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氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


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第8話「氷の檻」

 八日目の朝、空は白金色に濁っていた。

 曇りとも快晴とも言い切れない、冷たい光の天井。雲は薄く広がり、太陽の位置だけが白い滲みになって見える。目を細めると、一瞬だけ春先の空にも錯覚するが、息を吸えばすぐに現実に戻される。喉の奥がキリキリと冷え、肺の内側が紙やすりで擦られたみたいに痛んだ。

 雪洞の壁は一晩でまた厚く凍り、霜の模様が前の日よりも複雑に絡み合っている。氷の小さな枝が何本も伸び、網のような檻を作っていた。

 千石は、寝袋から上半身を起こすと、いつもより時間をかけずに言った。

「……下る」

 未來が顔を上げ、三条と岸浪が視線を向ける。

「下る?」と三条。「どこへ」

「どこでもいい。どこかに出る」

 それは無茶な命令でも、特別な策でもなかった。ただ、「ここから動く」という意志だけが詰まった言葉だった。

 止まっていれば冷える。

 考え続ければ、頭の中でだけ雪崩が起きる。

 動かなければ、何も変わらない。

 動けば、少なくとも、違う場所で同じことを考えられる。

 三条は、一瞬だけ反対の言葉を探し、それを飲み込んだ。

「……わかった。下ろう」

 未來は無線機を手に取った。重さは、ほとんど感じない。感覚が麻痺しているのか、本当に軽くなったのか、自分でも判断がつかない。

「電源、まだ生きてるかわからないですけど」

「背負っていけ。最後まで持っていれば、それだけで意味がある」

 千石の声は、いつものように淡々としている。

 岸浪は日誌を胸ポケットに滑り込ませた。布越しに紙の感触が伝わる。硬く冷たいが、まだ折れるほどではない。

「日誌は?」

「持っていく。最後のページ、まだ空いてるからな」

 三条が立ち上がり、ストーブの火を消す。最後まで残った炎が、小さな舌のように揺れ、すぐに黒い芯だけになった。

 雪洞の天井に残る煤の跡が、短い歴史のように見える。

「赤い手袋は?」

 未來が、入り口近くに置かれたままのそれを見た。

 小さく、子どもの手のサイズ。

 色だけが、周りの白の中で異様に鮮やかだ。

 千石は一度だけ目を向け、すぐに視線を外した。

「……置いていく」

 誰も反論しなかった。

 持っていけば、重い。

 置いていけば、軽い。

 軽さは、歩き続けるための正しさの証明だと、今の彼らは信じるしかなかった。

     ◇

 ロープで互いの腰を結び直し、四人は雪洞から外へ出た。

 空気は冷たいが、風は弱い。

 昨日よりも遠くまで、地形がくっきりと見える。

 斜面の下方へと続く白い谷筋。

 その先に何があるのかはわからない。ただ、そこへ足を向けるしか選択肢はない。

「転んだら、ちゃんと言えよ」と三条。

「無言で引っ張ったら、全員巻き込まれるからな」と岸浪が続ける。

 千石が先頭で歩き出す。

 三条、未來、岸浪と順にロープが伸び、そのあとを追った。

 数歩進んだところで、未來が違和感に気づいた。

「……あれ」

 足元の雪を見下ろす。

 自分たちが今、踏みしめたばかりの雪面。その少し先に、すでに足跡があった。

 それも一つや二つではない。

 四人分の踏み幅とよく似た跡が、少し古びた形で続いている。

「俺たち、昨日ここ通ったか?」

 三条が眉をひそめる。

「いや。昨日は稜線の向こうに行って、そのまま戻った。こっちのルートは使ってない」

 千石の声に迷いはない。

「でも、足跡が……」

 未來はしゃがみ込み、その跡を指でなぞった。

 風に削られ、角は少し丸くなっているが、まだはっきりと形を保っている。

 四人分の靴底のパターンが、重なり合いながら続いていた。

 ふと、視線の先に、文字のような並びが見える。

「……文字、になってる」

 助けて。

 あの日、ベースの背後に刻まれていたのと同じ言葉が、今度は進行方向の雪面に描かれている。

 少し進むと、別の場所に。

 さむい。

 さらに歩けば。

 ごめんなさい。

 さようなら。

 それぞれの語が、途切れ途切れに、しかし一本の線で繋がるように配置されていた。

「誰が……いつ、書いた」

 岸浪は、足跡の深さを測るように雪を押した。

「踏み固められた回数から見て、そんなに前じゃない。風も強くなかったしな。昨日か、一昨日か……」

「俺たちが書いたのかもしれない」

 千石がぽつりと言った。

「ここを通る『別の俺たち』が、先に歩いて、後に歩いて、同じ場所を何度もなぞっている。足跡の線が輪になれば、文字にも見える」

「そんな、ぐるっと散歩してるみたいに」

 三条の反論は弱かった。

 助けて。

 さむい。

 ごめんなさい。

 さようなら。

 それらの語が、一本の糸のように繋がっているのは、偶然にしてはできすぎていた。

「全部、同じ線だよ」

 未來が呟く。

「順番を変えただけで、同じ線の上に乗っているだけ。最初から、私たちはずっと同じことしか言ってないのかもしれない」

 千石は、足跡から視線を上げた。

「下ろう。文字に付き合っている時間はない」

 四人は、既に刻まれた足跡の上をたどるように、斜面を下っていった。

 自分たちの足なのか、誰かの残した足なのか、判別できない跡の上を。

     ◇

 稜線を越えると、視界が一気に開けた。

 白い雪原がどこまでも広がっている。その真ん中に、ぽつんと黒い点が立っていた。

「あれ、なんだ」

 三条が目を細める。

「岩……にしては細すぎるな」

 千石は歩調を速めた。

 ロープが引かれ、三条と未來も自然と速度を上げる。岸浪が遅れないように足を運んだ。

 近づくにつれて、その輪郭がはっきりしてくる。

 細い棒。

 先端に翻る布。

 黒と赤を基調にした、救助隊の旗だった。

 風はほとんどないのに、布はゆっくりと膨らんだりしぼんだりしている。まるで呼吸するように。

「救助、来てる……?」

 未來の声は期待と恐怖が入り混じっていた。

 旗の根元には、長方形の影が並んでいる。

 四つ。

 雪面の上に、整然と横一列に。

 近づいて、それが何なのかを理解するまで、数秒のラグがあった。

 遺体袋。

 灰色の防水布で作られた袋が四つ、ファスナーを閉じられた状態で寝かされていた。

 一つ一つに、名札がついている。

 千石が、震える手で一番手前のタグをめくった。

 千石涼真。

 自分の名だった。

 隣の袋のタグには。

 三条柚衣。

 その隣には。

 加納未來。

 最後のひとつには。

 岸浪誠。

 四人は立ち尽くした。

 風は吹いていないのに、体が揺れる。

 足元の雪が、ゆっくりと沈んでいくような感覚。

「……悪趣味な冗談だな」

 三条が、乾いた声で言った。

「救助隊のブラックユーモアか?」

「そんな冗談、現場でやるわけがない」

 岸浪は、タグをもう一度見直した。

 字の形。

 インクのにじみ。

 隊員が手袋越しに書いたような、少し乱れた筆跡。

 どこからどう見ても本物だった。

 旗の根元には、見覚えのあるものがひとつ、置かれていた。

 赤い手袋。

 子どものサイズのそれが、雪の上にきちんと揃えて置かれ、薄く霜をまとっている。

 未來は、声を出す代わりに、胸の奥で何かが軋む音を聞いた。

 自分たちが、ここに「着く前」に、誰かがすべてを片付けていったような跡。

 遺体を収容し、タグをつけ、旗を立て、手袋を供える。

 まるで、自分たちの到着を待っていたかのように、完璧に整えられた光景。

     ◇

「……無線」

 千石の声に、未來ははっとして背中の無線機に手を伸ばした。

 電源スイッチを入れる。

 雑音が流れ出し、すぐに別の音に変わる。

「こちら収容班、極地ポイントE−7。遺体四体、収容完了。記録媒体回収。日誌、写真、機材。これより撤収を開始する」

 人の声。

 今度は、しっかりとした、明瞭な音声だった。

 未來は、息を呑んだ。

「ちょ、ちょっと待ってください、こちら……」

 慌てて呼びかけようとした瞬間、続けて別の声が重なる。

「ご遺族への連絡は本部経由で。千石隊長ほか三名、発見時刻は……」

 千石隊長。

 その言葉に、千石は思わず一歩後ずさった。

 三条が無意識にロープを強く握り、岸浪は手帳を押さえたまま固まる。

 声は淡々としている。

 任務として、日常の業務として、淡々と処理している。

 その響きが、どこか自分たちの声に似ていた。

 諦め方も、割り切り方も、記録の調子も。

「千石さん……」

 未來がマイクを差し出そうとした時、千石は手を伸ばしてスイッチを切った。

 無線は、再び静かな箱に戻る。

 砂嵐も、救助隊の声も、何も聞こえない。

「どうして切るんですか」

 未來の問いに、千石は少しだけ考えるような間を置き、答えた。

「……あれは、俺たちへの連絡じゃない」

 淡々とした言い方だったが、その奥に微かな震えがあった。

「俺たちの『外側』同士の会話だ。聞く権利は、もうあまりない気がした」

 日誌と無線と旗。

 それらが繋ぐのは、「ここにいた」という事実だけだ。

 今ここに立っている自分たちが、その事実のどこに位置しているのかを考え始めると、足元の雪よりも早く、心が崩れてしまいそうだった。

     ◇

 三条が、旗を見上げた。

 赤と黒の布が、わずかな空気の流れに合わせて揺れている。

「檻はさ」

 静かな声だった。

「外にあるんじゃないのかもしれない」

 未來と岸浪が顔を向ける。

「氷の壁でも、雪洞でも、時間の輪でもなくて。私たちの中にあるんじゃないかって思う」

「……どういう意味だ」

 千石が問う。

「助けてっていう言葉に、ずっと縛られてきた気がするんだよ」

 三条は、自分のブーツの先で周囲の雪を軽く蹴った。

「助けて、さむい、ごめんなさい、さようなら。全部、自分と誰かを檻の中に閉じ込める言葉だろ。中から、外に向かって投げる前提の言葉」

 未來は黙って聞いていた。

「でも、それを書いてるのがずっと私たち自身だったとしたら」

 三条は、救助旗の根元に置かれた赤い手袋に視線を落とした。

「外側なんて、最初からなかったんじゃない? 檻は透明で、透明だから見えなくて、見えないから『閉じ込められている』ことにも気づかないまま、ぐるぐる同じ場所を回ってきた」

「透明の檻……」

 岸浪は、胸ポケットの日誌の感触を確かめた。

「氷みたいだな」

 千石が言う。

「氷は透明で、触って初めてそこに壁があるとわかる。見た目は空気と同じなのに、殴れば骨が折れる。檻としては、これ以上ない素材だ」

 未來が、囁いた。

「じゃあ、どうすれば出られるんでしょう」

「出られないさ」

 三条は、あっさりと首を振った。

「たぶん、檻は割れない。そんな簡単な仕組みなら、とっくに誰かが出てる」

 そこで一拍置き、続ける。

「でも、ひびくらいなら入ると思う。少なくとも、『ここに自分がいた』って、誰かに伝えようとする行為は、全部氷に入る小さな亀裂だ」

 千石は静かに頷いた。

「……岸浪」

「はい」

「日誌を」

 岸浪は胸ポケットから日誌を取り出し、千石に手渡した。

 カバーはところどころ剥がれ、角は丸くなっている。

 何度も手袋で触れられた跡が、薄汚れとして残っていた。

 千石は、最終ページを開いた。

 そこだけ、まだ何も書かれていない。

 真っ白な紙。

 凍りかけているが、ペン先はかろうじて通りそうだ。

 千石は、ペンを握った。

 指先の感覚は鈍く、黒いインクが出るかどうかも怪しい。

 それでも、ペン先を紙に押しつける。

 ギリ、と紙の繊維を潰すような音がしたあと、ゆっくりと線が走った。

 ここに、私たちがいたことを証明する。

 一文字一文字、途切れないように書く。

 途中で手が震え、線が少しだけ歪む。

 それでも、最後まで書ききった。

 千石はペンを離し、インクが乾くのを待つようにページをしばらく見つめた。

「それで十分だ」

 ポツリと言って、日誌を閉じる。

 証拠は、誰のためのものでもない。

 今ここにいる四人のためであり、ここにもういない誰かのためであり、もしかしたらずっと先にここを通りかかる誰かのためかもしれない。

 それでも構わない。

 「証明した」という事実が、氷に入れたひびの一本になるのなら。

     ◇

 遠くで、氷が砕ける音がした。

 ベキ、と低く、長く。

 地面の奥で、大きな何かが体勢を変えるような、鈍い響き。

 空気がほんの少しだけ動き、頬を微かな風が撫でた。

 四人は旗の前に立ち、互いの肩を寄せ合った。

 分厚い防寒具越しでも、体温はぼんやりと伝わる。

 心臓の鼓動も、呼吸のリズムも、完全に重なることはないが、それぞれが確かに「まだここにいる」と告げていた。

「行こうか」

 千石が言った。

「どこへ?」

 未來が聞く。

「前へ」

 千石は、旗とは逆方向――稜線のさらに向こうへと、一歩踏み出した。

 誰かがタグをつけた、自分の名前の方ではなく。

 まだ名前のない白い世界の方へ。

 助けて、という文字は、もう雪に書かない。

 雪面はただの雪面でいい。

 足跡はただの足跡でいい。

 四人は旗から離れ、稜線の向こうへ向かって歩き出した。

 一歩ごとに、足跡が雪に沈む。

 重さと体温の形が、白の上に刻まれる。

 少し経つと、風がそれを薄く撫でる。

 輪郭がぼやけ、やがて、完全に消える。

「消えちゃいますね」

 未來が、振り返らずに言った。

「消えることは、終わりじゃない」

 岸浪が応じる。

「証拠は、氷の下に保存される。雪の層の間に挟まって、春まで。それか、誰かがここを掘り返す日まで」

 それは、救助隊かもしれない。

 別の調査隊かもしれない。

 あるいは、自分たちと同じように迷い込んだ、まだ名前もついていない誰かかもしれない。

 遠くで、ローター音が遅れて届いた。

 ヘリコプターの、重く一定の回転音。

 空気を切り裂き、雪面に微かな振動を伝える音。

 未來は、思わず振り向きかけた。

 だが、その肩を三条が軽く叩いた。

「振り向いたら、檻がまた形になる」

 未來は、唇を噛んで正面を向いた。

 千石も、前だけを見ている。

 白い世界の、わずかに色のある地平線。

 光の反射でうっすら灰色に見える割れ目や、遠くの雲の影が描く模様。

 その向こうに、何もないことを、なんとなくわかっていた。

 あるのは白と冷たさと、ほんの少しの風だけだ。

 それでも、そこへ歩いていく。

 氷の檻は、割れない。

 けれど、ひびは入る。

 一歩ごとに、透明な壁のどこかに、目には見えない細い亀裂が走る。

 音は静かだ。

 耳を澄まさなければ、気づかないくらい小さな音。

 それでも、確かな亀裂音だけが、少しだけ前へ進む答えを知っていた。

          《了》

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