目から遠くなると、心に近くなる
広大な国土を持つモースコゥヴの王宮は、その名に恥じぬ敷地を持っていた。
周囲を城下町で覆われ、隔てるように厚い城壁が聳えている。敷地は三角形をしているために、それぞれの三点に塔が建てられ見事な要塞風の造りをしていた。
外から見ると、非常に強固な表情を見せる王宮だったが、中に入ってみると、豊富な鉱脈から掘り出した御影石やマラカイトの装飾がアクセントとなっており、重厚さの中にあって美を散りばめられている高貴な雰囲気を醸し出していた。
更には、城壁の先に広がる庭園もまた美しいものだった。三角形の壁に城門はそれぞれにひとつあるので、合計三つの入り口があるわけだが、三箇所の門それぞれに個性的な庭が広がるのが視界を楽しませてくれる。
「ええーと、ここがオースィニ広場? だっけ? え、こっちがリェータ広場なんだっけ……ぅぁぁ……、わかんなくなってきた」
南側の庭、ヴィスナー広場でレイラは頭を回していた。魔術師として王宮に雇用されたはいいが、広すぎる王宮に迷子になっていたのだ。
今日は出勤初日だというのに、このままでは目的地の魔術師の塔までたどり着けないではないか。初日から遅刻など大目玉を喰らいたくはない。寝不足の頭を無理やり叩き起こしてやってきたのに、どこをどう行けばいいのかわからないのだ。
門兵からは、リェータ広場の方へ向かって右手に見えると言われたが、そもそも、どこが何なのか分かっていなかったのだ。
レイラは寝不足のせいで普段よりも更に不健康そうな表情に冷や汗まで垂らして、勤務初日に遅刻という目も当てられない状況にならぬよう、ひぃひぃ喘ぎながら城の中を彷徨っていた。
庭から建物内に入ると、これがまた分かり辛いものだった。内装の造りがほとんど同じだったのだ。まるで同じところをぐるぐると回っているような錯覚に陥ってしまいレイラは完全に、自分の居場所が分からなくなってしまったのである。
真っ黒な王宮魔術師のローブを着ているため、城の人間からは最初は特に奇妙だと感じられていなかったのだが、うろうろとレイラが行ったり来たりをしているせいで、いよいよ不審に思われたのか、大柄な騎士がのしのしと近づいてきた。
「おい、そこの魔術師!」
「ひぁいっ……!」
厳つい大きな低い声で、ビシっと止められたレイラは慌てふためきながら硬直した。
目前に迫ってきた騎士はかなり大柄で太く逞しい体つきに重厚な鋼の鎧を身にまとっていた。巨漢の男が鋼の足音をガチンッ! と鳴らして威圧するようにレイラを覗き込んできた。レイラはその騎士の威圧感に完全に気圧されてしまい、蒼白を更に青くしてフードの中の視線を床に落とした。
厳しい目付きで睨まれたため、怖くなって顔も見れなかった。もとより、レイラはかなりの人見知りだ。
他人と正面きって会話することすら中々できる性格をしていない。まして相手が相手だったので、もう頭の中が真っ白になってしまっていた。
「さっきから何をしている」
「……ひゃ、……その……その……」
「んんッ!? 何をしてるのかと聞いたのだ」
「ひぁいっ……! いく、とこ……でした、その……広場の、右手の……リェータの……」
「なんだとッ?」
ガチン、と硬質的な威圧音がまた鳴る。金属が硬く響く音と、屈強な騎士の声が上下からぶつけられるかの如く、レイラの脳味噌を揺さぶって、どう応えていいかも分からなくなってくる。混乱してきて、目玉がぐりぐり回りだしてしまうほどに。
必死に言葉を返そうとするも、縺れた舌と困惑した思考のために、口からぼそぼそと小さな声が漏れるだけだった。
目の前の挙動不審で不明瞭な魔術師の女に、騎士もいよいよ怪しいと思い始めたのか、威圧感がゆっくりと高まっていく。
「ちょっとこっちに来い」
「ひ……」
レイラの腕に伸びてきた大きな手が、怯える少女をとっつかまえようと迫ってきた時だ。
「どうされました?」
落ち着いた男性の声が響き渡ってきた。
「あッ……。はい、この魔術師がどうにも挙動不審だったので少し話を聞こうと」
レイラを捕まえようとした騎士が振り返って、姿勢を正しながら状況を説明した。レイラは相変わらず怖くて視線を上げられず、ずっと床を見ていた。
「分かりました。私が引き継ぎますので後は任せてください」
「えっ、はぁ……。で、では宜しくお願いします」
そう言い、強面の騎士はその場を後から来た男性に任せて去っていった。
レイラはもう何が起こっているのか頭が追いつかず、震える脚と固まってしまった思考を懸命に落ち着かせようと、息をはぁはぁ喘ぎ続けていた。
人と話すとどうしてもこうなってしまう。特に今のような威圧感のある屈強な男性には、会話もできないほどだ。自分の対人技術の低さに嫌になりながらも、こればかりは一朝一夕に克服はできなかった。
「ぁ、あのッ……。す、すみません。私、その……今日、初めてで……魔術師……来たんですけど……」
フードを目深に被せたままに、下を向きながらどうにかこれだけ言えた。正直口の端から泡を吹きそうなほど苦しかったが、ずっと部屋に篭って勉強ばかりのガリベン少女は震えながらも相手に伝えて見せた。
「……ああ、なるほど。今日は新米魔術師が来ると聞いていました。あなたがそうだったんですね」
優しげな声だった。ふわりと笑顔がこぼれていそうな、おどおどとした少女を解すその言葉は、まるで
冷え切った指先を暖めてくれるストーブの灯りのようだった。
「そ……、そ……です。ま、まよってしまって……ど、どういけばいいか、分からなくて……」
やはり小さな声でしか喋れなかった。風が吹くだけでも聞き取れなくなるような、幽かな声しか出せない。
しかもうつむいて言うものだから、相手の男性に届いているのかも分からない。相手にとって失礼だとは思いながらもこれがレイラの限界だったのだ。
「分かりました。付いて来なさい。案内しますよ」
男性がそういうと、マントを翻して先へと歩き出した。
相手が向こうを向いたことで、レイラはようやく顔を上げてその男の背を見つめた。
立派な赤のマントに金の刺繍が栄えている。着ている服装は群青色の上着だったが、こちらも装飾とフリルが散りばめられていて、高貴な人なのだろうと簡単に推測できた。そんな彼の後ろ頭を見上げると、美しい白銀の髪がさらさらと煌めいているのが見えた。
「王宮の広さと造りには私も最初、中々戸惑いましたからね。その内、嫌でも覚えますよ。氷柱のようにね」
「つらら?」
「毎日氷柱を折っても、翌朝にはまたできている。段々朝起きると、最初に氷柱を折ることを覚えます」
なんだか面白いことをいう人だなとレイラは思った。
しかし、正面を歩く男性がこちらを振り向くような素振りを見せてきたため、すぐさまレイラはうつむいた。やはり顔を、目を見て話すというのが難しい。無礼なヤツと思われても仕方ない話だが、相手は特にそのことをとがめたりはしなかった。
「ここですよ」
「……ひゃ、ひぁい!」
案内してくれた男性が足を止め、扉を指差してくれた。マホガニー製の大扉があり、そこから先が魔術師の塔になっているらしい。
「あ、ありがとう、ございました……」
「いえ。……それでは私はこれで」
ぺこり、とレイラはふかぶかとお辞儀をした。結局最後まで相手の顔を見れないままに、お別れをした。
男性は最後まで物腰柔らかに、しなやかに身を翻してカツカツと去っていく。
(氷柱の人……いい人だな)
そんな風にぼんやりと背中を見送り、やっとレイラは魔術師の塔までやってきたのである。今日からここが自分の職場になるのだ。しっかりと場所を頭に叩き込んでおこう。
しばし辺りの風景を確認してから、レイラは塔の扉を押し開いた――。
**********
「あ、きみ? そう、あー。レイラ・アラ・ベリャブスカヤ君ね。ほいほい」
王宮魔術班の第二部署に入ることになったレイラは、上司のアントンの間延びした挨拶に、思わずぽかんとした顔をしてしまった。
自分の経歴や成績が書かれているであろう書類を眠たそうな顔でぺらぺらさせながら言った中年の男性に拍子抜けしてしまったのだ。
王宮魔術師という人びとがどういう人材を揃えているのかは想像するだけでしかなかったが、こんな昼行灯なおじさんが上司になるとは流石に考え付かなかった。
「んじゃあね、とりあえず君の教育指導、相方の子、紹介するから。ついてきて」
自分の机からのっそりと立ち上がって、小指を右耳に突っ込んでぐりぐりするアントン部長は、ちょっと聡明な魔法使いというにはオーラが足りていない。
「あ、あのぉ……相方って?」
「相方? うちら、基本的に仕事する時、二人一組でやるのね。あ、うちらってつまり王宮の人みんなね。騎士も女官も魔法使いもみんな」
「は、はあ……」
あとで聞いたことだが、二人一組で活動することにより、互いを高めあい、且つ、監視の意味も含まれているのだとか。
王宮であるために、裏切り事などに気を配ってのことだろう。
理由は分かるが、レイラは気が重かった。人と接することが苦手なのだから、相方とうまくやれるのだろうかと考えると胃が痛くなるのだ。
部長の部屋から出て、塔の中の魔器開発室の中に入ると、そこには数名の魔法使いが魔法道具を製作していた。
魔法で付く灯りや、魔法の暖房器具。防犯目的に使用される監視用の千里眼水晶など等……。
「レオン君、いるかね?」
アントンが訊ねると、作業中だった眼鏡の魔法使いが顔を上げて「いないですね」と返事した。
「ありゃま。……ああ、みんな。この子今日からウチで働くことになったレイラ君ね。よろしくしてあげてね」
適当な挨拶に合わせてレイラもぺこりとお辞儀をした。作業中の魔法使い達は、一瞬手を止めて「はーい」と返事してからすぐさま作業に戻った。黙々と魔器に向かって呪文を組み込んでいる様を見て、ここなら自分も働けそうだと少し胸をなでおろした。
黙々と呪文を構築し、魔法を作っていくのは得意だった。
「レオン君いないんだけど、説明するとね。第二部署は大体魔器開発や修理が専門だから。一日のほとんどはここでの作業になると思うよ」
「は、はい」
「第一部署はね、お国の政策やらに色々と助言したり、神秘学の知識で魔法陣組んだりして大規模なことやったりするんだけど、ウチはまぁこんな感じ」
そんな説明を聞いて、うんうんと頷いていたレイラだったが、ふと今聞いた話を頭の中で反芻していて気がついた。
一日のほとんどは、ここで作業――。
つまり、王宮魔術師の第二部署はもっぱら開発室での缶詰状態になるのだ。ということは、騎士団との接点はほぼ無いと言えるだろう。
「…………」
現実ってそういうものだよね、などと考えながらも、第二部署の作業は性に合いそうだとも思った。
それにここに来る前のことを考えると、まるっきりチャンスがないということもないだろう。王宮にいる以上、ユーリと接触する機会はあると思えた。例えば休憩時間にふらふらと庭を見て回るだけでも、騎士達を見つけることはできるだろう。もし、運があればユーリを見つけることもできるんじゃなかろうか。
落ち込んでいても仕方ない。記念すべき初日なのだから、仕事に対してポジティブに踏み出したい。
レイラは自分の根暗な性格の中でも飛び切りの前向きさを搾り出してそう考えた。
「どぉーこ行っちゃったかなあ、レオン君」
アントンに続きながら塔の中を案内がてらに連れまわされていると、ふと、庭の辺りで女官達が集まっているのが目に入った。今三階にいるのだが、そこに居ても、女官達の黄色い声が届いてくる。
どうやら、女官の集団がおやつを作ったらしく、騎士風の男性に差し入れをしているようだった。
「あ、氷柱の人……」
思わず声を出してしまった。女官達からお菓子を受け取っていたのは今朝、迷子のレイラを魔術師塔まで連れて来てくれた親切な男性だったのだ。
レイラの呟きにアントンも気が付いて、窓から庭を見下ろした。
「あー……流石にモテるね。親衛隊は」
「……親衛隊?」
「そう、王族直下の騎士ね。赤いマントは親衛隊の証」
「偉い方なんですね」
そんな大層な方に案内されて、まともに挨拶もできなかったとは、なんとも情けない。これから社会に関わっていく大人としても最低限の礼節は身に着けるべきだろうと反省するばかりだ。
「特に、彼はね特別なんだよ。騎士団期待の新星。去年見習いから昇格と同時に親衛隊に配属されたからね。まだ若干十六歳だってよ、凄いねユーリ様は」
「へえ……」
氷柱の人はユーリ様というのか……。
…………。
……。
「ユーリさま!?」
今年一番の発声だったと思う。思わずフードがまくれてクロワッサンの頭がさらけ出される。
大きな眼鏡を慌てて整え、氷柱の人をしっかりと見た。
銀の頭髪、整った鼻、細い顎、蜂蜜みたいな優しい金の瞳。
身長はとても大きくなっている。子供の頃みたいに無邪気で元気な印象とは違い、大人びた優しく落ち着いた性格。
同じところと違うところ……。少年が青年に成長して、立派な騎士となっている姿に、レイラは瞳を奪われた。
やはり、ユーリはユーリだった。私が困っている時に、助けてくれたのはいつもユーリだったんだ。
(逢えなくてもいい……そんなのウソだ……)
胸がどきどきと激しく脈打ち、地面が揺れているように、くらくらした。
(ユーリ……あんなに立派になってるなんて――)
眼下で困ったような笑顔でお菓子を受け取る青年を見ながら、レイラは叫びだしたいのか、身を隠したいのか、自分でも良く分からない感情が大きく、大きく育っていって、胸が一杯になる。
(逢いたい――。でも――、逢えない――。ユーリはあんなに素敵になってるのに、私はこんな惨めな姿で……なんて声をかけていいかも分かんない……)
月とすっぽんとは良く言ったものだ。自分はまさにそうだと思った。
こんな自分があのユーリの隣に立つなどおこがましいとすら思える。
あんなに近くにいるのに、こんなにも遠い存在になっているなんて――。
レイラの慕情は増してゆく。ユーリが御前試合で優勝した日のように、遠く離れてしまって、手が届かないと分かって、その想いは重くなって心を苛む。
どう誤魔化そうが、レイラの想いはユーリに惹かれて行くのだ。新米魔術師は、親衛騎士へと手を伸ばすことなく、見つめるのみだった。