羊と向き合う勇者様
切っ先が風を切り裂いた。
汗が弾け、ユーリは呼吸を短く吐き出す。
「ふっ――」
空を薙ぐ模造刀に淀みを感じたユーリの表情は晴れない。
朝早く――、剣の素振りを訓練場で行いながら、己の中に渦巻いている迷いを断つように、ユーリはぎこちなく模造刀を握った。
稽古にまるで身が入っていない。それが自覚もできているし、どれだけ渾身の力で剣を振ろうとも、自身の内側にあるどんよりとした感覚がまとわりついてくるようだった。
「く……」
思わず、歯噛みしてしまった。姫が多目的共同開発隊を企画してから、ユーリの中で膨らみ始めた暗雲の正体は、レイラへの想いに他ならない。
レイラが遠くへ行くかもしれない。そう想像するのは容易いことだった。当初はレイラの実力を認められ、これからより一層、国のために働くことに敬意すら持った。あの頼りなさげな少女だったレイラが、魔法使いとして、姫直下の部署に配属されるのだ。誇りに思うこと以外に何があるというのか。
ユーリは、レイラを応援するつもりで気持ちを固めていた。
次の彼女とのデートの時、「おめでとうレイラ」と鼓舞してやるつもりだったのだ。そうするのが、愛する者の務めであり、親衛隊である自分の在り方であるはずだ。
だが、何か己の内側に燻るものがあるのを察していた。そして、それを表に出すことは、あってはならないことなのだとも。レイラが遠くへと旅立つことが、未熟な精神を崩していくのである。
どうにかその想いを封印していたユーリだったが、アントンの何気ない言葉であっさりとその錠前を解いてしまっていた。
中には辞退する者もいるかもしれない――。
アントンのその言葉に、ユーリはほんの一瞬、レイラがもしそうしてくれたなら……と、脳裏に過ってしまったのだ。
そんな自分に、自己嫌悪が膨れ上がった。先日、クリアーナから己を戒めるようにと忠告を受けたばかりなのだ。だと言うのに、気を赦せば、レイラを傍に置いておきたいという欲求が顔を見せる。
レイラは、自分の彼女ではあるが、『物』ではない。そんな我儘な言い分を彼女に伝えることなどできるはずがない。何よりも、レイラが多目的開発隊を辞退するということは、姫からの尊い提案を足蹴にするような行為になるのだ。それを親衛隊である自分が、彼女に望むなど、騎士としてあるまじき考えだ。
「はッ!」
ブン、と素振りが空を裂く。力任せな一振りが、虚しくも繰り返されていく。
「憂悶しているようだな、ユーリ」
「……!」
訓練場に響いた女性の声に、ユーリはピクリと動きを止め、その声の主に振り返る。そこには、先輩の騎士であるクリアーナが立っていた。右手には模造刀が握られている。
騎士の間では氷雪のクリアーナなどと綽名を付けられている彼女の表情はいつだって冷ややかだ。感情をまるで表に出さず、冷静沈着な姿は騎士として見習うべき模範と言えるだろう。
「クリアーナ殿……」
「先日の説教が随分と堪えたか?」
クリアーナは冷ややかな目をユーリに向けて、遠慮のない言葉で責めた。
「そんな状態で、親衛隊の仕事を任せるわけにはいかないな」
「精進、します」
「努力の仕方も分からぬまま、自分を虐め抜けばどうにかなるとでも思っているのか? それではお前が打ちのめしたムスティスラフの騎士と大差ないな」
以前、魔術師の塔の監視役に就いた騎士二人は、密猟者対策部隊のムスティスラフの騎士だった。彼らのやり方に異議を唱えたユーリであったが、ユーリ自身、ムスティスラフ隊で鍛錬を積んだ見習い期間もあるため、体に沁み付いたやり方は、彼らと似ていた。
健全な心と体を作り上げるため、人権すら貶めるような鍛錬の中ユーリは扱かれてきた。そのせいで、苦難に向き合った時、歯を食いしばって足を踏ん張ることが努力なのだと信じてきた。
だが、それをレイラたち魔術師にも強要しようとした騎士二人を、ユーリは否定した。なぜ、彼らのやり方を否定したのか。それはレイラへの感情が大きく作用したのは事実だ。自分が受けたような苦しみを、レイラに味わわせたくない。あのやり方は絶対ではないと、そう感じたからだ。
そして、ユーリは騎士二人を決闘で打ちのめし、魔術師の塔への監視を正当なものにするように言ってのけた。
クリアーナはそんなユーリを叱責した。感情に振り回され行動してはならない、と。親衛隊は姫を護ることが第一の任務だ。そんな親衛隊に求められるのは、冷静な判断と、自分を捨てて決断できる行動力だ。
だからこそ、クリアーナの言葉は、ユーリに突き刺さった。
「……少し稽古に付き合ってやろう」
クリアーナは武器を構え、ユーリの前に立ち塞がった。ユーリはそんなクリアーナに、戸惑いの表情を向ける。
「なんだ? 女の私では相手にならないとでも思っているのか?」
挑発するクリアーナに、ユーリは「いえ」と短く言葉を返すしかできない。ユーリはそれなりに自分の実力があると信じている。実際、自分よりも年上の大柄な騎士を二人相手にして勝利もしている。
いくら親衛隊とは言え、クリアーナは女性だ。女性に武器を向けるのは男として恥であると幼い頃から躾けられてきたユーリには、見下すような気持ちは無くても、クリアーナと剣を交えるのはやりにくさを感じた。
「構えろ、ユーリ」
「しかし……」
「構えろ」
凄まじい威圧が膨れ上がっていた。クリアーナの表情はまったく変化がない。だが、彼女の気配がユーリを飲み込むように強大に感じ取れた。思わずユーリは冷や汗を垂らして硬直したほどだった。
ユーリは固くなっている両腕の筋肉をどうにか動かして、武器を正面に構えた。
相手のクリアーナは自分よりも身長が低い。腕の細さだってユーリが太いはずだ。腕力やリーチはこちらが勝っているはずなのに、彼女の気配はユーリを接近させることすら赦しそうにない。
金色の髪をシニヨンにまとめ上げた女性騎士は、麗しくも鋭く、ユーリを見据えている。
「打ち込んでこい」
「……よろしくおねがいします」
クリアーナの隙を伺うも、ユーリはどこから攻めれば攻撃が届くのか、まるで掴めなかった。クリアーナは鎧すら身に纏っていないのに、鉄壁の雰囲気を身に着けている。
喉がカラカラになっていた。緊張していると分かる。クリアーナという女性騎士が、なぜここまでの凄味を滲ませることができるのかユーリには理解ができなかった。
「はぁッ!」
気合と共に、ユーリの剣が閃いた。グン、と腕を大きく遣い、こちらの利点であるリーチを活かした一撃だった。
クリアーナに伸びた切っ先が鋭く突き刺さっていくと思えたが、クリアーナは、僅かに身体を揺らした――だけに見えた。
瞬間、ユーリの攻撃は、クリアーナの残像を裂いていた。
「!?」
ほんの僅かな、紙一重と呼ぶに相応しい回避行動。クリアーナは自分の身体から数センチという距離で攻撃を避けた。
そして、攻撃も同様であった。流水のように、舞い落ちる花のように、クリアーナの模造刀が、横っ腹を薙いだ。
鈍い打撃音がして、続いてユーリの骨まで振動するような痛みが、ユーリの膝を折る。
「ぐ、うっ……!」
「脇腹が甘い。寝ぼけた狐でも、もう少しマシな動きをするぞ」
くるりと手首を回し、クリアーナは矢張り涼しげな表情で苦悶の汗を垂らすユーリを見下ろしていた。ユーリの呼吸を一瞬止めるほどの重々しい一撃を繰り出した直後とは思えない身軽な剣捌きだった。
「私を女だと思って、舐めてかかったな」
「そ、そんなことは……」
「考えていない? ならば、お前は無意識に手を緩めたのだ。刷り込まれた先入観や価値観が、お前を殺したんだ」
「……価値観……」
激痛が走る脇腹を抑え、ユーリはなんとか立ち上がる。クリアーナの冷淡な声に、おうむ返しになった。確かに、これが実戦なら、ユーリは今死んでいただろう。
「女性を護りたいと思うのは、男のエゴだ。私は、お前に護られたいなどと、考えたことはない」
クリアーナの叱咤に、ユーリは絶句した。何の脈絡もない言葉だったが、思いのほか、ユーリの核心を突くそれだった。
「我等は、姫様の親衛隊だ。姫様を護ろうとする意識は何よりも高く持っていなければならない。だが、お前は何か勘違いしている。『姫』を護るのは、『非力な女性だから』ではない。姫が尊ぶべきお方だからだ」
「そんな風に、考えたことは……ありません……」
「だろうな。だが、考えずともこびり付いた価値観が、お前にそういう行動を取らせているのだ」
クリアーナの言葉は、姫を護る親衛隊に向けたものだったが、その言葉の端々から、彼女がユーリの真意を捉えて発言しているのだと推測できた。
クリアーナは、ユーリとレイラの関係性を、おそらくだが察しているのだ。彼女は、ユーリにレイラとの関係を問い詰めたことは一度もないが、レイラがユーリの幼馴染であることは知っているし、二人の間に育まれている感情がなんなのかも理解していた。
だから、ユーリが何に心を惑わせているのか、お見通しなのだろう。
「クリアーナ殿……」
「今のお前では、姫様を護るどころか、悲しませる。私には、それが分かる。姫様を泣かせるようなことがあれば、今度は真剣で相手をしてもらうぞ」
それだけ告げると、クリアーナは身をひるがえして訓練場から立ち去った。
脅しでも何でもない、本気の言葉だったとユーリは思い知った。
(オレは――レイラを護れる男になりたくて、騎士になった……。それが傲慢だったのか……? レイラ……)
確かに、女性を護るのは男の義務だと教えられて育ってきたし、自分もその通りだと疑うこともしなかった。だから、クリアーナの言葉は衝撃的だった。
女性を護りたいと思うことは男性のエゴだと言ってのけた女騎士の言葉は、完全に目から鱗だった。女性全てが男性から庇護されたいと願っているわけではないと、クリアーナは教えてくれたようにも思えた。
レイラが多目的開発隊に参加することに、不安が巻き起こった自分の胸中にあったのは、彼女への心配が要因だった。
魔術師の塔にムスティスラフの騎士が就いた時も、同じだ。
(オレが守ってやらなくちゃ……。オレはそんな風に思っていたんだ……)
レイラは恐らく、ユーリから護られることを、嫌なことだとかは思わないだろう。ユーリがレイラを心配し、護ろうと行動することで、彼女はきっと喜んでくれる。
そのくらいは、ユーリにだって分かる。彼女を愛しているのだから――。だが、クリアーナの言葉を受けて、レイラを護ることで自分の中の何かを満たしているような、言い訳をしているような気持ちがなかっただろうかと気が付いた。
(そうか……、オレは……姫を護らなくちゃならないことの免罪符にしようと思っていたのか……)
レイラに寂しい想いをさせているのに気が付いていても、それを取り除いてやれない自分の不甲斐なさ。
親衛隊だから、姫を一番に考える必要があることへの後ろめたさを、レイラを護ってやることで、少しでもその罪悪感を薄めようとしていたのかもしれない。
レイラへ、お前を想って行動しているのだと、アピールしたくて、動いていた。レイラ自身の想いの為ではない。結局は自分の呵責に対する行動だとも捉えられた。
(レイラを幸せにしたいんだ……。なら、オレがしなくちゃならないことは……あいつを鳥籠から出さないことじゃない)
ユーリは静かに呼吸を整えた。痛みが残る脇腹が、今はありがたい。この痛みが、のぼせ上っていた自分を目覚めさせてくれる。
「ハッ!」
気合一閃。
ユーリの剣が振り下ろされた。その音は微塵もなく、一点の曇りも見えない。
伝い落ちる汗の雫が、訓練場の床に散った。
不思議なほどに、心地のいい清々しさに、ユーリ銀の髪が光る――。
クリアーナにはいつまで経っても頭が上がりそうにない。
親衛隊になったばかりの頃も、彼女には沢山世話になった。
例えば、そう――。あの日、親衛隊として愛馬を授かった時のことだ。
黄金の馬、アハルテケという種の馬に『ノーチ』と名付けた時のことなど――。