柔らかそうに敷いてあるが寝るには堅い
雪は降らずとも、冷え切った空気が肌を突き刺すような気候は、まだ冬が終わっていないことを教えてくれる。それがレイラには、執行猶予のようにも感じられていた。
多目的開発隊は、春の来訪と共に本格的な活動が開始されるとのお達しであった。遠征を行うためには、雪解け後の方が移動が早く、楽に行えるからだろう。レイラは、まだ悩んでいた。多目的開発隊に加わるべきなのか、エリートとして第一部署に異動するべきなのか。
新規開拓された部署ではあるが、その分チャンスは大きく、多目的開発隊で働く事は有意義だろう。しかもこちらは姫のお墨付きでもあるのだ。
考えてみたが、姫直属の親衛隊であるユーリに近づくという意味だけなら、多目的開発隊に参加するのは、決して遠回りな道ではないし、寧ろ社会的な地位としては『エリート魔術師の中の一人』よりは『姫直下の特設部隊員』の方が『親衛隊』に近寄れるだろう。
ただ、レイラを戸惑わせる一番の理由は、避けては通れぬ『遠征』であった。この王都から離れ、仕事に就くということは、ユーリ本人からも遠ざかるのだ。もう、週に一度逢うようなこともできなくなる。それがどうしても心細くて堪らない。必死に苦労して王宮魔術師になってユーリに近づいたのに、また離れ離れになるなんて、本末転倒ではないかと、レイラは考えてしまっていた。
「はぁ……」
暗い表情を浮かべて、溜息も重々しく吐き出されてしまう。
レイラは開発室で魔法書を見つめながら、まるで内容が頭に入っていないことに気がついて、立ち上がる。このままでは何をしても半端になるだろう。
現在の魔術師班第二部署の面々は、基本的には多目的開発隊に参加することで話が進んでいるようだが、本人たちの希望はできる限り聞き入れてくれると言われていた。レイラは、他の魔術師たちがこの異動をどう考えているのか気になった。皆が皆、多目的開発隊に参加したいと考えているのか、疑問が沸いていた。ひょっとしたら、自分のように異動を悩んでいる者も居るかもしれないと考えたのだ。
「レオン先輩、少しいいですか?」
「ん? どうしたの?」
レイラの相棒であるレオンは、魔器の符呪を弄っていた作業を辞めて、レイラにくるりと顔を向けた。愛嬌のある顔立ちは、レオンの人柄がよく出ていて、レイラはレオンを人として好いていた。相談などもしやすいので、今回の異動をどう考えているか聞いてみようと思った。
「あの……多目的開発隊のことなんですけど、レオン先輩は、今回のこと、どう考えていますか?」
「そりゃあ、こんな僕なんかにはもったいない話だと思っているよ。正直言って、嬉しい気持ちもあるけど、緊張っていうか、責任重大っていうか……物怖じしているのが本音かな」
そう言う彼は、ふくよかな頬をほんのりと赤らめていた。言葉とは裏腹にやる気のようなものを感じられる。今回の多目的開発隊への参加をポジティブに受け止めているようだった。
「なにより、アナ姫様のために仕事ができるって実感がするしね」
へへ、と照れ臭そうに笑うレオンは、彼らしい感想を口にした。レオンはアナスタシア姫を敬愛しているし、姫の発案である部署への参加なんて願ったり叶ったりといったところだろう。
「レイラさんは、悩んでいるんだね」
「あ……、いえ……ううん……」
レオンが不安げな顔をしているレイラに優しい口調で聞いて来た。そんな彼にレイラは言葉を濁してしまう。本来なら彼のように喜ぶのが王宮魔術師としての在り方だろう。自分たちの仕事を評価され、その実力を活かすための部署で働けるというのだから。しかし、レイラはどうにもネガティブな雰囲気が表に出やすいらしい。レオンの問いかけを誤魔化してみたところで、まるで無意味であった。
「急な話だったし、戸惑うのはしょうがないよ」
「……嬉しい気持ちはあるんです。私たちの仕事を……魔法を評価されたことが、とても嬉しいんです」
「そうだね。僕らはいつも日陰者だったもんなぁ」
遠い過去を思い出すようにレオンは目を眇めた。そんな彼の表情はあまりいい思い出がないのか、眉根を寄せて皴を作っていた。
レイラも昔のことは、あまりいい思い出がない。同年代の子供たちから虐められることが多かったし、家に引きこもって魔法の勉強をするようになってからは、満足に会話した相手なんて両親くらいしかいない。
「僕さ、生まれは王都じゃないんだ。ここから東の田舎で、父親は猟師してた」
「猟師……?」
「うん、うちの田舎だと男は大抵猟師か農家。そういうのが嫌だって連中は剣の腕を磨いて騎士に憧れて王都に行ったりしてた。魔法を触ろうなんて人は一人も居なかった」
この王都ですら、魔法はまだまだ嫌厭されがちだ。田舎のほうに行けばその色合いはもっと濃くなるだろう。
モースコゥヴの男子の憧れの職業第一位は、騎士だ。ユーリもそういう男子だった。毎日剣を掴んで素振りの稽古をしていたのを、レイラは幼い頃眺めていた。男は逞しくあれ。強く大きくあれ。そういう価値観が当然に沁みついている。
魔法を学ぼうとする人間が後ろ指を指される世の中、レオンが魔法使いを目指した理由は気になった。
「両親は僕を幼い頃から猟師として育てようとしていたけど、僕はどうにもどんくさくてね。あんまり身体を使った活動が好きになれなかったんだ。周りの友達もみんな騎士を目指してて、棒切れを剣に見立ててごっこ遊びなんかしてたっけ。僕はそいつらから退治される悪者役だった」
かっこ悪いでしょ、とレオンは苦笑していた。レイラは即座に首を横に振って否定した。自分とそっくりだったからだ。
男子は強く、逞しく――。女はしとやかに、美しく――。世の中はそれが立派な姿であると囲いを設けている。その範疇から外れてしまうと、異端者にされてしまうと身をもって知っている。少数派は弱者になってしまうのだ。
男としてのプライドが、女性に弱みを見せることを嫌うのが、世間の一般的な男性だ。レオンだって、その一人。恥辱を女性であるレイラに、赤裸々に告白するのは、自分自身を卑下しているからなのかもしれない。しかし、これまで一緒に働いてきて、レオンを情けない男性だと思ったことはない。彼は立派な魔術師だとレイラは知っているから。
「レオン先輩は、頼りになる人だと思ってます」
「あはは、お世辞でも嬉しいよ。まぁ、僕の周囲の評価は基本的には底辺でね。僕も、ずっと自分に自信なんか持てなくってさ。力仕事よりも、魔法を学ぶことが好きだった。特に、命を奪うことが苦手でね。猟師は僕にはできそうになかったんだ。だけど、それは親からすると、『逃げ腰』な生き方に見えたんだろうね。それで魔法を勉強したいって言った僕に、恥を知れって勘当宣言されたんだ」
「か、勘当!?」
それはあまりにも残酷すぎる。レイラは、レオンの痛々しい笑顔が見ていられなくなった。だとしたら、彼は一人、この王都にやってきて魔法の勉強に打ち込んで今を手にしているのだろう。なんという熱意だろう。レイラは、やはりレオンという男性を情けない人だとは思えなかった。
「でも、そんな僕でも、こうして王宮魔術師としてやっていけてる。しかも、その実力を認めてくれた部署で働けるなんて光栄だとしか思えないんだ」
彼のふっくらした掌が、ぎゅ、と固く握られた。
「やってみたい、って……、内側の何かがドクドク言ってんだよね」
強い拳は、彼の意思そのものだろうか。虐げられてきたレオンが、自分を認めてくれた環境でどこまで実力を発揮できるのか胸を高鳴らせている。挑戦者の目だった。その瞳は、騎士を目指す少年たちのそれと何ら変わりがなかった。
「なにより、アナ姫様のお力になれるって思うと、もう、僕はッ! 僕はッッ!!」
――と、すぐにその熱意ある瞳に、別の熱が込められた。普段の彼の、唯一どうしようもない部分が燃え上がって、否、萌え上がっていた。
「先輩って、アナスタシア姫のことを、本当に好きなんですね」
「まぁねッ! っていうか、姫を嫌う人間が居るとしたら、それはきっと人の皮を被った妖怪だねッ」
「は、はは……。ど、どうしてそこまで姫様を敬愛されるようになったんですか?」
「聞いてくれるのかいッ? レイラさんッ!」
はし、とレイラの両手を掴み、レオンはキンキラと輝く萌えの瞳をレイラに向けて、熱い視線をぶつけてくる。レイラは引きつった笑みを浮かべて頷くしかなくなってしまった。この質問はレオンにはご法度だったと後悔しながら。
「あれは忘れもしない故郷を飛び出しこの王都にやって来た時のことだよ!」
饒舌に、早口に、まくしたてられる彼の言葉を、レイラは相槌を打ちながらやり過ごす羽目に陥った。
この質問は、少し前にも聞いたことがあった。ほんの些細な話題作りというか、軽い雑談くらいのつもりで訊ねたのだが……。小一時間、レイラはレオンに捕まったまま、彼の姫への愛を歌い上げる弁論に付き合わされたのだ。
要約すると、レオンは王都に来てから魔法の勉強をする毎日の中、街を挙げてのお祭りの日、アナスタシア姫のパレードを遠くから見つめて以来、虜になったそうだ。
それから彼は、王宮魔術師になるために猛勉強をして今に至るらしい。王宮の中で働けば、姫を毎日見れるだろうという発想が、レイラのそれと同じで、レイラは聞いていてなんだか居た堪れない。
色々とレオンとレイラは似ているところがあると、周囲から囁かれていたが、これでは反論できそうにない。もっとも、だからこそ二人は上手く歯車を回せた関係なのだろうが。
すっかり話が逸れてしまったが、レオンは今回の異動は前向きに考えているようだ。レイラと、そこだけは違うらしい。
レオンの意思ははっきりと決まっているようだ。
彼は今回の開発隊への参加に肯定的なのだろう。それどころか、張り切っていると言うべきだ。それは他の魔術師たちも大半がその様子だった。
誰もが自分の仕事を評価されたことを嬉しく思い、今後の更なる飛躍を夢見て、多目的開発隊に希望を乗せている――。
――第二部署の仲間たちの言葉に共感する部分はある。レイラもこれまで日陰者として生きてきた。そんな自分を評価してくれる場所があるのだから、ありがたい気持ちは確かにある。
だが、ユーリの言葉もまた、レイラの頭の中で反響していく。
恋人を想うと、心が制御できなくなってしまう。彼の言葉にレイラは今更にも頷いてしまう。ユーリとの関係を考えると、自分がどうしたらいいのかまるで分らないのだ。不安が膨らみ、目の前が暗雲で見えない。
ユーリと離れてしまえば、終わってしまうような不安。
長い間逢えなくなって、互いの声も、心も通じ合わず――。彼は姫を一番に想い仕事をする――。やがて自分のことなんて忘れてしまうのかもしれない。
ユーリは誰もが焦がれる騎士だ。彼を射止めたいと考える女性は多くいることも知っている。
逢えない遠くにいる恋人よりも、傍に居る他者のほうが、よほど彼の気持ちを癒してあげられることだろう。
(私……また後ろ向きになっちゃってる)
自分に自信がないから、どんどん暗くなっていくのだと、以前ローザが語ってくれた。
美しく、強くあろうとすることで、自分への自信につながって、人の気持ちを引き寄せられるのだと彼女は教えてくれた。
結局レイラは他人がどうするのかを聞いてみたところで、自分の気持ちが晴れることがないと分かってしまった。大事なのは人がどうするのかではない。自分の心にどう整理を付けるのかが大事なのだ。
レイラはまた魔法書に向き合った。
ユーリと繋がるための魔法『念話』が完成できれば、離れていても繋がっていられる……。そうしたら、きっと、遠征への不安だってなくせると思えたのだ。
ジジジ、と耳障りな音しか出せない念話魔法に焦りが滲むようだ。
(……大丈夫、私ならできる。努力から自信は身につくんだって、知っているから。この魔法を完成させるんだ。雪が解けてなくなる前に!)
見慣れない外国の言葉を一つひとつ、レイラは解読しながら、魔法書を読み進める。一歩でも前に。半歩でもユーリに近づくために。




