私が王宮で毒を盛った時刻、私は市場で干しぶどうを値切っていました。店主が三年分のノートを持ってきました
「昨日の午前十時、王妃陛下の紅茶に、毒が入れられた」
ヴィクトル殿下の声が、王宮の大広間の天井まで届いた。
夜会の最中だった。王妃陛下は昨日から寝室で静養しておられ、今夜の夜会は、本来なら取りやめになるはずだった。それを、殿下が、犯人を裁く場に変えたのだ。
楽団は止まり、三百の視線が、広間の中央に立つ私へ集まっている。
「実行したのは、アデライド・フォンテーヌ。公爵令嬢でありながら、王妃陛下を害そうとした罪人だ。よって、この場で婚約を破棄する」
私は、背筋を伸ばして立っていた。膝は、少し震えていたけれど。
殿下の隣には、侍女のマノンが青い顔で控えている。
「マノン。見たことを、そのまま話せ」
「は、はい。昨日の十時ごろ、王妃陛下のお部屋の前の廊下で、アデライド様をお見かけしました。手に、小さな瓶を……」
「証拠は、これだ」
殿下が高く掲げたのは、白い手袋だった。
「王妃陛下のお部屋の花瓶の陰に、毒の瓶と一緒に落ちていた。フォンテーヌ家の紋が、刺繍してある」
間違いなく、私の手袋だった。先週から、見当たらなくなっていた物だ。
「申し開きは?」
「殿下」
私は、できるだけ静かに言った。
「昨日の午前十時、私は王宮におりません」
「ほう。どこにいた」
「市場におりました」
「市場?」
「干しぶどうを、値切っておりました」
大広間が、静まり返った。
それから、ざわめきが、嘲りに変わった。公爵令嬢が、市場で値切り。扇の陰から、くすくすと笑う声がいくつも漏れてくる。
殿下が、鼻で笑った。
「見え透いた嘘だ。それを証明する者は、いるのか」
「おります」
「どこに。市場の者を、王宮に呼べるとでも?」
答えられなかった。
呼べるわけが、ない。そもそも、私が市場に通っていることは、家族にも言っていないのだ。公爵家の娘が、朝から屋台で銅貨を数えているなんて、人に知られたくなかった。だから毎朝、帽子で髪を隠していた。証人がいるとすれば、屋台の人たちだけ。その人たちを、こんな場所へ呼べるはずがなかった。
「答えられないのか。やはり——」
そのときだった。
大広間の扉が、ばん、と開いた。
「呼ばれなくても来ましたぜ!」
しわがれた大声が、天井に跳ね返った。
入口に立っていたのは、前掛けをしたままの、小柄な老人だった。干しぶどう屋のブルーノさん。七十歳。私が三年通っている屋台の、店主だ。
その後ろに、台車があった。木箱が、山になって載っている。
「止まれ! 何者だ!」
衛兵が槍を交差させた。
「止まれねえんで。重たくて」
ブルーノさんは、台車を押す手を、緩めなかった。若い衛兵が慌てて飛びのく。台車は、赤い絨毯の上を、ごろごろと進んできた。その後ろの扉の陰で、年老いた女官が、淡い色のガウンの誰かに肩を貸しているのが、ちらりと見えた。けれど、そのときの私は、ブルーノさんしか見ていなかった。
「ブルーノさん……」
「お嬢様。遅くなりやした。公爵家の御者のトマが、泣きながら市場に駆け込んできやしてね。『お嬢様が、今夜、夜会で捕まる』って。そんなら、こっちの出番だ」
殿下が、顔をしかめた。
「なんだ、この老人は」
「干しぶどう屋でさあ。殿下」
ブルーノさんは、台車を私の隣で止めた。木箱の蓋を、ぱかり、と開ける。
中には、ノートが、ぎっしり詰まっていた。
古びた表紙の、安い紙のノート。背に、日付の札が貼ってある。
「三年分です」
ブルーノさんは、一冊を取り出した。
「おれは、この三年、毎日、書いてきやした。商売のことと、お客のことを。……お嬢様のことは、特に、細かく」
「それが、どうした。後から書いたものだろう」
「毎日、夕方に、市場の見回りの若い衆が来て、その日の頁に印を押していきやす。ほれ、昨日の分にも。後から書き足しゃ、印の上に字が乗りやす」
ブルーノさんは、いちばん新しいノートを開いた。昨日の頁を、指で押さえる。
「読みやすぜ。『昨日。十時の鐘と同時に、お嬢様が来店。干しぶどう一袋。定価五、お嬢様は三まで値切って、買った。今日は帽子が左に曲がっていた。鐘の音に驚いて、少し跳ねた』」
大広間の、あちこちから、小さな笑いが漏れた。
「それから、『お嬢様は、市場の猫のミケに、アジの切れ端をやった。ミケは、昨日も、お嬢様の足元から離れなかった』」
「猫が証人か」
殿下が冷笑した。
「いやいや、殿下。猫は証人になりやせんが、道のりなら、数えられやす。市場から王宮までは、馬車で四十分。十時の鐘と同時に市場にいたお嬢様が、十時に王妃陛下のお部屋の前に立つ。そいつは、天使でも無理でさあ」
「それに、人間の証人なら、揃えてありやす。入りな!」
ブルーノさんは、後ろを振り返った。
扉の向こうから、どやどやと人が入ってきた。
パン屋のおかみさん。魚屋の兄弟。花屋の娘。靴磨きの少年。八百屋の夫婦。
みんな、前掛けのまま、仕事着のまま。夜会の絹の中に、粉と魚と土の匂いが、一気に流れ込んだ。
「あたしは、昨日の十時に、お嬢様にパンを一つ売りました」
「うちは、アジを一尾。お嬢様が、切れ端を猫にやるのを、見ました」
「僕は、靴紐を結んであげました。十時の鐘が鳴ったとき、ちょうど。お嬢様は、お礼に銅貨を一枚くれました」
靴磨きの少年が、まっすぐ殿下を見て言った。
「昨日、お嬢様は、王宮には行ってません。市場にいました。十時から、ずっと」
殿下の顔から、笑いが消えていく。
「そんな……いくら証人がいても、お前たちは平民だ。公爵令嬢にかばわれて、買収されたに決まって——」
「買収?」
パン屋のおかみさんが、腰に手を当てた。
「お嬢様は、いつも、きっちり値切って、きっちり払っていきなさるよ。たった一度だって、おまけをもらって帰ったことはない」
「そうだそうだ」と、誰かが言った。
笑い声が、今度は、広間の中から、はっきり起こった。
私は、動けなかった。
こんなふうに、人が自分のために、前掛けのまま、王宮に駆け込んでくるなんて、考えたこともなかった。
「ブルーノさん。……どうして」
「どうして、ってえのは?」
ブルーノさんは、ノートを胸に抱えたまま、首を傾げた。
「お嬢様は、三年前から、うちの客でさあ。毎朝、帽子を深くかぶって、『ただの通りすがりの者です』って顔で来なさる」
「……はい」
「髪の色、ご存じですかい? その帽子の下から、銀の髪がはみ出してるんでさあ。公爵家の銀です。市場で、知らねえ奴は、一人もいやせんでした」
私は、息を止めた。
「みんな、知ってやした。知ってて、知らねえふりをしてたんでさあ。お嬢様が、楽しそうだったから」
胸の奥で、何かが、かちりと動いた。
「お嬢様、市場にいらっしゃるときだけ、笑いなさる。値切るときの顔が、いちばんいい顔でさあ。だから、おれたちは、お嬢様が来なさる朝を、待ってたんで」
視界が、にじんだ。
大広間の真ん中で、泣くつもりなんて、なかった。けれど、こらえ方を、忘れてしまったようだった。頬を、熱いものがつたう。慌てて、手の甲でぬぐった。
「……変装、下手でしたか」
「へたでした」
ブルーノさんは、真顔で言った。
「でも、お嬢様の値切りは、見事でした。うちの孫が、真似して、算術が得意になりやした」
どこかで、誰かが、ぶっと吹き出した。
大広間は、いつのまにか、あたたかい空気に包まれていた。
殿下だけが、青ざめて立っていた。
「だが、手袋は……」
「殿下」
ブルーノさんが、もう一冊のノートを開いた。
「先週の水曜の頁です。『お嬢様、手袋を片方なくされたとのこと。右手だけにはめて、左は素手で銅貨を数える。しょんぼりしていた』。それから昨日まで、毎日、右手だけでさあ」
ブルーノさんは、殿下の掲げた手袋を、顎でしゃくった。
「その手袋、ようく見てくんな。左手用でしょう。なくしなすったのも、左だ」
殿下が、手の中の手袋を見た。確かめるまでもなかった。縫い目の向きが、左だった。
「なくしたのは先週。昨日の十時、お嬢様は市場。じゃあ、あの手袋を王妃陛下の部屋まで運んだのは、誰です」
「それは……」
その沈黙に、私は一歩、踏み出した。
「マノン。ひとつだけ、教えてちょうだい」
「は、はい……」
「昨日の廊下で、私を見たとき。私の左手に、手袋は、ありましたか」
マノンの目が、泳いだ。
「あ、ありました。白い、紋の入った手袋を、はめて……」
「私の左の手袋は、先週から、ございません。一昨日も、昨日も、市場の皆さんが、素手の左手を見ています」
私は、殿下の手の中の一枚を、指した。
「それが、なくなった左の一枚。……ないはずの手袋を、私は、昨日の廊下で、どうやってはめていたのかしら」
マノンの口が、開いた。何も出てこなかった。
殿下も、手袋を見たまま、動かなかった。
ブルーノさんが、にやりと笑った。
「さすがは値切りの名人だ。相手の言い値の穴を、一発で突きなさる。——ついでに、もう一つ。うちのノートには、お嬢様のことだけじゃなく、屋台の前を通った人間も、暇に任せて書いてありやす。一昨日の、昼の鐘のすぐあと。——『王宮の侍女服の女が、走って通る。左手の甲に、赤い火傷の跡。薬屋に飛び込んだ』」
マノンの肩が、びくり、と跳ねた。
「十時にお嬢様を見たって言う侍女さんが、その前の日に、市場の薬屋に飛び込んでる。おかしな話でしょうが」
ブルーノさんは、ゆっくり顔を上げた。
「侍女さん、あんたの左手、見せてくんな」
マノンは、咄嗟に左手を、背中に隠した。
隠した、その動きが、すべてを語っていた。
「違う……私じゃない。私は、本当に、アデライド様を……」
「一昨日の昼に、市場にいたのは、あんたでしょうが。薬屋の旦那も、そう言ってまさあ」
薬屋の主人が、人垣の後ろから、そろそろと手を挙げた。
「一昨日、その侍女さんから、紫の根の草を買われました。毒に使える草でして。あんまり慌てて買われるんで、覚えてたんでさあ。そういう草は、お名前を書いていただく決まりでして。ほら、ここに。『マノン』と」
マノンの膝が、崩れた。
床に、ぺたん、と座り込む。
「……王妃陛下の紅茶を、三度続けて、冷めたまま出してしまって。叱られて、三か月分の給金を、止められたんです。悔しくて、少しだけ、困らせてやろうと……毒といっても、腹を壊す程度の草で……手袋は、先週、お届け物で公爵家に伺ったとき、玄関の椅子に置いてあったのを、つい……」
「それで、罪を、アデライド様に着せた?」
声が、広間の奥から響いた。
「殿下が、先に、おっしゃったんです」
マノンは、泣きながら言った。
「アデライド様ではないか、と。私は、頷いただけです。違うと言ったら、私が疑われると思って……」
殿下が、ぎくりと肩を揺らした。さきほどの声の主を探して、広間中の視線が、入口のほうへ移った。
大広間の空気が、変わった。
扉の脇に、年老いた女官に肩を借りて、一人の女性が立っていた。淡い色のガウンの上に、肩掛け。顔色は、まだ少し青い。それでも、背筋は、まっすぐだった。
「王妃陛下……」
三百人が、一斉に膝を折った。
「ヴィクトル」
王妃陛下は、ゆっくりと殿下に近づいた。
「あなたに、聞きたいことがあります」
「は、母上、お体は」
「公爵家の御者が、泣きながら私の寝室の窓を叩きました。寝てなど、おれません。扉の外で、最初から聞いておりました。紅茶は、一口で味がおかしいと気づきました。大事には至っておりません。それより」
王妃陛下は、殿下の目を、まっすぐ見た。
「あなたは、アデライドが市場に通っていることを、知っていましたか」
「……いいえ」
「干しぶどうの値段を、言えますか」
「…………」
「五枚です。アデライドは、それを三枚まで値切れる。市場の者たちが、それを、毎朝、笑顔で見守っている。あなたは、この三年間、アデライドの何を見ていたのですか」
殿下は、口を開けて、閉じた。
「あなたは、証拠を見て、怒りました。けれど、人を見て、確かめることは、しなかった」
王妃陛下の声は、静かだった。静かで、冷たかった。
「ヴィクトル。明日から一か月、毎朝、市場の掃除に行きなさい。干しぶどうの値段を、自分の口で言えるようになるまで」
「は、母上、私は王太子で」
「箒は、王太子にも持てます」
殿下は、がくりと肩を落とした。
「アデライド」
「はい、陛下」
「あなたに、お詫びをします。私の息子が、愚かでした」
私は、深く頭を下げた。
けれど、言うべきことは、決まっていた。
「陛下。お気持ち、ありがたく存じます。……ただ」
顔を上げる。
「婚約は、私のほうから、解消を申し出ます」
殿下が、息をのんだ。
「理由は、お聞きにならなくても、お分かりになるかと」
「……分かります」
王妃陛下は、静かに頷いた。
「それでも、ひとつ、わがままを申し上げてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「干しぶどうの買い物は、これからも、続けさせていただきたく存じます」
王妃陛下の口元が、ほんの少し、緩んだ。
「五枚から、三枚までですね」
「いえ、陛下。四枚で手を打つ日もございます」
「それは、買い手として、少し甘いのでは」
「お客様次第、でございます」
どこかで、また、誰かが吹き出した。今度は、さっきよりも、もっと大きな笑いが、広間を満たしていった。
*
翌朝の市場は、いつもと同じ、朝の匂いがした。
魚の匂い、パンの匂い、濡れた石畳の匂い。
私は、帽子を、かぶらなかった。
銀の髪が、朝の風に揺れた。屋台の前を通ると、あちこちから、声がかかる。
「お嬢様、おはようございやす!」
「今日のパンは、いい焼けですよ!」
「昨日は、お疲れさまでした!」
知らないふりは、もうしなくていいのだ。それが、くすぐったくて、嬉しかった。
広場の端で、箒を持った殿下が、石畳を掃いていた。腰が引けている。靴磨きの少年が、にやにやしながら横を通った。
「殿下。干しぶどうは、いくらですか」
「……五枚、だ」
「正解です。ただし、お嬢様なら三枚まで落とします」
殿下は、私と目が合うと、慌てて箒に視線を戻した。私は、聞こえなかったふりをして、通り過ぎた。
干しぶどう屋の前に着くと、ブルーノさんが、新しいノートを開いて、待っていた。
「お嬢様。おはようございやす」
「おはよう、ブルーノさん」
「昨日の続きでさあ。今日の頁を、書かせてもらいやす」
ノートの新しい頁には、こう書いてあった。
『本日。お嬢様は、帽子をかぶっていない。皆、知らないふりをやめた』
私は、その下の余白に、指を置いた。
「ブルーノさん。今日は、三枚でどう?」
「お嬢様。今日は、いつもの手は通じやせんぜ。皆がもう、お嬢様の手を知ってやすから」
「じゃあ、三枚と半分」
「……三枚と半分、で、手を打ちやしょう」
ブルーノさんは、ペンの先を舐めて、ノートに書き足した。
『お嬢様は、五枚の干しぶどうを、三枚と半分まで値切った。笑っていた』
私は、そのひと言を、読み返した。
こんなふうに、自分の一日を、誰かが、毎日、書いてくれていた。三年間も。知らないうちに。
それは、公爵家の肖像画の百枚よりも、ずっと、あたたかい記録だった。
「お嬢様。涙、また出てやすぜ」
「……干しぶどうの粉が、目に入っただけよ」
「そりゃ、いけねえ」
ブルーノさんは、笑いながら、干しぶどうの袋を、一つ余分に包んでくれた。
「おまけでさあ」
「おまけは、いただけません。値切るのは好きだけど、タダでもらうのは、嫌いなの」
「そんじゃ、お嬢様。おまけじゃなくて——」
ブルーノさんは、袋の口を、ぎゅっと結んだ。
「三年分の、お礼でさあ」
結んだ袋は、ずしりと重たかった。
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