教会は近いが神は遠い
一年の三分の二が雪と氷に包まれると言われるモースコゥヴにも春はやってくる。
春の訪れを報せる雪解けと、芽吹き始める花たちは朗らかな日差しと風を届け、動物たちを冬眠から目覚めさせる。豊穣を予感させるこの時期に、人々は盛大にお祭りを行うのだ。
もうすぐ豊穣祭であるバター祭りがやってくる。そんな予感をさせる暖かい日差しが、王宮の広場の隅に積みあがっている雪を溶かし始めていた。とは言え、まだまだ気温は低く、日も落ちてしまえば白い息が吐き出される程度には冷たい風が吹きつけてくる。
レイラ・アラ・ベリャブスカヤはそんな寒風の中、薄暗い公園にひっそりと身を隠すように佇んでいた。
夕日も落ちて、人気のない公園は、明かりもほとんどなくて、物寂しい。そんな中に、うら若い少女が一人、ぽつんと木の陰に寄り添っている姿は、見付けようとしなければ通り過ぎてしまうほどに儚げである。
紅い髪に、黒のローブ。特徴的な瓶底眼鏡の彼女は、寒さから身を護るためのコートを着込み、鼻の頭を赤くさせていた。その表情は、なんだか頼りなく怯えた子栗鼠のようだ。
「……ユーリ……遅いな」
ぽつりと、風に吹き飛ばされそうな声が彼女の口から落ちた。
レイラは、ここで愛しい恋人を待っていた。相手の名前はユーリ・ユーリ・ヴォロキン。レイラとは幼馴染であるが、先日、互いに両思いであることを告白しあい、キスを交わした仲である。
今日はそんな彼とのデートの約束をしていた。だが、ユーリはまだ待ち合わせ場所であるこの公園にやって来ない。ふるる、と冷たい風にレイラは華奢な身体を震わせた。
なぜ、こんな人気のない公園でレイラがぽつんと待っているのかには、理由がある。
レイラとユーリが男女関係であることを、周囲に知られるわけにはいかないからだ。ユーリは、この国の姫君であるアナスタシアの近衛騎士であり、姫の寵愛を受けている若手の親衛隊であった。そんな彼は、見習い期間を終えて、すぐに親衛隊に抜擢されたため微妙な立場になったのだ。
姫とユーリは歳も近く、眉目秀麗な騎士と、氷肌玉骨な姫は二人並ぶと絵になるほどにお似合いだった。そのため、周囲も姫とユーリをもてはやし、また騎士たちからは、ユーリに対して嫉妬が生まれている。
先日、ユーリはとあることから、王宮の広場で先輩騎士二人に対して決闘を行った。それを見ていた王宮の人々はユーリを更に評価したのであるが、その分ユーリは話題の人となっていた。
姫の親衛隊であるユーリが、パッとしない女魔術師と恋仲であると周囲に知られると、彼の立場を危うくさせる。
なにせ、このモースコゥヴという国は、『魔法使い』という職業への偏見が非常に強いのだ。かつて戦争をしていた時代、相手国が魔法大国であったことが起因なのかもしれないが、国民のほとんどが『魔法』という技術に良い顔をしない。
だが、それが原因でこの国は周辺諸国から、魔法の技術が置いていかれている。その状況を危ぶんだ時の国王は、王宮魔術師を大々的に募集し、国を挙げて魔法技術の発展に力を注いでいるのだ。
そうは言っても、まだまだ国民の感情は魔法に対して、あまりいい顔を向けない。
「……私が魔法使いじゃなかったら……ユーリともっと、ちゃんと付き合えたのかな……」
こんな言葉、ユーリの前では絶対に言えない。レイラは、沈んでしまいそうになる心模様を、思わず言葉にして零していた。
ユーリは、いつもレイラを大事に思ってくれている。あんなにも清廉恪勤な騎士は、二人と居ないだろう。そんな男性が、根暗でガリベンな自分を選んでくれたのだ。それだけでも信じられないことだった。
ユーリに迷惑をかけたくなかった。自分と付き合っていると周囲に知られたら、せっかくエリートとして真面目に仕事に打ち込んでいる彼の邪魔になる。それだけは、絶対に嫌だった。彼の重荷になることだけは――。
「レイラ!」
響いた声に、レイラはハッと顔を上げた。シックな黒いコートに、毛皮帽子。銀色の髪と黄金の瞳を持った青年、ユーリが切羽詰まったような顔をしてこちらに駆けて来ていた。
「ユーリ、お疲れ様」
「すまない、待たせた」
最近は、親衛隊として忙しい日々を送っているようで、すぐには抜け出てこれなかったのだろう。それでも全力でここまで駆けてきたのが分かるほど、彼は白い塊を吐き出してレイラに詫びた。
二人のデートはいつも、ユーリが謝ってから始まる。
いつも、こんな暗い公園で寒空の下、待ちぼうけをさせて済まない。それがユーリの最初の挨拶になっているようだった。だがいつだってユーリは、本当に心苦しそうに詫びてくる。だから、レイラも、そんな彼を見たくなくて、笑顔を作って「平気だよ」と返事するのだ。
「寒かっただろ」
「大丈夫。もうすぐ春だもん」
「……本当に、いつも……済まない」
普段なら、レイラが平気だと言えば、それで済む話だった。だが、今日のユーリはどこか深刻な表情でレイラを抱きしめた。
「……オレは……お前を護りたいと思うのに……お前を凍えさせているんだ」
「どうしたの、ユーリ……。何かあった?」
自分が赦せないと感情が露になっている。二人は週に一度しか逢えない。だから、一週間、溜まりに溜まった想いをその日に打ち明けることが多い。
普段なら、彼は悔やんだり、悲しんだりよりも、レイラに対して、必死に愛情を注ぎ込もうとしてくる。見た目は随分と優しく落ち着いた印象を抱かせるユーリだが、二人きりの時には、彼はとても熱く激しい感情でレイラを抱く。
「オレは――自分がおかしくなってしまうんだ」
レイラを包む様に抱きしめて、自分の身体を押し付ける。ユーリは、レイラの髪にキスをするような距離でぽつりと告白していく。
「親衛隊の騎士として……、感情を制御しなくてはならない。なのに、オレはお前のことを想うと、バカみたいに自分の心を抑えられなくなる」
ユーリが、先日王宮の広場で大立ち回りをしたことを語っているのだろうとレイラは気が付いた。
あの時、魔術師達には監視が付いていた。どこかの部隊に所属しているという随分粗野な印象を受ける大男が二人、レイラたちが働く魔術師の塔に就いた。理由としては、暖房結界の点検を疎かにした魔術師たちの怠慢を見直すため、という名目だった。
その日から、魔術師たちには罵詈雑言がぶつけられ、理不尽な物言いをされる毎日が続いた。ある日、レイラもその騎士たちから嫌がらせを受けたのだ。
それを耳にしたらしいユーリが、騎士二人に対し、決闘を申し込む形になったと聞いている。騎士たちの横暴な態度は魔術師のみならず、他の王宮で働く人間たちからもいい顔をされていなかったため、ユーリが決闘に勝利した時、王宮内ではユーリを称賛する声が上がった。それ自体は良かっただろう。
しかし、ユーリはその後、相棒であり先輩でもある女騎士のクリアーナから、厳しく叱責されたようだった。
私情で決闘を行ったユーリに、親衛隊としての心構えがなっていないと、未熟な精神を指摘された。それからユーリはより一層、自分を戒めて職務に当たり、時間さえあれば己を磨くために、鍛錬を積むように努力を重ねていた。
「……不甲斐ないオレが……自分が赦せない」
「そんなことないよ。私、幸せだから」
レイラはきちんと、自分の気持ちを伝えた。ユーリと恋仲になれただけで、幸せだ。
確かに――ユーリともっと堂々と付き合いたいという欲望はある。だが、それは口に出すわけにはいかないのだ。それを言えば、ユーリは必ず苦しむ。親衛隊の立場が、彼の男としての感情が、レイラを想うことでかき乱されてしまうだろう。それは、レイラが最も嫌うことだった。愛しているユーリを苦しめるような自分になりたくない。ずっと、ユーリには好きでいてもらいたい。
――彼は姫の親衛隊なのだから、何をおいても、姫を優先して行動しなくてはならない責任感がある。自分の肉親よりも国を大事にし、己の命ですら投げ出す必要性があるほどに。
そんな彼が、姫以外の女性に対して、心を縛られるわけにはいかない。彼には、ただただ、親衛隊として頑張っていてもらいたいのだ。
「どんなに鍛錬をしても、お前の顔を思い浮かべると、心が勝手に身体を動かしてしまうようだ」
「私も、ユーリのことを考えて……仕事したりするよ」
ユーリを元気づけるための方便ではなかった。本当に、最近のレイラはユーリのことを想うことで、打ち込んでいる仕事が一つあった。
それは『念話』という魔法の開発だ。遠く離れた人とも、会話できればなんと素晴らしいことだろうと思い至ったのが、この魔法を思いついた。その要因となったのは、毎晩ユーリを想って眠る夜を切なく感じていたからだ。
週に一度、しかも隠れての逢引――。もっとユーリと繋がっていないと欲望が湧き出てくる自分が、抑えられなかった。
そうして、魔法の開発を開始したのだ。……尤も、この念話の魔法はまるで使い物にならない失敗作でしかなかったが。今も改良を進めて、どうにか形にできないかと悶々としているのだ。
「オレたち……、気持ちはこんなにも同じなのに……、どうしてうまくいかないんだろうな」
「やめようよ、ユーリ。せっかくのデート……楽しくしたい」
「……ああ、そうだな。レイラ……」
ユーリがレイラの手を取って、滑らかに指を絡めてくれた。せめてこうして二人出逢う時は、幸せな気持ちを共有したい。逢えなかった苦しさを分かち合うより、逢えた喜びを伝えあいたい。
レイラがはにかむと、見下ろしていたユーリも、少し困ったような顔に笑顔を浮かばせた。
「お前って、良い匂いするよな」
「……そ、そうかな?」
レイラを抱きしめる時、ユーリはよく『良い香り』だと褒めてくれる。レイラは恥ずかしくなるばかりで、耳たぶを赤くさせるが、おそらく髪の毛を労わる水薬の香りだろう。あれはフレグランスな香りをいつまでも残してくれる。
「ユーリも、ユーリの匂い、するよ」
「く、臭くないか? 最近は鍛錬を多くしているから汗をかくんだ」
「……くんくん」
「い、いま嗅ぐなよっ」
「えへへ、ユーリが頑張った匂いなら、私きっと好きな香りだと思う」
「お前……そういうところが、オレをバカにさせるんだぜ」
冷たい空気が暖かく色づいたように思えた。レイラの言葉に、ユーリが恥ずかしそうに頬を赤らめて少年みたいな目を向ける。
そして――レイラの分厚い眼鏡をそっと奪い取った。
「あ……」
レイラは素顔をユーリに見つめられて、ぽぅ、と顔が熱くなる。
とくとくと、心臓がリズミカルに跳ねだしているのが自覚できていた。
ユーリがレイラの眼鏡を奪うのは、二人だけの合言葉――。キスをしようという、愛言葉――。
ユーリは何も言わず、レイラに金色の瞳を向けて来ていた。優しくも、熱を帯びて揺らめくその瞳が細くなると、ゆっくり彼の唇が接近してくる。
レイラは、そっと瞼を下ろして、唇を彼に委ねる――。腰を抱き寄せられた。そして、熱く柔らかい唇が重なりあった。
ちゅ、という可愛らしい音が一つだけ響く。
「好きだ」
「……うん」
「お前が好きだよ、レイラ」
「私も、ユーリが、好き」
星々の彩と月の光が、恋人たちの頭上で幻想的に描かれている。
まだ若い星は、健気に光り輝こうと瞬いていたが、そこに無粋にも雲がかかっていく。
霞む月明りを反射させるモースコゥヴの雪は、まだ溶けない。それは二人の心に降り積もる、もどかしさに似ていた――。