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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

先生に恋をした私は禁忌を犯した

作者: 木場アサト

 先生に会いたいな、と。何の前触れもなく不意に思ったその瞬間、私は彼に恋をしているのだと気が付いた。私より二倍長く生きていて、白髪が目立つようになってきた初老の男性に、私は。

 どうしてだろう。先生のどこを好きになったのだろう。……なんて、分からない振りをして自分を誤魔化す。こんな理由で恋をするなんて自分自身が信じられないし信じたくもない。

 最初は、本当の本当に最初は、先生の持つ暖かい雰囲気に惹かれたのだと思う。四方八方を本に囲まれた先生の部屋はとてもいい匂いがしたし懐かしい空気に浸れたし、そこで先生と二人で互いに一言も喋らず思い思いに本を読んでページを捲る音しかない空間はとても居心地がよかった。先生の深入りしない、あの距離感がよかった。

 でも、いつからだっただろう。欲が芽生えてきたのは。

 側にいるだけで幸せだったのに、満ち足りていたのに。足りないと思うようになってきた。もっともっとと強欲になって、そんな自分が信じられなくて、泣きそうなほど怖くて、泣きそうなほど先生に恋をしているのだとまた自覚する。

 嫌だ、怖い、と先生に会わないようにしたこともあったけど駄目だった。会わないなら会わないで満たされない。会いたいと溜め息を吐くのが当たり前になった頃、私は無駄に足掻くのをやめて素直に会いに行くようになった。会えば会うほど欲が大きくなっていくのを感じながら。

 自分がこんな人間だなんて思わなかった。だって、別に私はこれが初恋というわけではないのだから。

 初恋は小学生の時、クラスで一番足の早い男子だった。次は隣の席になって話すようになった男子だったし、その次は忘れ物をして困っているときに助けてくれた男子だった。高校生の時には彼氏だっていた。でも彼らに対して、先生への欲と同じものは抱かなかった。普通に好きで、側にいるとドキドキして、でも幸せで。そんな普通の恋をしていたはずなのだ。

 先生に出会って私は変わってしまった。興味もなかった本を好きになったし、何となくとった先生の講義をちゃんと聴くようになった。先生はきっと大人しい女の方が好きだろうからと服の趣味を変えて、染めていた髪も黒に戻した。ピアスも全部外して、カラコンもやめた。講義が終われば積極的に質問をしにいくようにして少しでも記憶に残ろうとした。その甲斐あってか偶然会えば先生から声をかけてくれるようになったし、おすすめの本を貸してくれるようになった。本はじっくり読み込んでから、返しに行くという大義名分を翳して会いに行き、感想や意見を言って少しでも会話できるように利用させてもらった。

 それで満足していたはずなのに。

 いつからか、足りない足りないと心が叫びだした。足りない、寂しい、もっと先生の側にいたい、先生が欲しい。そんな風に思う度、私は死にたくなった。こんな欲を先生に抱くなんて、と申し訳なくて謝りたくて懺悔したくて仕方がなかった。

 でも最近はそんなことよりも欲の方が大きくなってきてしまった。罪悪感を上回る欲に、私はいつまで抗うことが出来るだろうか。

 ほら今だって、無防備に背中を見せている先生が目の前にいる。二人きりなのにまるで意識していないような態度の先生に、当然だと理性が言って寂しいと本能が叫んだ。先生の背中に飛びついたら、どんな反応をするだろうか。あんまり勢いよくやったらきっと受け止めきれなくて倒れてしまうだろう。押し倒したような体勢になったら、先生はどんな反応をするだろうか。どきなさいといつもと同じ優しい声でいうのだろうか、それとも少し恥ずかしそうにするだろうか、もしかしたら怒ってしまうかもしれない。それは嫌だなぁと思いながら、私はまた夢想する。

 もしも今、私の欲をすべて先生に吐き出したら、先生はどんな反応をするだろうか。

 さっきから少しもページが捲られていないことを怪訝に思ったのだろうか、不意に先生が私に声をかけた。どうしました、何か考え事でもあるんですか、あぁそれとも、さっきから私のことを見ているようなので何か質問でしょうか、と。首を傾げて柔らかい声で言う先生の、その首筋に目がいった。今、あそこに顔を埋めたら、先生はどんな反応をするだろうか。

 先生、私ね、貴方のことが好きなんです。恋をしてしまったんです。だから少しでも好かれたくて、一生懸命講義を聴いて、何があろうと出席するようにしました。質問もいっぱいして、こうして先生の部屋に入り浸っているのだって全部先生に恋をしてしまったからなんです。覚えてますか、先生。去年の四月に私が道に迷っていたとき、助けてくれたのは先生だったんですよ。優しい人だなって思ったんです。雰囲気が暖かい人だなって思ったんです。先生はあんまり口数は多くないけど、それが苦にならないほど先生の側にいることが楽しかったんです。でも最近変なんです。足りないんです。寂しいんです。もっと先生が欲しい。今すぐ先生に抱きついてその手を私の顔に触れさせて手のひらに指先にキスをして手首にも腕にも唇を落としていって首筋に顔を埋めてそこにもキスをして甘噛みをして舌を這わせてそれからそれからそれからそれから先生の首に歯をたてて、私は。


「先生を食べたいんです」


 先生に恋をして、いつの間にか先生のこと、凄く美味しそうに見えるようになったんです。

 驚いた顔の先生があんまりにも可愛くて、食べてもいいですかと言って答えを待たずに両手で顔を包み込んだ。鼻に噛みつくと痛みに声を漏らす先生が可愛くて、ますます美味しそうに思えた。頬に、耳に、首に噛みついて、噛み千切るように力を込めた。痛い、やめなさい、と言う先生を無視して鎖骨より少し上に噛みつく。少し血が滲んできた。でもやっぱり噛み千切るのは難しそうだったから、血を舐めてから口を離した。先生の体内に流れていた液体が私の中に入る。そう考えると、ずっと感じていた寂しさが少し薄らいだ。

 先生、私、貴方に恋をしているの。




***




 彼女が私を食べたいと言ったとき、浮かんだのは驚きと納得だった。道理で私のことを物欲しそうに見ていると思った。胸の内を吐露する彼女は辛そうにしていたが、気が付いたら恍惚とした表情で私を見ていた。

 私に恋をするなんて、何を間違ったのだろうか。私は彼女より二十五も年上で、顔の皺や白髪が大分増えてきているおじさんだというのに。そもそも先生と生徒という関係なのに。あの年頃の女の子はこんなおじさんになんて興味がないと思っていたから、だから私も彼女と親しくしていたのに。

 万が一にもこの恋が成就することなどないと思っていたからこそ、私は彼女と親しくしていたのに。

 彼女と話すのは楽しかった。誰かと本について話し合うというのは久々のことで、彼女の感想や意見は私にとっても得になった。最初はあまり本に興味がないように見えたが段々深い意見を交わすようになり、勉強熱心な良い子なのだと評価していた。口数が少なくあまり人付き合いが得意ではない私にとっては貴重な本仲間だと、その内勝手に思うようになっていった。

 いつの間にかその仲間意識が別のものに変わっていった。恋に、なってしまった。

 いけないことだと思った。犯罪ではないものの、やはり周囲の目というものは厳しい。職を失う可能性だって高い。そんなリスクを犯してまでこの恋を成就させようとは思わなかったし、こんなおじさんが若い女の子に、しかも生徒に恋をするなんてという羞恥心と情けなさもあった。

 だから彼女が私を食べたいと言ったとき、浮かんだのは驚きと納得と、歓喜だった。噛みつかれたときは痛かったし小声で今度は刃物で切り取ろうと言っていたのが聞こえたときは恐怖を感じたりもしたが、やはり幾ばくかの喜びがあった。


 食べたい、という彼女の欲求は食欲からではなくどちらかというと性欲に近いものだろう。相手と一つになりたいという想いが食べるという行為に置き換わっている。食人、カニバリズム、言い方は何でもいいが。

 私はそういった性癖に対して寛容な方だし、そもそも私は人のことをどうこう言えるような人間ではない。

 それに、彼女の気持ちはよく分かる。別に本当に腹が減っているわけではないのだ。それでもどうしてか満たされない。腹一杯になるまで食べても一向に満たされないのだ。腹は満ちても心は満ちない。どうしたら良いのかわからなくて、ただ食べたいという気持ちが膨らんでいく。何を食べても足りないというのは中々辛いものだ。私も、よく分かる。

 食べたい対象が人であるということは倫理的に赦されることではないし、自覚したとしても行動に移せることが出来るのはほんの一握りだ。彼女はその一握りの中の一人で、私もまたそうだったというだけ。

 私も君が食べたいんです、食べたくて食べたくて、恋をしてしまったんですと告白したら、彼女はどんな反応をするだろうか。予想して、くつりと暗い笑いを一つ噛み殺した。

 あぁ、食べたい。




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