表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/8

第7話「氷が砕ける音」

 七日目の朝、空はひどく澄んでいた。


 雲ひとつない。色だけ見れば快晴だ。けれど、その青さは冷たさの証明でもあった。頬に当たる空気は鋭く、鼻の奥がじんと痛む。遠くの稜線まで、いつもよりはっきり見える。


 音は、やけに遠く感じられた。


 風の唸りも、雪が擦れるかすかな音も、今までより一枚、膜を隔てた向こう側から聞こえてくるような気がする。雪洞の中で立ち上がった千石は、壁の霜を手の甲で払った。


「……今日行く」


 その一言に、三条が顔を上げる。


「どこへ」


「稜線の向こうまで。ビーコンを再起動して、救助を引き寄せる」


 未來が、思わず口を開いた。


「でも、ビーコンは……」


「壊れてると決まったわけじゃない」


 千石は、いつものように淡々とした声で言う。


「発電が死んだせいで沈黙しているだけかもしれない。向こう側まで行って、直接確認する。ここでじっとしていても、体温が落ちるだけだ」


 三条は反射的に反対しかけ、口を閉じた。


 止まるということは、冷えるということだ。

 じっとしていれば、考える時間が増える。

 考えれば考えるほど、これまで見たもの、聞いたもの、失ったものが頭の中を巡り、心だけが先に凍りついていく。


 動けば、少なくとも、考えずにすむ。


 三条は、ゆっくりと頷いた。


「わかった。行こう」


「未來と岸浪は、ベースを片付けろ。残すものと持っていくものを分ける。荷は軽いほうがいい」


 千石の指示に、未來と岸浪は顔を見合わせた。


 脱ぎ捨てられた防寒具。

 空になりかけの配給袋。

 壊れた発電機の部品。

 写真、日誌、赤い手袋。


 雪洞に積み上がったものたちは、もう「荷物」と呼べるほどの重さも意味も、ほとんど持っていないように見えた。


「必要最低限だけに絞る。医療品、燃料、予備手袋、ロープ……」


 岸浪は、紙切れにリストを書き出しながら、それでも最後に目を向ける。


 赤い手袋が、寝袋の端にちょこんと乗っている。


 小さく、軽く、濡れた跡すら乾ききっていない。


「これも……持っていきますか」


 未來が、つぶやくように言う。


 岸浪は手袋をつまみ上げ、しばらく黙って見つめた。


 雪庇の縁。

 写真の中央。

 床の破れ目。


 どこに置いても、この赤は目に入ってくる。


「持っていけば、重い」


 千石が背中越しに言った。


「置いていけば、軽い」


 三条も、手袋をじっと見た。


「軽くなるほうを選んだほうがいい。荷物も、頭の中も」


 未來は唇を噛んだ。


 持っていけば、不安が増える。

 置いていけば、罪悪感が増える。


 どちらを選んでも、胸のどこかには何かが残るだろう。けれど、今必要とされているのは「動くための軽さ」だ。


 岸浪は、静かに赤い手袋を床に置いた。


「……置いていきます」


 軽さは正しさの証明。

 そう自分に言い聞かせるように。


     ◯


 ロープで互いの腰を結び、彼らは雪洞を出た。


 空気は透き通り、稜線まで続く白い斜面がはっきり見える。距離にすれば、たいしたことはないように思える。だが、この気温と装備で登るには、十分すぎるほど長い。


 先頭は千石、その後ろに三条、未來、最後尾に岸浪。


 一歩ごとに雪が鳴る。


 ぎゅ、ぎゅ。


 単純で、冷たい音が、四人を繋ぐロープに伝わる。


 途中、千石は何度か立ち止まり、振り返って全員の表情と指先を確認した。凍傷はじわじわと進む。顔色と目の動きが、誰よりも正直だ。


「未來、呼吸は」


「大丈夫です。まだ……いけます」


 答えながら、自分の「大丈夫」に中身がないことを、未來はわかっていた。だが、他に言いようがなかった。


 稜線は、近づけば近づくほど急角度に見えてくる。足場は固いが、ところどころに風で削られた溝があり、踏み外せば深く足を取られそうだった。


 やがて、三条が前方を指さした。


「あれを見ろ」


 斜面の途中、白い丘の影に、不自然な凹みがあった。

 雪面がすり鉢状に落ち込み、中央に小さな黒い影が見える。


「雪洞……?」


 未來が眉をひそめる。


 千石は慎重に歩みを近づけ、周囲の雪質を確かめた。

 足元は固い。

 踏み抜きの危険は、今のところないらしい。


「古い雪洞だな。入口が凍って塞がっている」


 入り口と思しき部分には、透明な氷が厚く張り付いていた。中の空洞が見えそうで見えない、歪んだレンズのような板。


「中に、何かありますかね」


 岸浪が身を乗り出しかけたところで、千石が手を挙げた。


「離れろ。まずは様子を見る」


 ピッケルを構え、千石は氷の板を叩いた。


 カン、と乾いた音がし、続いて内部から鈍い反響が返ってくる。


「薄い。何度かやれば、砕ける」


 三条がロープを握り直した。


「崩れる前に、退路を確認しろよ」


「わかってる」


 二度、三度、千石は同じ場所を叩いた。


 やがて、低く、長い音が腹に響く。


 ベキ、と氷がひび割れ、そのひびが蜘蛛の巣のように広がった。


 氷は内側から押し出されるように砕け、ばらばらと雪面に崩れ落ちる。


 口を開いた空洞から、冷たい空気が吹き出した。

 今いる場所より、さらに奥の冷たさ。


「下がれ。空洞がどれだけ広いか、まだわからん」


 千石は慎重に入口を広げ、腰をかがめて中を覗き込んだ。


 暗闇。

 しばらく目を慣らすと、整えられた寝床が見えた。


 雪を均して作った床の上に、古い寝袋が二つ。

 その横には、壊れた無線機が転がっている。アンテナは折れ、ケーブルは引きちぎられたようにだらりと垂れていた。


「誰か、ここを使っていたんだな」


 三条が低く言う。


「いやな時間軸だな」


 未來は、入口のところで息を止め、さらに奥を見つめた。


 暗がりの隅に、箱のようなものが積んである。


「……あれ、日誌じゃないですか」


 岸浪の声が震えた。


 千石は慎重に中へ入り、箱の中から一冊を取り出した。

 表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。


 指をかけると、紙は硬く、冷たかった。

 だが、凍りついてはいない。

 ページは、ゆっくりとだがめくることができた。


 文字は震えていたが、読めた。


「隊長」


 岸浪が、雪洞の外から身を乗り出す。


「なんて書いてありますか」


 千石は、黙ったままページをめくり続けた。


 誰かの筆跡。

 ここでの気温、風向き、隊員の体調。

 淡々とした記録は、この雪洞が「誰かにとってのベースキャンプ」だったことを示している。


 そして――


 最終ページにたどりついたとき、千石の指が止まった。


「……なんだよ」


 三条が苛立ったように声をかける。


「ここで引っ張るな。内容は」


 千石は、ページを押さえたまま入口の方へ日誌を向けた。


 そこには、見覚えのある筆跡で、大きくひとこと。


 助けて


 文字は震え、紙を破りそうなほど強く書き込まれている。


 その下に、署名があった。


 岸浪誠


 雪洞の入口で覗き込んでいた岸浪は、一瞬、自分の目を疑った。


 自分の名前。

 自分の筆記癖に似た、インクのにじみ方。


 震えた笑いが、喉の奥から漏れた。


「……同姓同名、ってやつですかね」


 自嘲なのか、本気なのか、自分でもわからない。


 三条は首を振った。


「同姓同名にしても、筆跡まで似すぎてる」


 岸浪は、自分のポケットから今朝書いたメモを取り出した。

 並べてみる。


 文字の癖。

 「岸」の縦線の長さ。

 「浪」の最後の払いの角度。


 違いを見つけようとしても、見つからない。


「日付を見ろ」


 千石が、ページの端を指さした。


 そこには、彼らが遭難した日と同じ日付――の、一年前が記されていた。


「……一年前」


 未來がかすれた声で繰り返す。


「一年前に、ここで別の隊が遭難していたってことですか」


「そういうことになるな」


 千石の言葉は一応の理屈を示している。

 だが、その理屈は、全てを説明してはくれない。


「まさか、俺たち……」


 岸浪は自分の名前の上に指を置き、感触を確かめた。


 古いインク。

 乾いて久しい文字。


 自分がここに来たのは、一週間前だ。

 それなのに、自分の名前のついた日誌が、一年前の日付でここに存在している。


「極地調査は、同じルートを周期的に使うことがある。隊員の入れ替えもある。前にいた隊員と同じ名前の新人が来ることだって……」


 三条は言いながら、自分でその説明の薄さに気付いていた。


 千石は、黙って別のページの端に視線を落とした。


 一枚だけ、写真が貼られているページがあった。


 現像が甘く、少し色が抜けたような写真。


 そこには、四人の姿が写っていた。


 若い千石。

 今よりも線が細く、目の色に鋭さが残っている。


 若い三条。

 髪は短く、顔つきは今よりあどけない。


 若い未來。

 髪を後ろでひとつに結び、笑っている。


 そして、その三人の前に立つ、小さな影。


 赤い手袋をはめた子どもが、こちらに向かって手を振っている。

 顔は、光の加減で半分ほど陰になり、はっきりとは見えない。


 岸浪は、声を失った。


「……これ、俺、写ってないですよね」


「写っていないな」


 千石は静かに答える。


「隊員構成も、人数も、微妙に違う」


「けど、ここ、俺たちのいたベースですよね」


 三条が、写真の背景を指さした。


 雪洞の骨組み。

 テントの布の折れ方。

 後ろに立つ、特徴的な形をした雪庇。


 見覚えがありすぎる光景。


「時間は、極地でまっすぐ進むとは限らない」


 千石が、ぽつりと言った。


「風と氷と雪の中では、同じルートを、同じ季節を、何度もなぞることがある。時計の針みたいに、同じ位置を回り続ける。時間は、ここでは輪になりやすい」


「輪……」


 未來は、雪洞の入口から見える稜線を見上げた。


 同じ場所に戻るための円。

 閉じたループ。


 その輪のどこに、自分たちは立っているのだろう。


 岸浪は、もう一度、自分の名前の書かれた最終ページに目を落とした。


 助けて。


 あの日、雪に刻まれた文字と同じ言葉。


「これを書いたのが、一年前の俺だとして」


 自分で言って、自分で頭を抱えたくなるような仮定。


「今の俺たちは、その続きなんですかね」


「さあな」


 千石は、日誌を閉じた。


「ただひとつ言えるのは、ここにも同じような遭難隊がいて、助からなかったってことだ。俺たちがその写しなのか、やり直しなのか、別物なのかは……今考えても答えは出ない」


 三条は、写真の中の赤い手袋の子どもを見た。


「この子は、誰なんだ」


 誰も答えられなかった。


     ◯


 雪洞を後にし、稜線の向こうを目指しかけて、千石は足を止めた。


 三条が言う。


「ビーコンは」


「戻る」


 千石は短く答えた。


「今は、あのベースの状態をもう一度確認するほうが先だ」


「しかし……」


「もうひとつ、輪が閉じる前にな」


 千石の顔には、言葉の意味を説明する余裕はなかった。


 未來は、雪洞から離れる数歩のあいだ、何度も振り返った。

 砕けた氷の破片が、陽にきらきら光っている。


 その時だった。


 低く、長い音が、地面のずっと奥から響いてきた。


 ぎ……ぎぎ……ごう、と。


 氷の断裂が連鎖するときの音。

 見えないところで、大きな氷板が割れ、ズレ、また噛み合うような音。


 足元の雪が、わずかに震えた。


「……聞こえる」


 未來が立ち止まり、耳を澄ませる。


 遠くて、低くて、長い音。

 ただの地鳴りと片付けるには、どこかで「呼吸」を思わせるリズムがある。


 地面の奥で、何かが体を入れ替えるように動いている。


「氷河の動きだろう」


 三条が言った。


「いつからここにあると思ってる」


「でも……」


 未來の視線が、千石に向く。


 千石は口を閉じたまま、稜線の向こうを一度見上げ、すぐに雪洞のほうへ振り返った。


「急げ」


 それだけ言って、歩き出す。


 氷が砕ける音は、まだ続いていた。

 耳を塞いでも、骨を通じて体に伝わってくるような、重く鈍い響き。


 それは、世界がゆっくりと体勢を変えようとしている音のようにも聞こえた。


     ◯


 ベースに戻ってきたとき、夕方の光が雪面を薄く染めていた。


 テントは、形を保っていた。


 天井も、支柱も、布も、そのままだ。

 崩された形跡も、風で飛ばされた様子もない。


 ただ。


 中身が、なかった。


 寝袋はきちんと折り畳まれ、端に積まれている。

 器は並べられ、スプーンが揃えて置かれている。

 配給袋は空になり、たたまれて箱に収まっている。


 誰もいない部屋のかたちだけが、そこにあった。


「……俺たち、片付けてから出たっけ」


 岸浪が絞り出すように言った。


「畳む余裕なんて、なかったはずだ」


 三条も、信じられないという顔でテントの中を見渡す。


 千石は、ゆっくりとテントの壁に近づいた。


 内側の霜が、ところどころ拭われたように薄くなっている。

 その一枚の面だけ、霜の上に指で書かれた文字が残っていた。


 きみたちは もう たすかった


 ひらがなで、優しい言い回し。

 子どもが誰かを安心させようとして書いたような、丸い文字。


 未來は、その言葉を声に出して読んだ。


「きみたちは、もう、たすかった……」


 口にした瞬間、胸の奥で何かがきしむ。


 優しさの形をしているのに、どこまでも残酷だ。


 誰が書いた。

 誰に向けて書いた。


 外から来た誰かが、そう信じたくて書いたのか。

 中にいた誰かが、自分たちを信じさせたくて書いたのか。


 岸浪は、霜の文字に手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 触れれば、すぐに崩れる。

 それがわかっているから、触れられなかった。


 三条が舌打ちをした。


「こういうメッセージを残すときは、せめて署名をしていけよ」


 誰も笑わなかった。


 テントの中には、ベースとしての形だけが整えられ、そこにいたはずの「誰かたち」は、痕跡だけを残していなくなっている。


 まるで、自分たち四人が、すでにここを出ていったあとの空間だけが先に存在しているように。


 時間が、やはり輪になっているのだとしたら、この光景は「これから」の自分たちが片付けたあとの姿かもしれない。


 きみたちは もう たすかった


 この言葉が、過去からのものなのか、未来からのものなのかも、今の彼らには判別できない。


     ◯


 その夜、四人は輪になって座った。


 ストーブの炎はかろうじて灯り、弱いオレンジ色が顔の一部だけを照らしている。陰になった部分は、どこまでが人で、どこからが影なのか、判然としない。


 誰も、ほとんど喋らなかった。


 喋れば、何かがこぼれてしまう気がした。

 何をこぼしたのか、自分でももう確かめたくない。


 千石が目を閉じる。


 三条も、それに倣う。


 未來は、膝の上で手を握りしめ、そのまま瞼を下ろした。


 岸浪だけが、しばらく天井を見ていた。

 霜の模様が、古い地図の等高線のように見える。


 眠りは浅く、現実は薄い。


 まどろみの中で、境界が滲む。


 夢の中で、白取が言う。


「いないよ」


 何が、とは言わない。

 ただ、そう言う。


 東雲が、続けて言う。


「いるよ」


 足りないものがある。

 余分なものもある。

 どちらの言葉も、間違いではない気がする。


 ハンセンが、雪を踏む音がする。


 ぐっ、ぐっ、と独特のリズムで、少し癖のある足音。

 それが遠ざかるのか、近づくのか、わからない。


 赤い手袋の小さな手が、氷を叩く。


 こん、こん、と。

 控えめだが、はっきりとした音。


 叩かれている氷が、どこの、何の表面なのかは見えない。

 雪庇かもしれない。

 凍った湖面かもしれない。

 あるいは、自分たちを囲んでいる、透明な何かの壁かもしれない。


 音が、少しずつ変わっていく。


 叩く音から、砕ける音へ。


 ぱき、と細い亀裂が走る音。

 べき、とそれが広がる音。

 ごう、と塊が崩れ落ちる音。


 氷が砕ける音で、幕が上がる。


 ここまでが前座だったのか、それとも、すでにずっと前から本編は始まっていたのか。


 四人は、眠りと覚醒のあいだで、その音を聞いていた。


 世界のどこかで、氷が砕けている。

 それはきっとどこかで、新しい道が開く音でもあるはずだと、誰かが思った。


 けれど同時に、それが「下へ落ちる道」が開く音である可能性も、誰も否定できなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ