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足中に真なし

 仕事も終わる夕刻間近に、アントンから集合をかけられたレイラたち魔術師班は、開発室で整列していた。

 顔を出したアントンの雰囲気も普段より緊張しているのか厳格なものが漂っていた。

 いよいよ、多目的開発隊として、明確な動きが決まったことの報せと共に、面々にはカミツレを模した銀で作られたブローチが配られた。小さなものではあったが、銀細工は職人の技が冴えわたっていて、素人目に見ても素晴らしい造りをしていた。


「今後、我ら多目的開発隊は、『カミツレ隊』と呼称される」


 アントンの声が強く木霊して、レイラたちは受け取ったブローチにその重量以上の重みを感じ取った。

 カミツレは、アナスタシア姫のドレスにもあしらわれている。姫が好む花の代表であることから、この命名が決まったのかもしれない。

 レイラは『多目的開発隊』よりは『カミツレ隊』のほうが柔和な印象を受け取れることから、その名称に好感を持った。

 ちらりと、隣のレオンを見てみたが、レオンは姫の意思が込められたような銀のカミツレにうっとりとしていた。


「カミツレ隊は、五日後、ペトロツクへと遠征に出て、鉱山夫の生活に密着した奉仕活動を開始する」


 ペトロツクはモースコゥヴの辺境に位置する鉱山都市だ。馬車を使っても、ここから十日以上はかかる遠方だ。

 アントンが、詳しい活動内容を記した書類を見せながら、説明を続ける中、レイラはベラの様子を盗み見た。表面上は、普段通りであったが、以前よりもアントンに対して距離を置いているのは目に見えた。

 もう、時間はない。遠征は最早目と鼻の先にある。出発までに、ベラとアントンの仲を清算しなくてはならないと、レイラは思っていた。

 別に、アントンとベラの間柄を取り持つことに、タイムリミットなどはない。しかし、レイラはこれまでのことから、半端なままに、事を終えたくないと、心の中で焦っていたのだ。

 ユーリと繋がりたいと願って頑張った念話魔法は、採用に至らなかった。

 異国の詩集に記された詩は、千夜に辿り着けていなかった。

 そして、ベラもまた、自分の恋心を道半ばで諦めようとしている……、それが堪らなく苦しかったのだ。

 せめてベラの想いだけは、きちんと伝えてから、この新たな門出を迎えたい。そうしなくては、カミツレ隊の最初の一歩を仕損じるような予感があった。

 きっと、ベラが念話魔法に、自分の慕情を乗せていたのと同じように、レイラもベラの恋愛模様に、自分の感情を重ねていたのかもしれない。


「各自、準備は万端に済ませておくように。何か質問はあるか」


 淡々と、だが、明確にかつ、簡潔に、アントンはきびきびと説明を終えた。

 開発隊に加わることを知らされていた頃から、各員はそれぞれ遠征の準備は行い始めていたので、あとは最終確認くらいなものだ。ここで改めて質問することはなかった。

 レイラも両親には、長い間故郷から離れてお勤めをすることを言っている。

 両親はレイラを心配したものの、最後には立派になったなと優しく抱きしめてくれた。

 ずっと引きこもりであったレイラを咎めることもなく世話してくれた両親に、レイラは感謝を伝えて、胸を張って見せた。

 国を代表する魔法使いとして、しっかりと仕事をしてみせると、神様にも誓いを立てた。


 改めて、自分は恵まれていると思っていた。

 レオンの話を聞いて、両親が自分に愛想をつかさずに、愛情を注いでくれたことがどれほど偉大なものであったのか、身に染みたのだ。

 ユーリとのことも、そうだ。あれほど凛々しく優しい男性が幼馴染であり、恋人になってくれた。こんなにも冴えない自分を想ってくれていた。

 もう、誰かから愛を注がれるばかりではいられない。今度は、愛情を自分が誰かに注ぐ順番が来たと思っていた。

 自分の魔法で、一人でも多くの人を幸せにできる仕事に携われるのなら、一生懸命に働くつもりだった。


「アントン隊長、質問があります」


 ぴ、と小さな手を上げたレイラは、できる限り凛とした声を上げてみせた。


「なんだね?」

「少々、個人的な質問ですから、後ほど、時間を取っていただけませんか?」

「……分かった。他には?」


 他の面々は、沈黙だった。一人ひとりの顔を確認して、アントンは頷き、「では今日は解散」と手を打った。

 一同は、それぞれ身支度を整え、受け取ったブローチを大事にしまい込み、開発室から出ていく。ベラがレイラを見ていたのに気が付き、レイラは見つめ返した。

 言葉はなく、沈黙の後、ベラが「おつかれ」と手を振って開発室を出て行った。


 ベラのことは、ローザにも相談をしておいた。彼女の気持ちに最も寄り添えるのは自分よりもローザだろうと思ったのだ。

 ベラはローザになら、自分を誤魔化すことをしない。だから、きっと、ローザにならば気持ちをきちんと伝えて、どうしたいのかをもう一度、きちんと思い返すこともできるだろうと期待をしていた。

 実際、先ほどローザに相談した時、ローザが今夜、飲みに誘ってみると言ってくれた。これからベラはローザとどこかで飲むことになるはずだ。


 だからレイラはアントンにほうに狙いを付けた。

 アントンの錆びついた鉛を、少しでも磨いて、瞳に映させたいのだ。ベラの姿を。


 レイラは決戦に臨むような心持ちで、アントンの部屋へと、一人向かっていった。

 ノックの後、アントンの許可の声がして、レイラはドアを開く。

 ――アントンの部屋は、今日はコーヒーの香りがしなかった。


「そこにかけて」


 入って来たレイラをソファに促し、アントンは対面に腰かけた。

 ゆっくり話を聞こう、という態度で正面からレイラを見つめてきた。


「質問があるって?」

「はい……。大切なお話です」

「カミツレ隊に参加するのを、辞退したいのかな?」

「いいえ。私は、カミツレ隊として、頑張っていきたいと思ってます」

「そうか、ならほっとした」


 アントンは少し肩の力を抜いた様子だった。レイラから辞退の話が吐き出されると想像していたのかもしれない。


「頑張っていきたいから、聞かなくちゃならないんです。答えてください、アントン隊長」

「……どういうことだね」


 腑抜けたアントンの様子に、レイラは鋭く切り込んだ。

 少しだけ、アントンに対し、ふつ、とした怒りというか、歯がゆさのようなものを感じたのだ。声に強い意思がこめられて吐き出された。

 そのレイラの普段らしかぬ声色に、アントンはまた表情を引き締めなおした。


「以前、ジルコンの話をしたのを覚えていますか?」

「ああ、うん。……正直なところ、……何の話か理解できなかった」


 飄々とした声色で、そう返したアントンは惚けたような印象を浮かばせていた。

 レイラは、お腹の中に力が入るのを感じていた。喉の奥が固まってしまう。

 こんな感覚は、滅多に感じたことがない。

 他者に対して、真っ直ぐ言葉をぶつけることなんて、ほとんどしない。レイラは受動的な性格をしている。自分から相手に対して働きかけることに、こんなにもエネルギーのいることなんだと、拳を固く握っていた。

 そうだ、自分は怒っているのだ、と分かった。アントンに対して、怒りを向けているのだ。人に対して怒りをぶつけたことなんて、ほとんどない。怒ったり、悔しく思ったりすることはあっても、それはいつも自分の中に押し留めることばかりだったから。

 だが――今、レイラはどうしようもなく、苛立ちを感じ、言葉にのせてしまっていた。我慢が、できないのだ。

 自分に対する問題ならば、レイラはきっと相手に対して怒りをぶつけたりしなかっただろう。

 それこそ、『念話魔法』が不採用になったことを、アントンに対して怒気をぶつけることなんて絶対しなかった。

 だが、レイラはただただ、友人の努力をふみじられたことが赦せなかった。


 アントンの対応の様子で、直観的に分かった。

 アントンは、本当はベラの気持ちを分かっているのだと。ジルコンだって、何の話か理解できないなんて言っているが、その言葉が嘘っぱちだと見抜けた。

 アントンはベラの想いに気が付いていながら、それを意識的に無視しているのだ。

 証拠なんてない。だが、アントンの僅かな表情の変化と、口調から、それが分かってしまった。


「アントン隊長……、念話魔法を以前研究していたと言っていましたよね。そして、それはとん挫した、と」

「……うん」

「アントン隊長は、どうして、念話魔法を作ろうと思い立ったんですか? なぜ、途中でやめてしまったんですか?」

「……私の昔話と、カミツレ隊のことに、何の関係があるんだね」

「私は……、わ……、私は……、諦めません。諦めたくないんです……!」


 アントンの気配が濃くなったように感じたレイラは、一瞬気圧されそうになった。アントンから、大きなプレッシャーがぶつけられてくるような感覚だ。

 レイラが苦手とする、大柄な男性の威圧的な態度とはまた違う、壁が迫ってくるような感覚だった。

 アントンが、その気配から、防壁を作り上げ、それ以上踏み込むなと警告をしているような気分だった。


「君が頑張ることと、私の挫折は、結びつかない。その問いに答える必要はないと思うがね」

「……誰かに、気持ちを伝えたかったんじゃないんですか?」

 レイラは舌がもつれそうになるのを必死に落ち着かせるようにして、言葉を繰り出した。

「わ、私は、そうでした。念話の魔法で、遠く離れた人といつでも話せたらって、思ってました」

「……気持ちを伝えるだけならば、手紙を書けばいいだけのことだ」

「手紙を送れない人が相手だったら、どうしますか……?」

「なんだって?」


 人と会話することを苦手としていたレイラには、今とんでもないことをしているという自覚があった。

 レイラが人と会話することを苦手とする理由の一つは、自分の言葉で相手を不快にさせてしまわないかという不安だ。だが、今のレイラはアントンの心に土足で踏み込み、気持ちを責め立てようとしている。

 ベラを無視するアントンへの怒りが、それをさせてくれるエネルギーになっているようだった。

 だから、レイラは今、感情に従おうと覚悟を決めた。


「手紙を受け取ってくれない人へ、言葉を届けたいときは、どうしようもないでしょう!」

「それは、君の相手の話かね」

「いいえ、アントン隊長のお話です……。お話を、聞きました。アントン隊長の、奥さんの、こと」

「…………」


 相手の気配がより一層、硬いものになったように感じられた。


「亡くなられたんですよね……。毎年、お墓参りにも行っていると、聞きました」

「ああ、そうだ」

「どんな女性だったんですか?」

「随分とプライベートなことを聞くね」

「……」


 ずい、と威圧感が上から覆いかぶさるような感覚に、レイラは背筋を固くしてしまいそうだった。

 アントンの灰色の目が、射るようにレイラを真っすぐ見つめていた。普段の、アントンにはない厳しく冷酷な目だった。

 しかし、レイラもその目に真っ向から向き合った。ここで視線を下げてしまえば、アントンは回答を絶対にしてくれないと思った。

 アントンの瞳が、挑戦的にレイラを見下すのが分かった。『君程度が私の内側に入り込めると思っているのか』と、告げている。

 レイラに、それを聞くだけの覚悟があるのか。相手を傷つけてしまうような権利が君にあるのか、と問うてきているのだ。


「わ、私は……、一生懸命に、やるって決めたんです。途中で、諦めたくないんです」

「若いね。青臭いと言ってもいい」

「……」


 辛辣な言葉が返って来た。レイラは身がすくむような気持ちになった。優しいアントンから、こうも明確に攻撃的な言葉を向けられたのが、未熟さを切りつけて、何も言い返せない。


「喧嘩をしに来たんだろう、レイラくん」

「……!」

「そういう目で、君は私の部屋に入ってきたはずだ」


 竦みあがりそうになっているレイラに、アントンが威圧感を明確に滲ませて、レイラを見据える。

 アントンは、腹をくくれ、と言っているのだ。一度振り上げたこぶしなら、それをしっかりと振り下ろせと、灰色の小さな眼光が光って訴えていた。


「……私の妻は、幼馴染だった。優しく、綺麗で、しとやかなそんな女性だった」

「愛してらっしゃったんですね」

「違う。今も愛している」


 はっきりと言った。


「私は、妻の他に人を愛する気はない」

「でも……、それでアントン隊長は心から幸せになれるんですか?」

「十分、幸せだよ。誰かに、私の幸せを勝手に組み上げられたくはない」

「だったら、きちんと向き合ってください! どうして、途中で研究を止めたんですか? 諦めたんですか? 怯えているんですか!?」

「怯えている――?」


 レイラの、感情に任せた言葉に、アントンは硬質的な表情をぴくりと動かした。

 普段声を荒げる事なんてない、根暗で物静かな印象のレイラから、思いがけない攻撃的な言葉を受け、アントンもたじろいだのだ。


「私、昔まではずっと足元ばかりを見つめていました。自分なんかじゃ、何もできないってそう思ってました。でも、ここで働きだして、友達ができて、仕事の責任感も分かって来たんです。そしたら、少しだけ自分のこと、好きになれました。そしたら、今まで凍り付いた地面ばかり見て気が付かなかった世界が見れました」

「……」

「青臭いって言われるかもしれません。でも、それの何がいけないんですか? 前を向いて、分かったことがあります! きちんと、向き合うことができている人は、いつも輝いているんです!」


 語れば語るほど、レイラの中の感情が膨れ上がっていくようだった。もう理論立てて言葉を放つことはできず、内側から溢れるものがそのまま言葉になっているようだった。


「今の隊長は、錆びついているようにしか見えません!」


 そしてレイラはしっかりと、振り下ろした。振り上げたこぶしを、アントンに向けて、喧嘩をするための啖呵を切ったのだ。

 カミツレ隊として認められ、動き出す魔術師班の面々の顔がそうだったように、未来を見て頑張ろうとしている人間は、輝きを放っている。

 ユーリも、そうだ。近頃のユーリは、親衛隊の一員として、本当にいつも凛々しく雄々しい。

 そして、それは自分の中にだってあると、最近は信じたくなってきていたのだ。

 図書室で、クリアーナに何気なく賛辞されてから、それはより明確に気が付けたようにも思っていた。


「私は、認められたいと頑張っている人を、無視する人が……許せませんっ!」


 そして、言った。ついに、言い放った。

 アントンに対し、自分の中の感情を包み隠さず、吐き出し、喧嘩を売ったのだ。相手から嫌われたくないという恐怖は、そこにはなかった。アントンが、殴りかかってこいと挑発的に言ってくれたこともあるだろうが、レイラは友達の為ならば、人を怒ることができるのだと、今、知ったのだ。


「レイラくん……。君は若く、私は老いている。人は歳を重ねる程、自分が傷つかないように気を付けて過ごすことを覚える」

「……」

「君の言う通り、私は怯えている。日に日に、妻の面影が薄らいでいくんだ。彼女の立ち姿を思い出せても、歩き方がぼやけていく。彼女の声を覚えていても、漏らす溜息が思い出せない。彼女がどんどん過去になっていく。それがどれほど恐ろしいか、分かるかね? 絶対に忘れないと、誓いを立てた愛する人なのに、ゆっくりと風化していくんだ。一日、日が過ぎ去ることがこれほど恐ろしいと思ったことなんてない」

 この世界の何者よりも愛しているはずなのに、その人がゆっくりと、溶けていくような気分に苛まれ、アントンは毎日を過ごしている。

 だから、アントンはできるだけ、それを護りたくて、過去をいつも見つめ続けている。新しい世界に目を向けると、過去が霧散していきそうだったから――。


「念話魔法は、元々、病床に臥せった彼女のために、作ろうと思ったものだ」

「……!」

「私は、当時、それなりに名のしれた魔法使いとして、地位を築いていた。妻と婚約してから、王都へ働きに出ることが決まり、私は妻を故郷に置いて、ここにやって来たのだ。……そんな時、彼女が流行り病にかかっていることを知った」


 遠い過去のことを、先日のことのように語るアントンに、レイラは言葉が出なかった。

 状況が、今の自分に重なりそうだったからだ。


「私は、故郷に戻ろうと思っていた。魔法を捨て、妻の傍で過ごそうと。だが、そんな私に妻から手紙が届いた。こっちは問題がないから、王都で魔法使いとして立派になってほしいと」


 アントンの妻は、当時も風当たりの強かった魔法使いへの貢献のため、アントンに王都で王宮魔術師として活躍することを応援したのだという。

 アントンと結婚する折も、彼が魔法使いであることから、両親からは反対され、血縁関係者からは白目で見られるようなことが多かった。しかし、それでもアントンの妻は、アントンとの結婚を貫いた。

 お互いに深く愛していたのだ。


 やがてアントンが王都で王宮に勤める頃、アントンの妻は病に倒れた。

 手紙では平気だと言いながら、アントンを応援し、そして、アントンに余裕ができた時には、もう、手遅れだった。

 やっとのことで休暇を得られたアントンは、故郷に急ぎ戻った。

 そして、変わり果てた妻の様子に、膝を折った――。アントンが帰郷した時には、もう、彼女は立つこともままならないような状態だったらしい。

 親族からは魔法使いなどと結婚するから呪われたのだと言われ続け、まともに看病もされなかったらしい。

 彼女はたった一人、故郷の家で闘病していた。それをアントンへの手紙には何も記さないまま。


 ただ、アントンが――、魔法使いが世間に認められることを願い続けていた。

 アントンが、魔法使いを辞めて、ここで共に暮らすと言っても、妻は否定した。何があっても、大魔法使いとして、世界に名を轟かせるような人物になれと、寧ろアントンを張り倒すように痩せた腕で殴りつけた。

 そして、アントンはそんな彼女の強い気持ちに負けた。

 アントンは彼女のため、念話魔法を作り出そうと研究に打ち込んだ。離れていても、いつでも繋がれるように。


 そして――。

 それは果たされることなく、無情にも彼女は息を引き取った。


 後に残ったのは、彼女の遺書と、大魔法使いになって、という言葉だけだった。


「魔法使いの私と結婚をしなければ、彼女はこんな風に人生を終えなかっただろう」


 そう言って、アントンは昔話を語り終えた。

 レイラは、締め付けられるようなアントンの過去に、涙が溢れそうになっていた。

 だが、ここで涙を流しても、アントンの気持ちを救えない。そう思ったレイラは、ぎゅっと力を込めて、涙を堪えた。


「奥さんは、本当にアントン隊長のこと、愛してたんですね」

「ああ――、そうだと思う」


 だからこそ、そんな彼女の面影が、どんどんおぼろげになるのが恐ろしく、自分を薄情者だとアントンは自己嫌悪に陥る。


「私は、怖い。君の言う通りだ。レイラくん。未来なぞ、不要なんだ」


 レイラはアントンの想いにも強く共感した。

 痛いほど、分かる。


 でも――。


「でも――」


 それでも、と、言いたかった。


「忘れたのなら、思い出すこともできるのが、明日だと思います……」

「……今日はもう、遅い。帰りなさい」


 アントンは、そう言うと、立ち上がり、背を向けた。

 これで、喧嘩は終わりだと言うことだろう。

 レイラは、まだアントンに言葉を伝えたかった。もっと気がついて欲しい、見てほしい、ベラのことを。

 しかし、もうこれ以上は何言っても駄目だろうと空気が物語っている。


 アントンも辛い過去を語り終え、ぐったりとした疲れが浮かんでいる。

 レイラは「お時間を、ありがとうございました」と告げ、無力さを感じながら、アントンの暗い部屋から身を引いた――。

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