甘い嘘より苦い真実のほうが良い
魔術師の塔、第二部署の一室にて、魔術師たちが集められていた。
正面に立つのは部長のアントン、そして補佐をしているベラだ。その二人に向き合う形でレイラとレオンが並び、その周囲を同僚の魔術師たちが取り囲んでいるような状況だった。
レイラは今回の病気の蔓延に関し、一つの推理に思い至ったのである。
それを先輩でありペアリングのレオンに打ち明けてみたところ、レオンもその推理に同意し、アントンに掛け合ってくれた。
そして一同は魔術師の塔の一室で集められ、今に至るのである。
「……暖炉です。今回、病原菌は過去のものであり、宮殿の中にいた人だけが感染した理由。結界の修理中に使っていた暖炉にウィルスが眠っていたんだと思います」
「……結界には問題がなかったってわけか」
「確かに結界自体には発症の原因はなかったと思いますが、ウィルスを蔓延させるきっかけであり、また復活したウィルスが感染しやすい状況を生み出していた事実はあります」
魔術師たちはみな、ううむと唸る。直接の原因はなかったにせよ、そもそも結界の管理をしっかりしていれば暖炉は使われなかったし、その後の暖房結界が生み出す空気の乾燥など、考慮されていなかったのは確かだ。
「アントン部長、暖炉を調査するように錬金術師に連絡をつけます」
ベラがレイラの話を受けて、早急に動き出した。それに頷き、アントンはレイラとレオンに改めて向き直った。
「問題はとりあえず解決したけども、そうなると、対策を講じなくちゃならないね」
アントンは元の間延びした口調に戻っていて重そうな瞼でじっとりと二人を見ていた。普段の部長の調子に、とりあえず重大な局面は切り抜けたのだと一同は安心した。
「乾燥か……。過去の結界は空気乾燥しなかったよな。隙間風はあったようだけど」
「その隙間から入り込んだ冷気が結界空気中の水分に変化していたから、渦上結界は湿度はある程度保たれていたんだ」
「今回はそれをバッチリ塞いじゃったから、外気を取り込まず、結界内の空気を温めるばかりになったせいで水分が減るばかりだったんだ」
加えて、換気性も問題があったのだろう。密閉された魔法の壁は通気性を目に見えぬ形でなくしていたのだ。
魔術師たちはそれぞれに意見を述べて今回の暖房結界を見直すために考えをまとめだしていく。
レイラとレオンもその話し合いに加わって、結界呪文の組み立てや問題点などを洗い出す。
「こういうのはどうでしょうか」
レイラが兼ねてより考えていたプランを提示した。
それは結界の出力を抑え、その分浮いた魔力で蒸気を発生させる加湿魔器を動かしてみては、と。
その意見に一同は呪文の構築を洗い出し、魔器への符呪と乗り出すのであった。
強硬な造りをしている王宮、そしてその内側に鎮座する宮殿には、無骨な造りのなかにあって、細部に飾られた観葉植物などが景観に潤いを与えていたことを覚えていたレイラは、それを今回の結界にも見立てたのである。
完璧な結界魔法を構築する魔器はそれぞれ十個のバイパス魔器で動かしているわけだが、その魔器にほんの少しの手直しを加えようと発案したのだ。
滞留しがちな結界内の空気に流れを作り、蒸気を噴射させてみるというものだった。
これにより、スチームの湿度と共に空調が回転し、結界内の空気を清浄化できるかもしれないと考えたのだ。乾燥を防ぎ、結界を若干弱めることで通気性を改善する一石二鳥の案だ。
「じゃあ、一度呪文を構築しますから……あれ?」
今更になって、レイラは自分の視界がぼやけていることに気が付いた。呪文を読み取ろうと思って見つめた視界の悪さに眼鏡をかけていないことを理解したのだ。
「めっ、眼鏡、どこっ」
「え、レイラさん……今更?」
レオンが呆れた顔でレイラに突っ込んだ。休憩時間に居なくなったと思ったら、血相を変えて戻ってきて病原菌の出所が分かったかもと慌てて言う彼女はすでに裸眼だった。
眼鏡をどうしたのか突っ込むヒマもなく、今までゴタゴタしていたので、レオンもそのままにしていたが、当の本人すらその存在を忘れてしまっていたとは思いもしなかった。
(ゆ、ユーリの部屋だっ……! ど、どうしよう、戻らなくちゃ……)
眼鏡を無くした場所を思い至ったレイラは、すぐにでも回収しに戻りたかったが、取り掛かり始めた暖房結界の回収作業も気になった。
レオンに困ったような顔をしているのを見られて、どうするかうろたえていると、レオンがくすりと笑った。
「ここはいいから、眼鏡を探しに行っておいでよ」
「で、でも……」
「視界が悪いのに、呪文の構築ができるのかい? 今度こそ、僕らには失敗が許されないんだぞ」
レオンの突き放すような言い方に、レイラははっとした。
レオンのその言葉はわざとそういう言い方をしたのだろう。正直なところ、これ以上新人のレイラに負けていられるかと、どの魔術師も思っていたのだ。
レイラが周囲を見回すと、他の魔術師たちがサムズアップで返事をした。
「お前ばっかり活躍させるか」
「ここから先の構築は、王宮魔術師の誇りにかけて、シゴトしてみせるわ」
「さっさと行け、具体案はオレらで作っとくから」
そう言って、第二部署の魔術師たちはみな、にやりと笑った。
これまで、第一部署の日陰になっていた第二部署は、旨みのない雑用係のような場所だった。
そんな処で数年と働いていた魔術師たちはすっかり気持ちは落ちていたというのに、今年入ってきた眼鏡の新人が、あんなに目を輝かせて結界魔法の改良を提案するので、すっかり感化されてしまったのだ。
そうして、訪れた大仕事の幕開けに、胸が躍らずにいられるだろうか。
根暗でパッとしない新人の眼鏡魔法使いは、思った以上にまっすぐで、脆そうに見えたのに強くて、その眼鏡の奥の瞳は、煌々としているのだ。
後輩に負けられないと、魔法使いは自分の中の魔法への熱情を燃え上がらせた。
そんな影響を自分が与えたことなど、まるで知りもしないで、レイラは先輩たちの言葉に深く頭を垂れ、魔術師の塔から駆け出した。
そこでベラと鉢合わせした。レイラは、慌ててベラに頭を下げると、そのまま騎士の塔へと駆け出していく。
そんなレイラの背中を見送り、ベラは――やっぱりコイツ、可愛いじゃん――などと思いながら頬を緩めた。
錬金術師との連携はうまくいった。これから忙しくなるだろう。医学的な見地も取り入れて、暖房結界を構成し直さなくてはならない。
「まったくさ。ほんと、きっかけをくれる子だよ。あいつは――」
ベラは塔を見上げる。魔術師の塔の部長室の窓からアントンが顔を覗かせているのが見えた。頬杖をついて眠たそうに空を見上げている。
その横顔を見て、ベラはよし、と気合を入れなおした。その瞳は活き活きと煌めいていた――。
――レイラは駆ける。ユーリの寝室へ。大好きな彼の元へ。もう一度――。
**********
一年後――。
王宮内は慌ただしく、モースコゥヴの姫君、アナスタシアが隣国へと嫁ぐ準備に追われる中、当の本人であるアナスタシアは静かに自室で読書をしていた。
「私の知らないところで私が結婚してました、か――」
アナスタシアは薄く笑って本を閉じた。
すでに進んでいた隣国との話し合いの結果アナスタシアの意思は無関係に政略結婚は済んでいた。
父から聞かされたのは、『当初の予定通り、お前は隣国の王子のもとへと嫁ぐこととなった。向こうでもしっかりやるように』という言葉だった。
わかっていたことだし、生まれてからずっとそのように教育されてきた。自分は王家の人間なのだから当然だ。一般的な恋愛はできないのだ。
だから、父の言葉にアナスタシアは『畏まりました』と返事をするだけだった。
宮殿ではアナスタシアの身支度をメイドらが行っている。それにもアナスタシアの意思はない。特別もっていきたいものはなかったからだ。
だが、たった一つだけアナスタシアの我儘を叶える意思が見えたものがある。
それが従者だ。従者は嫁ぐ先でずっと傍に置き、世話役となってくれる家臣であり、それを一人、自由に連れて行ってもよいと言われたのだ。
アナスタシアはこれだけは決めていたのだ。
誰を連れていきたいのか、を。
その日、ユーリは姫の自室に呼び出された。
「ユーリ、あなたを従者に任命したく思います」
「は、光栄です」
ユーリは即答し、跪いて頭を下げた。
だが、アナスタシアはそんな彼の態度に、機嫌悪そうに表情をゆがめた。普段穏やかな顔をしている姫の、稀に見る色の滲んだかんばせにユーリは言葉を返さない。
「……そんな言葉、聞きたいんじゃないの」
「姫……」
ユーリは顔を上げ、辛そうに陰を作る姫の顔を見つめた。
ユーリのこれまでの働きは目覚ましく、特に一年前、病気で倒れた日以降から、彼は見違えるように騎士の仕事に胸を張って挑んでいた。
それまでも立派に勤めを果たしていたが、まるで氷上にいるようにいつか割れて沈んでしまうような危うさが見え隠れしていたのに対し、今やどっしりとした岩盤のように王家の忠誠と紳士な仕事ぶりを見せていたのである。
陰湿な騎士らも陰口を叩いていたのを止め、ユーリという親衛騎士に一目置くようになっていた。信頼も厚く、騎士団長としての席も用意されている彼だったが、もっとも有力なのは姫の従者として隣国へとついて行くことだろうと王宮内では噂が広がっていた。
「私、結婚するのよ」
「はい」
「……子供を産みに行くの」
「……それは違います」
「違わない。どう思うの? ユーリ。そんな私を見て、どう思うの?」
「…………」
姫の言葉は徐々に感情があふれ出していた。
それが分かるからこそ、ユーリは何も言えないのだ。ユーリもアナスタシアも、初めて出会ったのは十三になる頃だ。まだ騎士見習いだったユーリにアナスタシアが歳の近い新米騎士が来たからと様子を見に行ったのがきっかけだ。
いつものように大きな男がやってきたのだろうと思ったが、ユーリは小さかった。
そして顔立ちもどこか女の子のように繊細で、こんな男の子がいるのかとアナスタシアは彼に一目で惹かれたのだ。
ある日、ユーリが背が小さいと先輩の騎士たちから見下され悔し泣きをしているのを見て、アナスタシアは思わず声をかけてしまっていた。
自分の泣き顔を見られてしまった事をユーリは酷く気にして、慌てて取り繕っていたのが印象的だ。
それから、なんとなくアナスタシアはユーリと仲良くなり始めた。彼が毎朝氷柱に向かってジャンプしているのを見つめ続けたし、彼の手が氷柱を折った時は、自分の事のように喜んだ。
彼の身長は十四になるころ、一気に伸びた。毎日見ていた。廊下の柱で背比べだってしたのだ。あっという間にユーリを見上げるほどになってしまった。
「……ユーリ、わたし、あなたが好き」
アナスタシアはまっすぐに伝えてきた。着飾らない、立場もない。一人の女性として、想いを打ち明けたのだ。
「わたしは、結婚します。それはもう変えられない。覚悟しています。だから、この気持ちだけは、伝えたいの」
「……姫……」
「あなたが、好き、なの……」
アナスタシアはそれだけだった。それだけが彼女の我儘だった。崩れてしまいそうな姫に、ユーリは立ち上がり、真正面からアナスタシアを見つめ返した。
「私にはもったいない言葉……」
その言葉に、アナスタシアは首を左右に激しく振った。せっかく美しくまとめたロールが乱れてしまうほどに。
そんな言葉が聞きたいのではないと、姫は強く訴えた。
ユーリはそんな姫に手を差し伸べようと指先を伸ばしかけたが、躊躇して、それをやめた。
そして、「失礼します」と告げ、ユーリは真紅のマントを脱ぎ棄てた。
姫の自室の床に、赤き親衛隊のマントがふわりと落ちた。
それを見たアナスタシアは、強い意志のこもった瞳で、ユーリをじっと見つめ続けた。
ユーリはそれに向きあい、そして、瞳を少し閉じて、また開いた。
金色の瞳は優しい蜂蜜のように煌びやかで、アナスタシアはその瞳に映る自分がまるで黄金の世界で揺蕩っているようにも思えた。
「オレは、その気持ちに応えられません」
ユーリのその言葉に、アナスタシアはきゅっと唇をかみしめた。心臓がとても激しく暴れまわっているのが分かる。これが『恋心』なのだと、姫は失恋の折に、感じていた。
まるで香りはないのに、確かに咲くカミツレの花のようだと思った。
「オレには、愛している女性がいます」
オレ、というユーリをアナスタシアは初めて見た。
これが彼なのだろう。アナスタシアが姫を脱ぎ捨てた言葉を告白したことへの、彼の精一杯の対応だと分かる。
「姫のお言葉であれば、例えこの命を奪われようとも従います。従者として付いてくるように命じられたら、誇りをもって一生傍に付き添いましょう」
喉の奥が震えている。掌が熱い。瞳が揺れる。彼の言葉のひとつひとつが、アナスタシアの全てを焦がすようだった。
「ですが、あなたの想いにはお応えできません。オレは、ずっと、ただ一人の女性が胸の中で居続けます」
「……わたし、ふられたの?」
「……はい。そうです」
ほろりと、目の端から、まるで新雪にできるシュプールのように、一筋の煌めきが流れた。
ユーリの言葉に、精一杯の優しさと無慈悲さを感じる。それが彼のまっすぐな回答なのだと、アナスタシアに直撃を与える。
「やっぱり、か。……知ってたんだ。ほんとは、ユーリが誰かを好きなんだっていうのは」
「……」
「でも、言いたかった。言わなきゃ、本当に、女の子を一度も経験できないんだなって思ってたから」
「姫……」
「ありがとう、ユーリ。決心がつきました。あなたは連れていきません」
アナスタシアの最後のセリフは、もう一国の姫の言葉であった。
だから、ユーリももう一度真紅のマントを身にまとい、片膝をついて返すのだ。
「姫様が居たからこそ、私はこうして胸を張れる騎士となれました。あなたのその高貴なる魂が、いついかなる場所にあろうとも、守り抜く所存です」
「今までありがとう。ユーリ・ユーリ・ヴォロキン。これからも国のため、尽くすように」
ユーリは胸をトン、と叩き敬礼をする。
そして、颯爽と誉れ高き親衛隊のマントを翻し、姫の自室を去った。
「……胸が……」
独りの自室で、アナスタシアは零した。
「切なさって……こんななんだ」
きゅうきゅう締め付けられる胸の内側と、溢れる涙と共に――。
アナスタシアはカミツレの花言葉をふと思い出した。
逆境に耐える活力――。
この切なさは、きっとこの先に生きていく上で、きっと活力になるだろう。
姫は気高き心を強くあり続けようと誓った。自分は王家の人間なのだから。そして、立派に一人の女性なのだと、愛した彼は自分をふってくれたのだから――。