チェインブレイクボード
午前六時、芹沢ソラの部屋に太陽の光が差し込んだ。その眩しさにソラは、光から逃れるように布団を被り直す。そして、ソラはまた眠りに落ちるため目をつむり、意識を夢の中に落とそうとした。しかし、その瞬間だった。
「おら! ソラ起きなさい! こんな美人なお姉ちゃんが起こしに来たんだから早く起きなさい! 」
ああ、またかと眠りかけていた意識を覚醒させた。茶髪がかった黒髪を揺らして、布団からノソノソと這い出てくる。
「朝からうるさいなー、彩奈は」
小学生五年生にぼやきを言われた少女は、ソラの義姉である芹沢彩奈。
陽光に反射してよりいっそう綺麗に見える黒髪を、ポニーテールにまとめ上げていた。
彩奈がソラを見る目は、弟と思っている目線だがそれと同時に、頬を上気させて見ているところを鑑みると恋心でもあるんじゃないかと思ってしまう。
「誰がお姉ちゃんだよ。血繋がってないのにお姉ちゃんなんて呼ぶはずないじゃん」
冷たーいと彩奈は、頬を膨らませて部屋を後し、ソラは着替えを済ませて彼女を追うようにリビングへと向かった。
ソラがリビングに下りると彩奈と母親である冬菜が朝ごはんの用意を、キビキビとやっていてさっきまでうるさかった彩奈も黙々と食器を並べている。この家では母親の冬菜が絶対であり、逆らうことは許されない。
「ソラ、ご飯食べる前に勉強しなさい」
「わかった」
冬菜は、起きてきた我が子を一瞥することもなく、ただ一言勉強しろと告げる。その冷淡な声音は、刃のように鋭い。
ソラは、ランドセルの中から算数の問題集と筆記用具を取り出して黙々と勉強を始めた。嫌がる素振りなど微塵もなく、言われるままに従う、さも飼い慣らされたペットのように。そこに自己という意思など存在しない。
それは束縛だった。
「母さん、朝から勉強は……」
「彩奈、無駄口を言わないで用意を手伝いなさい。貴方は私と似て、出来がいいけれど、ソラはあの人に似てしまったから勉強の出来が悪いの」
彩奈はああ見えて成績は常に上位であり、容姿も端麗で見目麗しいものだ。長いまつげや整った顔立ちは、モデルさえも霞むほど。
しかし彼女は、それと引き換えに運動神経を差し出したのではないか、と思うくらいに運動はできない。
「そんな言い方しなくても」
一瞬、憤りを見せた彩奈だが、それはすぐに影を潜めて作業へと戻った。
言われ放題のソラは、プルプルと震えて堪えながら数式を書き続ける。
そして、朝の勉強も終わりご飯の方も食べ終えたソラは、ランドセルを背負って玄関をくぐった。
ソラの心の中とは裏腹に、天気は快晴でそれがいっそう心を暗くさせる。
「空、飛んでみたいな」
叶うはずがないけどねとソラは、自嘲気味に笑う。人は本質的に空へ憧れというものを抱く。ライト兄弟しかりモンゴルフィエ兄弟しかりだ。
彼らは、空に憧れたからそれに関する発明をして情熱を燃やした。だから隔てるモノがなにもない空に憧れるのは、悪いことでは決してない。そう少年が憧れるのは別に普通のこと。
登校したソラは、今日はいつになくぼーっと授業を受け、暇さえあれば窓から外を眺めていた。
問題を当てられても、ある程度予習復習をしているため躓くこともない。ソラにとっては、皮肉のなにものでもないのだが。
「ソラー。スケボーって知らない?」
昼放課のご飯時に、ソラの隣に座る女の子がやや興奮気味で、前のめりになりながら話しかけてきた。
その女の子は割とよく話す方で、それなりに仲もいい。ソラは、若干押されて生返事しかできず視線を落とす。しかし、視線を落とした先には、小学生にしては成長していると思われるまな板が存在していた。
それを直視してしまったソラは、一気に頬を紅潮させ、青森産のリンゴも驚くほどに赤く染め上がった。
慌てて顔を上げるも、女の子の顔が眼前にあり、それなりに女の子も可愛いためまた恥ずかしくなった。
そして、それの反動のせいでソラは、イスから転げ落ちてしまう。
その際、頭を別の机にぶつけて涙目になって、痛みを堪えていた。女の子は、慌てて駆け寄りソラを介抱するもすぐに立ち上がる。
「だ、大丈夫だから」
女の子は、ならいいんだけどと申し訳なさそうにソラを見つめていた。
自分の席に戻ったソラは、女の子へと話しかける。
「で、スケボーって?」
聞きなれない単語だったとソラは、そのスケボーとやらはいったい何なのかを聞く。
「あ、スケボー? 私も詳しくは知らないんだけど、テレビでやってるじゃん木の板に立って、ジャンプミスって股間ぶつける人たち。あの人たちが乗ってる板みたいなのがスケボーっていうらしいよ」
あーそういやそんなのあったな、とソラは親がいつもくだらないと、言い放っていながらも見えていた番組を思い出した。
だぼだぼな服を着て、帽子を被りスケートボードに乗って街を駆ける人々。まあ、僕には関係ないことかと、思い出すのをやめた。
「でそれがどうしたの? 」
ソラの問いに女の子は、それだけーとにこやかに笑った。するとタイミングよく午後の授業が始まる鐘の音が響いた。
午後の授業も終わり、皆が帰り支度をしている時だった。
二人の男の子が、他愛もない口喧嘩を始め最初は言い合うだけだったのだが、時間が経つにつれて苛烈になってゆき最終的には、本当の喧嘩へ発展しまった。
ソラは知らないフリで教室を出ていく。
誰もいない帰り道は、どこか寂しくなっていている。それがゆえに音がするとその音はとても目立つ。
何かタイヤが回る音がソラの耳に入った。その方向へ集中するとタイヤ音が消えて、数秒後にバンッ! と何かが落ちる音がした。
自然とソラは、その音がする方へと歩みを進める。
「誰だろ……」
路地へ続く階段を一段また一段とゆっくり降りると少し開けた場所に出た。地面はコンクリートで固めてあり、何かを転がすにはちょうどいい。
ソラは音の正体を確かめるために、最後の一段を降りて、進もうとした時だった。
「少年下がって!」
どこからともなく聞こえてきた言葉にソラは、慌てて二段ほど上がった。
それとほぼ同時。
「コングラッチュレイション!」
目の前に空を飛ぶスキンヘッドの青年が現れた。そしてその人は乗っていた板とともに着地する。
スキンヘッドのおっさんは、板切れを爪先で弾くと板の前方が跳ね上がって綺麗におっさんの右手へと収まった。
そのまま、板切れを抱えてソラへと歩み寄る。
しかし、如何せん相手はスキンヘッドにグラサン、少しゆったりとした格好をしているため少々いや、だいぶ威圧感が出ている。
ソラは内心、売られると恐怖した。
「いやー、ゴメンね。急に出てくるとは思わなくてさ。怪我とかはない? 」
グラサンを外した青年の目は、まるでくまのプーさんにそっくりなクリクリお目目だった。喋り方も威圧的ではなく、優しいもの。
そのギャップにソラは思わず噴き出すが、すぐに我に帰り口を抑えた。恐る恐る顔を上げて怒ってないか見ると、ニコニコしている。
「お、怒ってないんですか? 」
「ん? このギャップで笑わない方が難しいと思うよ。それに笑われるのには慣れてるかなー」
ソラはそれを聞いて胸を撫で下ろす気持ちになった。この人は思ったよりもずっと、はるかにいい人だとソラは判断した。
そう思った瞬間にソラは、このスキンヘッドの青年のことをマスコットキャラみたいだと思い出す。
「おじさんは、何してるんですか? 」
そう言うと青年は、顔を引きつり、自分のことを指差した。
「俺、まだ二十代。ピチピチのお兄ちゃんだからね⁉︎ まあ、こんな見た目だし仕方ないか……。そういえば何してるのかだったよね?」
ソラはそれに無言で頷く。
「スケートボードだよ。それを三文字に縮めてスケボーね」
スケボー……とソラは呟き、青年が抱えている板っきれをまじまじと見つめる。相当使い込まれたボード。裏の絵柄は、擦れて元の絵が判断できなくなるくらいになっていた。
「でもスケートボードってかっこ悪くない? テレビとか見てるとアホな人がやるイメージなんだけど」
小学生とは思ったことをそのまま口に出すので怖い。今もスケートボードをやっている人に、挑発するようなことを言うのだから。
しかし、青年は怒る様子もなく、やっぱりかと少し落ち込んでいる。
「やっぱりテレビの影響って大きい。少年、一つ言うけどスケボーはかっこ悪くないからね。テレビで取り上げられる映像は確かにかっこ悪いかもしれないけど、それが全てじゃないんだから」
二十代の人が何を言ってるんだろうと、スケボーなんて不良とか柄が悪い人のやるモノで、それができたからといって人生の利益になるとは思えない。そうソラは、今までの家庭事情から産まれてしまった思考で考えてしまった。
「ならかっこいいってこと証明してよ」
いつも以上に素っ気ない声で、無機質に吐き捨てた言葉。失礼も承知で言ったわけでもなく、ただかっこいいなら見せてみろというわけだろう。大げさに言ってしまえば。
普通の人なら、この言葉や少し前の言葉で怒っていた。しかし、青年は決してそういう感情を見せなかった。
「少年、君は何かに縛られているのか? 」
ビクッと肩を震わせて驚き、その後にギロリとスキンヘッドの青年を睨んだ。
「……図星みたいだね。なら見せてあげるよ。全ての柵から解放される快感。そして、見る人を魅了する術を」
ちょっと離れててとその人は言い、彼も少しだけ誰もいない路地の奥へと歩く。
ソラは、言葉に従い離れた所で座って、おっさんを見つめている。
夕日に包まれた二人だけの空間。無音の時。役者。その全てが揃いソラに対する舞台は完成された。閑静な住宅街により邪魔するモノは何もない。
おもむろに青年は、助走を始めあんばいな距離のところでスケボーに乗った。
するとスケボーの上で青年は姿勢を低くして、その先へ目線を向けている。さっきまでのふわふわした雰囲気は消え去り、真剣さが身体中から滲み出ていた。
それを感じ取ったソラは、その時点でさっきまでの考えを変えようかと迷っている。やはり小学生だけあって考えをコロコロ変えるところは変わらないようだった。
そして、青年がソラの目の前まで来ようとした時、青年は屈んだ時に溜めた足の力を開放しスケボーの後ろを強く蹴った。するとスケボーは高く舞い上がり、同時に青年も跳ぶ。
ソラは座っていることもあり、それを見上げる形で見た。大げさかもしれないが、ソラの目には一羽の鳥が、大空を自由に駆ける鳥がいた。柵など一切存在しなくて、自分の思うままに天を飛ぶ。
その鳥がソラの目の前を通ると、感じるはずのない風が起こった。嵐のような暴風だが、なぜかそれが心地よく感じる。この風は、心に吹いた強い風。
ソラの中の何かにヒビが入る音がした。まだ小さいヒビ。しかしそれは、大きな意味を持っていることに間違いない。
青年は、着地するとソラの前まで戻り止まった。
「どうよ? かっこいいだろ? 」
その返答にソラは答えなかった。別に答えたくないわけではなくて、答えることができなかっただけだった。そうまだソラは、あの光景をフラッシュバックして見ていたのだ。
それを知らない青年は、手をソラの前で振り声をかける。するとやっとソラは気がついた。
「え? 」
「だから、かっこよかっただろって言ってるの」
二度の問いでやっと分かったソラは、頬を紅潮させて答える。
「……った。……か、かっこよかった‼︎ あれなら、あれだったら俺を縛る何かを壊すことができるかもしれない! 」
爛々と目を輝かせて、年相応の笑顔を見せながら青年へと身を乗り出すソラ。
若干それに押されながらと、そうか! と同じく笑う青年。
「そういえば、おっさんはなんて名前なの? 」
ソラは思い出したように青年の名前を尋ねる。
「言ってなかったね。俺は凪野空海。君は? 」
空海はソラヘ尋ね返す。
「俺は、芹沢空‼︎」
そうかと空海は、ソラの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でて笑いながらこう言った。
「なあ、よかったらスケボーやってみる? 」
ソラは迷うことなく、いや迷うことなどあり得なく二つ返事でやる! と力を強く答えた。