乾いている匙は口に不快
明くる日のこと。
レイラは魔術師の塔の開発室で、『千夜一夜』を読み始めようと身構えていた。
『千夜一夜』は詩集ではあるものの、それは一つの物語でもある。
レイラは最初の数頁を読み、この詩集が一夜ごとの物語を詩にした作品なのだと把握した。題名から察するに、この本は千の物語が描かれている超長編作品ではないだろうか。中途半端な覚悟で読み切れないだろうと考えた。
――だが、それにしては……と首を傾げる。この本に千もの詩が描かれているのだとしたら、頁数的に足らないと思ったのだ。もっと分厚い本になるはずだ。この『千夜一夜』は恐らく五百頁あるかないかという厚さであった。そうなると、一頁に二夜描かれていないと頁数が足らなくなってしまう。
しかしながら、一夜目の詩は二頁に渡って描かれていた。計算が合わないのだ。
レイラはどうにもそこが気になって、最初からきっちり読み進めるということが素直にできなくなったので、最終頁が何夜目なのかを覗いてしまった。すると、そこには『千夜』ではなく、二百八十二夜で終わりになっていたのだ。
(千夜じゃないんだ?)
と、思わず拍子抜けしてしまったレイラは、もしかしたらこの本は完全版ではないのかもしれないな、と勝手に想像をした。題名は先に『千夜一夜』と決めて書き始めたが、千夜目まで至らず、歌い手が命を落としてしまった未完の作品、なんて想像もできる。
ともかく、この『千夜一夜』は千の詩が描かれているわけではない。
レイラはまず、一夜目を読み始めて、その物語の内容をかみ砕いていく。異国の文字は読み進めることが、難易度としてなかなかに高い。
じっくりと読みながら、どうやらこれはとある王子とそこに嫁ぐことになった姫の物語のようだと大まかなあらすじを把握できた。
歌い手は、その姫の目線で描かれている。王子は酷い乱暴者で、女遊びを毎晩繰り返すような人間だったらしく、姫はそれを辞めさせ、自分に王子を釘付けにするため、毎晩、詩を詠んだのだという。
それがこの『千夜一夜』なのだろう。
姫の読む物語性の強い詩は、王子の関心を引き、王子は徐々に姫との夜を楽しみにし始める――。おおよそ、そんな感じの作品だった。
(千夜まで辿り着かなかったってことは……途中で王子が飽きちゃったのかな……)
永遠に相手の心を自分に向け続けることなんて、難しいことだ。不可能だと言ったって過言ではないと思う。
レイラだって、いつまでユーリが自分を想ってくれるのだろうと、考えてしまうことがある。『永遠』なんてあるはずがない。どんなものにも終わりやってくる。
それを、千夜に至らない詩集を読み始めたレイラは想像した。
「レイラ、ちょっといいかしら」
翻訳を進めながら、『千夜一夜』の九夜目あたりまで読んだ頃、ベラの声に、レイラは振り向いた。
開発室の扉の前でレイラにこっちにくるように手を振るベラが居た。レイラは『千夜一夜』を閉じ、片付けると、ベラのほうに歩み寄った。
「会議の結果が出たらしいの。アントン隊長が呼んでる」
「!」
念話魔法の企画の話だ。レイラたちで作り上げた企画書を会議にかけた結果が出たのだろう。
ベラの様子から、彼女もまだ結果は知らないみたいだった。レイラはベラに頷いて、アントンの元へと足早に向かうこととなった。
企画書は自他共に、良く出来ていると評価できるものだった。『念話魔法』の利便性を伝え、実現に至るまでの過程と費用、恩恵なども記した。国民に寄り添った魔法になるだろうと、使用例も複数書き加え、この企画の多様性も示した。
きっと、上手くいく。レイラはそう信じて、『念話魔法』の実現のため、企画書を作り上げて見せた。自信はあった。それは恐らく、ベラやレオンが太鼓判を押してくれたことが大きい。レイラ一人で作っていたら、絶対に自信がある、なんて言えなかっただろう。
念話魔法が開発されたら、ユーリへの想いを一夜でも多く届けられる。
千夜、彼に「おやすみなさい」と伝えたい。途中で終わってしまうなんて、レイラは考えたくなかった。
永遠なんてない、と達観したようなことを思ってみても、レイラの願いはユーリといつまでも共にあり続けることだった。
「大丈夫だよ、レイラ」
緊張した顔が表に出ていたのがベラに伝わったか、ベラは優しい声でレイラの背中を押してくれる。
「ありがとうございます」
緊張している表情をどうにか和らげて、レイラはベラにお礼を告げた。
そして、アントンの部屋の前までやってくると、ベラがノックをする。すると、アントンの声が短く返って来た。
「どうぞ」
ベラが先導して部屋に入り、レイラは後に続いた。
以前同様に、アントンの部屋はコーヒーの香りが漂っていた。椅子に腰かけているアントンが入って来たレイラを見つめていた。
いつもの半開きの重たそうな瞼に、小さな灰色の瞳が微動だにせず、レイラを見据えている。アントンの独特の空気感は、つかみどころがない。
会議の結果が、いいものだったのか、わるいものだったのか、その表情からはまるで読み取れなかった。
「開発隊の初動会議の結果が出たんで、伝えたいと思う」
がたり、とアントンは立ち上がり、淡々した声で告げた。
「『念話魔法』は、不採用となった」
――……。
あぁ、とレイラは不思議なほどに落ち着いていた。
『念話魔法』は、会議の結果、開発するには至らないと判断されたのだろう。
それはなんだか、やっぱりそうか、と独り言ちてしまうような、諦めとは違う、納得とも言えない、奇妙な着地点に脚を下ろし、ふう、とため息を吐き出すような――そんな空虚な結果だ。
考えてみれば、色々なことが上手くいきすぎていたように思うのだ。
レイラが王宮に上がって、まだ半年も経っていないのに、とんとん拍子で昇進して、作った魔法を評価され、企画書まで書かせてもらうなんて、奇跡の連続だった。
ユーリとの恋愛だって……あんな奇跡はそうそうあるものではないのだ。
そうだ――、レイラは現実を見て、うん、と頷いたような気持ちだった。
素敵な夢から、眼が覚めた朝の気分と似ていた。夢のような気分だと自分でも思っていたのだ。
そんなに世の中、上手くいきっこない。千夜を綴ることなんて、ありえないのだ。
レイラは静かに、理解が感情を追い越して、アントンの結果に頷いた。
「どういうことですかッ!!」
怒号に似た激しい声が飛んだ。
レイラはその声に、思わずびくりと驚いてしまうほどだった。
ベラが――、凄まじい怒りの表情でアントンに張り裂けそうな声をぶつけていたのだ。
「念話魔法の企画書は、完璧でした! 人材と時間、費用さえ確約されたら十分に実現可能なんですよ!」
レイラは、ベラのその剣幕に凍り付きそうな気持ちだった。
こんなにも、念話魔法に対して入れ込んでくれているなんて思わなかったのだ。自分はがっかりだという気持ちがあったものの、アントンに食って掛かるような勢いは持っていない。
それをベラがやってくれるのは、本来なら嬉しいことなのかもしれない。
だが、レイラは、ベラの声にただただ驚いていた。凍るような気持ちが、自分の内側を切り刻むようにすら感じていた。端的に言うと、ベラが怖かった。
彼女がこんなに怒りを露骨に溢れさせているのは、初めて見た気がしたのだ。
「確かに、念話魔法の企画書は、素晴らしいものだった。だが、より実現性のある案が採用に至った」
「何なんですかそれはッ!」
「錬金術師たちからの案だ。この国は豊かな鉱山、鉱脈があり、昔からそれで生計をたてている鉱夫が多い。そんな彼らは普段から命の危険に晒されながら、鉱山で発掘作業をしている。彼らの生活を支援する計画が採用になった」
淡々とした口調で、決定事項を告げるアントンに、レイラは納得できていた。確かに、この国は鍛冶屋だとか鉱山夫が多い。彼らの暮らしに寄り添うような開発計画は、国民に最も親しみやすい一歩目だろう。
念話魔法は未知の分野だ。一般的に、人々は自分がこれまで知らなかったものに対して警戒心を芽生えさせる。開発隊の最初の活動としては、アントンが述べた鉱山夫の生活の改善に密着した活動を行った方が、人心を獲得しやすいだろう。
――だが、ベラは止まらなかった。
激しい口調を隠すこともなく、まるでこれまで抱えていたものが堰を切って溢れたみたいに、感情が吐露されていた。
「不確定で不安定な、先が見えない魔法だからですか? 新しいものより、安定と過去の生活ですか? なぜ、未来を見ないんですかッ!」
鋭いトゲが、言葉となって、アントンに突き刺さっていくように、感じられた。
ベラは普段から、アントンに厳しいことを言ったり、注意をしたりすることが多い。
だが、こんな風に相手を切りつけるような言葉をぶつけたことはない。怒ったような口調でアントンに注意しながらも、どこか、信頼を置いている、そんな温かさをいつも持っていたように思う。
今のベラは、ぬくもりとは真逆の冷え切った氷の刃で、相手の心臓を貫くような、そんな痛々しさがあったのだ。
だからレイラは、ベラを怖がっていた。
ベラが、自分の魔法のために、アントンと険悪になってほしくなかったのだ。
「ベラ先輩、もう、いいですから……!」
レイラのその声に、ベラはキっと、鋭い目をレイラに向けた。怒りに満ちた――、いや、違った――。
「先輩……?」
ベラは、涙を零していた。
怒りではない。悔しい、哀しい、どうして――。
そんな声が、言葉ではなく、零れた雫から、伝わった気がした。
「失礼します!」
そのまま、ベラはレイラを素通りし、廊下へと走り出て行った。レイラは、咄嗟にベラを追いかけることができなかった。
部屋に残されたアントンとレイラの間に、沈黙が生まれた。
「レイラ君。すまなかったが、決定はそういうことだ」
「は、はい……」
「ベラ君を、追いかけてやってくれないか」
レイラは、アントンのその言葉で、はっと思い出したように、動いた。
退室する前に、アントンの顔を見て、そしてついに、思い至った。
「アントン隊長」
「なんだね」
「質問に応えてもらえますか、たった一つだけでいいので」
「ああ、うん」
レイラの神妙な声に、アントンは観念するみたいな声で返事をした。
念話魔法に競り勝った、錬金術師の企画の内容なんかの質問だろうか、それとも、念話魔法の今後の改良案だろうか。そんな風に、アントンは考えていたからだろう。
次のレイラの質問で、思わず戸惑った顔を浮かばせることになった。
「近頃、ジルコンを見ましたか?」
呆気にとられたような顔をしたアントンに、レイラは合点がいった。
アントンの瞳を見て、錆びついた鉛のようだと思ったのだ。
彼は、見ていないのだろう。彼女の、精一杯のアピールさえ。
なぜ、ベラが弾けたようにアントンに声を上げたのか、その本当の理由が分かった。
「失礼します」
レイラはお辞儀をして、部屋から出ると、すぐに走り出した。
(私……! バカだ!! 自分のことばっかりで、全然分かってなかった!)
同じ赤い髪、同じ魔術師、同じ恋に苦しむ女性――。
でも、全然違う。頼りになって、綺麗で、優しくて、厳しくて――。
自分よりも圧倒的に優れているのがベラだと思っていた。ベラだってそういう女性を演じて来ていた。他者に弱みを見せることを嫌っていたように思う。
(先輩が好きな人、近くにいたのに――!)
まだかっこいい先輩で居させて――。
そう言ったベラの顔が思い出せた。胸元のジルコンのネックレスを外したベラは、恋をやめようとしていた。
これから先のことを考えていたから。
その顔は、一人の女性に過ぎなかった。
崩れてしまう想いを必死に守ろうとしている、そういう女性だ。
どれだけアントンが近くに居ても、まるで気持ちが伝わらない。見てもらえない虚しさをずっと抱えてベラは過ごして来たんだろう。
先ほど、ベラが怒声を上げた理由は……念話魔法に熱を上げて、企画の不採用にむきになったわけではないのだ。
(先輩、言ってた……。なぜ、未来をみないのかって。アントン隊長へ、ずっと伝えたかったのは、それだったんだ)
思い出の人には勝てない、とベラは零していた。
アントンの目を見て、レイラも気が付いた。アントンは、未来を見つめることを避けているのだと。何かに捕らわれ、過去をずっと見つめている。
ベラがずっと抱えていた想いが、念話魔法の不採用と重なってしまったのかもしれない。
レイラは自分の不甲斐なさに、情けない気持ちでいっぱいになっていたが、そんなことを気にしているより、今はただ、ベラの傍に居たかった。
初めてできた、友人の傍に。
泣いていた、自分に似ている赤毛の魔女の気持ちに、寄り添いたかった――。