第三話:ベラの心模様
第一部署の援助の仕事に就いた翌日の朝であった。
ベラは朝日を瞼に受けて、うっすらと目を開く。どこか頭がすっきりとしない。
(昨日の……)
チムールにかけられた『鎮静』魔法の影響が残っているのか快適な目覚めといかない。
身体を起こすのがとてもだるく、このまま横になっていたいと、脳が言っているみたいだ。
「ちくしょう……」
ベラはそんな堕落してしまいそうになる心を蹴っ飛ばすように、身体に力を込めて起き上がる。
思わず口から粗野な言葉が零れ出てしまった。
昨日のことを思い返すだけで悔しくて仕方なかったのだ。
第一部署の男の蔑んだ目――。
もし、ここで仕事を休みでもしたら、本当に負けた気分になってしまう。ベラは歯を食いしばりどろりとした思考に怒りの火を投げ放つ。
第一部署の魔術師。それは確かに第二部署よりも大きな仕事をこなす、上の存在。魔法技術だって、あのいけ好かないチムールにベラは負けているだろう。
そして、何より悔しかったのが、自分のことを魔法使いとすら見ていないあの男の目――。
欲望を満たすためだけに、ベラを『おんな』としてしか見ていない、下賎な色――。
「アタシは……、魔法使いにすら……なれていないんだ……!」
魔法技術を習得し、王宮魔術師の試験に通ったから『魔法使い』になったわけではない。ベラが求めるその姿は、誰もが認める大魔術師なのだ。
だが、周りはベラをそう見ていない。少なくとも第一部署の魔術師は――。
これでは第一部署に上がることなどできはしない。まだまだ己が未熟者でしかないと、身をもって思い知らされた。
ベラは毅然とした表情を形作り、支度をすると、纏わりついてくるような頭痛に頭を振って、出勤していった。
――魔術師の塔、第二部署の開発室までやってくると、ベラはできうるかぎり普段どおりの様相を纏わせた。それが自分にできるせめてもの抵抗だった。
しかし――。開発室にアントンがやって来た時、ベラは少しだけ表情を揺らせてしまった。
あの時、自分を救ってくれた恩人であり、上司であり、相棒であるアントン。彼にだけは自分が泣いた姿をみせてしまっていたから。
「そろっとるね。それじゃあ今日のお仕事も張り切っていきましょう」
……と、普段通りの昼行燈なアントンの挨拶が始まり、第二部署の開発室はいつもと何も変わらない一日が開始されていく。
魔術師たちは自分に割り振られた仕事に手を付けだし、ベラも相棒であるアントンと共に仕事に就くわけだが、アントンは特に何も言ってこず、自分の机で何やら資料を見ているばかりであった。
ベラは一応、けじめとして昨日の礼だけは言っておかなくてはと、アントンの席まで移動し、難しい顔で言った。
「部長、……昨日は……ありがとうございました」
口調はどこかぶっきらぼうに、アントンの顔だって真っすぐに見れず、ベラは礼を述べる。
アントンはそんなベラを灰色の瞳で見つめ、何を考えているのか見通せない表情で、「ああ、うん」とだけ返した。
「それでは、仕事に取り掛かりますので」
何か言われたりするかと思ったが、アントンはまるで昨夜のことなど何も覚えていないような様子で素っ気なく相槌を打つ。
ベラも緊張していた肩ひじを少し緩め、自分の席に戻っていく。
(……部長……、やっぱり良く分からない人だな)
結局そのまま、どこかもやもやとする頭を抱えて仕事に取り組むことになり、お昼の休憩時間までの進捗はほとんど進まなかった。
休憩時になって、ベラは焦燥感に似た苛立ちを吐き出す様に、大きく溜息を吐き出す。
「はぁっ……。ああ、もうっ。すっごい気持ち悪い。嫌な気分が全然晴れない」
ベラは昼になっても食欲が沸かずに、魔術本の資料でも見て気持ちを集中させようと、書庫にいこうと考えた。
自分の力量不足も思い知ったことであるし、どうにかして少しでも自分の実力を高めたいと考えていた。魔法に対して向き合っていれば、この嫌な気分からも解放されるかもしれない。
腹立たしくも、何もしていないと、あのチムールの陰湿な顔が脳裏をかすめ、苛立ちと悔しさが呼び起こされていく。
その悔しさをバネにして、魔法の勉強に打ち込むしかないとベラは険しい顔で魔術書とにらみ合いを始めることになったのである。
(……『鎮静』の魔法……。暴漢なんかを大人しくさせるための防衛魔法だと思っていたのに……あんな風に使って、相手の自由を奪うこともできる……)
魔法に対する防衛の知識はまだまだこの国は発展途上だ。あの時、ベラが『鎮静』魔法に対して、反撃できるような知識を持っていれば、チムールに一泡吹かせてやることもできたはずだろう。
ベラは魔術書を読みこみ、同じ轍を踏まぬように対策を考え始めた。
ものすごく正直な話をすれば、チムールに復讐してやりたいとベラは怒りを燃やすが、そんなことをしたところで、第一部署との関係性を悪化させるだけだろう。それよりも、建設的なことを考えた方がいい。
悔しい。悔しくて仕方ないが、それを食いしばって耐え、己の教訓にするのだ。
「もしアタシが、男性だったら、舐められたりしなかったのかな」
不毛な考えではあるが、そんなことをぼんやりと考えてしまった。
「男だったら……」
絶対にチムールのような魔術師にはなりはしない。己の魔術を世界のために行使し、弱きを助け強きをくじく。
身なりだってきちんとする。そして、王宮の女中から黄色い声を浴びせられるような眉目秀麗な青年となって、王宮魔術師の筆頭として国中に知れ渡るのだ。
「まぁ、無理な話だけど」
せめて、自分の上司が二枚目であればと考えるが、清廉されたアントンを想像して、すこしぷっと吹き出した。
「あれ、元気そうだね」
「っっっっ!?」
物思いに耽っていたベラに、聞きなれた間延びした声が投げかけられた。
声の方に顔を向けると、そこには案の定、気だるげな瞼を支えるような表情のアントンが手をあげているではないか。
「ぶ、部長っ」
「いやあ、捜したよ。でも、その様子なら安心かな」
「さ、捜したって……私をですか」
「ああ、うん。昨夜の後遺症でもあるんじゃないかとね。午前中、まいってたでしょうが」
仕事に身が入っていないことを見抜かれていたらしい。ベラは表情を硬くして、アントンに頭を下げた。
「すみません。午後からはきちんと……」
「ああ、いや。別に責めてるんじゃないのよ。『鎮静』の効果は神経を狂わせるから、一度くらいはきちんと医者に診てもらった方がいいかもしれんなぁと思ってね」
アントンは抑揚なくしゃべるので、その言葉に彼の心配だとか、上司としての責任とか、仕事に対する叱責だとかが、聞き取るだけではまるで読み取れない。
それに表情もぼんやりしていて、グレーの瞳は相変わらずの曇天模様だ。
だから、ベラは「平気です」と返し、何でもない風を装った。それに医者に診てもらうという事は、場合によっては自分が魔法を受けて襲われかけたことを告げなくてはならない。それはベラにとって、誇りを揺さぶる行為でしかなかった。
アントンはそんなベラを、じぃっと見つめていた。
暫し沈黙が二人の間で流れたが、アントンの視線がベラから、魔術書に移った。
「それ、笑えるの?」
「た、ただの魔術書です」
「魔術書読んで笑うってのは、ちょっと性癖が特殊じゃない?」
「わ、笑ってませんっ」
まさかアントンを想像して笑っていたとは言えないし、ベラは誤魔化す言葉がちょっとばかり強くなってしまった。
「ぶ、部長! また髭が伸びてますよ。きちんと剃ってくださいっ」
「すいません」
へらへらと笑うアントンはベラの注意を受けて、逃げるように書庫から出て行った。
「もうっ、あれじゃ絶対に剃る気ないな!」
アントンが二枚目になることは絶対にないだろうと、ベラは唇を尖らせた。
そして、重々しかった思考が、なんだか楽になっていることに気が付いた。
どうにも抜けている上司だけれど、彼は恩人だ。世の魔法使い全てが、魔法技術が悪なのではない。
あんなに腑抜けた魔術師部長がいるのだから。
少なくとも、彼のあの見通せない瞳は、ベラを見下してはいない。
それだけは分かる。なぜなら、彼を思い描いて笑顔がこぼれるなんて、それ自体がひとつの証拠ではないか。
(アタシのこと……捜してくれたんだ)
ベラは、魔術書に向き直っていた。
その顔は、最初と打って変わって、仄かに色づいた春の花びらのようであった。