愛する人のためならば、七露里も回り道ではない
その日は一週間ぶりのユーリとのデートの日だった。
レイラは最近の、念話魔法の研究のせいで疎かにしていた美容も、その日ばかりは思い出して気を遣った。水薬で髪の毛を労わり、艶やかなストレートヘアを取り戻せたことにほっとしたレイラは、女性の大変さを改めて実感する。
仕事にも力を注ぐ一方で、美容や化粧など、色々な準備に費やす時間――。ベラはいつも美しく、魔法の技術も高い。そして自分の恋愛を追いかけてもいる。彼女は、人に見えないところでどれほどの努力を行っているのだろうか。
夕刻、待ち合わせの公園で、レイラはやはり一人ぼっちで樹の幹に寄りかかっていた。結局まだ念話魔法は上手くいっていないものの、企画が通れば、多目的開発隊で研究対象にしてもらえるというのだ。レイラはベラに教えてもらいながら、会議用の計画案を作っていた。
ベラには本当に頭が上がらない。
そんな彼女の最近の様子は、自信を失くしかけているようにも見える。ベラが恋している相手に、まるで想いが届いていないようなのだ。
ベラの様子からその相手が魔術師班の中にいるとは想像できたが、ベラが魔術師班の誰かと噂になるような話はまるで聞かない。つまり、噂にもならないほどに、脈がないのだろう。
魔術師班の半数以上は男性だ。レイラはなんとなく自分の周りの男性魔術師たちを観察してみたが、ベラの胸元に光るジルコンに魅かれて、彼女の胸元を覗き込む人が居るのを見付けた。
レオンですら、ベラの胸元に目を向けた時は、思わず顔を背けて赤い顔を誤魔化そうとしていたので、彼女の胸元は大抵の男性なら誰もが目を引くことだろう。
しかし、ベラはそういう挑発的な姿を見せても、相手が無反応だと言っていたから、そういった男性陣はベラの想い人には当てはまらないだろうな、と想像できた。
そうなると、ますますベラの相手は分からなかった。本当に魔術師班の中に居るのかもはっきりしなくなる。もしかすると、レイラの思い過ごしかもしれない。
(……でも、やっぱり男の人って……胸とか気にするんだな……)
ベラの恋愛相手を探しながら、ふとそんなことを考えてしまう自分を発見した。
レイラは正直なところ、身体つきは貧相だ。ベラのような男性を惹きつけるプロポーションは持っていないので、胸元を大胆にアピールするような手段は不可能だろう。
もし、自分の身体が女性的であれば、ユーリも喜んでくれるのだろうか――と考えてしまった。
ユーリはああ見えて、なんというか、激しいところも持っている。二人きりの時、悪戯な表情をして、レイラをくすぐってくることがあった。そんな時、レイラは恥ずかしさで胸が跳ねまわってしまう。
ユーリに抱かれると、彼の逞しい胸板や、太くしなやかな筋肉を見せる腕に包まれて、ユーリの肉体を感じられる。
いつだったか、ユーリの馬、『ノーチ』に乗せられた時、レイラはユーリに抱きかかえられるように持ち上げられて、乗馬させられた。あの時、本当にユーリの男性的な力強さにドギマギしてしまったのだ。
(ユーリも……もっと女性らしい身体つきのほうが、抱きしめたくなるのかな)
まじまじと自分の身体に視線を落とすが、溜息しかでない。こればかりは水薬でどうこうできる問題ではないだろう。
「レイラ!」
「ゆ、ユーリ!」
馬の蹄の音と共に、耳にするだけで幸せを感じられる声が届いた。
黄金の馬、アハルテケの『ノーチ』にまたがったユーリがなにやら焦りを浮かべた表情で手を振っていた。
馬に乗ってやって来たということは、もしかすると、どこか遠くに行くのだろうか。
ユーリは素早く馬から飛び降り、レイラの手を取った。
「レイラ、ごめん、遅くなった。早速だけど、ノーチに乗ってくれ」
「ど、どこかに行くの?」
「ああ、早くしないと見逃してしまう!」
「み、見逃す?」
レイラは首を傾げるが、ユーリはそんなレイラを攫うように抱き上げた。
「えっ、ひゃっ……」
「レイラって、軽いよな」
「……ご、ごめんね」
「え? なんで謝るんだ?」
俗にいう、お姫様抱っこの状態で、ユーリに抱き上げられたレイラは真っ赤な顔で詫びた。
さっきまで考えていた、自分のやせっぽちな体つきが恥ずかしくて、貧相な身体をユーリに抱かれているのがなんだか申し訳なく思えたのだ。
そんなレイラの謝罪に、ユーリはきょとんと眼を丸くしてレイラを覗き込んでいた。自分を軽々と抱く彼の腕の中で、逞しさと無邪気さを併せ持ったようなユーリの顔が、とても恋しかった。
「話はあとだ。急がないと」
ユーリはどうも焦っている様子だった。何かに間に合わないらしい。レイラをそのままノーチに乗せると、レイラの後ろにユーリはまたがる。そしてレイラを護るように包み、馬を走らせる。
そうすると、ユーリの体温が背中に伝わってくるし、彼の呼吸がレイラの首筋や耳の傍に感じられた。
レイラは、この乗馬の時が、大好きだった。ユーリと二人きりだというのが感じられたから。
「よかった……レイラの香りだ」
慈しむような声が低く呟かれた。レイラの後ろ髪に鼻先を押し付けるような体勢のユーリが、ほっと、安堵の声を漏らしていた。
レイラはくすぐったさと恥ずかしさで、もごもごと言葉にならない声を口の中で持て余してしまう。
二人は互いの体温と香りに包まれて、心地の良い蹄の音色の中、街から離れ、森を抜けていく。あまり深く森の奥に進むと野獣なども出てくるので危険ではあったが、レイラはそんな心配はまるでしなかった。
ユーリが居れば、何の不安も感じなかったから。レイラのたった一つの不安は、そんな彼との別れだけ――。
森に入って少し進むと、水の香りがした。
冷ややかな空気に湿り気を感じ、緑と水、泥と土の匂いが近づく。やがてノーチが足を止めたのは森の中にぽつんと広がる泉だった。
そんなに大きくない泉は森の中に隠されているように佇んでいた。日も沈み、まっくらな森の中、虫の鳴き声が小さく奏でられている。
「着いた……。よかった間に合ったぞ」
「……泉? ここで何か始まるの?」
ユーリが慣れた様子で馬から降りて、続いてレイラを抱き上げて、降ろしてくれた。
その後、ユーリはノーチを撫でてやると、その場で休ませた。ノーチは優しげな瞳をしてぶるる、と低く鳴く。
レイラは、目の前の泉を眺めてみたが、何の変哲もない泉だ。湧き水らしく清涼感が漂っていた。透明のさらさらした水質のようだが暗くてはっきりとは見えない。周囲の針葉樹も生い茂っていて背を高くしているため、星空が隙間から覗くくらいだ。
ユーリの顔だってしっかり見えない。もうこうして逢えるのは残り僅かだから、ユーリの顔をしっかりと見ていたい。
レイラが灯りの魔法を使用しようかとユーリに提案したが、ユーリは「しぃ……」と、口元に人差指を立てて静かにするようにレイラに言った。
そして、レイラの腰を抱き、傍に寄り添う。二人で真っ暗な水面を見つめることになった。
「もう少しではじまる」
「……?」
仄暗い泉は、時折、ちゃぷんと小さな水の音を響かせて不思議と心を鎮めてくれるようだった。
すると、水面からふわり、と小さな光の粒がひとつ、ふたつと夜空を目指すように舞い上がり始めた。
レイラは思わず目を見張った。何かが、暗闇の中に小さく灯り、水面から昇っていく……。まるで妖精の舞踏のように。
「春が訪れたこの時期、陽が落ちた直後にしか見られないものがあると聞いてさ」
ユーリは静かに笑顔を浮かべてそう教えてくれる。
「わ……」
思わずレイラは感嘆の声を上げそうになった。
小さな泉から星屑のような光の粒が、次々に空に舞い上がり、それこそ、本物の星を目指すように天空へと昇っていくではないか。
「星屑虫と言うんだそうだ」
「虫……?」
ユーリが教えてくれたその言葉に、レイラは舞い上がっていく光に目を凝らした。
ふわふわと踊るように上空に昇っていく光は、なるほど、確かに腹部が淡く点滅を繰り返している羽虫であった。
「綺麗な泉にしか卵を産み付けない星屑虫は、この時期幼体から成長して飛び立つ。その幼体から成体に変化する時、殻が剥がれてキラキラと光るんだよ」
「綺麗だね」
粒子をまき散らしながら、水面から昇っていく星屑虫は、夜の暗闇を淡く照らし、たちまち泉の水面が光を零しているような明かりを揺らめかせる。
レイラは隣にいる最愛の人を覗き込んだ。淡くも暖かい星屑虫の煌めきが、ユーリの横顔をほんのりと照らして、銀色の髪の毛を反射させている。
そのあまりにも幻想的な空間に立つ幼馴染の相貌は、魅惑的に演出されていて、レイラは思わず、数秒見惚れてしまった。すると、ユーリがゆっくりとこちらに視線を動かして、笑った。
「綺麗だな」
ユーリが星屑虫を見ず、レイラの瞳を真っすぐ見つめて、そんなことを言うものだから、レイラはユーリの言葉が自分が発した言葉への同意だったのか、それとも、ひょっとして自分のことを言ってくれたのかとのぼせ上がりそうにもなって、頭の中がくるくるとしてしまった。
「レイラ。多目的開発隊に加わるそうだな」
「う、うん」
そこで、ユーリは笑顔をひっこめて、憂色を浮かばせる。
「遠征へ行ったら暫くは戻れないだろう」
「……うん」
「春は、一緒に過ごせない……と言うことになるんだな」
ユーリの静かな哀しみを孕んだ声に、レイラも胸を締め付けられる思いだった。少なくても数か月は離れ離れになる。モースコゥヴの雪が溶ける麗らかな季節を想い人と共に過ごせないのだ。
やっと両想いであることを確認しあったのに、また引き裂かれてしまうのが悔しくて、泣きだしそうだった。
「近くで、見つめることもできなくなる」
「ごめん、ね……」
「謝るような事か。確かに、寂しいけどさ。オレ……嬉しかったんだよ。レイラが開発隊に加わった事」
ぐい、とユーリが更にレイラを抱き寄せた。そして、ユーリは淡く煌めく泉を見つめて、実顔で続けた。
「オレはレイラが、多くの人々に認められることが、本当に嬉しい。いつか、お前を正々堂々と抱き締められるようになるんじゃないかって、そんな希望だって持っている」
こんな風に、隠れてデートをしなくてもいい日がいつか来る、そう、ユーリは言っている様子だった。
「……うん」
ユーリのその応援と賛辞の言葉は、確かに嬉しいものだった。レイラもそれに関しては同意だったが、しかし、どうしてもレイラはこれからユーリと逢えなくなるという事実が、重くのしかかってくる。
だから、声がどうしても沈んでしまう。今夜がユーリと話ができる最後の日になるかもしれないと、そんな風にすら考えてしまうのだ。
油断をすると、すぐに出てくる自分のマイナス思考に、レイラは自己嫌悪に陥りそうになることすらあった。
そんなレイラのおでこに、唇を寄せるようにユーリが体を寄せて抱きしめてきた。両腕を回され、光の粒子が舞い上がる泉の淵で、二人は暫し、互いの体温を忘れないように、抱き締めあった。
「やっぱりこの香りであってたな」
「……香り?」
「お前の香り。これに似てると思ってる」
「え?」
何のことだろうとレイラがユーリに訊ねてみたが、ユーリは鞄から何やら小さな袋を取り出した。掌の乗る程度の袋から、何やら花の甘い香りと、柑橘系の清々しい香りが合わさった匂いがした。
「これ、芳香剤?」
「ああ、……オレの先輩の女性騎士、クリアーナ殿を知っているか? 彼女から、汗臭い体で姫の傍に近づくなと叱られてな」
妙に、言い訳するような口調でユーリが言った。取ってつけた理由を語る時、ユーリはこんな言い方をするのを幼い頃から知っている。
そう言えば、近頃、訓練をしているから汗臭いなんて言っていた。クリアーナのことはレイラも記憶にしっかりとある。厳しそうな女性騎士だった。ユーリが病に倒れた時に、レイラとユーリが幼馴染であることを告げたが、恋仲であることまでは言っていない。
「それで、その……レイラみたいな香りのする芳香剤がないだろうかと、調べてみた」
「……わ、私の?」
「……あ、あぁ」
紅い顔をしたユーリがなにやらむず痒そうにしていた。その様子がレイラにはどこか幼くも見えた。そしてそんな彼が、可愛らしくも思えてくる。
「……離れていても、この芳香剤があると、お前が傍に居るように思えていたんだ」
少し恥ずかしげに鼻の頭をかきながら、ユーリは視線を泳がせていた。
「離れてても……」
ユーリの言葉に、レイラも嬉しくなって、顔を赤くさせる。きちんと、ユーリは自分のことを想ってくれているのだと、甘い香りの芳香剤にすら感謝をした。
念話の魔法で、ユーリに気持ちを伝えられたらと考えていたレイラと一緒で、ユーリも毎日、レイラを思いながら、こんな芳香剤を用意した。
これから、確かに離れ離れになる。しかし、きちんと気持ちを通じ合えているとレイラは実感できていた。そして、離れていても、恋人を想う手段は魔法以外にもあるのだと、教えられた。
必死に念話魔法を形にしてユーリに渡そうと思っていたレイラではあったが、それは完成するには至らず、試作品の魔器しか作れなかった。遠く離れるユーリを繋ぎとめるための手立てが消滅したようにも思っていたが、彼が魔法はなくとも、思いは繋がると示してくれた。
途端、レイラの目の表面が、薄い水の幕を孕んだように熱く、潤った。零れそうなそれが、視界をゆらゆらさせた。
「レイラ」
ユーリがレイラを見下ろしていた。芳香剤をポケットにしまい込むと、その手で、レイラの大きな眼鏡を奪い取った。
――レイラのガリベンの象徴のような厚底眼鏡。それをユーリが奪う時の合言葉は、『キスをしよう』――。
二人の間に、言葉で「キスをしよう」と確認する必要はなかった。
ただ、ユーリがレイラの素顔を確認すれば、それが二人の合図なのだ。
自然に、レイラは瞼を閉じ、ユーリは優しく口づけをした。暖かいものが頬を伝うのが分かった。
幻想的な光の泉を背後に、二人は抱き合いながら、キスをした。
「レイラ、愛してる」
「ユーリ……、私も。一日だって忘れない」
「毎晩、お前を想うよ、レイラ」
また二人の唇が重なった。やがて星屑虫たちの光も夜空へと溶けていき、暗闇の泉になるまで、二人は甘い香りを吸い込みながら、互いの鼓動の音すら忘れたくないと熱く強く抱擁を続けた。
そんな恋人たちの背後で、黄金の馬であるノーチは安らか瞳で佇んでいた。
「ユーリ、私ね、頑張りたいんだ。自分のこと、もっと周りの人たちに認められたいの」
「オレに独り占めさせてくれないんだな」
「ユーリだって、私だけのユーリじゃないでしょ」
「……そうだな。ほんと、そうだ。ははは、ほんと、そうだよな!」
ユーリが無邪気な声で笑った。何か、自分の中にある燻っていた物が吹き飛んでいったように爽やかな笑顔だった。
「オレもレイラも、誰か一人のモノじゃない。誰もが必要とする、人の世の、大事な人間なんだ」
レイラにはまだ、責任感という言葉は良く分からなかったが、ユーリの言葉には素直に頷けた。
引きこもりで人見知りだったいじめられっ子の自分ですら、この世界を構成する大事な人間の中の一人なのだと、ユーリは教えてくれたように思えた。それが生まれてきた意味、生きていく理由にもなる。それが責任感だとしたら、レイラは今、少し大人になったようにも感じた。
「ユーリ。これ……受け取ってくれるかな」
レイラは、鞄の中に入れていた未完成品の試作型魔器を取り出した。掌に収まるくらいの薄い金属板は、完成の目処が見えない『念話』が符呪された魔器だ。
「これは?」
「……私が作ってる魔法……。ぜ、全然上手くいってない失敗作なんだけど……。遠く離れている人と、話せるような魔器を作りたかったの」
ユーリはレイラから魔器を受け取り、薄い金属板の表面をなぞりあげた。
レイラはもう一枚の金属板を鞄から取り出す。ユーリが今持っている物と全く同じものだ。
「念話魔法は、二つで一つの魔器なの。音を送ったり受け取ったりできる、ポストみたいなもの」
ユーリが指をトントンと金属板に押し当てると、レイラ側の金属板が鈍い音をジーと漏らした。
「ユーリと……話したかったの。遠くに居ても……、毎日、おはようって……毎晩、お休みって……言いたかった」
本音が零れ出ていた。その結果がこんな失敗作だった。耳障りな雑音が響かせるだけの不格好な金属板。ガリベン魔女の自分が生み出した、身の丈に合った失敗作だと思った。必死に背伸びをしようと頑張っても、不協和音を生み出すその魔器は、自分の映し鏡みたいにも思えた。
「レイラも、オレのことを想ってくれていたんだな」
「当たり前でしょっ……」
「すごく、嬉しい」
そう言うと、レイラの頭を大きな手が撫でてくれた。
「よく、頑張ったな」
「失敗作なんだよ、それ……。全然、声を届けるなんてできなかった」
「よく、頑張ったよ」
「私、ユーリと、いつも一緒に……いたいよ」
「お前の努力は必ず、実る。多目的開発隊の一員として、その努力を続けていけば、オレはお前を迎えに行く」
失敗作の金属板をなぞる指先は、切なく。レイラの頭を撫でてくれる彼の手も、何より優しい。
「迎えに行く」
「うん」
背中を押してくれたユーリの言葉が、レイラを強くさせてくれた。
ユーリに甘えてくっついていたい。彼に守られていたい。そんな気持ちを、ぐっと押しとどめた。
彼の掌から伝わってくる感情もまた、独りよがりなものではない。
「行ってらっしゃい、レイラ」
「行ってきます、ユーリ」
残り雪は、もう見当たらなかった――。