紙は何にでも耐えられる
アントンの部長室は、今は名前を変えて、隊長室となっている。『隊長』という響きの重さは、なかなか馴染めなかったが、アントン隊長の前でレイラは固唾を呑んで返事をまっていた。
「……へえ、よくできてるじゃないの」
アントンの感心した声に、レイラはほっと胸をなでおろした。企画書はアントンのお眼鏡に適ったらしい。
あれから、ベラとレオンに手伝って貰いながら、念話魔法の企画書をどうにか形にできた。出来としては会心のもので、ベラもこれならいけるんじゃないかと、太鼓判を押してくれた。
レオンが提供してくれた青生生魂も念話魔法の符呪をより高度に昇華させることに多大な貢献を果たしてくれた。青生生魂に符呪した念話魔法は急造したものではあったが、これまでの試作魔器と比べ、よりクリアな音を運び、伝達を高めることができる証明になるだろう。
「それじゃあ、この企画書を使わせてもらうよ」
「おねがいしますっ……」
レイラはアントンに深くお辞儀をして、部屋から退室した。あとは、アントンがこの企画書を会議にかけて、騎士や錬金術師の代表たちから賛同が得られたら念話魔法は本格的に開発されていくだろう。
遠く離れた人へ迅速にかつ、的確にやり取りができる魔法が出来上がれば、きっとこの国の流通や交流に多大な貢献を果たすことだろう。念話の魔法は必ず人々の暮らしを良くするとレイラも自信を持っていた。
きっかけはユーリへの慕情を満たすためではあったが、もうそれはあくまできっかけに過ぎない。もちろん、今もユーリに連絡を取りたいと願う気持ちはあったが、企画書を作りながら、レイラはこの念話魔法の利便性を自分でも評価しなおしたのだ。
この魔法は広大なモースコゥヴの距離を縮めてくれることだろう。遠く離れた辺境で暮らす人々が、何に苦しんでいるのかがあっという間に王都まで届けば、迅速に対応に移るようなこともできるだろう。
ひとまず、これで自分にできることはやってみせた。あとは結果を待つばかりである。
レイラはこれから先のことも考えてもっと多くの魔法書を読んでおきたいと思い至った。今回のことで他国の魔法書に目を通したのは正解だったと思う。自分だけでは到底到達できない知識を獲得できたし、存外、他国の言葉を学習するのは楽しかった。
読み解けなかった言葉が、紐解かれ、意味が自分の中に沁み込んでいくのを実感すると、自分の能力がきちんと上がっているのだと実感が湧くし、元来よりレイラは勉強は嫌いなタイプではない。寧ろのめり込んでしまうようなタイプであったから、ガリベンにもなるのだ。
そんなレイラは異国の本に強い関心を持っていた。
少し気分転換に、他国の書物を読んでみるのはいい案かもしれない。
そんな考えが、レイラを図書室に向かわせた。王宮の中にはそれなりの規模を誇る図書室が用意されている。司書に申請すれば、レイラでも本を借りることが赦されているので、何か気になる本を借りてみるのは悪くないだろう。
――と、そこで思いがけない人物と鉢合わせすることになった。
「あっ……」
「ん?」
思わず声を上げてしまったレイラは、図書室の入口で固まってしまった。
そこに居たのは、ブロンドの女騎士、ユーリの相棒であり、先輩でもある親衛隊のクリアーナだったのだ。
クリアーナとは何度か言葉を交したことがあるが、レイラはクリアーナの鋭く冷たい視線を見ていると、固まってしまうことが多い。
「あ、あ、あの、こんにちは」
それだけ言えただけでも、レイラにとっては大きな進歩だっただろう。
「ああ、こんにちは。魔術師の、レイラだったな」
「は、はい。すみません」
なぜ謝ったのか自分でもわからないが、名前を呼ばれてレイラはぺこりと頭を下げた。なんとなく、クリアーナと相対すると蛇に睨まれた蛙という具合に表情が強張ってしまう。
彼女との最初の接触が、叱られた場面だったのが大きいだろうか。厳格な人だという印象が抜けないクリアーナは、冷淡とも言える表情で、レイラを見ていた。
「何か本を読みに来たのか?」
「あ、は、はい。異国の書物を読んでみたいと、思いました」
カクカクと関節が鳴りそうなほどにギクシャクした態度でレイラは問いに答えた。
ふと、レイラはクリアーナが持っている本に目が行った。飛び込んで来た表紙に描かれた文字に見覚えがあったのだ。このモースコゥヴで使用されている文字ではない、他国の本。
思わず、その題名を読み上げてしまっていた。
「千夜一夜?」
レイラのその言葉に、クリアーナの鉄仮面みたいな表情が少しばかり驚きに染まる。眉をくいと持ち上げて、レイラに対して青い瞳の光を煌めかせた。
「分かるのか?」
「あ、すみません……。その、魔法書の翻訳をしていて……その国の文字を少しだけなら読めるようになりました」
「ああ、そうなのか。それでも大したものだ。魔法使いとは流石だな」
自然に、そんな言葉を口にしたクリアーナに、今度はレイラが驚きの表情を浮かばせてしまう。
この国で暮らす人々から『魔法使いは凄い』と褒められることはほとんどない。
ましてや、騎士は魔法を毛嫌いしている人が多い。親衛隊の一員である騎士の中の騎士、クリアーナがあまりにも自然に、魔法使いを褒めたことに、レイラは正直なところ、信じられない気持ちで一杯だった。
「この本はな、詩集なのだ」
「詩集……他国の、詩ですか?」
「ああ、趣味でな」
クリアーナは詩が大好きだと教えてくれた。意外にもロマンティックな一面がある。人は見かけによらないものだ。
好きな詩人の歌集を楽しみ、自分でも詩を詠むこともあるらしい。この『千夜一夜』はクリアーナが最も好んでいる作品らしく、暇さえあれば何度も読みふけってしまうそうだ。
「異国の書物に興味があるのなら、これはどうだ?」
と、今自分が借りようとしていたらしい『千夜一夜』をレイラに手渡して来た。
「えっ、でもこれはクリアーナ様が、お借りになるのでは?」
「私は何度も読んでいるからな。仲間が欲しいと思っていたところだ。詩に興味がないなら無理強いはしないが」
レイラは、詩は好きな方だ。物語の世界に空想を広げさせる詩人の導きは、気分転換にはもってこいだし、他国書であることは自分が得たいと思っていた知識の欲求にもつながる。
なにより、ユーリの相棒である女性騎士の趣味として、愛されているこの詩集に興味が沸いた。
「で、では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ、感想を聞かせてくれ。――カミツレ隊の遠征の後にでもな」
「カミツレ隊?」
聞きなれない言葉に、レイラは首を傾げたが、察しはついていた。恐らく多目的開発隊のことを言っているのだろう。
「近々正式に発表されるだろう。多目的開発隊の名称だ。君は参加するのだろう」
「は、はい」
「そうか。国のため、奮闘を期待している」
「あ、ありがとうございますっ……」
思いも寄らぬ激励に、レイラはまたカチンと背筋を固まらせて伸び上がった。
ユーリとは幼馴染だから、親衛隊だとしてもこんな気持ちにはならないのだが、本来、親衛隊の騎士というのはこの王宮に於いてかなり位が高い存在だ。
レイラからすれば無礼をするわけにはいかない目上の存在。それもかなり上に位置する。
そんな人物から期待をしていると言葉を投げかけられたのは、胸が高鳴った。
厳しそうな印象が強いクリアーナではあったが、魔法使いに対して、偏見を持っていない数少ない理解者なのだと知り、ドキドキしながらも嬉しさがこみあげていた。
ユーリの相棒がこの人で、本当に良かったと。
ユーリはどこか不安定なところが見え隠れすることがある。そんな時、いつもクリアーナに注意されていると言っていた。それがどんな様子で注意されているのか、レイラは分からなかった。
クリアーナはとても厳格な人物だとは想像していた。それは実際事実だろう。彼女は自分にも他人にも厳しそうだ。
だがそれは、理不尽な、価値観を潰すような忠告ではなく、認めるものを認め、公正な態度で臨むことを教えるようなものだろうと、レイラは分かったような気がした。
これから、レイラはユーリと離れ離れになる。しかし、このように立派な騎士が相棒ならば、きっと何も心配は要らないだろう。クリアーナと切磋琢磨を繰り返し、ユーリは必ず、素晴らしい騎士になることだろう。
「あ、あの……ユーリのこと、よろしくお願いします」
「ふふ、幼馴染として気になるのか?」
クリアーナの表情に笑顔が浮かんだ。仮にも親衛隊であるユーリのことを心配するようなレイラの言葉が面白かったのかもしれない。
「ユーリは、なんて言うか、見かけによらないところがあるから……」
「ああ、まったくもってそうだな」
クスクスと、小さく肩を動かして笑ったクリアーナからは厳格な雰囲気を感じなかった。困った奴だと、ユーリを笑いながら、それでもどこか信頼を置いている空気がまろび出ていた。
その様子をレイラはどこかで見たことがある風景だと、ぼんやり思った。一体何と重ねているのだろうと考えて、思い至った。
ベラとアントンの関係に少し似ているように思ったのだ。仕方のない相棒だと言いながらも、本音は信頼して、強いつながりがある。そんな感じだ。
「安心しろ。あいつの事は心配しなくてもいい」
「は、はい」
「――ああ、そうだ」
ふと、クリアーナが何かを思い出したような、気が付いたような、そんな声を上げた。
「その詩集、『千夜一夜』はあくまでも詩集。詩を綴ったものだ。翻訳の勉強をしていると言ったが、言葉の意味だけが詩の全てではない。詩は音だ。詩は韻を踏むことで美しい調べを奏でる」
レイラに手渡した本を見ながら、クリアーナは普段よりも少しだけ饒舌に語った。
どうやら、本当に彼女は詩が好きな様子だった。この詩集の楽しみ方をレイラに、それこそ詠うように滑らかな言葉で伝えてくれた。
「意味も大事だが、その詩本来の音色を口ずさんで見ることだ」
「詩の、音色……ですか?」
「異国の言葉で歌い上げてみると、その心地よさがより分かる」
詩は確かに韻を踏む。
単純に詩の内容を、翻訳して、意味合いだけを捉えられたとしても、その詩本来の音色はなくなってしまうだろう。
レイラは、これまで異国の魔法書を読み解きながら、その文字の意味合いだけを翻訳してきていたが、言葉の響きなんて全く考えていなかった。
文字は読めるが、口に出して喋ることは出来ない、という状態だったと思い知った。
事実、この『千夜一夜』の字面は読めても、この異国の文字をどのように発音するのか、分からない。
「その詩集で、『言葉』というものは、『意味』だけではないと知ってもらいたいものだな」
「言葉は、意味だけではない……。なんだか、その言葉も、まるで詩のようですね」
「ああ――、少し気分が高揚してしまったな。すまない。語り過ぎるのもまた、無粋というものか」
そう言うと、クリアーナはらしくもなくペラペラと語ってしまったことを少しばかり恥じるようにして、また冷静な顔を纏わせた。
「では、失礼する」
「は、はい……。ありがとうございました」
美しい真紅のマントを靡かせて、クリアーナは図書室から出て行った。
レイラは受け取った詩集の表紙を見つめ、『言葉』ではなく、『詩』として『文字』を追うという発想に、面白さを感じていた。
早速司書の元へと『千夜一夜』を持っていき、貸出の手続きを済ませると、大事そうに胸に抱えて、魔術師の塔へと戻っていった。
早く頁をめくりたい。
そこには何か、これまで自分が見落としていたものが描かれているような、そんな予感がしていたのだった。