滴もたまれば海になる
春の風に花の香りが乗るヴィスナー広場は祝福に満ち溢れているよう空間が広がっていた。
そんなヴィスナー広場を素通りし、奥に見えたオースィニ広場にやってきたレイラは、その対照的に寂しい雰囲気に、胸を締め付けられた。
春の訪れを喜び、ヴィスナー広場には多くの人々が草花を楽しむために顔を出すのに、こちらはまったく人気がなかった。そんな場所で、冷たい風と日陰の中に埋もれるような黒のローブ姿を見付けた。どうしようもなく儚げなその人は、ベラで間違いなかった。
レイラは、ぽつんと一人、隠れるように枯れた樹の下でうずくまっている彼女に、声をかけるべきなのか、少しだけ怯んだ。
ベラは今の姿を人に見られたり、同情されたり、そういうことを求めていないかもしれない。彼女はいつも、他者に弱みを見せない。いつも強い女性であることを気配に漂わせているから、弱っている姿を、レイラに気遣われるなんて、嫌かもしれないなんて考えたのだ。
――でも。
レイラは、そうじゃないと首を振った。ベラは、自分の前でだけ、弱い部分を見せてくれたことがある。
今、ベラの隣に寄り添えるのは、自分だけだと、考え直した。
「ベラ先輩」
そっと、日陰にうずくまるベラの正面に立ち、レイラは小さく呼びかけた。
うずくまるベラがピクリ、と小さく反応して、そして無言が続いた。
その無言が、レイラへの拒否ではないと、そんな風に感じたレイラは、そっと、ベラの隣に腰かけた。
自分の膝に顔を埋めているベラの表情は見えなかったが、最後に見た彼女は泣いていた。涙に濡れた顔を見られたくないのかもしれない。だから、レイラは青空を見上げた。
「……やっちゃったな、あたし」
ぽつりと呟いたベラの声は、哀しく笑っていた。
「先輩が好きな人って……アントン隊長だったんですね」
「……うん。でも、もうそれもおしまい」
ベラは顔を上げて、ひび割れたような笑顔を浮かべていた。
「あたしさ、もう一年以上、あの人のこと、想い続けていたんだ。気が付いた時には、好きになってた。多分、きっかけとかはあったんだろうけど、あー好きだなーって思うようになったのは、いつからだったかはっきりしないんだ」
「……そうだったんですね」
「自分がアントン部長……あ、隊長か。……あの人のこと、好きなんだって気が付いた時から、あたしはずっと、あの人の力になりたいなって思って頑張って来たんだ。だから、第一部署に昇級されるような話も断った。だから、今回の開発隊の話は、凄く嬉しかった。あの人が認められて、あたしもその仕事に一緒に携われるって」
普段のベラには、圧がある声も、今はすっかり物静かで、触れてしまうと、崩れてしまう気がした。
だから、レイラはただ彼女の言葉に、頷いていた。青空に浮かぶ雲が千切れて、ぽつんと取り残されているのを見付けて、消えてしまいそうなそれを、護りたくなってしまった。
アントンのことを、『あの人』と呼ぶ、ベラが、吹き飛ばされそうにも見えるから。
「あの人に、告白しようって思ったこともあったけど、全然できなくてさ。……知ってる? 隊長、結婚してたんだよ」
「……そうなんですか?」
アントンは自分のことを全く語らない。独り身だと思っていたが結婚していたなんて思わなかった。
ならば既婚者を相手に、ベラは慕情を抱いたのだろうか。それはレイラからすると、とても物凄い熱量を持った恋愛なんだろうなと驚くばかりだった。
しかし、以前のベラの言葉を思い出す。『思い出の人には勝てない』と言っていた彼女の言葉を。
ベラの恋のライバルが、アントンの妻なのだとしたら、なんだかそれは不釣り合いな言葉にも思えた。
「隊長の奥さんは、亡くなってるの」
「えっ――」
レイラは、流石に驚きの声を上げてしまった。
アントンの過去にそんな悲劇があったとは、想像もしなかった。いつも、のんびりしていて、つかみどころがない上司。そんな彼が愛する人を喪っていたなんて。
「亡くなったのはもう随分昔のことみたい。あたしがあの人と出逢った頃にはもう、隊長は独り身だったみたいだし。ほら、あの人いつも髭を剃り残してだらしないでしょ。奥さんが居たら、もっときちんとさせてるはずだもん」
そう言って笑うベラがなんだか痛々しい。胸の芯みたいなものが、針で突かれたような気分だった。レイラは笑顔を作るベラに、複雑な表情を返すしかできない。
「あの人は、その奥さんのこと、ずっと思い続けてる」
「……」
「でも、あたしにはそれが凄く哀しく思えた。……あの人が、心の底から笑うような、そういう顔、見たことがないもの」
――レイラは、頷いた。飄々と、独特の口調で、昼行燈なアントンは、灰色の瞳を動かさない。その目が何を考えているのか、いつも読み取れない。それは彼が、自分の内側を閉ざし切っているせいなのかもしれない。
「あたし、あの人のこと……笑顔にさせたかった……。いつも、過去を見ているあの人に、未来にはまだ可能性があるって……。ジルコンの、石言葉『無限の可能性』とか、『行動すればチャンスが得られる』って、それを知った時、あの人に見てもらいたかったんだ」
今はもう、身に着けていないジルコンに、そんな意味もあったのだ。どれほど、ベラが、アントンに見つめてほしかったのか――レイラは共感してしまって、自分のほうが涙を零しそうだった。
「先輩……」
「ちょっと、なんであんたが泣きそうになってんの?」
笑うベラが普段のように、後輩を気遣い先輩の姿で呆れたように心配をしたが、レイラは強く首を振って、言った。
「先輩が泣かないからです……!」
「……あたしはもう、疲れちゃったから」
「そんな……そんなの……嫌です」
「嫌って……言われても。まいっちゃうな」
ベラが、『終わろう』としている。『終えよう』としている。
そう気が付いたレイラは、ただ、『嫌だ』という気持ちを口に出すしかなかった。
千夜一夜も、千夜までない。
人の想いは、続かない――。それを、今は信じたくなかった。
念話魔法も不採用になった。ユーリとは、これから暫く言葉も交わせなくなる。それは終わりへの始まりみたいに思えた。
そして、ベラの、本音を吐き出せないままに消えていく想いが、憐れでならなかった。応援したいと思っているのに、自分では何も力になれていない。このまま、ベラが諦めてしまうなんて、あまりにも彼女が報われない。そういうこともまた、嫌だった。
「あの人はさ、本当に奥さんのことを愛してるんだ。だから、あたしが入り込む余地はないみたい」
「でもっ……、亡くなった人を想い続けていても、アントン隊長はずっと笑えていないんでしょうっ……?」
「……それでもいいって、あの人は思ってるんだよ。なら、あたしが未来を見てなんて言ったところで、大きなお世話でしょ」
ベラはそう言うと、立ち上がった。もう、話はこれで終わりだと示すように。恋は、終わりだと言うように――。
「ごめんね、レイラ。念話魔法の成功に、あたしも自分の欲望を重ねちゃってた。念話魔法が不採用になったって聞いた途端、頭の中でなんか弾けちゃったんだ。……あたしの最後の賭けだったんだよ。あの企画書」
まだ立ち上がれないレイラは、ベラの背中を見上げるまま、彼女の言葉に、そんなのこと謝る必要はないと言いたかった。
ベラは空を見上げて、続けた。
「念話魔法、アントン隊長も諦めた魔法に、もう一度光を当てれば……、あの人がまた歩き出すって期待してた。でも、結果は歩く以前に、躓いて、終わっちゃった」
震えていた。
「終わっちゃった」
ベラの小さな肩が。声が――。
「終わっちゃったんだ……!」
彼女が見上げた空は、滲んでいたのだろう。嗚咽を必死に堪えようとするベラは、頑なに上を見上げ続けていた。
ベラが念話魔法に力を注いだ理由もまた、レイラと似ていたんだと、痛感した。
レイラは魔法に、恋人への想いを乗せていた。ベラもまた、同じだったんだろう。
「終わらせない!」
レイラは、ベラの背中に抱き着いた。
頼れる先輩魔術師の背中は、思いのほか、弱々しかった。本当は、誰もが強くなんてないんだと、レイラは当たり前のことを、実感していた。
理屈だとか、そういうのは、無関係で、レイラはベラに思いのたけを吐き出した。
「まだ――、終わらせませんから、先輩――」
「うぅぅ……うううー……」
ベラが堪えられずに嗚咽を零す。カッコ悪い泣き方だと、ベラは思っていたのかもしれない。
でも、レイラには、そんな風には見えなかった。
空を見上げて、涙を流す友達は、立ち上がっているのだから。
うずくまっていない。きちんと、立って、上を見て泣いている。その姿が、誇らしい。
まだ――、終わっていない。終わらせるには早い。念話魔法も、ベラの恋も。終わらせたくない。
確かに、念話魔法は不採用になった。ベラの想いは空回りだった。千夜は途中で終わりを告げた。
ならば……。歌い手が千夜まで辿り着けなかったのならば、自分が続きを描いていけばいい。
ベラが片思いに疲れたのだとしたら、レイラが支えていけばいい。
終わり方は、大切だ。
少なくとも、『千夜一夜』で、千夜ないのは好きじゃない。
ベラが、こんな涙を流しておしまいなのは、大嫌いだ。
アントンに、きちんと見せたい。
ベラのことも。これからのことも。
レイラは、一世一代の『おせっかい』を焼いてやろうと心に決めた。
「先輩、アントン隊長のこと、好きですか?」
「大好き……、大好きだよ……! でもあたし、傷つけた。隊長が、奥さんのことを忘れないように、必死になってるの、知ってるのに……! 過去をみてばかり、なんて、言っちゃったんだ……!」
もしもアントンが、亡くなった奥さんのことを忘れられないなら、それは仕方ない。
彼が生涯、彼女以外を愛さないと願うなら、それは彼の決めた幸せだ。
ベラはアントンのことを想い、彼への告白は避けてきたのだろう。アントンがいつも、亡くなった妻を想っているから。告白をしても迷惑だろうと。これから開発隊として動き出すこの時期、空気を乱すような事にもなりかねない。
いろんなことを考えて、ベラは、慕情を抑え込んできていた。
告白をするのには、勇気がいる。自信がいる。
それを教えてくれたのは、他でもない。ベラだった。
ベラは、告白をしなければならない。そうしないと、彼女は後悔をしてしまうことだろう。例え、アントンがその想いに応えられなくても、伝えなくてはならない。
そうしなくては、アントンの曇天のような眼を、何かに向けることはできない。
アントンの曇り空を晴らすことができるのは、やはり、ベラの他に居ないとレイラは信じていた。
なぜなら、今までの二人の軽快なやりとりこそが、その答えだと思っていたから。
レイラは、ぎゅっと、後ろからベラを抱きしめた。
ベラなら大丈夫だと、気持ちを伝えたくて。口にすると、なんだか薄っぺらく思えたから。
ベラが泣き止むまでは、レイラはずっと、そうしていた。