10月の戸惑い・2
泣きつかれて、彼女はそのまま僕の腕の中で眠りについた。2人が並んで寝ても広いくらいの天蓋付きベッド。なぜかその端に腰かけている姿はきっと不自然な光景だろう。
微かな騒ぎ声を耳にして寝室に駆けつけてくれたのは、ミュラーと側近のロジャーズだった。ミュラーは、昼間ぐらいから突然エリスの様子がどこかおかしいのを感じ取っていたという。そのことをロジャーズにも伝え、2人は近くの部屋で念のために待機していたらしい。とにかく、2人の存在はどこまでも心強いものだった。
今、この腕の中に収まっている彼女は女神のような寝姿だった。先ほどまでのエリスは一体何だったのだろうかと思うほどに。床に散らばる花瓶の破片がそんな彼女をまざまざと物語っているようだったが、とにかく、事態の収拾に成功した安堵感に包まれながら、僕たち3人はしばらくエリスの寝息に耳を傾けた。
「それで、なにが原因だったんですか?」
ロジャーズが静かに口を開いた。僕はエリスが半ば喚き散らす様に放った言葉の数々を思い出しながら、ゆっくりとロジャーズの問いに答える。
「昼食の後、少し時間が空いたから、私はノーマン様に誘われて庭園を散策してた」
ノーマン様というのは、母方の叔母だ。叔母といっても僕とは10歳しか離れていないから、姉のような存在なのだけれど。
「そしたら突然雨が降ってきて、私はとっさに自分の上着をノーマン様に被せたんだ。そして彼女を抱きしめるようにしながら走ったんだが、おそらくエリスはそれを目にして……」
僕の話を聞きながら、ミュラーはどこか痛々しげに目を細めてエリスの寝顔を見つめた。ロジャーズも厳しい表情をしながら腕組をしている。
「皇子、エリス様がこのようになってしまうのは、きっと何か理由があるからです。それがはっきりと判明していないうちは、あなたが気をつけなければ」
「それは私だって分かっている。だけど今回のは不可抗力だろう」
「……ノーマン様に下心などは」
「あり得ない」
「ちょっとした冗談ですよ」
「一切笑えない」
ロジャーズの膝を思い切り蹴ってしまい衝動に駆られたが、僕の胸に顔を埋める女神の存在がそれを思いとどまらせてくれた。ミュラーも軽蔑の眼差しをロジャーズに向けていたが、本人はまったく気付いていない。
「いずれにしても、このことは国王に報告させていただきますよ、皇子」
「……わかっている」
将来の王妃に関わる事なので、当然両親にもエリスの「事」は前々から伝えられていたが、あくまで内密にというのが宮殿内での暗黙の了解だった。だからこの事を知っているのは、ごく限られた身内や臣下たちだけであった。
「エリス様はどうしてこんな風に……」
独り言のように呟いたミュラーの言葉は誰もが疑問に思うことだった。でも彼女自身、あまり自分のことを話したがらないし、無理に問いつめることもしたくなかった。
僕はエリスの髪の毛にそっとキスを落とし、ゆっくりと頭を撫でた。華奢な身体をつかって全身全霊、僕に向かってきた彼女は、まるで本能を剥き出しにする獣のようだとさえ思えた。だけど今ここに居るエリスは、紛れもなく僕が愛しく思う彼女だった。
* * *
宮殿は、南側が王族たちの私生活の場、北側が政務や国賓の謁見を司る場となっている。僕たち夫婦は「白磁の間」とよばれる広間を主な居住場所としているが、なにぶん規模が大きい宮殿のため、一度白磁の間を出ればなかなかエリスと逢えることはない。
そのことも関係しているのだろうが、結婚当初から、僕はその日の予定を記した紙を毎朝彼女に渡すことになっている。もし会議や外部への視察があれば、それがどこで行われるのかを書かなくてはならないし、すべての務めを終えて白磁の間へ帰る時間もできるだけ正確に書かなくてはならない。最初は僕自身も戸惑ったのだけど、エリスの性質を考えれば今やどうってことのない習慣になっている。まあ、未だに異常だど不思議がる人もいるけれど。
「今日はなるべく早く帰る」
予定表を彼女に渡しながら、濃紺のベルベットの上着を手にする。エリスは受け取った紙を脇に挟み、丁寧に上着のボタンをとめてくれる。いつもは嬉しそうにとめてくれるのだが、昨晩のこともあってか彼女の顔にはどこか鬱な影が差し込んでいる。僕は彼女の広い額にキスをし、出来るだけやさしく抱きしめた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい……」
掠れた声だったが、僕の背にまわされた腕は熱く、力強かった。ただでさえ色白な彼女の肌がさらに弱々しく見えても、エリスはやはり、エリスだった。