20「合宿中の夜の川」
夕食を食べ終わるのと同時に名前を呼ばれる。この声は、と思いながらも振り返ると案の定思っていた人が立っていた。
癖一つないさらりとした黒髪に髪と同じ色の瞳。秀麗な顔の持ち主である終壱くんだ。
お昼にあった出来事で少しだけ気まずい雰囲気が漂う。ちょっと外に出ようかという案に頷き、無言で終壱くんの後ろを付いて行く。
旅館から出て直ぐに川が流れている。その川の付近まで近付く。
木々の隙間から溢れる月明かりに照らされ、川の水面が輝きを放つ。綺麗だと思い、しゃがみ込み水面に触れた。
「綺麗ですよ、終壱く……っ!」
後ろにいる終壱くんを見る為に思いっきり後ろを振り返ったのがいけなかった。しゃがみ込み前までは距離があった私と終壱くん。なのに振り返ると、すぐ近くに終壱くんの顔があり、いつの間にか彼も水面を覗くようにしゃがみ込んでいたことが分かった。
「……ああ、綺麗だな」
見つめる瞳を反らせず、固まったままの私の頬を終壱くんはゆっくりとした手付きで撫でる。
「約束のことをずっと考えていたよ。俺はお前が約束のことを忘れててもいい。いいや、忘れたままでいいと」
きっと思い出したら、俺とお前は今のままの関係ではいられない。そう囁く終壱くんの揺れる瞳は今にも泣きそうだった。
頬を撫でる手に私の手を重ねる。私にだけ見せる終壱くんの顔はいつも不安げな表情をしている。
少しでもその不安を取り除けたらいいのに。そう願いながら重ねた手に力を込めた。
「海砂、もう一度だけ約束をしよう。今度は忘れないようにおまじないをかけて」
「約束を?」
首を傾げる私に口角を上げるだけの笑みを浮かべ、顔を近づける。コツンと額と額がぶつかった。
吐息がかかるほど近くに終壱くんの顔があり、思わず目を瞑る。それと同時に唇に柔らかいものが触れた。
「俺の側にいてくれないか?」
離れる気配にそっと目を開ける。ペロッと自身の唇を舐める終壱くんの仕草に再度体が固まってしまう。
私はさっき何をされた?唇に触れたものは柔らかいもので、指が触れた感触とは違う。
「海砂、返事は?」
「えっ、あっ、はい!」
全身の熱が顔に集まったくらい顔が熱い。唇に触れたものはアレしかない。そう考えるだけで思考が停止しそうになる。
私だけ混乱している。当の本人である終壱くんは涼しい顔をしていた。
「うん、いい子だ。俺の側を離れないでね」
「はい?」
さっきから終壱くんは何を言っているのだろう。唇に触れた件が衝撃的すぎて話を聞いていて頭に入ってない。
確か、終壱くんは側にいてくれないか?と聞いて私はそれに答えた。返事を急かされて答えたんだ。
「えっ、えっ? 終壱くんの側にですか!」
「俺の側にいるのか嫌い?」
悲しそうに目を伏せる終壱くんの手を握り、首を横に思いっきり振る。
「そんなことない! 終壱くんの側にいれるとか贅沢すぎます!」
「ありがとう」
フッと浮かべる笑みは今まで見た笑みの中でもとろけるように甘く、目を離すことは出来なかった。
ああ、私はどうしてしまったのだろうか。最近の私は終壱くんのことを考えるだけで胸が苦しくて、終壱くんの側にいるだけで嬉しくなってしまう。
今だってそうだ。唇に触れたものがアレしかないと勝手に想像している。
「あの……」
「どうかしたか?」
「さっき終壱くんは」
私にキスした?そう聞こうと言葉を紡ごうとしたがそれは途中で遮られた。私の唇に触れる人差し指。私が何も言わないようにしているんだ。
でも、これではっきりとした。唇に触れたものは指ではないことが。
「そろそろ戻ろうか。夏だといっても夜の山だと風邪引くかもしれないしね」
先に立ち上がった終壱くんは私に手を差し伸べている。その手を取るかどうか少し迷う。
昼間は手を取らなかったら強引に手を掴んだが、今はそれをしなかった。ただ私が手を取るまで差し伸べられた手。その手を取るとギュッと強く握られた。
聞きたいこといっぱいあるのに、一つも聞けないまま。どうして私にキスをしたのか。どうして私に側にいさせようとするのか。何一つも分からないまま。
私が覚えてない約束に、懐かしいと感じる夢。お兄ちゃんと呟いた寝言に、夢の中の人物に似ている終壱くん。
ズキリと頭が痛む。痛みに顔を顰めるが、終壱くんに気付かれないように平常を装った。
「おやすみなさい、終壱くん」
「ああ、おやすみ」
旅館のロビーに着くなり、部屋に急いで戻る。部屋にはまだ雅先輩は戻ってきておらず、ホッと息を吐いた。
いろいろとありすぎて頭がパンクしてしまいそうだ。もう何も考えたくないと布団へと潜り込む。
しばらくするとメールの着信を告げる音が鳴る。誰からだろうとメールを見ると「姫野愛莉」と書かれていた。
「愛莉姫……」
愛莉姫からの内容は夏休み中に遊ぼうというお誘いだ。最近、頭悩まされていることの息抜きには丁度いい。それに愛莉姫とはもっと仲良くなりたいと思っていた。
そんな彼女からのお誘いに嬉しくなり、頭悩まされていたことも解決しそうな気がした。




