冬が空にとどまったきりになることはない
異国の楽団は素晴らしい演奏と詩を送り、カミツレ隊を激励すると、王都の方に戻っていった。
やがて、カミツレ隊はパレード用の赤い馬車を降りて、街の外の防壁にある出口までやって来ると、整列した。王都を囲う石造りの防壁は戦前からの名残ある古めかしい造りで、年代を感じさせる。
華やいだ王都から、ここを抜け出るとそれはもう別の世界ではないかと思うほど自然が広がる。
レイラも何度かユーリとのデートで、王都の外に出ては二人の時間を楽しんだことはあれど、ここから先、遠征のために外に出れば、暫くこの地には戻ってこれなくなる。
古めかしい防壁の出口は、そういう、境界線のように見えた。
「カミツレ隊の貢献を期待しています」
「はい。ここまでの護衛、ありがとうございました」
アントンが、拳を胸に添えるようにして敬礼した。クリアーナは頷き、カミツレ隊に向け、サーベルを抜き、そして天に掲げた。
「国の礎となる貴方たちに、栄光あれ!」
日光を反射させ、きらりと神々しい刀身が輝く。親衛隊からの激励を受け、レイラたちカミツレ隊は改めて顔を引き締めた。
いよいよここから、住み慣れた王都を離れ、旅が始まる。
親衛隊の護衛はここで終わり、次の町まで普通の馬車を走らせてからは遠征用の大きな馬車に乗り換え、現地の騎士が護衛を引き継ぐことになるのだ。
クリアーナの隣に、ユーリも静かな表情で佇んでいる……。
もうここまで来て、後に引くわけにはいかないし、できない。
レイラは、胸の中に大きく膨らんだユーリへの想いを零れ落ちないように抱えて、歩き出した。
カミツレ隊が馬車に乗り込んでいく中、レイラは一番最後に、馬車に乗る――。
正真正銘、ユーリに何かを伝えるなら、これが最後のチャンスだった。
しかし、何を伝えればいいのか。レイラは頭の中が真っ白だった。
ただ、ユーリの傍に居たかったという気持ちだけが重みを持ってずっしりと心臓を落ち込ませるようで、口に出して言葉を伝えようとしても、この場では相応しくないものばかりが浮かび上がってくる。
――離れたくない、とか。
――愛している、とか。
この場でそんなことをユーリに言えるはずもない。
彼は親衛隊の騎士で、レイラはカミツレ隊の魔術師なのだ。
だから、レイラは魔術師たちが一人、また一人と馬車に乗っていく後ろ姿を見つめながら、自分の番がやってくるのをどうしようもなく待つしかなかった。
すぐ、傍にユーリが居るのに。
振り向けば、ユーリの目を真っすぐに見つめることができるような距離にあるのに。
しかし、レイラは振り返れない。
振り向いて、ユーリと目があったら、自分の中の隠さなくちゃいけないものが、ポロポロと零れてしまうと思ったから。
さらさらとした心地よい春の風が吹き抜けた。
その時、レイラは自分の赤い髪が風に舞わされて、くすぐったさを感じた。それで少しだけ、顔を俯かせた――。
花の甘い香りが、したような気がした。
「きみ」
レイラが、最後の一人として馬車に乗ろうとしたその時だった。
背後からの声に、レイラはぴたりと静止した。
ユーリの声だとすぐに分かった。
レイラは一瞬、振り向いていいのか分からなくて、動きを止めたまま、背中をユーリに向けて、固まっていた。
自分のことを、『きみ』と呼ぶユーリは、恋人の彼ではない。親衛隊のユーリだ。
だから、そういう相手に向けた表情を用意して、彼に振り向かなくてはならない。レイラは、呼吸を止めながら、振り返った。
自分でも、その時の表情は硬くなっていただろうと、想像できる。
レイラが振り向くと、すぐ傍に、ユーリが居た。
香りが――甘い香りがしたのは、春だったからなのだろうか?
それとも、彼が傍に来てくれたから?
芳香剤の香りが仄かにした彼は、誰にでも向ける優しい騎士の表情でレイラを見下ろしていた。
そして、その手に、小さな本を持っていた。
「落としましたよ」
「……えっ?」
そう言って、ユーリがその手に握っている本を手渡して来た。
片手で持てる程度で、厚さもそんなに分厚くない。日記のような、どこか味気ない赤茶色の表紙はどこにでもある何の変哲もない本に見えた。
見覚えのない本に、レイラは瞬きをしてしまう。ユーリは、この本をレイラが落としたと言っているようだが、レイラはこんな本は見たことがない。
「ちが……」
自分のものではない、と言いかけそうになったレイラの、その言葉を最後まで言わせないように、ユーリが続けた。
「早くしないと、出立が遅れます」
そう言うと、半ば強引に、レイラの手に本を受け渡した。
レイラは勢いに飲まれてその本を受け取り、思わず、「す、すみません」と謝った。
受け取った本を、レイラはまだ良く分からないまま、胸に抱きしめた。
それを確認したユーリは、満足そうに頷いた。
「お元気で」
「はい……」
ああ――、これが最後だ。
レイラはそう思った。これがユーリとの最後の交流なんだ。
彼の顔を、覚えていたい。
レイラは、真っ直ぐ、ユーリの目を見つめた。
金色の優しい瞳が、暖かい光を宿して、レイラを慈しむように向けられている。
だから、レイラも、自分のことを忘れないでいて欲しくて、最高の、自分の顔を、ユーリに見せたかった。
笑顔だ。
レイラは、にこり、とほころんだ花弁のように、笑って見せた。
行ってきます、と伝えるその言葉に乗せて。
「行ってまいります」
そして、紅の艶やかな髪を靡かせるように、振り返って馬車に乗り込んだ。
馬車が走りだし、小窓から覗くと、ユーリとクリアーナが、小さくなって見えなくなっていく。
彼らはずっと、こちらを見つめ続けていてくれた。
カミツレ隊の未来を見守るように――。
**********
レイラは、馬車の中でユーリから受け取った『落とし物』を確認していた。
もしかしたら、この本はユーリからの言葉を綴られた日記か何かかもしれないと、レイラは想像していた。
これから遠く離れてしまうレイラに寄せて、想いを綴ってくれたのであれば、レイラはこれから先、遠征の中でもやっていけると思った。
「その本、なに?」
レオンが、レイラが大事に抱えている本に興味を持ったようで、首を傾げていた。
もし、これが本当にユーリからレイラに向けた想いが綴られている本だとしたら、それを人に見せるわけにはいかないので、レイラは「落とし物です。魔法の研究の、メモ帖です」なんて、適当な嘘で誤魔化した。
レオンが「そっか」とすんなり納得してくれてほっとした。レイラは、この本の中身を見るのは、一人の時間が作れた時だなと考えていた。
表紙を見ても、特別何か書いていないし、本当に中身がなんなのか、さっぱり分からない。
しかし、ユーリが自分のために用意してくれた『本』であることは間違いないだろう。
落とし物だなんて嘘を吐いてまで、彼はこの本を手渡してくれたのだから。
今乗っている馬車は四人用の馬車で、アントンとベラはまた別の馬車に乗っている。
この馬車で隣町まで走り、そこから遠征用の大型馬車に乗ってカミツレ隊は、ペトロツクへと旅立つ予定だ。
馬車の中でパレードで緊張しっぱなしだった魔術師たちは暫しの休息と言うように、身体と心を安らげていた。
やがて、心地よい馬車の揺れに微睡む頃、目的の町に辿り着いた。
少し遅めの昼食をそこで取り、その後、遠征用大型馬車に乗り換えて、カミツレ隊は出発となる。
隣町の酒場でカミツレ隊が食事をする中、レイラはベラに声を掛けられた。
「どう、レイラ。気分は」
「はい、大丈夫です」
「そっか、良かった」
レイラは、ベラがそう言って笑うのを見て、アントンとのことを考えていた。
パレードからここまで、アントンとベラは同じ馬車で過ごして来た。気まずかったのではないだろうかとレイラは心配していたのだ。
王宮を出る時のローザの言葉が脳内で蘇った。
ベラを支えられる友人であるローザはもう、ここにはいない。これからも彼女を頼れない。
今からはレイラが、ベラの友達として彼女の力になるしかない。
「ね、レイラ。あんた、隊長に喧嘩売ったんだって?」
と、面白そうな顔をして、ベラが言って来たので、思わずレイラは飲みかけの水を喉の変なところに入れてしまってむせた。
「えほっ、ごほっ! け、喧嘩なんて、売ってませんっ」
「でもアントン隊長が言ったのよ。人の努力を無視するような人は、馬に蹴られて地獄に落ちろって言ったそうじゃない?」
「そ、そんなこと言ってませんよ!」
確かに、アントンにベラの努力を、無視するような不誠実なことをするなとは言ったが、馬に蹴られて云々は、流石に盛っている。
アントンが話を盛ったのだろうが、その話題を口にしているベラの表情を見て、レイラは少しだけ、おや、と思った。
なんだか、雰囲気が違っていたのだ。
ちょっと前みたいに、ギクシャクとした様子はなく、昔のベラみたいに、アントンのことを心地よい音色で語るのだ。
「ありがと。たぶん、レイラのお陰」
「……私は、特に何もしてません……。できませんでした」
「ううん。隊長が言ってた。『忘れることもあるなら、思い出すこともあるのが、未来なんだなぁ』って」
それは、レイラがどうにかしてアントンに伝えたくて吐き出した精一杯の言葉だった。
未来を見ることは、過去を捨てるばかりに繋がらないと、彼に伝えたかったのだ。
「さっき、パレードの時、霧雨の魔法を使ったでしょう」
「あ……はい。綺麗でした」
「あの時、隊長がアタシの手を握ってくれたの」
「えっ」
「それで、謝ってくれた」
はにかみながら、ベラは言った。
あの時、先頭の馬車でアントンとベラがどんな会話のやりとりをしたのかは、はっきりわからない。
でも、その笑顔は、ベラの中にあったどんよりとしたものを吹き飛ばすだけのものがあったと伝えていた。
「少しずつで、いいかな」
――アントンはそんな風に言って、ベラの手を取ったという。
その時の、手のぬくもりは、ベラにとっては特別だったらしい。
レイラの知らないベラとアントンのこれまでの中で、ベラはアントンの掌を握り救われたことがあったようだ。
「――レイラ、覚えてる? 念話魔法の企画書を作ってるとき、レオンが青生生魂を持って来た時のこと」
「えっ、はい。覚えています」
ちらりと、遠くの席で揚げパンを食べているレオンを見て、頷いた。
あの時、希少な鉱物である青生生魂をレオンが持って来たのは驚かされた。彼はその入手先を誤魔化していたので、少しだけ不安もあった。
「あれさ、問い質してみたら、レオンが用意したわけじゃないみたい」
「もしかして……アントン隊長が?」
「うん……。レオンが用意できるような代物じゃないもんね。あれ、アントン隊長が念話魔法のために用意したものみたい」
「じゃあ、どうしてレオン先輩に渡して、届けたんでしょうか?」
青生生魂の出所がハッキリわかって、レイラは腑に落ちたところと落ちないところがゴチャゴチャして好奇心が刺激されてしまう。
アントンが用意したのなら、自分でそのままレイラたちに手渡せばよかったのにと考えた。別段、隠すことなんてないはずだろう。
「青生生魂は、魂の宿る生きた鉱石だって話は知ってる?」
「はい――。鉱石の内側に灯る蒼い光が、魂のように見えるから、だとか……」
「隊長は、まだ奥さんのこと、愛してる。ううん、これからもずっと愛し続けるんだと思うんだ」
レイラは、そう言ったベラをじっと見つめた。
今の彼女の言葉からは、何も昏いものを感じなかった。本当にその事実を受け止めているのだろう。
すごいな、とレイラは感心していた。
自分に重ねて考えても、できることじゃない。
ユーリが姫を一番に考えて日々を暮らしていることを、どうしても気にしてしまうレイラには、ベラのその姿勢に、女性としてなんと気高いのだろうと思わずにはいられない。
「隊長は、アタシのジルコンに気が付いていたと思う。でもわざと見えないフリをしてた」
そう言って、困った様な笑顔を浮かべて、
「不器用な人だから」
と、さわやかな溜息を吐き出した。
「……あの青生生魂は、奥さんのために研究していた念話魔法の実験材料だったみたい」
「えっ!?」
レイラは思わず声が大きくなってしまって、すぐに自分で口元を抑えた。
あの青生生魂がそんなにも大きな意味を持った物だと考えてもいなかった。希少な鉱物だという価値しか見出していなかった。
言ってしまえば、あれはアントンの妻の形見だったのかもしれない。
「それを、アタシたちに渡したの。それってどういう意味だろうね」
「……」
「隊長は、奥さんをずっと想っているから、その記憶が詰め込まれたものは、特別に大事にすると思うんだ」
「はい……」
「でも、青生生魂をアタシたちに渡した。自分からの贈り物だなんて言わなかったのは、きっと――」
その先を、ベラは言わなかった。
言葉にすると、真実が歪になるからだろうか。その感覚を、レイラは知っている。
レイラも想像してみた。アントンがなぜ、亡くなった奥さんの思い出の品である研究材料を、自分たちに渡したのか。
きっとアントンも、未来を信じたいのだろう。しかし、大切な思い出を手放すこともまた、アントンの内側にある闇に触れる。繰り返される日々の中、確実なものが曖昧になって、妻の幻影が崩れていく恐怖に怯えていた彼は、どんな些細なものであれ、妻の思い出を掘り返せるものならば、それを大事に保管し続けたいと願っただろう。
アントンはあの青生生魂の中の魂に、妻の命を見ていたのかもしれない。
亡くした妻の思い出か、部下たちが作り出す魔法使いの発展か。
それを秤にかけ、アントンは答えが出せなかった。
そんな時、レオンを見て、『思い出した』のかもしれない。彼が王宮魔術師になったばかりの時のことを。
かつてレオンは空回りをしては失敗を重ねて自暴自棄になっていたらしい。
そんな彼に一つの『罰』を与えたのは、他でもないアントンだった。
雪かきという、なんだかいまいち噛み合わない『罰』を。
それは『罪悪感』を消すための免罪符のような罰だった。
愛した妻を忘れてしまう罪悪感に苛まれ、それを辛いことだと彼は思っていたのかもしれない。愛していた妻なのに、記憶がぼんやりとしてくるのが、薄情に思えたのだろう。
罰して――いや、救ってほしかったのかもしれない。そんな自分を。
アントンがたどり着けなかった念話魔法の研究をレイラとベラに手渡して。
しかし――アントンはベラのジルコンを見ていたから……。直接、青生生魂を手渡せなかったのだ。
ベラがアントンに慕情を向けていることを、アントンは分かっていたはずだ。
そして、ベラに向き合うことは、妻に対しての最大級の罪悪感を生む。それに、例えベラの好意を受け止めたとしても、胸の中に愛している妻がいるのだから、ベラだけを愛せない男は彼女を不幸にすると考えていたのだろう。アントンは責任感が強い男性だから。
だから、アントンは、レオンを通じて、自分からの贈り物であることを伏せたのだろう。
人が人を想うからこそ縺れたその行動の影は、どうしようもなく哀しい愛に塗れていたように思えた。
「不器用なんだ、あの人……」
そう言ったベラの柔らかい笑顔は、もしかしたら、と思わせる力を持っていた。
「レイラに説教されて、ちょっと目が覚めたみたいだったよ」
「私、失礼なことしか言ってません……。アントン隊長の心の傷をほじくるみたいなことを、生意気に……」
「それが良かったんだと思うよ」
「……え?」
「ウチの中で一番の新米だからこそ、アントン隊長は動いたんだ」
「どういう、意味ですか……?」
「だって、あんたが一番、明日を見ているんだもん」
結局――。苦しみ抜いたアントンは、未来を選んでくれたんだろう。
レイラという、一番未来を見ていられる若い魔術師が、煌めく可能性を示したのだ。生きている人だけが未来を作る。笑顔を作るのものは、明日にあると。
念話魔法を成功させたいと、必死に魔術書とにらみ合いをしていた毎日。
愛する人と離れる未来を知りながら、その方向に進むしかなかった足取り。
人の為に役に立ちたいと、レイラがひとつ、大人の階段を上った眼差しが、錆びた鉛の瞳を、ほんの少しだけ磨き上げたのかもしれない。
「ねえレイラ。パレードの一番の後ろの馬車に乗ってて、どうだった」
ベラの問いかけに、レイラは思い出した。
自分の魔法で作った虹の下、子供がはしゃいで回る姿に、幸せな力が感じられた。
この子たちの未来がより良いものになるように、と希望を感じてほころんだことを。
「レイラが一番、近いんだよ。それはとってもチャーミングなことだって、思わない?」
一番近かった――。そんな風に思いもしなかった。後に続くものがあると、気が付いた。
未来に一番近くて、一番未来まで行ける。可能性に満ちたのが、『新米』なんじゃないか。
だからアントンは明日を見て、思い出せるように、ベラの手を取ったのかもしれない。
忘れてしまった、大切な想い。
人の心にきちんと向き合うという単純なこと。
歳を取ると自分を護ることが上手くなってしまうと言った彼の、『半歩』が、ベラの手を取ることだったのだろう。
レイラは、全てが無駄ではなかったんだよ、とベラに頭を撫でられて、胸が熱くなっていった。
レイラの頭を撫でるベラの手が握っただろう、アントンの不器用な握手は、一体どれほど怯えていたのだろう。
それはレイラに分からない。
ベラだけが知っている宝物なのだ。