11月の追憶・3
僕への依存心や独占欲が強いことは何となく感じていたけど、それほど問題視することはなかった。でも、たまたま僕の帰りが遅かった日のあの取り乱した様子は尋常ではなかったし、「怖い」と呟く彼女の姿も気掛かりだった。
その出来事から数日後、僕の一日の予定を書いた紙が欲しいと言われたときには思わずロジャーズと顔を見合わせてしまったのだけど、それでも彼女の気持ちが安定するならと思い僕は承諾した。「なんでそんなことをする必要がある」と父から怪訝に思われていたが、「私たち夫婦には必要なことなんです」と言っておいた。
とにかく、これで彼女の情緒が安定してくるかと思ったのだが、それは甘い期待に過ぎなかった。
* * *
久しぶりに休暇が取れた日、僕は彼女と2人で街に出かける計画を立てた。ロジャーズには危険だからと最後まで反対されたが、少し探検をするだけだと言って押し切り、有意義な休日を勝ち取ることができた。もちろん護衛付きだけれど。
庶民の衣服を身に着け、2人には恋人同士のようなデートがこれから待っているのだと甘美な想像を膨らませていた。その夢が打ち砕かれることなど微塵も思わないほどに。
それは、ラメルで最も賑わっている市場に行き、珍しい品々を2人で物色していたときだった。老若男女が集う人混みのなかを、僕たちははぐれないようにして手を繋ぎながら歩いていた。
「あれは何?」
立ち止まって彼女が指差したのは、民の間では定番の菓子「シフェ」だった。小麦粉の生地を焼いて蜂蜜を上に塗っただけの素朴な菓子だが、甘く香ばしい匂いに誘われてしまう。やけにエプロン姿の似合うふくよかな女主人に、僕はさっそくその菓子を頼んだ。
袋に包まれた丸いそれを受け取ると、エリスは「わあ、美味しそう」と瞳を輝かせる。
「奥さん、もしかしてこれ食べるの初めて?」
エリスの様子を不思議に思ったのか、女主人はそう訊いてきた。
「え、ああ、まあ……」と端切れ悪く答えるエリスに女主人は目を丸くさせ、今度は僕の方に視線を向けた。妻に苦労をかけるダメ亭主を蔑むかのように。
結局、僕たちはシフェさえも買うお金のない貧乏な夫婦に思われたらしく、太っ腹な女主人からもう一つおまけを貰えた。
おまけはケーラーへのお土産にしようなどと言いながら市場から少し外れた隅の方へ行き、僕たちはさっそくそれを食べた。最初こそエリスはシフェに齧り付くことを恥ずかしがっていたが、だんだんと口元に蜂蜜を付けながら大胆に頬張っていくようになった。
「立ちながら食べるなんて初めて。ミュラーが見たら怒るわ」
「こういう食べ物は歩きながら食べる方がもっと合理的だ」
「まあ、歩きながら?」
「今度来たときは、それに挑戦しよう」
僕は何度かこうして民の街に繰り出したことがあったけれど、彼女にとっては見るもの全てが初めてで、労働者階級の活気溢れる人柄や街並みに圧倒されているようだった。好奇心旺盛に様々な品を手にとっては驚いた顔をする彼女は見ていて全く飽きない。2人で肩を寄せ合いながら、いつまでもこの探検を続けていたかった。
そう、ここまでは全てが完璧だったんだ。
シフェを食べ終わると、僕はハンカチを取り出して彼女に付いた蜂蜜を拭ってやった。食べている最中に舌でぺろりと舐めることはさすがに最後まで出来なかったらしい。
「もっと上手に食べれるようにしたいわ」
「初心者の君には難しいんじゃないかな」
「またそうやって意地悪言うんだから」
右胸のあたりを彼女に軽く小突かれたりしながらじゃれ合っていると、唐突に耳に入って来たのは聞き覚えのある女性の声だった。
「スターン?」
その名前はここへ来る前に、皇子だと分からないようエリスに教えた偽名だった。その偽名を知っている他の女性は、僕の記憶では1人しかいない。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。市場の喧騒を背景にそこに佇んでいたのは、忘れかけていたある女性の姿だった。
「……ビネー?」
「ああ、やっぱりスターンだ」
そう言って懐かしそうに笑うその人は、薄汚れたドレスに適当にまとめた髪型という出で立ちで、僕の記憶の中にいた彼女とは大分変わっていた。
「その赤茶色の髪、あなただと思ったのよ」
ビネーはそう言いながら僕の方へ歩み寄った。野菜の籠を下げた彼女の腕は、逞しく健気に生きる彼女の姿を想像させた。
「久しぶりだな、元気だったか?」
「ええ、お陰様で」
「まだあそこに居るのか?」
「いいえ、ずっと前にもう辞めたわ。最近、自分の店をやっと開店できたのよ」
「それはすごい。夢が叶ったんだな」
僕は彼女が、近い将来自分の食堂を開きたいのだと、少し照れくさそうに、だけど強い意志を持って夢を語っていたビネーの瞳を思い出した。
「あの、それで、そちらの方は?」
ビネーが僕の背後に目配せをする。エリスが僕の背中で眉をひそめるようにしながら、いつの間にか僕の裾をぎゅっと掴んでいた。彼女の心情が手に取るように分かり、僕は慌ててエリスの肩に手を置いて彼女のことを紹介した。
「妻のフレスだ。フレス、ビネーだ」
“フレス”というのも、ここに来る前に打ち合わせしておいた偽名だった。
「……はじめまして……フレスと申します」
そう言って腰を屈めたエリスからは庶民らしからぬ気品が漏れていた。この場には明らかに違和感のある挨拶にビネーは少し目を泳がせたが、彼女も丁寧な挨拶を返してくれた。
「結婚したなんて知らなかったわ。おめでとう」
「ありがとう。君はしていないのか?」
「恋人はいるわよ。あなたよりもずっとハンサムなの」
「へえ、そんなヤツがこの国にいるならぜひ見てみたいね」
昔に戻ったような冗談を交わし合ってから、ビネーは「じゃあ、そろそろ」と口にする。夕方からの時間帯に向けた仕込みがこれからあるらしい。
「私の食堂、この近くの4番街にあるの。今度来てね」
「ああ、行けたら」
「あら、ヒドイわねえ。やっぱりあなたって、何か秘密があるんでしょう」
僕は曖昧に笑い、「きっといつか行くよ」と言った。彼女は納得していない表情だったけれど、それでも「じゃあ、元気でね」と朗らかに手を振ってくれた。
ビネーが市場の人波に消えていくのを見送り、そうして僕は彼女との再会に別れを告げたのだけど、横で僕とビネーの会話を聞いていたエリスの顔色は、明らかに曇っていた。
* * *
少し疲れたからもう帰りましょうとエリスは言ったが、それが嘘だということは分かっていた。でもこの気まずい雰囲気に耐えられるはずもなく、結局僕たちは早めの帰途についた。誰がこんな事態を予想しただろうか。
「……誰なの、あの方は……」
寝室に入り2人きりになるとエリスはそう訊いてきた。瞳に浮かべた動揺を隠そうともせずに。
僕はグラスに注いだ水を一口啜り、咽を潤す。まるで浮気を問い詰められるような、そんな修羅場が始まるような雰囲気だ。
「……友人だよ。何年か前に、今日みたいに街へ行ったときに知り合ったんだ」
それは抽象的な答えだったが、嘘はついていない。
「ずいぶん親密そうだったわ……どこで出逢ったのですか?」
わざと回りくどい言い方をする彼女。これが俗に言う女の勘というやつなのだろうか。
「忘れたよ。彼女とは昔の知り合いなだけだ」
「ウソ……彼女と、寝たのでしょう」控えめな、だけど確信を持った声。
「……」
僕の最後の悪あがきを彼女は見事に粉々に砕いた。悪あがきというだけあって、やはりやっても無駄だという事のようだ。
僕は椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。それが彼女の問いに対する答えであり、もう反論の余地はないことを暗に示していた。エリスは眉尻を下げながら唇を噛み締め、僕の方を見つめていた。
「……どんな風に彼女を抱いたの。永遠なんて約束されてない彼女のことを、どういう気持ちで抱いたのよ」
エリスの強烈なひと言が耳に届いた瞬間、僕は逆上しそうになるのを堪える。
「止めてくれ。私を怒らせたいのか」
また不安定な面がエリスに出始めていることは分かっていたから、あまり刺激したくはなかったけれど、ビネーとの過去まで侮辱される筋合いはなかった。
ビネーは、僕がエリスと婚約を結ぶ前に出逢った女性だった。
「リューゼル」と呼ばれる国一番の歓楽街で偶然に彼女を見かけ、一目惚れをしたのだ。金目当てに厭らしく媚びるような他の娼婦とは違い、無邪気で純粋な心を宿しているような美しい彼女に心を奪われ、僕は名も知らぬ彼女を追ってとある娼館に足を踏み入れたのだった。
刹那的な関係を結んだのはそれが最初で最後だった。でもベッドの中で彼女を抱きしめながらお互いのことを語り合う僕たちは、紛れもなく恋に落ちていた。
だからこそ、エリスの言葉は僕の記憶を汚すようなものに聞こえたのだ。
「私は遊びで彼女とは寝ていない」
「やめてっ、聞きたくないわ」
「君があまりに失礼なことを言うからだ。過去の思い出すらも、君には赦せないのか?」
「過去は過去だなんて私には割り切れないわ! あなたが真剣に恋した相手のことなんて、聞きたくなかった!」
エリスの言うことは支離滅裂だった。僕の全部を知りたいと懇願しつつも、今は知ったことで後悔している。彼女の心が無秩序に渦巻いてる状態なのだろうから、それも仕方のないことなのかもしれない。でもそのときの僕には、また彼女をやさしく宥めたり、抱きしめたりすることはできなかった。
僕は無言で寝室を後にした。
エリスは自分で書いてても若干怖いです(笑
でもアクが強ければ強いほど書きやすかったりします…