神は注意深い者を大切にする
錬金術師の塔でワクチンを貰ったレイラとレオンはその足ですぐに宮殿に入った。寒い外から宮殿内に入ると、暖かい暖房結界が凍えた体を温める。レイラは自分の視力にしっかり合わせた眼鏡を通して回りを見てみた。
念のためにマスクはつけているが、見たところ、結界内には特に異常は感じられない。おかしな匂いだとか、色づいた空気だとかそういうものは見受けられなかった。
宮殿内に異常アリの警報が出てから、王族は一時的に別棟へと避難し公務を行っていた。
現在、宮殿内にいるのは調査に駆り出された騎士や錬金術師、魔術師らだ。
誰もがマスクを着けて、異常個所がないかを調べまわっている。普段の宮殿の雰囲気からは遠く離れた異様な光景がレイラの目に映ると、重圧がやってきた。
この異常事態を生み出した発端に携わっていたという責任感からくる眩暈だった。
「……先輩……。こんな……大事になるなんて……私……」
「……別にレイラさんに責任があるわけじゃないんだ。僕だって……」
そういうレオンの言葉はレイラへ投げかけられていたが、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
怖気づいていても仕方がない。ともかく、なんとしてもこの状況を改善する糸口を見つけなくてはならない。
「まずは結界装置の状況点検だ。レイラさん、時間はかかるけど、一つずつ丁寧に調べよう。手分けもなし。どちらかの落ち度に気が付いたらすぐに意見すること。先輩とか後輩とかカンケイなし」
「は、はい」
手近な装置を確認に二人は動き出した。
宮殿内部各所に設置した魔器はそれぞれが呪文を符呪してある。それらの呪文を一つずつ見て回り異常がないかをまず調べる。
効率が悪くても、必ず正常に動いていることをチェックしなくてはならない。杜撰な対応が大きなミスを呼んでしまうのだから。
「起動点の魔器、チェック完了です。異常なし……」
「うん……。次はバイバスの魔器だ。東側から始めよう。……体の異常を感じたら言うんだよ」
「だ、大丈夫です」
「……正直、嫌な空気だ。……病原菌がどうとかじゃなく、心が……気持ちが……」
レオンが汗を浮かべていた。まだ最初の一つ目のチェックを終えただけだというのに、異様な宮殿の雰囲気がまるで苛んでくるように責め立てる。焦燥感が脂汗を浮かばせて指先を震えさせてしまうのだ。
「あ、焦ったらだめです……こういう時こそ、冷静に……」
「うん、そうだね……」
病原菌が蔓延しているというだけでも呼吸をあまりしたくない。浅い呼吸を続けていると、脳の酸素が足らずにくらくらとしてしまう。
マスクすら煩わしく感じるが、これを外すわけにもいかない。二人は自分を落ち着ける努力をしながらも魔器を慎重に調べていくしかないのだ。
額に汗を流し作業をしていると、暖房の熱が鬱陶しくも思えてくる。絡みつくような暖房の空気が汗すら奪っていくようだった。
入念にチェックを繰り返し、四つ目の魔器を調べ終えて、レイラは「ふう、ふう」と息をあげていた。
「ちょっと、休憩するかい」
「いえ……大丈夫です。今のところ、呪文に問題はありません。結界もきちんと動いてます……。つまり、想定通りの動きをしているみたいです……」
「うん……。油断せずにチェックしよう。次だ」
レオンに続いてレイラは五つ目の魔器へと向かう。宮殿内に仕掛けられた魔器は全部で十個。ここからが折り返しだ。
……といっても、これは作業の中の基礎を見直しているだけではあるが。
やがて息苦しい宮殿内で作業をしていた二人はやっとのことで全ての魔器チェックを終わらせた。
結果としては、想定通りの挙動をしているというもので、つまり結界は正常に作動中だということだ。
結界が悪さをしているとは考えにくかった。
「……結界魔法に異常があるわけじゃないとしたら……」
「あー、だめだ。さっぱり分かんない」
天を仰ぐみたいに、レオンが参った声をあげてしまう。レイラも正直なところ作業になんの進展も見られず、どっと疲れが襲ってきた。
せっかくトリートメントした髪の毛も、作業に気を取られてしまっていて、またゴワゴワのクロワッサンのクセ毛に戻ってしまっていた。
触れればサラサラとした潤いのあった髪がいまや手櫛をギシギシと絡みとって毛先が痛み出してしまった事をレイラは少し悲しんだ。
夢のひと時はもうおしまいだと言われたみたいだったのだ。
先日、ユーリとの二人のひと時、あれすらも現実ではなかったかのように。
あの時、ユーリは、自分の事を好きだと言ってくれた。キスもした。それは本当にあったことだったのだろうか。
恋の魔法が解けてしまえば、もうユーリは自分に見向きもしなくなるのではないだろうか。
そんな悲しい事を考え出して、レイラはますます落ち込んでいってしまう。
(……――でも、ユーリが倒れたことは事実なんだ。私が、頑張らないと、ユーリに顔向けできない!)
完全に気持ちがしぼんでしまう前に、レイラは気を張りなおして、顔を持ち上げた。
相変わらず宮殿内は調査員がそれぞれに異常がないかと調べて回っていた。
メイドの姿は今はない。
無骨な造りの宮殿には、各所に花が添えらえて、アクセントになっていたが、それを手入れするメイドがいないためなのか、すっかり花瓶の草花が元気なくうなだれていた。
なんだかそれが自分の姿に重なったレイラは、色あせた花をそっと指先で支えるように触れた。
しおしおと元気がなく、すっかり乾いている葉はカサカサと触り心地もよくなかった――。
「……乾燥……?」
レイラは何かに気が付いたように、すっかり痛み出してしまった自分の髪をもう一度指先でつまんでみた。
水薬の効果はすっかりとなくなって乾燥した髪の毛が毛先を割って傷んでいる。ちりちりした感触はコンプレックスの一つをしっかりと蘇らせていた――。
「一同、集合!」
宮殿内に騎士の声が重々しく反響した。
宮殿内で作業している面々に向けて発せられた号令に従い、一同は玄関ホールに集まる。
「作業交代だ。進捗説明を各班から行え」
長時間宮殿内にいれば病気が発症する可能性から、定期的に宮殿内作業のメンバーは替えられる事になる。
そのため、今後の引継ぎのため、各部署の進捗、状況説明を求められた。
騎士隊からの報告は各所を調査した結果、なんらかの侵入者や人為的な要因はないとの報告が挙げられた。
次いで錬金術師らの見解を述べる。発病した患者の容態を詳しく調べたところ、流行り病のウィルスがB型であると説明された。
代表の騎士の一人がどういうことかと詳細な説明を求めると、白衣の錬金術師の男はマスクの顔でモゴモゴと聞き取りにくい声で説明を付け加えた。
「今年、巷で流行っている病気のウィルスはC型なんです。C型は子供や体の弱った年寄りに流行します。同じ流行り病でもウィルスの種類は違うんです。でも、この宮殿内で発症した患者の流行り病はB型だったんです」
「それが重要か? 同じ病気なのだろう」
「重要かどうかは知りませんよ。調査の結果を伝えているんです。巷で流行っている病気と同じでも、発生源は違うって言ってるんです」
騎士の男は錬金術師の言葉の意味を汲み取りはするも、それがなんなんだと眉をしかめた。彼にとって重要なのはどこに問題があって、どうすればこの事態を収拾できるかのみなのである。
「……あの、質問いいですか」
手を挙げたのはレオンだった。錬金術師の男に対してのものだ。
「そのB型ってのは、具体的にどんなヤツなんですか?」
「具体的に説明してもわからないと思いますので、わかりやすく説明させていただきます」
神経質そうに錬金術師の男はフンと鼻を鳴らして見せた。せっかく調査した結果を騎士からまるで『それが何の役に立つんだ』と言われて立腹のようだ。
「B型は主に人に感染するタイプです。これが流行したのはもうずいぶん昔の話です。最近ではまるで見かけなくなったので、ワクチンはC型の物ばかりを用意してました。ここに来る前にあなた方へと渡した薬もC型ワクチンです」
「じゃあ……B型にはまるで免疫がないということかッ!?」
騎士の男が冷や汗を浮かべて声を荒げた。さすがに問題だと理解したらしい。その声を受けて、周囲もざわつきだした。だが、錬金術師の男は冷静な声でそれを鎮めて見せる。
「ええ、しかしB型ワクチンは保管されてますし、製造方法も分かっています。改めて薬を飲みなおしていただければ結構。この作業終了後、錬金術師の塔へと一同いらしてください」
その言葉にホールの作業班はほっと安心したように強張らせた表情を緩めた。
だが、レイラとレオンはまだ緊張した顔をしていた。何か、解決に糸口を見つけたかもしれないと思えたのだ。
「あの、質問。B型とC型の感染経路は?」
「なぜ宮殿内の患者がB型なのかは不明です。しかしどの病原菌もすべて空気感染でうつります。くしゃみや、咳なんかです」
「じゃあ、発病した人間が宮殿内でくしゃみをしたという事かッ?」
「だから……。巷で流行っているのはC型なんで、たとえ感染者がここでくしゃみをしても、C型ウィルスに感染してるはずなんですってば」
うんざりという表情を露骨に、白衣の男は騎士の質問に掌をひらひらと振って否定した。
「……つまり、B型がどこからやってきたのかが分かれば良いということですね?」
レオンが確認するように参った表情の錬金術師に聞き直す。錬金術師も相手をするなら騎士より、この魔術師のほうが話になると踏んだのか、レオンを真っ向から見て言い放つ。
「ああ、そうだ。魔術師の使う魔器はずいぶん昔の物を流用して使っているんだろう。そのせいじゃないのか?」
「……それはあり得ません。我々はすべて分解し、新規の魔器で結界装置を組み立てているんです」
レオンは錬金術師の視線を真っ向から受けて、説明した。普段のレオンはずいぶんと人見知りをするタイプだったが、今日の彼はどこか凛々しく見えた。
おそらく、彼は敬愛する姫の宮殿をこんな風に汚してしまった事を心から悔やんでいるのだろう。だから、問題に対してこれまで以上に紳士的に向き合っているのだ。
そんな彼を見て、レイラも気持ちを組み立てなおした。
落ち込んでばかりもいられない。
そのままレオンの言葉を引き継ぐように前に出て、魔術師班からの作業進捗を報告した。
「ま、魔術師班です。結界の調査を行った結果、想定通りの挙動を行っており、魔器に問題や異常がでていない事を確認しました」
「そうは言っても、結界が張られてから異常が出始めているのだぞ。その正常動作というのが、そもそも問題アリじゃないのか?」
いかつい騎士がレイラに詰め寄る。レイラはその圧に気圧されそうになるが、強張りながらも必死に弁明した。
「結界には、問題ありませんっ。……で、でも、気になることはありますっ……」
「気になること?」
レイラの少し上ずった声に騎士は顎を撫でさすりながら興味を引かれたようにレイラを見下ろした。
「は、はい。暖房結界は、想定通りの温度を維持させて正常に魔法を発生させてます。でも、その分、宮殿の中は乾燥してしまっています」
「乾燥だって?」
レイラの言葉にレオンも声を上げた。
「か、乾燥は……モースコゥヴでは万年悩まされている問題です。わ、私、その……美容のために色々調べたんです……」
「美容~~~~??」
バカにするような声で騎士が声を汚く吐き出す。だがレイラはその言葉に物おじしなかった。
レイラにとって、それはバカにされるような事ではないからだ。美を疎かにしてきたからこそ、気が付かなかった事はたくさんある。別に美に関してばかりではない。自分の興味がないものだからとそれに理解を示さないままでは、いつまでも新しい事に気が付けないと教えられたからだ。
「私の眼鏡、曇らなかったんです」
「は、眼鏡?」
「はい。通常、寒い外から暖かい家に入った時なんか、眼鏡が曇ることがありますよね」
その言葉は眼鏡をかけている錬金術師に向けられた。ふいに声をかけられた錬金術師は、「ああ」と頷いた。
「外から、この暖房結界の中に入った時、もし空気中に水分が含まれていたら、眼鏡が曇るはずなんです」
このあたりの知識はローザの話から得たものだ。ローザの眼鏡が高値の理由の一つに、曇らない加工がされているのだと説明された。その時に、空気中の水蒸気の話を少しばかり聞かされたのだ。
「でも、私の眼鏡は曇りませんでした。それはつまり、この宮殿の中の空気が乾燥しているからなんです」
「湿気がまるでないということか!」
レイラの解説を聞いていた錬金術師も合点したらしく頷いた。
「暖房結界は気温を高めます。そうすると、空気の体積が増えますが、空気中の水分は増えないままなんです。つまり、水槽は大きくなるけれど、中の水は変わらないみたいな感じです」
「水槽が広がった分、水は浅くて足らなくなる……乾燥するってことか」
レイラのたとえが分かりやすかったのか、騎士も腑に落ちたようでぽん、と手を打った。
「はい。この乾燥状態がとても気になりました。それが魔術班の進捗報告です」
まとめたレイラはそう言って身を引いた。
そこに錬金術師が重ねるように言葉をつづけた。
「病原菌は、湿度に弱い。逆に言うと、乾燥した空気なら感染しやすくなる……」
「ならば、湿度を高めればいいのか! よし、みなで湯を沸かせ!」
その作業指示と進捗でもって交代で入る宮殿作業班は宮殿内で湯を沸かすことになった。
その場しのぎの策ではあったが、効果はあるだろう。
そのまま、レイラ達作業班は入れ替わるように宮殿から外へと出た。B型用のワクチンを受け取るためそのまま錬金術師の塔へともう一度向かうことになった。
その道すがらにレオンがレイラを褒めちぎった。
「すごいよ、レイラさん! 乾燥してた事、みんな盲点だったようだよ」
「み、みなさん、焦っていましたから……。どれが悪さをしているのかを調べすぎていたせいですよね。……でも、これはまだ根本的な解決になっていません。どうして、B型ウィルスが発生したのかをきちんと調べなくちゃ……」
「さすがにそこは分野が違うよ。そこは錬金術師に任せよう。僕らは結界が悪さをしていたわけじゃないって分かったんだし」
「……でも……」
「気持ちはわかるよ……。でも、根を詰めすぎるとレイラさんまで倒れちゃうからさ。今は休息時間だし、少しでも体と頭を休めよう」
レオンの言葉にレイラはまだ食い下がる気持ちがあれど、その言葉には一理あるとも言えた。
ともかく、宮殿内での作業は精神の疲弊が激しい。
場合によってはまだ結界魔法に調整を加えなくてはならなくなるのだ。その時、動けるのは二課の人間ばかりだ。そうなれば無理はできない。
レイラは気持ちがざわつく中、レオンの言葉に頷いて、ワクチンを受け取りに行くのであった――。