年を見つめると、彼はなんだかとても真剣な目をしながら、固まっていた。
「だめか……?」
ユーリが妙なくらい重々しく、訊ねた。彼の口から白い息がはぁっと塊をつくって掻き消えていく。
「へぁ……?」
何がダメなんだろうとレイラは一瞬悩んだ。直前のユーリの言葉を脳裏で反芻して、『また二人で逢いたい』と云ったことに対しての『ダメか?』という問いなのだと気が付くのに少し間があった。
てっきり、「逢いたいのだが、仕事もあるし難しいな」と言葉が続くのだと思っていたからだ。今日は久々に逢ったから『特別』に二人で逢ったのだとレイラは考えていたのだ。だから、『今後は中々こんな機会はやってこないだろうが』、という意味での言葉だと思っていた。
でも、違う――。
ユーリはもう一度、二人で逢いたいと言ってくれたのだ。
「で、でも……ユーリはお仕事が大変じゃない? 私なんかと会ってたら怒られない……?」
「仕事は……そりゃ大変だ。だけど、全然会えないなんてことはないから、御互いの都合が付けば、今日みたいに食事くらいは……できるさ」
寒さのせいか、二人の頬は赤味を帯びていた。静かな凍りづいた雪の残るなか、凍えるような寒さが吹き抜けていく。
だが、レイラの心臓はそんな寒さをねじ伏せるみたいに熱くなって、ドコドコと鼓動を高めていくのである。
「レイラ……。王宮ではオレは親衛隊の一員だ。うかつなことは許されない。オレは……今日久々に『オレ』に戻れた気がする……。お前がそうさせてくれた……」
「そんな、私はなにも……。それに、ユーリに会いたかったのは、私も同じだから……」
「じゃ、じゃあ……?」
「で、でもね、私も目標ができたの……。だから、あのね、氷柱のこと……折れるようになるまでは、ユーリと逢っていいのかなって、わかんなくて……」
ユーリに相応しい女性になると決めた矢先である。その目標が達成できるまで、レイラはユーリの隣にいてもどこか不安を感じてしまう。ユーリの隣に居てもいいのだろうかと。
だが、ユーリ自身は、レイラと会いたいと言ってくれているのだ。ならば、もうそれでいいのではないか。自分で決めた目標のために、ユーリと逢わないのは、本末転倒ではないだろうか?
しかし、だ――。
ユーリが言うには――。ユーリが『オレに戻れるから』と云う言葉を受け取るならば、つまりレイラとは幼馴染との関係から抜け出さないという言葉としても受け取れるのだ。
ユーリの希望は、昔を思い出させてくれるレイラという幼馴染との時間が欲しいというものだ。
だが、レイラはそうじゃない。ユーリとは幼馴染の先の関係を求めているのだ。
ならば、このままのガリベン魔術師レイラで会い続けても、進展はないのではないかと考えられた。ユーリに、レイラという女性を意識させなくては、彼と恋仲になることはできないのだから。
だから、レイラはユーリの誘いに素直に首を縦にはふれなかったのだ。
そんなレイラの反応を見て、ユーリは何を思うのだろうか――。少しばかり寂しい顔を見せて、ユーリは大人しく身を引いた。
「……そうか。そうだな。お前は今まさに王宮魔術師として頑張りだしたのだ。夢もあるだろう。それを邪魔するつもりはないんだ。すまなかった」
その言葉は、ユーリのものであり、親衛隊員の言葉でもあった。
二人はもう、子供じゃない――。
「ユーリ……」
「レイラ、お前の目標が叶うことを祈っているよ。次にこうして会う時は、レイラの祝賀会にしよう」
(ユーリ……ほんとは私も逢いたいよ……毎日だってこうしていたいよ……)
「じゃあ、また明日。王宮で――」
(でも、今のままの私じゃ、だめなの……ユーリ……。ごめんね、ユーリ……!)
全て自分の情けない人間性が原因だ。
自分に自信が持てず、人と比べて、求める先は自己満足でしかないかもしれない。
だが、レイラはこのままユーリに寄りかかるだけでは、女として、人として、大人として成長できないと思ったのだ。
レイラは今、はっきりと分かった。
(私、嫉妬してたんだ。ユーリの成長っぷりに……! 同じ幼馴染なのに、私はこんなにかっこ悪いって……勝手に枠にはめ込んだ! ……私、変わりたい……。変わらなくちゃだめだ!)
ユーリが王宮へと去っていく背中をレイラはしっかりと見つめ続けた。
今はこうして後ろから背中を見るだけだ。でも必ず、隣に並び立つと、そして傍で微笑むと決意した。
「ユーリ!!」
全力の声でその名を呼んだ。
ユーリのその姿がぴくんと止まり、そして、黒いコートが振り向いた。
「わたしっ! ユーリに負けないから!」
ひゅうう、と冷え切った風が首すじをなでる――。不思議とその寒さが心地よかった。
「いつも、見てる」
ユーリはそう言って、さっき見せたように、右手の拳を天に掲げた。寒い夜空の輝く星を掴むように、その手は凛々しく真っ直ぐに伸びていた――。