11月の追憶・2
妃候補になったと聞かされて、王室での生活に慣れるのか、きちんと公務をこなせるのかという一抹の不安が私の頭を真っ先によぎった。でも一番怖かったのは、その結婚相手にさえ愛されなければ、私は一体どうなってしまうのかという事だった。
実はそんな腰が引けた状態のまま彼と対面していたのだけど、結局のところ今まで抱えていた心配の種は杞憂に終わったのだった。通された部屋に居たのは、見つめられるのが恥ずかしくなってしまうほど、きれいな青年だった。まるで設計し尽くされた彫刻のように。私の心はあっという間にこの皇子に囚われてしまった。
王室において、側室を持つことが当たり前なのはもちろん知っている。だから最初は、この人が少しの愛情さえ傾けてくだされば、私はそれだけで幸せになれるような気がしていた。でも彼は、私にどこまでも誠実な愛情を注いでくださった。私だけを見つめて、私だけを愛そうとしてくれた。
* * *
「こわい?」
「……少しだけ」
露わになった私の肩に、彼がひとつキスを落とす。そうやって、首筋や鎖骨、頬、瞼と、順に彼の唇が触れるたび、私の身体は熱を伴って痺れていく。ベッドの上で向かい合いながら、彼は壊れ物を扱うようにやさしく私に触ってくれた。だけど彼の唇が私の唇に触れた途端、堰を切ったように、レヴィンは私の唇を激しく求め始めた。呼吸をする暇さえ与えてくれないほど、情熱的に。口の中に何か柔らかいものが入ってきたときには、その未知の感覚に私の身体は敏感に反応した。
「っ……レヴィン……」
やっと唇を離してくれたとき、私は思うように身体に力が入らず、半ば倒れるようにして彼の胸に寄り掛かった。キスをこんなに気持ち良いと感じたのは、初めてのことだった。羞恥心など、とうにどこかへ行ってしまった。どんなに淫らだと思われようとも、身体は素直にそう感じていた。
「エリス、愛してる」
「……私も」
彼と結婚した日のことを、私はずっと忘れないだろう。耳元で囁かれる愛の言葉も、何度も交わした口づけも―――。
それからしばらくは、ごく普通の幸せな結婚生活が続いた。慣れない公務で疲れている私を彼はいつも励まし、私も彼の傍ではいつも笑顔でいようとした。だけどそうやって絆が深まってゆくたび、私は彼の「すべて」を把握せずにはいられなくなっていった。たとえ最初は我慢しようとしていても、もはや強迫的なレベルに達する頃には、自分を抑えることなど不可能だった。
「ミュラー、レヴィンの帰りが遅いのだけど」
「もしかしたら急な予定が入ったのかもしれませんわ」
「でも今日は早く帰れそうだって言っていたのよ?」
あるとき、レヴィンの帰りがいつもより大分遅いときがあった。私は今か今かと帰りを待っていたのに、彼が現れる気配は一向になく、落ち着かない夜を過ごしていた。
「どうして使いの者を寄越さないの?」
私は椅子から立ち上がってはうろつき、頭に血が上りそうになるのをなんとかこらえていた。まるで自分が自分じゃないように、私の心拍数は上昇していく。
そんな私の様子にミュラーは明らかに困惑していたけれど、大丈夫だという言葉を繰り返しながらやさしく宥めてくれたのをよく覚えている。
結局レヴィンが帰って来たのは、日付を過ぎた頃だった。ロジャーズを後ろに従えて、彼はのんきな声で「ただいま」と言いながら白磁の間に入って来た。私は一目散に彼のもとに駆け寄り、彼の首に腕をまわしてきつく抱きついた。それはまるで、数十年ぶりに再会した恋人のような姿だったに違いない。ミュラーやロジャーズの存在はもはや私の視界からは消えていた。ただ彼の姿だけが私の目の前にあった。
「エリス?」
「どうしてこんなに遅かったの?」
「ああ、ごめん、帰り際にバートレットに捕まって。ワインを飲まされたんだ」
たしかに彼からはアルコールの臭いがした。でもそれだけで私の昂った精神は抑えられそうもなかった。
「だったら、少し遅くなるって伝えてくれてもいいでしょう? ロジャーズだって居たはずだわ」
「ロジャーズも巻き込まれて飲まされたから、なかなか抜けられなかったんだよ」
「……」
たいして悪びれもせずにそんなことを口にする彼の言葉が、私には全部嘘に聞こえてしまう。私は抱きついていた彼の身体を離し、レヴィンの顔を見つめた。
「……他に、伝えられなかった理由はないの?」
「はっ、馬鹿な」
レヴィンは私が何を言わんとしているのかすぐに悟ったようだった。勘弁してくれとでも言うような表情を浮かべている。ロジャーズも少し慌てたように「皇子の言っていることは本当です」と横から擁護するのが聞こえた。
「なぜ急にそんな極論を口にする? 帰りが遅くなった、それだけだ」
「……」
「君だけは私を信じていると思っていたのに」
半ば私を軽蔑するような目で彼は言う。
「わ、私はあなたを信じてるわ!」
「こっちは君を信じられなくなりそうだよ」
「違うっ、本当に信じてる!」
「全く説得力に欠けている」
「……だって私……」
知らぬ間に涙声になっていた。
「私……我慢できないの……」
目の前がぼやけていくにつれて、レヴィンの狼狽する様子が微かに見えた気がした。
「……あなたには、いつだって私だけを見ていてほしいの。私は、あなたの全てを知っていたいの。あなたがいなければ、私は駄目なの……」
私は手のひらで自分の顔を覆い、その場に座りこんでしまった。信じられないことを口走ったと、今ならよく理解できるけれど、この時の私には物事を冷静に考えることなどできなかった。
しばらく部屋の中には沈黙が流れた。何でも良いから、何か彼に言って欲しかった。
「エリス……」
座りこんだ私の傍で、彼の屈む気配がした。無意識のうちに強張った私の身体を、レヴィンは抱きしめてくれた。それは思いもよらないやさしい温もりだった。
「エリス、私の帰る場所はいつだって君のところだ。私が愛しているのも君だけだ。君はもう、分かっているはずだろう?」
あやすような声音でそう言われて、また私の目からは涙がこぼれて来る。
「それは、分かっているの、でもどこかでまだ、不安なの……怖いの……」
「怖い?」
「……いつかもし、あなたに愛されなくなったら、どうしようと……」
レヴィンは私を抱きしめる腕に力を込め、深く息を吐いた。
「私は何があっても君のそばを離れない」
「……」
「絶対に、大丈夫だから」
「……レヴィン……」
私の頭を撫でてくれるその手が、どうしようもなく心地よくて、愛おしくて、私はやっと眼の覚めた気分がした。
そのあと私は「ごめんなさい」、「嫌いにならないで」、「許して」といった類の言葉を幾度となく繰り返していたのだけど、さすがに怒った彼を見て私はやっと口を噤んだ。
そうしておとなしくなった私を見て、彼はおもむろに私の顎をくいと持ち上げてきた。
「レヴィン?」
何なのだろうと思っていると、彼は悪戯っぽく笑い、次の瞬間には躊躇もなく私の唇にキスをしていた。しかも遠慮なく舌を入れてくるような激しいキスを。生々しい2人の吐息が部屋に響き、どうしようもない羞恥心が広がる。
ミュラーは顔を真っ赤にしながら白々しく顔を背け、ロジャーズは「やれやれ」といった表情を浮かべている。私も慌てて身体を離そうとしたけれど、後頭部を彼の大きな手で掴まれてしまい、私は彼の口づけを受け続けるしかなかった。ようやく長いキスが終わったとき、彼はこう言った。
「ちゃんとワインの味がしただろう? 泣き虫エリス」
彼らしい台詞を言われ、私はやっと笑う事ができた。
その後ロジャーズが、「皇子のキスシーンなんて、一生見たくなかった」とさり気なく呟いていた事も、なかなか可笑しかったけれど。