フランツ・カフカ「夢」を解釈する
夢、それは秩序なき世界の連合体である。このカフカの作品「夢」においても、現実ではありえない不思議な理が、その世界を支配している。そこでは、物理法則は存在せず、時間の流れもまた、流動的で意味をなさない。しかし、その意味なきものたちの中に、意味を見出すこともまた、不可能ではない。
夢というものは、その人自身が見るものである。人は、他者の夢を見ることはできない。このカフカの「夢」では、ヨーゼフ・Kというとある人物の夢の世界が、三人称の視点から描かれる。カフカは、「わたし」の視点から、この物語を書かなかった。カフカは自身を、自身から隔離させ、自身を観察している。Kは、カフカ自身であって、カフカ自身ではない。
どうして、カフカは、ヨーゼフ・Kというもうひとりの自分を通さなければならなかったのだろうか。それにはいくつかの理由が考えられるが、その理由としては、現実からの逃避、現実へのフィルタリング、自身の孤独さの表現、死への恐怖の克服などが考えられる。だが、これらの理由では、いまひとつ確信的な領域へ踏み込むことができない。
「ヨーゼフ・K」はカフカの分身そのものではないのだ。Kはカフカのパーツにすぎない。Kというカフカの名の一文字から作られた名前からもそう解釈できないだろうか。カフカは、現実世界で深く懊悩し、その苦しみを、この「夢」の中で、再構築したが、その中で、自身の生きているその意義を分解し再配置している。自身の衝動の持ち主として「K」を配置する一方、自身の芸術への探究心を、夢の中で「芸術家」として配置している。夢の中で、カフカは、二人の人間に分裂しているのだ。
Kは墓、つまり、死への欲動を目にするとそれが気になって仕方がない、これは、押さえることのできないカフカの死への衝動を端的にあらわしている。その一方、彼の芸術への欲動が作中で芸術家として登場する。死のシンボルである墓をめぐって、Kと芸術家は、抵抗を受けながらも、互いに認知し合う。カフカの衝動のシンボルであるKは、芸術家が墓に刻まんとするその文字がどうしても気になる。何の変哲もない鉛筆から生み出される金色の文字、つまり文学によって、自分の死、人生がどのように刻まれるのかが気になるのだ。だが、芸術的才能および芸術性のシンボルたる芸術家は、そのKの存在が疎ましい。Kの存在を認めようとしない。芸術家として認められたいカフカの欲望が、その芸術の世界から拒否されているのである。認められたいが、認められない。その葛藤の苦しみが、夢の中で、Kの涙となって現出している。そして、芸術の世界に拒否されたKは死を選ぶことへのためらいを喪失し、墓穴へと吸い込まれていく。
ここで、目覚める。文頭に「ヨーゼフ・Kは夢を見た」とあるから、ここで目覚めたのもヨーゼフ・Kと解釈できるが、果たしてそうだろうか。ここでの「彼」はカフカ自身ではないのか。そもそも目覚めるとはどういうことか。ただ夢から醒めただけではない。夢の中で分裂していたカフカのパーツが再構築されたことを示しているのだ。カフカは、夢の中で、いくつもの自我の断片に分裂していた。衝動のシンボルであるK、芸術性のシンボルである芸術家、そして、もうひとつのカフカのパーツ。はじめに述べたように、この夢は三人称の視点で書かれている。夢の中で、Kと芸術家とのやり取りを観察していたもうひとつの視点が存在している。その第三者、つまりカフカ自身の核が、目覚めとともに合体するのである。
ここで目覚める前に何が起こったか再び想起する。Kは死を受け入れることで、芸術家に受けいれられた。それが鍵となって、「K」、「芸術家」、「カフカの核」の三位が一体となる。つまり、目覚めるには「死」が必要だったことを意味している。
目覚めるため、つまり、分裂していた自身のパーツが再び合体し、自身を取り戻すためには、死ぬしかなかった。一見、逆説的に見えるが、墓への執着を捨てられない、カフカの衝動のシンボル「K」が示しているように、カフカは死を望んでいた。いや、望まざるをえなかった。Kは夢の中で号泣する。可能ならば、死せずとも認められたかった。だが、それは叶わぬ望みだった。残されている選択肢は、死ぬことだけだった。そうすることでしか自身を再構築することができなかったのである。また、こうも考えられる。夢の中でKが芸術家の描く文字へ気を取られているとき、この時だけは、Kは死への衝動を忘れていた。死への衝動を忘れているときのKは、芸術家から見て疎ましいものでしかなかった。死への衝動と、芸術への探究心は、カフカにとって不可分のものだったのである。
以上のように、この「夢」は、カフカの細分化された自我同士の葛藤を描いているものだと解釈できる。夢の中で、カフカは自身と対決した。そして、分裂してしまった自身を取り戻すためには「死」という鍵は必要だった。カフカの欲した芸術性は、生とは相反するものだった。カフカの芸術性は死と不可分であり、死によって成立するものだったのである。彼が予想しえたかは分からないが、彼の作品は、彼の死後に評価を獲得する。夢の中で、Kが死ぬことで芸術家に許されたのと同じように。もしかしたら、この「夢」は予知夢だったのかもしれない。
上記の文章は私が学生の頃に書いた小レポートをそのまま掲載したものです。文学解釈は読者それぞれが自由に行うものでありますから、当然私の解釈が正しいなどと主張するつもりはありません。「Ein Traum」は下記のサイトにて無料で読むことができます。ぜひあなたもこの作品を解釈してみてはいかがでしょうか。
http://gutenberg.spiegel.de/buch/franz-kafka-erz-161/16