七つの苦悩に一つの答え
小刻みに動く時計の針を見つめながら、レイラは自分の胸の鼓動音しか聞こえていなかった。
コチ、コチ、コチ、と秒針は音を立てているはずなのに、そんな音など耳に拾えるはずもない。
今、レイラの耳元には、ユーリの吐息が容易くかかるほどに唇を寄せられていて、あと少しでもユーリが言葉をつむげば、その唇は耳たぶをくすぐるだろう。
「ゆっ……ゆぅ、り……」
身じろぎすらできず、レイラは後ろから抱きしめられたまま固まってしまう。状況がつかめない。どうしてこんなことになっているのか。
縺れる舌でなんとかユーリの名前を呼ぶ事だけ出来た。
すっかり夕闇はやってきていて、部屋は薄暗く、窓の外から入り込む魔法灯の白い灯りがうっすらと部屋と二人を浮かび上がらせていた。
「レイラ……」
すぐ耳元でユーリも、レイラの名を囁いた。低く、静かで、それでいて熱のこもる声だった。
吐息が首筋にまでかかり、レイラはうなじを焦がしていく。
血液が沸騰しそうで顔は真っ赤になってしまい、心臓が臨界まで脈動している。身体が熱を上げていくのが嫌と云う程分かってしまうのだ。
「んっ……」
艶やかな赤毛を揺らせ、息の乱れを押さえ込もうとするレイラから、そっと口は離れて、ユーリが低く静かに、優しくも、どこか意地悪に言う。
「……髪、綺麗だな」
「うっ、うんっ……! 錬金術師の人から……ポーションで……!」
思いかけずに褒められて、嬉しいはずの言葉であるのに、動転しているレイラは、よく理解もできないままにそんな解答をしてしまう。
(ち、ちがうぅ……! そんなこと言ってる場合じゃなくて、ユーリ、どうしてこんなこと……っ?)
とにかく、落ち着かなくてはとレイラは己に冷静になれと心の中で何度も唱えるのだが、『冷静に』を繰り返すほどに益々思考回路が停止してしまう。
かちこちになって赤くなってしまうレイラに、ユーリがまた改めて抱きしめてくる。強い男性の力に少しだけ怯えながら、レイラは同時にその逞しさに身を任せたくもなる。だが、今はユーリの様子がおかしい。手放しで安心できる状態ではないのだ。
「なんで……」
「『なんで』は、オレの台詞だよ」
「え……?」
「なんでお前は、そんなに綺麗になっていくんだ」
首だけ動かし、後ろをそっと振り向きながら、レイラはユーリの表情を見ようとして、気が付いた。
抱きしめているユーリの身体が少しだけ震えていることを。
なんでと聞いてきた幼馴染の言葉が、揺れて、蜃気楼みたいな感情が顔を覗かせていることを。
「私っ……き、綺麗じゃないよ……」
「バカ言うな」
その言葉は、強くて感情が昂ぶったもので――。ユーリの内面をちらりと見せたようだった。少しだけ怒気が混じっている声は、不安定にかすれてもいた。
「お前が、綺麗になるたびに、俺は不安になるんだよ」
「どう、して……?」
「……分からん。自分でもこの気持ちがなんなのか理解できない……! お前が立派に成長していく事をいつも見守っていた……! 美しくなっていくお前をいつも見ていたッ……! 喜ぶべきなのに、俺はっ……俺はお前の事を、優しく抱きしめてやりたいと思うのにっ……」
「ユーリ……」
またユーリの腕がきつく、レイラを抱き寄せる。そして、またその唇が耳の傍で囁いた。揺れる心を零すみたいに――。
「お前の事、めちゃくちゃに、汚したくなる……」
「ゆぅ――、んむっ……!?」
不意に、レイラは言葉を鬱がれた。熱い唇で。
何をされたのか、一瞬分からなかった。真っ白になる頭のなか、目の前にあるユーリの顔を見て、ああ――キスしたんだ、となぜだか冷静になる自分がいたことが不思議だった。
ユーリと恋仲になることは夢だった。
キスをしたいとか、抱きしめられたいとか、そういうことを考えた事は沢山ある。
いま、それが実現したというのに、どうしてだろう、このどこかすれ違うような感覚は――。望んでいた舞台に立ったのに、まるでそれは自分自身を評価されていないような空しさが吹き抜けていくのだ。
そして、求め続けた幼馴染の、慕情を抱き続けた相手の表情は、窓の外に降る雪のように、隔てられているように見えた。
どうして、目に映る愛する青年の顔は、こんなに辛そうなのだろう。
(ああ、そっか……)
レイラはふと、レオンの言葉が脳裏に蘇ってきた。
(――『罰、受けたいって顔してるよ』――)
罰――。これがユーリの誘いを無碍にした罰なのだろうか。
だとしたら、甘んじて受けよう。ユーリがそう望むなら……。
不意打ちみたいな接吻は終わり、ユーリの顔が引いていく。暗闇の中に浮かぶその表情は、まるで歪で、幾重もの感情が混ぜ合わさったものだった。
自分が今、ひどい事をしているのだと、ユーリは自覚している。愛する幼馴染を傷つけていると分かっているのだ。
でも、止められない感情が、未熟な心を突き動かして、困惑の世界で濁流に飲まれてしまい、流れるままに流れてしまう。
「レイラ……俺……、俺は……」
ユーリのほうが、酷い顔をしていると思った。傷つけたほうが、傷ついたものよりも大きな傷を負ったみたいで、哀れな金の瞳はゆらゆらと揺れている。
そんな彼が、レイラの心を締め付ける。
ユーリはきっと、ずっと苦しんでいた。安らげると思えた幼馴染との再会に、レイラはその止まり木である枝を振ってしまった。
もう、彼の疲れきった翼を傷つけたくなかったのだ。
レイラは、ひび割れたガラス細工のような親衛騎士に、そっと手を伸ばした。そうして、自分の身体を包む腕に自分の体温を伝えるように、掌を添えてみせた。少しでも彼の震える心を温もらせたいと思うからだ。
「……ユーリ、ごめんね……」
「なんで、お前が謝るんだ……」
レイラの空気に溶け込むみたいな声に、ユーリは苦しげな顔をしてしまう。
「私……ユーリのこと、考えてなかった。自分のことばっかりで……」
「それは、俺の事だ。お前は全然悪くない……」
レイラは悪くない。彼女はいつだって真っ直ぐに、想いに正直に行動してきた。努力をしたから前に進んでいるだけだ。それを勝手に羨んだ自分が汚れているのだ。
ユーリはそう思うからこそ、心のゆらぎが比例するみたいに大きくなる。
可愛さ余って憎さ百倍、そんな単純な言葉では括れないような、愛憎が己の中で暴れまわっているのだ。だから、情けない自分をぶつけて、愛するレイラを汚してしまいたくなる。そうしたら、彼女は隣にいてくれると、儚い希望にすがるしかないのだ。
「ううん、私が身勝手だった。ユーリはずっと頑張ってたのに……」
「俺はッ……頑張っていないッ!! ただの出来レースだった! 俺の実力を認められたのではないッ! だから、俺は……頑張るお前に嫉妬した! 日に日に成長していくお前を見る度に、俺の薄っぺらさが浮かび上がるみたいだった……」
ユーリが暴力的に感情を乗せてレイラの身体をまさぐる。レイラの細い腰から腕を回し、右手をそのまま下へと滑らせていく。
レイラはその指先が震えていることを感じていた。ユーリの暴走する感情に乗せられた言葉が、どこか寂しそうで、哀しげに濡れている。
「俺は……こんなにも最低なんだ。立派な騎士なんかじゃないんだ。レイラ……お前の事を、傷つけたいって思っているんだぞ」
そうしたら、俺はお前の隣に居られる。御似合いになるんじゃないかと、ユーリは自分の中で、やっと自覚した。
自分を貶めて、レイラの傍にいたかったのだ。例えレイラを汚しても……。いや、レイラを汚すのも、傷つけるのも、自分だけがいいと想い続けた慕情が独占欲を更に昂ぶらせてしまうのだと理解した。
こんな事を望んだわけじゃないのに、もう感情の歯止めが利かない。身体の動きの止め方が分からない。
心を悪魔に支配されたように、愛する少女の身体のぬくもりを貪るように、手が柔らかい肉を撫で回してしまう。
「ユゥ、リ……いいよ。もう、そんな風に自分のコト、追い詰めないで……。かなしくなるから……」
レイラは、ユーリの欲望を身体に受け止めながら、傷だらけの羽を慈しむように、ユーリの腕を包み込んだ。
そのぬくもりを感じたユーリは、はっと我に返る……。ケダモノと化していく自分を癒すまさに魔法のような彼女の温かさは、瞳の奥から熱い物をこみ上げさせてしまうのだ。
「私のこと……傷つけてもいい。汚してもいい。それが罰なら、私は喜んで受け止める」
「罰……? 罰じゃない……」
後ろから抱く、ユーリの頭が垂れてきた。脱力するように項垂れたのだ。銀の前髪がはらりと落ちて、彼の表情を隠してしまう。
「俺は、……お前が、欲しいだけなんだ」
綺麗な声だと思った。
よどみなく、せせらぎのように零れたその言葉は、今日聞いたユーリの声のどれでもなかった。
ユーリ自身も、憑き物が取れたみたいにレイラの身体を攻め立てていた手を和らげて、今度こそ、春風のように包み込んだ。
(……そっか、これが、俺の本音だったんだ……)
何を色々と理由をつけていたんだろう。立場とか、努力とか、周りの目とか、そういうのは後から組み上げた囲いでしかなかった。
真ん中にはいつも、この想いしかなかった。
レイラが欲しいと、それしかなかったのだ。それを、彼女が思いださせてくれた。
――ユーリは、やっと、凍える吹雪のなか羽ばたき続けた翼を休ませる場所を見つけたみたいに、レイラに寄りかかった。
「好きだ、レイラ。出会った日から、ずっと。ずっと――」
頬に温かいものが流れていた。
「私も……ずっと、好きだったよ、ユーリ……」
その言葉をどれだけ伝えようとしていたか――。
なぜ、取り繕うとしていたのだろう。
こうしていざ、この機会を迎えてしまえば、レイラもユーリも、もっと早く伝えればいいだけだったのに、となんだか滑稽にも思えてしまう。
ゆらりと、レイラに圧し掛かるユーリが体重のまま、彼女をベッドの上に押し倒した。
どさっと、二人の身体をユーリのベッドが受け止めた。
下になる形でレイラはその重みに抱かれて、瞳を閉じる。
今度こそ、二人の心はすれ違っていない。
「ユーリ……」
圧し掛かるユーリの身体の中、レイラは身体の力を抜いて、身を任せた。
ユーリの体温に抱かれているのが幸せに思えたからだ。
とても熱く、火照っているようで、寒さなんか吹き飛ばす彼は、はぁはぁと荒く息を吐き出していた。
「れ、レイ……ラ……」
興奮から息を荒げているのか、と感じたが、ぜえぜえという呼吸音になっていて、ユーリは体温がどんどん熱くなっているのにレイラは閉じていた瞳を開き、相手の様子を窺ってみた。
「ゆ、ユーリ? ……ユーリ!?」
ぜえぜえとつらそうに呼吸するユーリは脂汗を浮かばせて、うなされていた。
慌てて彼の額に手を伸ばしたレイラはその温度に驚愕してしまう。
「ユーリ! すごい熱……!?」
様子がおかしかったのは、内面の精神だけの話ではなかったのだ。
ユーリは、酷い熱に苦しんでいた。おそらく、国で流行っている感染力の高い病気だとすぐに察する事ができた。
「ま、待ってて! すぐに誰かを呼んでくるからっ」
レイラはベッドの上で苦しむユーリの下から這い出て、彼に毛布をかけてやると、すぐに部屋から飛び出した。
(レイラ……行かないでくれ……。レイ、ラ……)
うなされるユーリは部屋から駆け出していく幼馴染を霞む視界の中で捉え、呼びかけた。
声を出したと思っていたのに、喉の奥からはぜえぜえと乱れた音しか出ていなかった。
やっと捕まえたと思えたのに、すり抜けていく――。その心が、途方もない所へ行くようで、ユーリは震えながら、やがて、意識が闇の中に飲まれていった――。