11月の追憶・4
一晩中、声を殺して泣いていた。「泣き虫エリス」と、レヴィンにからかって欲しかったのに、彼は結局部屋を出たきり戻ってこなかった。結婚してから初めてひとりで眠ったベッドはあまりに広く、心細かった。
今度こそ、彼は私に別れを告げるかもしれない。到底私には耐えがたい仕打ちだけれど、それが賢明な判断だということに疑いの余地はない。
あんなことを言うつもりはなかったと許しを請うてももう遅いだろう。私はレヴィンのことを愛していて、彼にふさわしい妃になりたいだけなのに、どうして、どうして、どうして……。こんなことばかりが頭の中を駆け巡る。
今はこんなにも冷静でいられるのに、一度衝動的に昂った感情を抑制できない自分は、一体何者なのだろう。
涙も枯れた頃、私は浅い眠りから目を覚ました。どこかで小鳥がさえずっているが、まだ夜明け前なのだろう。人の活動している気配がしない。
私はシーツの中で丸くうずくまるようにしながら、左手の薬指にはめられている指輪をそっと指先で触った。
それは白金のシンプルなデザインで、内側には結婚した日付と、2人の名前が刻まれている。ラメルの皇太子夫婦の結婚指輪は、代々このデザインと決められている。いったいどれだけの人が、この指輪を見ては幸福を実感したのだろうか。もうすぐ私に、これを外す時が来るかもしれない。
その日は、幸い大きな予定もなく、私は1日中ベッドの上で過ごしていた。レヴィンの妹、ケーラーがやって来たのは夕方頃だった。
「面会は、お断りいたしますか?」と、ミュラーは提案してくれたが、可愛い義妹を追い返すことなどできなかった。
寝室に入って来ると、ケーラーは憐憫をたたえた表情で私の頬にキスをした。そのままベッドの端に腰かけ、私の手を取る。
「体調が優れないと聞きました。大丈夫なのですか?」
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
「……あの、まさかとは思いますが、お兄様が原因とか……」
ケーラーの勘繰りに私は力いっぱい首を横に振った。却って彼女の疑念を増幅しかねなかったが、レヴィンが原因などという意識は私の中には毛頭なかった。
私は話題を変える。
「それで、他に御用などはないの?」
「あ、そういえば、お礼を忘れていましたわ」
「お礼?」
「はい。この前、お兄様たちがお土産を持ってきて下さったでしょう。確か、“シフェ”とかいう」
私は昨日、市場でシフェを売っていたふくよかな女主人のことを思い出した。そして次々と、鮮明な記憶の引き出しが開けられていく。底抜けに明るい市場の活気や、雑音や、匂いや、私の手を引っ張るレヴィンの手のひらや。
「少し不思議な味でしたけれど、とても美味しかったですわ」
「そう、それは良かったわ」
にっこりと笑うケーラーにつられて、私も緩く微笑む。でも曇り空の心は晴れる事はない。
「……私もまた、食べたいわ」
宵が訪れても、彼は寝室はおろか白磁の間にさえ帰って来なかった。
もし別れるというのなら、早くそう言って欲しかった。途切れかけている絆を、今ならまだ修復できるかもしれないという一筋の甘い期待を私に抱かせて欲しくなかった。
「ここに居ますわ」
「大丈夫、もう下がって」
「しかし」
「いいから、ね、お願い」
私の傍にずっと付き添おうとするミュラーをなんとか自室に帰してから、私はベッドに潜り込んだ。燭台の灯りを燈したまま、私は瞳を閉じる。一応、私はまだ皇太子妃だ。いつまでも子供のようなズル休みができるわけもない。とりあえず睡眠はしっかり取らねばと思い、私は無理やりに眠ろうとする。
何があっても、きっと大丈夫、大丈夫、私は大丈夫―――。
羊を数えずに、そんなことを自分に言い聞かせながら目の前の暗闇に身を委ねていく。
そうして、どうにかして意識を手放しかけたとき、ふいに、誰かが私の髪の毛をやさしく梳いている感触がした。慈しむようにゆっくりと、そしてどこか懐かしい感覚。私には、それが誰なのかすぐに見当がついていた。
ゆっくりと、現実の世界へと引き戻されていく。ぼやけた視界の中に映ったのは、レヴィンの顔だった。何とも言えないような複雑な表情で私を見降ろしながら、骨ばった細長い指先で私の頬をそっと撫でてくれた。
「レヴィン……」
「ただいま」
私はそのまま、彼に勢い良く抱きつき、許しの言葉を並べたかった。でもそうしなかったのは、このラメルの国や王室、そしてレヴィンのことを考えれば当然のことだった。
私は拳を握りしめ、横になったままレヴィンに背を向けた。彼にとってもその行動は意外だったのか、何となく少し当惑するような気配が背中越しに伝わってくる。
「私があんなことを言って、今度こそ失望したでしょう?」
「……」
「……私と、別れてください」
意を決しただけあって、思ったよりもはっきりと声が出た。それはレヴィンの耳にも届いたはずだけれど、彼は何も言わない。
「その方がきっとお互いのためになるわ」
「……」
「私のことは大丈夫だから」
涙が出そうになるのを堪え、私は平静を保ちながら淡々と言ったつもりだった。でも夫である彼の前では、そんなこと初めから無意味だったのかもしれない。
「ウソつけ」
悪戯っぽく、だけど確信をもったその言葉が聞こえたのと同時に、レヴィンの腕が私の腰にまわされていた。私の背後には、あっという間に彼の大きな身体と心地よい体温が間近に存在していた。
「どこが大丈夫だって? こっち向きなよ」
「……イヤ」
「向かないならキスするぞ」
「……馬鹿」
拍子抜けするような彼の冗談に吹き出しそうになるのを何とか堪える。気を取り直し、腰にまわされた彼の腕から何とか逃れようとしたけれど、結局びくともしなかった。
「……私は本気よ」
「それで? 周りに迷惑をかけたくないからとでも言うつもりか? くだらない」
「くだらなくても、私は本気です」
「ふうん、泣いてるくせに?」
「!」
“涙”というものを瞳から流していなくても、人間は泣くことができる。彼はそれを容易く分かってしまうような人なのだ。当の本人は、私が図星なのをおもしろがっているようだけれど。
「君の顔を見なくたって、私には分かる。今どんな気持ちで、どんな表情をしていて、どれだけ私のことが大好きなのか」
話ながら、彼の吐息が私の首元を掠める。彼は言葉を続ける。
「そして、君が時々あんな風になったり私の全てを欲しがろうとするのは、君が変だからじゃない。ちゃんとした理由があるからだと私には分かる」
「……理由」
「だからそれがはっきりするまで、私は君をずっと支える。君と会っていない間にそう決めた」
レヴィンが、私の肩に顔を埋めながらきつく私の身体を包み込んでくれるのが分かった。
「いなくなることが、私のためになるなんて考えないでくれ」
彼の言葉を一つ一つ噛み締めながら聞いていると、いつの間にかシーツが濡れていた。でもそのことを知られるのが何となく悔しくて、私はわざと可愛くないことを口にする。
「……何も言わないで出て行ったくせに」
「それは悪かった。謝る」
バツの悪そうな声とともに、少しだけ私を抱きしめる腕が緩む。
「私は君を想っているようでいて、とても自己中心的だった。君も苦しんでいるということをよく理解していなかった」
「……」
「その苦しみの根底に何があるのかはまだ分からないけれど、でもそれを和らげることは私にだってできるだろう?」
今、蝋燭の上でどこか儚げに揺れている灯のように、私の胸の中にも、ほんの一塊の、だけどとてつもなく熱い灯が燈ったように感じた。それは生きることへの力、何かに立ち向かおうとする力になるようなもの。
私は自分の身体にまわされているレヴィンの腕に目をやり、そっと彼の手のひらに自分のを重ねた。そしてゆっくりと後ろに寝返りを打った。
「泣き虫エリス」
私の顔を見ると、レヴィンは自分の額を私の額とくっつけながら、可笑しそうに微笑んだ。付き合わされたこの額も鼻筋も、清潔感のあるこの匂いも、もう何年も会っていなかったような、そんな懐かしさを覚える。
「……私、ここに居ていいの?」
「ああ」
「本当に?」
「くどい」
レヴィンは私の頬をつねりながら苦笑する。
「ずっと傍にいてほしい。君の笑顔は、私に安らぎを与えてくれる」
私は額を離すと、改めて彼の眼をじっと見つめた。その緑色の瞳に、しっかりと私が映っている。
「……あの、それならずっと笑顔でいるようにするし、それに、私もあなたを支えたい」
「うん」
「あと、もっと色んなことを勉強して、皇太子妃としてふさわしい人間になれるようにするし、それから」
言い終わらないうちに、私は再びレヴィンの腕の中に閉じ込められていた。
「もういい、大丈夫、全部分かってるから」
「……っ」
私は今、上手く笑えているだろうか。