11月の追憶・5
無言で夫婦の寝室を出た僕は、適当に夜まで時間を潰してから、ロジャーズに今夜の寝床を他の部屋に用意するよう頼んだ。ロジャーズは全てを察したかのように、何も僕に訊かなかった。
「今日、ビネーと会った」
「……」
ベッドに腰掛け、僕は彼から寝着を受け取りながらそう言った。ロジャーズは表情を変えない。
「エリス様と何があったのか知りませんが、それは皇子の自業自得ではありませんか? 過去の、ほんの一瞬の恋だと言っても、嫉妬はしますよ」
「いや、エリスの場合は、嫉妬心などというものではない気がする。もっと、それ以上の何かがあるような……」
ロジャーズに脱いだ衣服を渡し、僕は倒れ込むようにして仰向けになった。
「とにかく、今は少しだけ、彼女と離れたい……」
* * *
僕の仕事がひと段落ついたのを見計らってか知らないが、従兄のバートレットがいつものように執務室に突然現れ、チェスをしようと誘ってきた。そんな気分じゃないと断ると、彼は急にデリケートな話題を持ち出してきたのだった。
「そんな気分じゃないのは、昨日、別の部屋で寝たのが関係してるのか?」
「……なぜそれを」
「誰かに見られてたのか分からないが、俺の部下たちが噂してたぞ。お前、新婚だろう?大丈夫なのかよ」
このときのバートレットは、まだエリスの“事情”を知らない内の一人だったのだが、珍しく気真面目そうにそんなことを言ってきた。
僕は少し間を置いてから、心配そうにしているバートレットに「大丈夫です」と答えたが、すぐに彼は諭すような口調でこう言った。
「全然大丈夫そうじゃないぞ。お前、迷子になった子供みたいな顔してる」
「……」
僕は思わず苦笑した。それは揶揄のようでいて、僕を映した鏡のように巧妙な言葉だった。
バートレットは、傍若無人に振る舞うことが時々(いやかなり?)あるが、実はあらゆる物事を達観している男なのだと思う。何だかんだ言っても、僕にとっては親族の中で最も信頼できる人物なのだろうし。
自分の妻のことを饒舌に語る趣味はないが、エリスのことを打ち明けようと思ったのは、彼がそういう男だからなのだろう。
僕は仕事をしていた机を離れ、チェス盤を広げているバートレットの向かい側に腰を下ろした。
「チェス、しましょうか」
そう言いながら白のナイトを手にすると、バートレットは望むところだとでも言うような顔をした。
僕は駒を動かしながら、これまでの彼女のことをポツリポツリと話し始めた。
「それで、何も言わないまま彼女のこと残してきたのか?」
「あれ以上そばにいたら、もっとキツイことを言ってしまいそうで……私も頭を冷やしたかったし」
「でもいくらなんでもそれは酷いだろう」
「私だって後悔してますよ」
少しムッとする僕に、バートレットは呆れた顔をしながらビショップを動かした。お得意の必勝法に持ち込もうとしていることは明らかだ。
「でもあの彼女がそんな風になるってことは、お前の愛情が足りないんじゃないのか?」
「愛情?」
「例えば、夜の方とか」
「……」
「そんな目で見るなよ。だってそれも重要だぜ? 実は満足してなかったりとかさ」
意地悪く片眉を上げるバートレット。大きなお世話だと言わんばかりに、僕は無視を決め込んで話を続ける。
「というか、私の愛情や気持ち云々ではなく、彼女自身の何かに理由があると思っているんですけど……」
「彼女自身?」
「ええ、以前言っていた彼女の言葉が少し気になってて、もしかしたらと。例えばエリスが過去に経験したことと何か関係があるとか」
「ふうん、それは興味深い」
エリスが自分の過去をほとんど話さないことも、そんな僕の疑いを裏付ける要素になっていた。
もし彼女のあの言動や態度を目撃したら、“異常”というラベルを貼り付ける人だって、きっといるだろう。でもそんな安易な言葉で彼女を表現できるほど、エリスの内面は簡単な構造では出来ていない。あんな風に激しく彼女を駆り立てる何かが、きっと存在している。
「それで、これからどうするんだ?」
「さあ、はっきりとは考えてません。これからどうやって彼女と付き合っていけば良いのか……」
「……」バートレットの動作が一瞬だけ止まったように見えた。
次の一手を考えている僕に、彼はこう言った。
「お前エリス様の気持ち、ちゃんと分かってるのか?」
「え?」
僕は膝の上で頬杖をついたまま、彼の方へ視線を向ける。
「お前の話を聞く限り、彼女も自分の行動を後悔したり、お前に赦しを請うたりしている。それはエリス様が、やりたくなくても自分の意思に反してやってしまっているということだろう」
「……だから?」
「だから、それを考えたら、彼女の心情を察せずにはいられないってこと。だってそうだろう? 自分の感情や身体が言うことを聞かないなんて、耐えられるか?」
バートレットが僕のクイーンを倒すのを、僕はじっと見つめていた。先の一手まで読みながらゲームを組み立てていたつもりが、いつの間にか彼の必勝法に嵌っていたようだ。クイーンがいなければ、キングは死んだも同然。
「レヴィンは、きっと彼女を分かったつもりになっていただけた。彼女の、暗くて深い苦しみまで想像したか?」
「……」
僕は握っていた駒を置き、ゆっくりと両手で顔を覆った。自尊心が傷つけられたことはこの際どうでも良い。ただ、自分の身勝手さや自己中心さに、どうしようもなく身体が熱くなっていく。
「チェックメイト」という得意げな彼の声が聞こえたけれど、僕はまだ顔を上げることができなかった。
僕は、彼女の苦しみを見逃していた?
「……ムカつく」
顔を覆ったまま、僕は憮然としながらそう言った。「あなたに何が分かる」とも。バートレットは黙って聞いていた。
「やっぱり、あなたに言うべきじゃなかった」
「へえ、それは可哀想なことをしたなあ」
愉快そうに笑うバートレット。
「でも、彼女との付き合い方を考えてる時点でお前の答えはもう出てるはずだ」
「……」僕はゆっくりと顔を上げた。
「エリス様を支えてやれるのは、レヴィンしかいない」
「……支える……」
彼の言葉に、僕の決意が強く固まっていくようだった。
「お兄様!!」
と、そこへ勢い良く扉を開けてやって来たのは、妹だった。
「ケーラー? 急にどうしたんだ?」
ドレスを掴み、彼女は血相を抱えた様子でこちらの方へズンズンと向かってくる。乱れた髪も直そうとしない妹に、僕とバートレットは顔を見合わせる。
「見損ないましたわ、お兄様」
実の兄に向って言った第一声がこれだ。
僕を見下ろしながら、ケーラーは声を荒げそうになるのを必死で抑えているようだった。思いもよらない言葉に僕は少し唖然とする。
「一体何なんだ。何をそんなに怒っている」
「ええ、怒ってますわ。お義姉様の気持ちも知らないで……」
普段はやさしく温厚な人間ほど、頭に血が上ると手がつけられないという。ケーラーがまさにそういう女だということに、恥ずかしながら今気付いた。バートレットは面白い余興を見物するような目で、完全に傍観している。
「……今日のお義姉様は、生気が失われたかのようでした……。お義姉様は何も言わなかったけれど……、お兄様と、なにかあったのでしょう?」
「……」
僕は目を伏せたまま、何も言わなかった。
「なにがあったのかは訊きませんけれど、お義姉様を傷付けるようなら、たとえお兄様でも赦しませんから」
「……」
「ロジャーズに、お兄様のとなりで添い寝するようにさせますから」
「それはどんな嫌がらせだ。私をおかしくさせるつもりか?」
こんな僕たちのやり取りを見て、バートレットはクククッと笑いを零した。僕とケーラーの目はいたって真剣なのだが。
「バートレットも、お義姉様の味方ですわよね?」
「俺はどちらも好きだから選べないよ。それに、レヴィンは彼女のことを傷つけたりしないから、絶対大丈夫だろう」
そう言って、彼は僕に向かってウィンクした。男にそんなことをされる趣味はないと思ったが、それはバートレットなりのメッセージだった。“幸運を祈る”という。
そうして、この日の夜に僕はエリスのもとへ戻り、彼女を支えていくことを誓ったのだった。
そしてその後しばらくして、例のノーマン様との一件があるのだが、そこから事態は動いていった―――。
回想はこれにて終了です。
長かった……(汗