第十一話:ベラにかけられた魔法
書籍化します『ガリベン魔女と高嶺の騎士』のサイドストーリーです。
詳しくは私の活動報告を確認していただけますと幸いです。
第二部署まで戻る屋外通路で、アントンはふと足を止めた。
ベラに向き直ると、アントンは静かに低い声で謝罪の言葉を口にした。
「すまなかったね」
「え……?」
罪状を読み上げられた囚人が許しを請うみたいに聞こえるその声に、ベラは彼の顔を覗き込んでしまう。
「驚いただろう」
「……平気です」
「いよいよ王宮魔術師の実態に、幻滅したんじゃないかい?」
アントンは通路の壁に背中を預け、天を仰ぐように顔を上げて溜息を吐き出した。冷えた空気に形作られる白い塊は、虚しく散った。
アントンも今回の呼び出しはいい気分ではなかったのだろう。やれやれだと、厄介ごとから逃げられたと息を吐く。珍しくアントンが内面を吐露して、疲労感が伝わって来た。
だがベラは、アントンの言葉に、肯定も否定もできなかった。
今、王宮の魔術師のエリートであるとされる第一部署の腐敗の一部を見たばかりだ。正直なところ、幻滅はしていた。
沈黙するベラに、アントンはぼんやりとした口調で話を進めていく。
「……魔法使いってのはさ、これまで本当に日の目を見なかった人種なのよ」
「はい」
「そういう人材がさ、国が欲しているからってかき集められて、宮廷勤めになっちゃったらほら、思い上がっちゃう若い子、多いんだわ」
チムールのような人物のことを言っているのだろう。確かに、これまで魔法使いを認めない社会の中で魔法技術を磨いて来た人々からすれば、これまで苦渋を味わわされていた日々が変化する。国がついに認めた仕事なのだと肩身の狭かった状況から解き放たれるのだ。
ずっと日陰で周囲を窺っていた魔法使いたちは技術を認められ、宮廷に上がる。するとたちまち自分が強者になったように錯覚してしまうのだ。それがチムールのような王宮魔術師を生み出してしまうことになっているのだとアントンは言っているのだろう。
「魔法は単なる技術なの。それは認められて然るべきではあるが、だからと言ってのぼせ上がっちゃダメなわけ」
「はい」
「……まだまだナイフとフォークの扱い方を分かっていないんだ。我々がね」
はぁ、と白い息が塊を作ってかき消えていく。アントンは通路から見える曇り空を見つめ、魔術師の現状を憂いた。
「嫌になったんじゃない?」
「……アントン部長は……嫌にならないんですか?」
ベラはアントンの言葉に応えず、質問で返した。自分よりもよほど魔法使いとして長く勤めている上司であり、相棒である彼に、ベラは純粋に訊ねてみたかった。
「私の場合はね、好きとか嫌いとかで魔法使いやってるんじゃないからなァ」
「では、なぜ王宮魔術師に……第二部署の部長に就いていらっしゃるんですか?」
「罪滅ぼし、かな」
曇天から、はらりと雪の花が舞い落ちてきた。その儚い六華は床に落ちるとあっという間に溶けていく。アントンはそんな溶けて消えた雪の欠片に目を向けて、うつむいた。
「罪……?」
「……もし、ベラ君が魔法使いに嫌気が差したのなら、私はその罰を受けなくちゃならん」
表情に乏しいアントンを見つめても、ベラにはその言葉の真意が読み取れなかった。全てを悟っているような、諦めてもいるような、見ているようで見ていないような不明瞭な表情。――そんな風に感じられた。
「私、嫌気なんて差していません。確かに、あの男には腹が立ちましたけど、魔法そのものを嫌いになってはいません」
「そうか」
「確かに、私達はまだまだ魔法をきちんと制御できない幼子のようなものです。手に入れた魔法で、親から褒められてはしゃぐ子供みたいに、調子に乗ってしまう人もいるでしょう」
ベラは、それは自分にも当てはまっているのだと、己の言葉を噛みしめるように拳を握る。
ベラだって、魔法を認めさせたい。親を見返したい。第二部署に配属されたことが悔しいと考えて、幼稚な振る舞いをしていたのだから。
「今の王宮魔術師がまだ未熟なのだとしたら、まず私から変わって見せます。そして、いつか国中にその名を轟かせるような女魔術師になってみせます。誰もが憧れるような、大魔法使いに」
「……」
胸いっぱいにあふれる気持ちをそのままで、ベラは宣言した。それは嘘偽りない願いだ。ベラの紅い髪はちらりと舞い散る雪を弾くように輝いていた。
灰色の空の下、弾ける赤と白の光を映したアントンの瞳に、日の光が差すように煌めきが走った。真っすぐにぶつけてきた誓いの言葉は、見通せない曇り空を裂いて、一迅の風の如く駆ける。
「羨ましいな」
アントンはふわりと笑った。しかしそれは儚い雪のように、溶けて消えてしまいそうにもみえる。
「歳を取れば振り返った時に、あれはもう二度と手に入らないものだったのだと気が付くことが増えていくんだ」
アントンは老け込んだような表情で薄く笑う。羨ましいと言った彼の言葉は、おそらく本音だったのだろう。
「だが、君は今まさに強く生きている。誇りを持っている若者の目だ」
「……部長だって、まだお若いでしょう」
「そうでもないさ。私は一日が過ぎるのが恐ろしくて堪らない。君のように、前に一歩を踏み出していくことができなくなってしまった」
アントンは寂しげな顔をベラに初めて見せた。それは上司や相棒、魔法使いとしてではない、彼の本質的な顔だったのだろうか。
ベラはその表情に、とてつもなく胸を締め付けられた。大人の男性だと思っていた上司の顔ではない、冷水を浴びて凍える子犬のようなそんな脆さを孕んでいた。
「それは、奥様のことですか?」
「……そうだな。本当に愛していた女性だったはずなのに、情けないことにね、忘れていくんだよ。あの時の悲しみを、彼女の声を、香りを、体温を……今日より明日、明日よりも明後日、どんどんその色が薄らいでいくんだ」
力なく開かれたアントンの掌に、雪の欠片が舞い落ちて、溶けて消えた。
「それが、私は怖い」
そう言うと、アントンは普段の昼行燈の表情を取り繕うように被った。
「不甲斐ない上司ですまないね」
惚けたように言うアントンに、ベラは首を横に振って見せた。
「上司の言葉として、聞いていません」
「頼れる相棒だ」
先ほど、第一部署で追及の尋問を受けた時、ベラは自信をなくして戸惑った。そんな時に、アントンが言ってくれた『相棒』としての発言は、ベラを奮い立たせてくれた。
だから、ベラも、弱っているアントンに、相棒として向き合って見せたのだ。
そして、二人は少しだけはにかんだ。
「ベラ君は必ず大魔法使いになれるだろう」
「部長のことも追い抜きますよ」
「だったら、まずは君の開発案、進めていこうじゃないの」
「はいっ」
そして二人は歩みだした。もう一度、見慣れた第二部署の開発室に戻って、警報魔器を作り上げていくのだ。
それはベラの第一歩になる。
ベラは思うのだ。自分がなぜ第一部署ではなく、第二部署に配属されたのか。
それはきっと、未熟な自分に気が付かせてくれるためだったのだろう。ベラだって第一部署に所属していたら、舞い上がってチムールのような魔術師になっていたかもしれないのだから。
だから、ベラは第二部署の魔術師であることに胸を張った。そしていつか、先を歩く人の寂しそうな心に火を灯してあげたいと思った。
アントンはきっと、孤独の中で日々を過ごし、過去が淡雪のように溶けていくことが恐ろしいのだ。
ベラはそんな彼の背中を見つめて一人、想う。
今はまだ未熟な自分だが、いつかきちんと彼と対等な関係になれた時、その孤独に寄り添ってあげたいと。彼の空虚な瞳を消す事はできないかもしれないが、その内側に眠っているアントンの魔術師としての誇りは分け合えるはずだから。
曇り空からしんしんと降ってくる雪を見つめ、ベラはこの空を忘れないようにしようと、決意を固めたのだった。
**********
それから数日が過ぎた。
ベラ達第二部署は、魔器の開発計画を進め、試作の警報魔器を完成させるまでに至っていた。
小さな球状の魔器で、掌で簡単に転がせるようなサイズまで縮小化でき、警報の魔法は実に軽く作り上げることができた。
使い捨ての魔器になってしまったが、そもそも警報装置を使用するような機会はそうそうあるべきではないし、繰り返し利用できる必然性もないだろう。
利用方法は簡単で、球状の魔器に救いを求める意思を込めるだけでいい。効果も単純にけたたましい高音が響き渡るというもので、周囲に身の危険を報せることができる防犯魔器として仕上がった。
生産費用も十分に小さくできたし、一般に出回ることができるというラインをクリアできていた。
ひとまずの、ベラの魔術師としての最初の仕事は順調に終わりを迎えているところであった。
それからこれは小耳に挟んだことであったが、チムールは魔術師第一部署を辞めることになったらしい。どうやらこれまで裏で行っていた悪行を咎められ、王都を追放されることが決まったそうだ。
ベラが抱え込んでいたチムールへの恐怖も彼が遠くへと追放されたことで、心の傷を広げることがなくなるだろう。
全ては順風満帆に進んでいると思っていたある日のことであった。
ベラはその日、夜の道を歩いていた。普段通りの帰路であり、通いなれた道ではあるが、やはり暗く女性一人でいるのは心細く感じられる路地が続く。
足早に歩を進めていくベラの視界の先に、人影が向かってきていた。背丈からして男性らしいが、暗く相手の容姿がはっきりとしない。
ベラは警戒をしながらも、相手とすれ違うつもりで歩いていた。
「お嬢さん、少し時間いいかな」
「……!」
何事もなければいいと思っていたのに、あちらが通路の先で足を止めこちらに声をかけてきた。
そしてその声に、ベラは聞き覚えがあり表情を固まらせることになったのだ。
闇の奥からゆらりと近づいてくるのはチムールで間違いなかった。王都からはとっくに追放されているはずなのに、どういう訳なのか、ひょろりとした魔術師は青白い顔をして不気味な笑みを浮かべている。
「あなたは……なぜ、ここに?」
ベラは向かい合って、鋭い視線をぶつけて見せたが、内心は癒えかけていた心の傷に塩を塗り込まれたような感覚で、脚が震えてしまうのを隠すので精一杯だった。
「王都追放の前に、どうしても君に挨拶をしておきたくてね」
ぞくりとする目が、暗闇に浮かぶように光っている。
怨嗟の色にギラギラと輝かせ、ベラに対して暗い感情を増幅させていた。
「君が大人しくあの時、頭を下げていれば私はこんなことにはならなかったんだよ」
「何を……あれはあなたの自業自得でしょう!」
「考えてみたまえ。私という魔術師が王宮から消えることと、君が消えること、どちらがより魔法技術の発展に痛手となるか」
チムールの声には、明確な敵意と憎悪が滲んでいた。ベラは、そっと忍ばせていた試作の警報魔器に手を伸ばした。相手が襲い掛かってくるのは明白だ。
この警報の魔法を発動させれば、すぐに見回りの騎士が駆け付けてくるはずだ。すでに追放の身となっているチムール相手であれば、襲われずともこの場で即刻警報を鳴らせば、騎士はチムールを捕縛する。
「君は、この国の魔法技術の発展に大きな打撃を与えたんだよ」
「勝手な事ばかり言ってっ……」
「まぁいいさ。どうせこんな国で魔術師などやっていたところでまともに魔法を評価できぬ人間ばかり。ならば喜んで他国にでも行ってやる。……だが私のプライドに傷をつけた君には、それなりの返礼をさせてもらうよ」
チムールの右手がぼんやりと青く輝いていた。魔法を構築しこちらに対して放とうとしているのだ。
ベラは、すぐさま、試作魔器に魔法発動の意思を込め、警報の魔法を起動させようとした――。
「……え? どうして、鳴らないの……?」
ベラは忍ばせていた球状の魔器に、救いの意思を込めて警報の発動を促しているのだが、魔器はまるで音を立てない。
淡く発光して魔法自体は発生しているように見えるが、まるで警報音は鳴り響く様子がない。
試作魔器の誤作動かと疑ったが、前日に行った試験では正常に魔法は発動していた。
「ハハハ、それ君が計画したって言う魔器だろう? 私が知らないとでも思ったか? 開発資料を盗み見させてもらったよ。単純な魔法だね。その程度の対抗魔法なんて造作もなく作り出せるのさ」
青白く右手を発行させてにじり寄ってくるチムールは薄く笑い、舌なめずりをした。
ベラの開発した魔器の仕組みを理解し、その発動を邪魔させているのだろう。チムールはお前の作り上げた魔法など無価値なのだと言って見せるためだけに、このような状況を組み立てたのかもしれない。
「う、嘘……。お願い、発動して! あんな奴の魔法に、もう負けたくない……。負けたくないのよ!」
ベラは必死に魔器を握りしめて救援の念を込めるが、魔器は淡く光り輝くだけで静かにベラの中で沈黙を貫いていた。
チムールはゆっくりと近づいて、ベラに青白く光る掌を伸ばす。ベラは震えあがり、満足に逃げることもできず、その手に捕まってしまった。
「い、いや……」
「ここで、あの晩の続きと行こうか。ひひっ」
歪んだ笑みを浮かべ、チムールはベラを強引に引き寄せようとした。ベラはその瞬間、またも自分の思考と体が言うことをきいてくれないことに気が付いた。まるで、あの時のように鎮静の魔法が撃ち込まれたように感じていた。
チムールは今、鎮静魔法を使用したわけではない。だが、あの日のトラウマがベラを襲い、身体の感覚を奪っていくのだ。
(いやだ……助けて……声がでない……息ができない……。助けて……誰か……)
青ざめた表情でカチカチと奥歯を鳴らすベラを見て、チムールは嗜虐の炎を燃え上がらせたか、ベラの細い首筋に指を伸ばして――。
――バヂィッ――!
「ひぎゃあッ」
醜い悲鳴と共に、その指をひっこめて飛びのいた。
「――だ、誰だッ」
チムールは痺れて動かない手を覆うようにして、情けない涙混じりの声を上げた。
ベラは動転した瞳で、振り向いた。
「ぶ、部長――」
そこに居たのは、指先をチムールの脳天に突き付け、照準をつけているアントンであった。指先に小さく、強い青の光が宿っていた。
その青の光に照らし出されるアントンの表情は、ベラがこれまで見た事のない、静かなる怒気を孕んだものであった。
「言ったはずだ。二度目はない」
「き、貴様……! 貴様が居なければッ」
チムールも相手が誰か気が付いたようだ。驚愕の表情を歪め、怒りを滲ませると、魔法を発射しようとしたか、体勢を整えようとする――。
ビッ――。
「ウッ」
チムールが体を動かした瞬間、彼の耳をかすりながら、アントンの指先から魔法の光が発射された。その早打ちに、チムールは縮こまってしまう。
「く、くそ……こんな間抜けな昼行燈にッ」
「その間抜けに、君は勝ち目がないわけだ」
「ふざけっ――」
ビッ――。
「うぐっ」
またもアントンの指先から一瞬の閃光が迸り、チムールの肌を薄く焼いた。
「動くな。君がどれほどの魔法使いかは分かっている。私の呪文構築速度に、君は追い付けない」
信じられないほどの呪文構築速度であった。チムールとて、第一部署の魔術師に配属されただけの魔法の技術はあったというのに、アントンは更にその上を行っていた。恐らく、チムールが魔法をひとつ構築するまでにアントンは四つの魔法を組み立てることができるだろう。
それほどの差が明確に出ていた。
「こ、降参だ」
チムールは両手を上げて、敗北を認めた。
しかし、アントンの鋭く光る灰色の瞳は、まだチムールから照準を外さなかった。
「ベラ君。彼は降参すると言っている」
アントンはチムールを見据えたまま、傍のベラに声をかけた。
「君はどうしたい?」
ベラはアントンの言葉に、正面の両手を上げる蒼白で震える男を見た。
「あたしは……」
まだ脚が震えていた。きちんと立っていられない。アントンはそっとベラに寄り添うように歩み出て、ベラの支えになってくれた。
「あたしは、魔法を貶めるこいつが許せないっ」
「同感だ」
バキッ――!
アントンは頷くとともに、前に躍り出た。そして、薄ら笑いを浮かべているチムールの頬に、思い切り拳を叩きこんだ。
「ぶげっ」
チムールはもんどりうって路地に倒れ込んだ。鼻の穴から血を噴き出し、目玉を回していた。アントンのパンチで、脳震盪でも起こしたか気絶してだらしない表情をしていた。
「ベラ君。警報、鳴らせるかな」
アントンがベラに警備を呼ぶように言う。チムールが気絶した事で、警報魔法を邪魔されることもなくなった。
ベラは警報を鳴らそうと、魔器を取り出した。そして、魔法を今度こそ発生させようとして、少し思いとどまる。
「部長……どうしてここに?」
「……警報が鳴ったからね」
アントンは惚けた声でベラを見ずに言った。もう普段の気だるげなアントンの顔をしていて、転がるチムールを踏みつけている。
「ベラ君が助けを求める声が聞こえたんだよ」
「……絵本の英雄みたい」
「ごめんね。おじさんが来ちゃって」
「……ほんとですよ……どうせくるなら、もっと早く来てください」
ベラは脱力して項垂れる。
かたかたと、肩が震えていた。寒さのせいではない。今頃、恐怖が溢れて、感情が爆発しそうになる。
ここで感情を露にしたら、また子供みたいな自分に戻ってしまう。鎮めなくては、とベラは地面を見つめ続けるのに、頬に熱い雫が伝っていった。
アントンがゆっくりとベラを抱きしめてくれた。
「よく頑張った」
「……う。やめて、ください。今は、ずるい」
ひっく、ひっくと、喉が鳴ってしまう。溢れる涙が止まらない。アントンは大きな胸にベラの顔を埋めさせるようにして、震える肩を包み込む。
「これ、セクハラで訴えないでね」
「部長、ヒゲ、じょりじょりして嫌い」
「きちんと剃ります」
「助けに来てくれて……ありがとうございます……部長」
ベラはそのまま、アントンの胸の中で暫し泣いた。アントンの体温が震える体を包み込み、彼の顎が自分の頭にあたると、無精髭の感触がくすぐってくる。
なんだか、それがとても安心できた。
もし今後も、恐ろしいことがあって身がすくんだとしても、身体に遺る鎮静魔法の効果よりも上書きしてくれそうなアントンの感触が自分を護ってくれるだろう。
その後、警報魔法により駆け付けた騎士が来るまで、二人は暗い路地で抱き合っていた――。