第二話:ベラ、魔法使いを目指す
夜の大通りを歩けば冷たい風が体を撫でつけていく。
ベラは紅い髪を風に弄ばれながら、先を行く第一部署の魔術師の青年の後ろに続いた。。
相手の名前はチムールと云った。いい店を知っていると言うので、ベラはチムールに任せることにして彼について行くことにしたのだ。
大通りを少し入った先の小路を潜っていくと、やがて雑多な飲み屋が連なる賑やかな通りに出た。
この時間は飲み屋はどこも繁盛しているようで酔った男たちの豪快な笑い声が響いていた。ベラとしてはあまり趣味ではない店であったが、チムールは行きつけらしい店に入っていく。薄暗く、各テーブルが簡素な囲いで分けられている酒場であったが、酔った男たちの談笑はそんな囲いを無視して耳に飛び込んでくる。
「奥の部屋、空けといてくれ」
チムールは何やらバーテンダーに小さく告げたが、その声はベラに届かなかった。バーテンダーはちらりとベラを見て、ニィ、と小さく笑った。
ベラは首を小さく傾げたが、チムールがベラを少々強引に促してソファに座らせた。
「まずは地酒で乾杯にしようか」
「はい」
ベラはチムールのボトルからグラスに注がれる地酒を見つめながら、少しばかり警戒心が芽生えていた。
直観的なものであったが、何かいい雰囲気を感じなかった。しかし、第一部署の魔術師であるチムールの機嫌を損ねることはあまり得策ではないし、ベラは愛想笑いを形作ってグラスを持ち上げた。
「乾杯」
「乾杯」
キン、と高く鳴るグラスと共に、グラスに注がれた酒が揺れた。ベラは酒にかなり強い。十五になってから飲酒を許されるこの国であるが、十五の誕生日に飲んだ酒はボトル二本。綺麗に飲み干してもまったく酔わなかったので、自分は酒には強いほうだろうと自信を持ったものだ。
「チムールさん、第一部署の仕事や、魔法の話を聞かせてください」
「ハハ、本当に勉強熱心だ。しかし、せっかくの酒の席なんだ。もう少し面白い話をしようじゃないか」
「……面白い話?」
ベラからすれば魔法の話以上に面白い話など今はない。何を話すのだと眉を寄せる。
「そうだな、例えばキミ自身の話だ。なぜ魔法使いを目指したのかとか、趣味や好物の話に興味があるね」
「……大したことはありません。私は、魔法技術を世に認めさせたいだけです」
「まぁ、確かに今のこの国は魔法技術を見下しているところがあるね。特に第二部署なんかに所属していては尚のことだろうさ」
クク、と嫌な笑い方をするチムールは蔑んだような眼をベラに向けていた。
確かにチムールの言う通り、第二部署の魔術師は覇気のない表情をした根暗な魔術師たちばかりだ。そんな場にいては国益のために魔法開発をしている第一部署の人間から見下されたって仕方ない。ベラ自身もそう思っている、はずであったが、なぜかカチン、とくるものがあった。
今現在が第二部署に所属している身だから、自分を見下されていると感じてだろうか。
だが、まだ勤務し始めて一週間しか経っていないし、見下されるのは仕方ない。実際、魔法の腕前だってチムールには敵わないだろう。
「そう言えば、キミ。今日手伝いに来た時、相棒が第二部署の部長じゃなかった?」
「はい……。人手不足で、相棒がいないので、特例的に部長が私の相方になっていただいている……らしいです」
「クハハハ! 傑作だな、いくら第二部署とは言え、部長が新人の御守をしているのか! いやあ、第二部署の部長には実にお似合いだ!」
高らかに笑い飛ばすチムールに、ベラは愛想笑いも作ることができなかった。
気分が悪い男だ、とハッキリと感じた。しかし、口に出すわけにはいかない。ベラはグラスの中身を飲み干すことでむかつく感情も飲み込もうと誤魔化した。
「……アントン部長のこと、どれほどご存じなんですか?」
「んー? そんなに大したことは知らないよ。なんでも昔はそれなりの実力があったようだけど、第二部署の部長に収まってからは目立った話はまるで聞かないね。昼行燈の中間管理職が似合う男さ」
「……」
確かにチムールの言葉の通り……。ベラもアントンに対してはそういう印象を抱いていた。チムールとは全く同じ感想であるはずなのに、なぜだろうか、この第一部署の言葉に素直に頷けない自分がいた。
「ああいう男は一生、ケツで椅子を磨いて終わるんだろうな。その点、私は違うよ」
「はぁ」
チムールは長い前髪をかき上げていやらしい笑みをベラに向けた。ベラは適当な相槌を返してしまうが、チムールはそんな反応もまともに見ていないのか、己の武勇伝を語り始めた。
第一部署で開発の企画を作ったのは自分だとか、ナディア部長の次席はこの自分だろうだとか酒の勢いもあるのが饒舌にベラベラと語りだしていく。
「注いでくれ」
「……」
何時の間にやらチムールはベラに妙に接近して顔を寄せてくる。そして空になったグラスをベラの胸の前で振り、御酌を命じてくる。
ベラは無言でラカニトのボトルを掴み、グラスに注いでやるが、その隙をついて、チムールの空いた手がベラの腰に回されていた。
「……チムールさん、私そろそろ失礼します」
ベラは胸中に渦巻きだした嫌悪感に耐えられなくなってきた。このチムールという男は、ベラを評価しているのではないと察したのだ。好色な顔を歪ませる第一部署魔術師はベラを『おんな』として見ているだけでしかないのだ。それも、女性のことを男を悦ばせるだけの生き物だと勘違いしている。
立ち上がろうとしたベラの手を、チムールが強い力でつかみ静止させた。
「待てよ。色々と魔法のことを聞きたいんだろう?」
「……もう結構です」
「強気な女だな。悪くない」
ビリ――。
「!――」
チムールに捕まれていた手に何か軽いシビレのようなものが走った。
ベラはシビレた手を確認して、チムールの手が青白く光ったのを見た。
「何を――」
チムールは何かの魔法を、ベラに流し込んでいた。
途端に、不可解にも頭がぼんやりとしてくる――。強烈な睡魔がやってきたような、酒に酔うというのは、こういう感じなのだろうかと感じる、奇妙な倦怠感。
「おっと、ベラくん、酔ってしまったのかなァ~?」
わざとらしい声を上げて、ニタニタと嗤うチムールの顔がぼやけて見えた。ベラはもう全身に力が入らず、ぐらりとソファに身を投げ出す様に崩れてしまう。
「う……」
「奥に休憩室がある……、そこでじっくりと……休憩しようじゃないか? なぁ」
厭らしい垂れ目のチムールが生赤い舌をべろりと出して舌なめずりをした。ベラは懸命に意識を覚醒させようとしたが、チムールがかけたらしい『鎮静』の魔法がどんどん気力を奪っていく。
(このまま、じゃ――)
抗いたくとも言うことを聞かない身体が憎らしくてしかたない。迫りくる好色な魔術師に対して噛みついてやりたく思うのに、瞼がとろんと重く落ちてくる。
もう、抵抗ができない。この魔術師の皮を被った野獣の餌食になるのだろうか。そんな諦めに似た絶望すら、意識が泥に沈みそうになっていった――。
――その時だった。
「もしもーし」
なんとも間抜けな声が耳に届いた。
どこかで聞いたその無気力な声。頼りない男の声だ――。
「な、なに? なぜあなたがここにッ――」
チムールの声が驚愕に染まっている。霞んでいく意識の中、ベラは必死に崩れ落ちる精神を奮い立たせて、チムールではない男の声に意識を向ける。
「いやあ、酒でも引っかけて帰ろうと思って酔ったんだけどね。その子、うちの部下なんだわ。酔いつぶれちゃったんだなあ」
飄々とした、抑揚のない声。気だるげな顔が見える――。きちんと剃れと言ったのに、剃り残しのある無精髭が見えた。
「その子は私が責任をもって家に連れて帰りますので、その手、離していただけます?」
「こ、この娘は私が……」
「離しなさいって言ってんだ」
ざくり、と切り込むような言葉だった。有無を言わせぬ圧を孕むアントンにチムールは言葉を失い、ベラの手を離した。
「いや、すいませんね。うちの部下、まだ酒の飲み方を知らんかったようで」
「……い、いいからさっさと連れていけ」
ベラが意識が落ちていきそうになるのを懸命に堪えているなか、脱力した身体をふわりと抱きかかえられた。
整髪料の匂いが鼻に届いた。気だるげな上司の匂いだとすぐに分かった。
アントンがベラを抱きかかえてくれたのだと、気が付いたが、もうベラは言葉を発することも難しく、瞼が落ちないようにするので精一杯だ。
「ああ、そうだ。チムールくん」
「な、なんだ……?」
「今回は見逃すけれども、次やったら、『罰』を与えるからね。覚悟をしなさいね」
アントンの指先がうっすらと青い白く光っていた。魔法だ。その呪文を見てチムールは驚愕して身を強張らせた。それはチムールが使用した『鎮静』魔法と同様であったが、質がまるで段違いだった。
記憶すら吹き飛ばすであろう力強い呪文で構築されているアントンの『鎮静』魔法は、もし食らった場合精神疾患に陥りかねないものであったのだ。
ぞっとしたチムールは、アントンの曇天のような瞳に氷漬けになった。どこまで本気か分からない。本当にそんな魔法を撃ち込むつもりなのか。ただの脅しなのか――まったく計れないその目に恐怖した。
アントンは「おつかれさまでした」とぺこりと頭を下げて、無表情でその場を立ち去っていく。ベラは抱きかかえられて、アントンの腕の中、なんとか言葉を紡ごうとする。
「ぶ、ちょ……」
「いや、悪いね。若いもん同士の飲み会に割って入るつもりはなかったんだけど、おじさん嫉妬しちゃってね」
やはり、飄々と云うアントンに、ベラは溢れそうになる涙を堪えようとした。
今更になって怖くなって、感情が溢れかえる。もし、部長が来なかったら――?
そう考えると怖くてたまらない。震えて、子供のようにアントンの腕の中で光を落とした。きらきらと零れる熱い水滴を――。
アントンは店から出て暫く歩くと、静かな路地裏でベラを下ろした。
そして、ベラの額に大きな掌をそっと当てると、その掌をぼんやりと光らせた。ぬくもりがベラの恐怖に震えた心を温めてくれるように、『鎮静』魔法を解いていく。
「頭が痛くなるかもしれんが、ちょっと我慢しなさいな」
「……すみ、ません」
「魔法使いを、嫌いになったかい?」
「…………」
魔法という技術が悪用される可能性がこんな身近にあるとは思わなかった。ベラにとって魔法は神の贈り物で、人々を幸せにする技術でしかないと思っていたのに――。
技術は使いようで、危険なものになる。それはどんな技術も同様なのだ。
ベラはまだ自分が未熟なのだと思い知らされた。そして、魔法を恐れる人々の気持ちも触れることができたように思えた。
なぜ、魔法を恐れるのか。分からない物は不気味で危険だと判断するのは当たり前のことだ。
そっと、涙を零し震えるベラの頭を撫でてくれるアントンが暖かかった。
恐怖を与えた魔法もあれば、こうしてぬくもりをくれる魔法だってある。
ベラは――ベラが求めた魔法は、後者であった。
「私、魔法使いに、なってみせます――」
その言葉を受けたアントンの表情は、真昼に灯る明かりのようにぼんやりしていて、そして温かかった――。