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犬が吠えても、馬車は進む

 その日は通りに装飾が行われ、屋台が並び立ち、楽団が歌と音楽と踊りで道行く人々を笑顔にさせていた。

 バター祭りというモースコゥヴの春を祝う祭りの日だ。豊穣を神々に祈り、人々は笑い歌い、踊り競い、飲んで喰う。

 国中が賑わうその日、カミツレ隊はパレードに加わって、遠征に旅立つ。

 幼い頃の思い出が蘇るバター祭りのその日に、レイラは身なりを整え、両親に挨拶をしていた。


「忘れ物はない?」

 優しい母の声に、レイラはこくりと頷いた。

「立派になったな、レイラ」

 逞しい父の声に、レイラは背筋を伸ばした。


 両親の愛に、今更ながらに感謝を伝えたかった。どうしようもなく、人と関わることを恐れ、家に引きこもった時期、父も母も、魔法に入れ込むレイラに何も言わずにいてくれた。

 この国における魔法への偏見は、両親にだって浸透しているだろうに、レイラが部屋に引きこもって魔法の勉強に執着している時、咎めることなんてしなかった。ただ、何も言わずに、毎日の生活を支えてくれたのだ。

 それがどれほど、恵まれた環境であったか、レイラは外で他者の人生に触れ、思い知った。


「お父さん、お母さん。本当に、今までありがとう」

 レイラのその素直な言葉に、両親は笑顔で瞳を潤ませた。

 優しい父と母の愛に包まれて、受け取るばかりのレイラは今日で卒業だ。

 レイラはこれから、自分の中へと育まれた愛を、より多くの人々へ配るために遠征へと赴くのだ。魔法使いとして、魔法技術で、生活をより良くできるように。


「お前が生まれた晩のことを、先日のことのように思い出せるよ」

 父親がくしゃくしゃと皴を作って、優しい声で微笑んだ。

「もう十六だよ。私、大人だよ」

「親にとっては、子供はいくつになっても、子供なのよ」


 この国では十五で成人になる。レイラはもう十分大人として、社会に認められる年齢だし、結婚だってできるのだ。

 いつまでも赤ん坊じゃないよ、と親を安心させたくてわざと強い口調で言ったレイラだったが、父も母も、海のように深く、山のように気高く、レイラを抱きしめてくれた。


「レイラ」

 父親が、名を呼ぶ。

「アラ」

 母親が、名を呼ぶ。


 この国では子供が生まれた時、名前が二つ名付けられる。

 ファーストネームは、父親から授かる名前。『レイラ』。

 セカンドネームは、母親から授かる名前。『アラ』。

 そうして、二人の娘であることを示し、『レイラ・アラ・ベリャブスカヤ』は生誕した。

 他の国ではあまりない文化だそうだが、モースコゥヴでは、性別で家名も変化する。もし、レイラが男性だったなら、『ベリャブスキー』となる。

 それほど、この国では名前を大切にしているのだ。唯一無二の存在であることを示すように。


「行ってきます。お父さん、お母さん」


 美しい紅の髪を朝日に煌めかせ、凛とした表情で、麗しいターコイズブルーの瞳を先へと向けた。

 レイラは、一歩、前に歩み出した。

 その姿は、美しい一輪の花のように、凛としていた。


 ――王宮まで向かうと、その日は普段のように魔術師の塔へと入るのではなく、中央の宮殿へと足を向ける。

 パレードの準備のため、カミツレ隊は段取りの説明と、身だしなみやらを細かくチェックされることになった。

 いつもずぼらな様子のアントンですら、その日は宮廷の女官に世話をされ、驚くべき変身を遂げていた。きっちりと整えられた髪は艶やかで、顎髭なんかまったくなかった。一瞬では普段のアントンを知る人間ならば、眼を疑うことだろう。

 レオンも眉を整えられて、凛々しい顔つきをしていた。ふくよかな体つきと、愛嬌ある顔が男らしく見えた。

 ベラは、一際美しかった。

 ジルコンを付けていたり、煌びやかな宝石などを着飾っているわけではない。ただ輝くのは、胸の銀のカミツレだけなのに、彼女の全てが光を散りばめられて見えた。

 カミツレ隊の発足宣伝も兼ねるため、銀色のブローチに注目してもらえるように、ベラは装飾品を最低限のものにし、ピアスを付けているだけではあるが、絶世の美女という言葉が似合う妖艶さがあった。

 深く濃い色の紫であるストールが似合っている。至極色しごくいろというのだと、レイラは後でベラから教えられた。

 大人の魅力が溢れるその姿は、アントンの隣に立つベラの意気込みみたいにも思えた。


「レイラ、可愛いじゃない」

 そんなベラに声を掛けられ、レイラはきゅっと、栗鼠みたいな声を喉から出してしまった。

 あんまり、人から可愛いと言われ慣れてないレイラは、顔を赤らめてしまう。

「ベ、ベラ先輩みたいに、綺麗になれなくて……」

「あんたはあんたの可愛さがある。あたしだって、あんたみたいに可愛くなれたら……なんて思うよ」

 落ち着いた声で、ベラがそんな風に言った。落ち着いていたが、レイラにはその言葉の後半がほんのりと寂びているように感じられて、ベラの心境がちょっぴり覗けたようだった。

 結局アントンへの想いの決着は、きちんと果たされていないのだ。

 ベラは、カミツレ隊の隊長であるアントンの補佐役として、そのまま副隊長になる。

 淀んだ感情を隠して、その立ち位置に居ることがどれほどベラの胸を締め付けるのか、レイラには想像もできない。


「パレードは昼前から。馬車に乗って、準備を整えておいてね」


 装飾が豪華絢爛に張り巡らされた馬車に乗り、パレードするカミツレ隊は、王都からそのまま騎士たちに護衛されながら、傍の町まで行進していく。

 そこからは、遠征用の無骨な馬車に乗り換え、護衛も変わる。

 煌びやかな空間は、王都を抜ければそれでおしまいだ。せめてその間だけは、多くの人々に、カミツレ隊の勇姿を見せつけ、美しさを振りまかなくてはならない。


「王都を出るまでは、先頭に親衛隊の護衛が付くんだって」


 そんな声がふと耳に届いた。カミツレ隊の魔術師の声だったが、レイラは思わず反応してしまった。

 姫が発案したカミツレ隊だからだろうか。その護衛に、親衛隊が立ち並ぶというのだ。


「親衛騎士の馬ってあの幻の黄金馬だろ? 一度傍で見てみたかったんだ」


 魔術師たちの噂話で、盛り上がりを見せているカミツレ隊の待機部屋は、得も知れぬ高まりに支配されていた。

 そんな面々に、アントンが「あんまり調子にのるなよ」と釘を刺し、内側に熱を封じ込めて鼓動をドキドキ言わせ続ける知った顔たちに、レイラも少なからず感化された。


(ユーリの姿、見られるかな?)


 馬車は四台用意され、ユーリたち親衛隊の護衛は先頭につくのだとか。

 レイラは自分が乗り込む馬車を確認して、肩を落とした。

 レイラが乗るのは、一番後方の馬車で、ユーリが居る先頭は見えそうになかった。先頭の馬車は当然ながら、アントンとベラのような筆頭が乗り込むのだ。

 レイラはこの中で一番の新米だから、最も後方の馬車に乗るのは当たり前な話であった。


(そう言えば、小さい頃もこんな風に、ユーリが先頭のパレードに入りたいって言ってはしゃいでたっけ)

 ユーリはいつもパレードの先頭で、みんなの注目を集める。そういう男の子だった。

 レイラはどんくさくて、いつもはじっこの方で、ユーリを見ていたような気がする。


(変わってないな、あの頃と……)


 パレードはそれなりに長い。王都を通過するだけでも広大なモースコゥブは距離がある。

 途中で行進を止め、楽団などが歌と踊りで激励をしてくれたりもするのだそうだ。

 人前で、ずっと背筋を伸ばし注目を浴び続けるのは、思った以上に大変だぞとアントンから皆に忠告があった。

 みんな、どんとこいという様子の表情をしていたが、確かにアントンの言う通り、魔術師たちの評判を高めるためにも油断はできない。

 パレード中はずっと気を張っていないくちゃならないから、今はできる限りリラックスしていようと、レイラは部屋の隅で目を閉じて時間が過ぎるのを待った。


 ――昼前になり、いよいよパレードが開始される。

 カミツレ隊は用意されたパレード用の馬車に乗り、王宮楽団の演奏がファンファーレを奏でる中、行進を始めた。

 王宮内から都へと城門をくぐり抜けるまでのヴィスナー広場には、多くの騎士や、女官、錬金術師や第一部署の魔術師たちの姿もあった。


「レイラちゃん!」


 大きな声がして、レイラはその声をほうに身体を向けた。

 そこには、ローザの姿があった。


「頑張れ! いつも周りにはベラがいる! ベラのことも、頼む!」

「は、はいっ! 行ってきますっ!」


 ローザが大きく手を振って、激励してくれた。

 ローザはベラと、そしてレイラのことを想い、あんなことを言ってくれたのだろう。これから辛いことが多くあるだろうが、友達が傍に居るからと、そして友達を護ってやってくれと、そう言ったのだろう。

 レイラはできる限り大きな声で、ローザに返事をして見せた。


 レイラは先頭の方を確認してみたが、三台目の馬車が見えるだけで、先頭のベラも、その前を行くユーリも見えなかった。

 やがて、城門を超えて、街に出ると、先頭側から大歓声が上がった。

 先頭を行く、黄金のアハルテケに跨るユーリとクリアーナの姿はさぞ美しく目を奪われるのだろう。

 黄色い声援と共に、熱い溜息が吐き出されるのが群衆から耳に拾えた。


「頑張れよー!」

「カミツレ隊、期待してるぞー!」


 そんな大きな声がレイラに向けられた。どきんとしてしまったが、レイラは精一杯背筋を伸ばして、大きく手を振り、胸のカミツレに太陽の光を反射させて見せた。

 人から期待されている。応援されている。そんな生の応援が、レイラの身体を熱くさせてくれた。

 初めて、こんな風に名前も知らない人から言葉をかけてもらった――。

 なんと誇らしい気分だろうと、人々のその声援に必ず応えたいと、パレードを見てくれた人みんなに、視線を向けて宣誓したいほどだ。


 先頭で、どぉっと一際大きな歓声があがった。

 なんだろうとレイラは前を見た。すると隣のレオンが「あっ」と指をさしていた。

 レオンの指先を目で追うと、パレードの先頭の馬車から霧雨のような薄い水の幕が降り注いでいた。


「アントン隊長の魔法だよ!」


 レオンの言葉に、レイラはその霧雨を見て、感嘆の声を漏らしてしまう。

 薄い霧の中の水分に暖かな春の光が乱反射して、きらきらと光り、そして虹の橋がかけられていった。

 すると、虹のアーチが、続くカミツレ隊の馬車を祝福するように広がる。七色の光のアーチをくぐりながら、爽やかな清涼感に包まれた。

 アントンの、パレードに華を添える魔法の演出だろう。こういう魔法の使い方を示すことで、魔法を親しみやすく魅せている。

 すると、第二の馬車からも、霧雨が振りまかれ、虹を作っていく。続くように三番目の馬車からも魔術師達が魔法で霧雨を振りまいた。

 虹と水、光のパレードが群衆を盛り上がらせて、子供たちのはしゃぐ声が青空に響いた。


「レイラさん、僕たちも!」

「は、はい!」


 この霧雨の魔法は、レイラが前に発明した加湿魔法の応用だ。

 だから、レイラはこの魔法を手慣れたものであった。

 レオンと一緒に両手を空に向けて、呪文を紡ぐと、掌が暖かくなり、青白い魔力の光が仄かに灯る。


 サァァ――。


 レイラたちの真上から柔らかなシルクみたいに、水のヴェールが降り注ぐ。それは光を受け止めて、虹の橋を作り出し、カミツレ隊が魔法で人々の懸け橋になるのだと示すように、神秘的に煌めく。

 マジカルパレードは好評だった。

 レイラたちが作った虹の下に、幼い子供たちが入り込んで飛び跳ねている。それを見てレイラはにっこりと笑顔を浮かばせた。


「あの赤毛の子、可愛いな」

「眼鏡の魔法使いだろ? 俺も思った!」


 そんな声が、どこかからレイラの耳朶を打った。

 思わず、レイラは恥ずかしくて、耳たぶを真っ赤にした。


 少し前まで、人から可愛いなんて、言われるはずもなかったのに。

 認められたいと願った今、この時。――小さな一歩が、もしかしたら、半歩でしかなかったようなことが――。

 結果になっていると、信じられた。


 こんな自分の姿でも誰かに好感を持ってもらえるのなら、やがてそれが魔法使いを認めさせるための足跡になるのだったら、ちょっぴり恥ずかしくても、レイラは目一杯、自分を見せてみようと笑顔で手を振った。


「レイラー!」

「気を付けてねー!」


 耳に馴染んだ声援に、レイラは直ぐに顔を向けた。両親だった。

 群衆の後ろの方で埋もれるように、腕を大きく振っていた。レイラはそれをしっかりと見付けて、手を振って応えた。

 この世界に生まれたことを、神と、両親に感謝して。レイラは小さな体をできるだけ大きくみせたくて、跳ね上がるようにして手を振る。


 言葉は、伝えることがとても難しいから。

 レイラはその時、両親に口から声を出して『言葉』を伝えようとしなかった。

 愛を込めて、レイラはひたすらに腕を伸ばして手を開き、活き活きと手を振って見せた。二人の娘であることを、誇りに思う。それを言葉にすると、陳腐になるような気がしたから。


 パレードは続き、王都の外れまでやってくる頃にはすっかり昼が過ぎ、レイラたちカミツレ隊はパレードする側の苦労を思い知った様子で、疲労を抱えていた。

 が、それを表に出すのはまだ早い。

 馬車が止まり、楽団が激励の演奏と踊りを見せてくれて、詩を歌い始める。

 レイラはその詩に耳を傾け、張り詰めていた身心をほぐそうとした。

 エスニックな演奏と踊りは、異国の雰囲気がしていた。独特の世界観を魅せてくれるその音色と、詩は、不思議な引力があるようで、皆が興味深く耳を傾けていた。


「モースコゥヴの伝統舞踊で送るものだと思い込んでました」

 レイラは素朴な感想をそのまま口に出していた。

 それを聞いたレオンが声を小さくしながら、情報を教えてくれた。


「この楽団、アナ姫様の婚約者である隣国の王子が手配したんだって」


 なるほど、とレイラは頷いた。

 アナスタシア姫はすでに隣国の王子と婚約している。その国の王子が、此度、姫の考えで発足されたカミツレ隊にエールを送るために派遣したのだろう。

 カミツレ隊がプロパガンダの意味もあることが良く分かった。カミツレ隊は、大きな意思の元、結成されているのだ。


「ねえ、この詩の響き、なんだかレイラさんのこと、詩ってるみたいに聞こえない?」

「へっ?」

 思いも寄らないレオンの言葉に、レイラはなんだか間抜けな声で訊き返してしまった。

 なぜ異国の姫の婚約者である王子が派遣した楽団が、レイラのために詩うというのだろう。そんなあり得ない話に、レイラは流石に耳を疑って、楽団に意識を向けなおした。


「ほら、ね。レイラ、レイラ……って詩ってない?」


 レオンがまたもそんなことを言うものだから、レイラは怪訝な顔をして、その詩に耳を澄ませた。

 異国の言葉が織りなす歌唱は、それ自体が『言葉』ではなく『音楽』みたいに聞こえた。

 神秘さが感じ取れる異国の歌唱は、聞きなれぬその言葉を、音として耳に捉えた時、レイラも「あっ」と気が付いた。


 詩の一節――。

 ――アルフ・レイラ・ワ・レイラ――♪


 そのように聞こえた。

 その瞬間だ。レイラの脳裏に、記憶の底から掘り返したみたいに、ある日の場面が蘇った。


 それは図書室で、クリアーナとばったり出くわしたあの時のことだった。

 あの時、クリアーナが言った――『詩は音だ。詩は韻を踏むことで美しい調べを奏でる』。

 その言葉が、脳裏に強く蘇った。


千夜一夜アルフレイラワレイラ


 その異国の楽団が奏でる詩が、何なのか、レイラは気が付いた。

 これまで異国の文字を、眼で見て、音で聞いていなかったから、気が付かなかった。

 クリアーナは、最初から言っていたのだ。これは詩であり、文字ではないと。耳を傾けろ、と言ったのは、つまりそういうことだった。


 その国の言葉で、『夜』は『レイラ』と奏でられるのだ。

 そして、レイラの目は、咄嗟にそれを捜した。

 演奏を聴くために止まった馬車たちの傍に静かに佇む黄金の馬を。


 ――どうして黄金の馬なのに、『ノーチ』なの?

 そんな疑問を持った。ユーリのそのネーミングセンスには、疑いを持ってしまった。

 この国は名前を大切にする。名前が持つ意味は、とても、大きいと捉える国民性がある。


 レイラはその刹那、真っ赤に頬をトマトみたいにしてしまった。

 分かったから。

 ユーリが、『ノーチ』と名付けた意味が。


 ユーリはクリアーナと共に仕事をする。クリアーナの趣味の話をする機会もあったのではないだろうか。

 あの冷徹な印象を持つ、クリアーナが『千夜一夜』を語る時だけは饒舌になったことが証拠みたいだった。

 あれほど、クリアーナの舌が活発に動くのを見たことがない。それを数度しか顔を合わせていないレイラに見せたのだ。クリアーナがユーリに、『千夜一夜』を詩ってみたこともあったかもしれない。

 それこそ、ユーリが愛馬の名前を考えている時になんか――。


 考え過ぎだろうか。

 その時聞いた詩が『レイラのことを詩っているように聞こえたから』、レイラとは夜という意味だと知ったから――。

 彼は黄金の馬に、『レイラ』の名前を授けたとしたら――。


 ユーリのポプリのことを思い出す。

 彼はいつも、レイラのことを想って、レイラに繋がれるものを、見付けようとしているんだろう。

 ポプリはレイラの香りを思い出させていた。

 愛馬に、恋い焦がれる少女の名前を暗喩として含ませたとしたら――。


 ノーチの傍に立ち、一片の隙も見せない『氷の人』のような印象を纏わせる親衛隊のユーリは、レイラを見つめない。

 だけれど――。


 レイラは、ノーチの傍に立つユーリが、そっと愛馬を撫でるのを見て、胸が熱く、大きく跳ね上がった。


 『千夜一夜』は、途中で終わった切ない恋物語だと思っていた。

 挫折を暗喩する、レイラへの忠告みたいに思えた。


 そうじゃない。そうじゃないんだ。

 気が付いたレイラは、小さな胸を締め付ける恋心が、あまりにも痛くて、切なくて、顔を伏せた。

 この異国のメロディーが終わる時、パレードは終幕し、親衛隊の護衛は立ち去る――。

 ここから、遠く遠く、彼の影すら見えない土地に旅立っていく――。


 ――離れるんだ。


(ユーリ……、大好きだよ!)


 自分の中の想いの大きさが怖かった。どうしてこんなにユーリが好きでたまらないんだろう。

 ユーリを失ったら、自分の身体も心も全部バラバラになってしまいそうだった。

 ここまで来て。


 あと半歩を踏み出すところで。


 レイラは、その半歩が踏み出せなくなった。

 離れたくなんて、ないに決まっている。


(ゆぅり……)


 涙が出そうだった。それは許されない。

 先ほどの知らない人の歓声が、応援が、レイラに大きな期待を背負いこませる。愛情を注ぐ側になるために、レイラは泣くわけにはいかない。

 昨日の公園で、いっぱい泣いた。今日、泣かないために。


 ぐ、と歯を食いしばり、レイラは顔を上げた。


 異国の演奏が、終わった――。

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