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氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


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第6話「記録の外側」

 六日目の朝、岸浪は最初に異変に気づいた。


 いつものように、寝袋から這い出し、ストーブの横に置いた日誌を取る。開こうとした瞬間、ページの端がかさりと音を立てた。


 紙の縁に、微細な霜の結晶が育っていた。


 白く、細く、針の束みたいな氷が、文字の上にかぶさっている。暖を取るための灯が足りず、紙の中の湿度ごと凍りつき始めていた。


「……マジかよ」


 岸浪は思わずこぼした。


 指でなぞると、結晶は簡単に砕けた。だが、その指先の感覚もまた、薄くなっている。


 ページをめくる。

 黒いインクが、所々でかすれている。

 視線が一行を追いかけようとしても、文字が同じ行に戻ったり、別の行に飛んだりする。


 どこが今日で、どこが昨日で、どこが「初日」なのか。

 境界が曖昧になっていく。


 記録の客観性は、体温と連動している。


 岸浪はそう痛感した。

 体温が落ちれば、事実はページから滑り出していく。


「どうだ、今日の俺たちは何人だって書いてある」


 背後から、三条の声がした。

 半分冗談のつもりなのはわかる。だが、そこには本当の確認の意味も含まれていた。


「昨日の欄には……隊員数、四。今も、変わってない」


「変わるなよ」


 三条がぼそりとつぶやく。


 千石がストーブをのぞき込んで、火加減を確認した。


「燃料は」


「あと一日ぶん、あるかないか」


 未來が答えた。


 発電機が止まってから、彼らは燃料の配分に神経を尖らせている。

 暖房か、照明か、お湯か。

何かを優先すれば、必ず何かが削られる。


 今は「暖房」がぎりぎり残されている状態だ。

 それでも、紙が凍るほどの寒さだという事実は変わらない。


     ◯


 未來は無線機を見た。


 黒い箱。

 冷えた金属。

 スイッチの位置は、暗闇でも指が覚えている。


「……電源、入れてみてもいいですか」


 誰も反対しなかった。

 もう何度も繰り返されている行為だ。

 雑音とノイズの海に、微かな救いを探す儀式。


 未來はスイッチを上げた。


 乾いたクリック音。

 次いで、耳に馴染んだ砂嵐の音が雪洞の中に広がる。


 しゃらしゃらと金属片を擦り合わせたような、規則性のない音。

 これまで何度も聞いてきた、何も告げない音。


 そのはずだった。


「……え?」


 未來の顔が変わった。


 ノイズの海に、帯を引くようにして、別の音が浮かび上がったのだ。


「こちら救助隊、応答せよ。こちら救助隊、応答せよ」


 驚くほど明瞭な、日本語の声だった。


 三条が飛びついた。

 千石も、顔色を変える。


「チャンネル固定。未來、そのまま」


「は、はい!」


 未來は震える指でダイヤルを押さえた。

 ノイズが揺れかけるが、声はそこから抜け落ちず、しっかりと残っている。


「こちら救助隊、聞こえる者は応答せよ」


 千石がマイクを奪い取るようにして手にした。


「こちら千石。こちら千石。隊員数は四。位置は……」


 そこで、声は途切れた。


 まるでスイッチを切られたように、音が、砂を噛むような雑音に変わる。


「ちょっと待て、こちら千石、聞こえるか。方位は、ベースキャンプから……」


 返事はなかった。


 雑音だけが、いつものように海の底で泡立っている。


 未來はマイクを握る手を口元に当てたまま、泣き笑いのような表情を浮かべた。


「今の……聞こえましたよね。幻聴じゃなくて、ちゃんと」


 三条は未來の手を握った。


「聞こえた。幻聴じゃない。受信した。電波を拾った。なあ、千石さん」


 千石は、しばらくマイクを握ったまま、何も言わなかった。


 やがて、静かに頷いた。


「ああ。確かに『救助隊』と名乗った。『応答せよ』と呼びかけた。俺が答えたところで切れた。事実は、それだけだ」


「でも、隊員数を四って……」


 未來が言いかけたとき、千石が先に口を開いた。


「今ここにいるのは四人だ。間違ってない」


 三条、岸浪、未來、千石。

 雪洞の中を見渡せば、その四つの影しかない。


 ハンセンの寝袋は、空っぽのまま。

 東雲と白取の分は、もう端に寄せられている。


「位置は、言えなかったな」


 三条が自嘲気味に笑う。


「自分でも、もうどこにいるかわかってない」


「救助隊が本物なら、また呼びかけてくる」


 千石の言葉に、未來がすがるような目を向けた。


「本物、ですよね」


「わからん」


 即答だった。


「だが、少なくとも俺たちが何かを『聞いた』のは事実だ。あれが外の世界の声か、俺たちの頭の中で作った声かは、今ここでは決められない」


「決めないで、どうするんですか」


「どっちだと思えば楽か、各自決めろ」


 千石の言葉は乱暴に聞こえるが、ある意味で公平だった。

 希望として受け取るか。

 別の恐怖として抱くか。


 三条は、まだ未來の手を握っていた。


「少なくとも、お前と俺は同じものを聞いた。それで十分だろ」


 未來は、こくりと頷いた。

 頷きながら、乾いた涙が目尻で固まっていくのを感じた。


     ◯


 夕方。


 岸浪は、写真を現像していた。


 発電機が生きていた頃に使っていた簡易現像キット。

 薬品も温度も、もう最適とはほど遠い。それでも、何も記録がないよりはましだ。


 狭い雪洞の一角で、赤いライト代わりの薄布をかけ、慎重にトレイを揺らす。

 液面に、白い紙が浮かんでいる。


 ぼんやりと、輪郭が浮かび上がる。

 人影。

 テントの骨組み。

 吹雪が弱まった一瞬の隙に撮られた、集合写真。


 白取が消える前日。

 まだ全員が、ここにいたはずの日。


「……あれ」


 岸浪は、目を凝らした。


 白い紙の上に、影が増える。

 端から順に数える。


 一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人。


 八人。


 指を止めた。


「おかしいな」


 思わず声が漏れる。


 千石が、背後から覗き込んだ。


「どうした」


「これ……白取が消える前日の集合写真です。全員で撮ったやつ。でも、数えると八人いる」


「八人?」


 千石の声が、低くなる。


 岸浪は、一人ずつ指先でなぞった。


 三条。

 未來。

 東雲。

 ハンセン。

 自分。

 白取。

 千石。


 そこで、画面の中央にいる人物のところで指が止まった。


 赤い手袋をはめた誰かが、こちらを向いて立っている。

 だが、その顔だけが白飛びしていた。


 露光オーバーで、輪郭が吹き飛んでいる。

 笑っているのか、無表情なのか、目を開けているのかどうかすらわからない。


「赤い手袋……」


 未來が、小さな声で言う。


 テントの床から見つかった赤い手袋。

 雪庇の縁で見た、凍った指先の布。


 同じ色が、写真の真ん中にある。


「露出のミスだ」


 千石が断言した。


「この一枚だけ、フラッシュが変な反射の仕方をしたんだろう」


「でも、人数が……」


「撮影の瞬間に誰かが横切ったんだ。ブレて、顔だけ飛んだ。そういうことはある」


 言葉は、理屈として間違ってはいない。

 だが「誰か」とは、誰なのか。


 岸浪は、唇を噛みしめた。


「赤城、ですかね」


 出してしまえば戻らない、とわかっていながら、名前がこぼれた。


 千石は表情を変えなかった。


「記録ミスだと言ったはずだ。名前も、人数も、写真も、全部『不完全な記録』だ。紙もフィルムも、俺たちの頭も、完璧じゃない」


「はい」


 岸浪は頷いた。

 頷いてみせた。


 だが、その頷きは、自分の腹の奥で何かが鳴る音を止めてはくれなかった。


 トレイの中で、写真の白がじわじわと濃くなっていく。

 中央の白飛びした顔は、最後まで何の情報も与えなかった。


     ◯


 夜半。

 ストーブの灯が限界まで絞られ、雪洞の中はほとんど闇に近くなっていた。


 千石が、銀色の小さなボトルを取り出した。


「アルコールだ。医療用に持ってきたやつを、少しだけ分ける」


 未來が目を丸くした。


「飲んでいいんですか」


「暖を取るには、本当は良くない。体表が温かくなって、芯の熱が逃げるからな。でも、今夜だけは、少しだけ負ける」


 三条が苦笑した。


「隊長が自分でルール破ってどうする」


「ルールを書いたのは俺だ。破るときに責任を取るのも俺だ」


 千石は、キャップを外し、アルコールを紙コップにほんの少しずつ注いだ。

 透明な液体の匂いが、雪洞に広がる。


 一口含む。

 喉が焼ける。


 それでも、その焼ける感覚が「暖かさ」として意識の表面に浮かぶ。


 未來はむせながら笑った。


「うわ、薬みたい」


「薬だよ」


 岸浪も口元を押さえながらうなずいた。


 ほんの少しのアルコールに、言葉がほどける。


 千石が、コップを見つめたまま静かに言った。


「……この中に、生きてる人間はいない」


 沈黙が落ちた。


 誰も、すぐには何も言わなかった。

 怒りも、反論も、驚きの声も、出てこなかった。


 怒りは体温を使う。

 ここにいる誰も、もうそんな贅沢はできない。


 静寂の中で、やがて三条が口を開いた。


「比喩で、だよな」


 千石は首を振らなかった。

 肯定も否定もしないまま、ただ言葉を継いだ。


「初日に滑落した。覚えている」


 その声には、妙な落ち着きがあった。


「俺たちは、最初の移動で雪庇を踏み抜いた。クランクが凍り、無線が切れ、風が一気に強くなって……足元の雪が崩れた。あの瞬間の感覚を、俺は覚えている」


 未來の背筋に寒気が走った。


「そんな話、初めて……」


「衝撃のあと、痛みがなかった」


 千石は淡々と言う。


「普通なら、骨を打ち、肉を裂き、何かしらの痛みがあるはずだ。だが、真っ白になって、気付いたら俺たちはこの雪洞にいた。ストーブを組み立て、配給を数えていた」


 岸浪が息を呑んだ。


「千石さん、それは……」


「俺たちは、戻れなかった。あの崩れた雪の下から。戻り損ねたものたちが、ここにいる」


 三条が、絞り出すように言った。


「この状態で、そんなこと言うなよ」


「だから、足跡は『助けて』と書く」


 千石の目は、燃え尽きかけの炎を映している。


「あれは、雪の上の文字じゃない。俺たち自身の声だ。助けてくれと叫んでいるのは、ここにいる俺たちだ。助けに来るのも、俺たち自身だ」


「自分で自分を助けに来るって、どういう……」


「記録だ」


 千石は日誌の方向をあごで示した。


「最初の日誌も、写真も、足跡も。あれは全部、俺たちがここにまだいると証明するために残している。だが、もし本当に俺たちが『もういない』側の存在だったら、それらは全部、救助隊に届くための手掛かりになる」


 未來は首を振った。


「そんなの、信じたくありません」


「信じなくていい」


 千石は穏やかに言った。


「俺だって、まだ半分も信じてない。ただ、そう考えたほうが辻褄が合う瞬間が、増えてきただけだ」


 三条が、深く息を吐いた。


「救助隊の声も、そうだって言いたいのか」


「かもしれない。俺たちの頭が作った『外からの声』。あるいは、雪の下で眠っている俺たちの体を、本物の救助隊が探していて、その声だけがここに届いている」


「オカルトにしても、悪趣味だ」


 三条の言葉には、怒気というより、疲れがあった。


 岸浪は、自分の手を見つめた。

 白くなった指先。

 霜でざらついた爪。


「じゃあ、日誌に書いてる俺は、何なんですか」


「記録係だろう」


「死んでるのに、記録してるんですか」


「死んだやつが書いた記録なんて、いくらでもある」


 千石は、冗談なのか本気なのかわからない調子で言った。


「遺書とか、遭難日誌とか。俺たちはただ、時間差でそれをやってるだけかもしれない」


 未來は、震える声で言った。


「じゃあ……私たちは、何を待ってるんですか」


 千石は答えなかった。


 代わりに、遠くで氷が砕ける音がした。


 ごう、と鈍い音。

 空気が入れ替わるような、世界が深く息を吸ったような音。


 雪洞の外で、何かが動いた。


 世界は呼吸をしている。


 呼吸は、生きているものだけのものじゃない。


 凍った湖も、氷河も、雪崩の前の斜面も、みんな、自分なりの「息」をしている。


 彼らがその事実に気づく頃には、「生きている」と「生きていない」の境界線もまた、日誌の文字と同じように、少しずつ歪み始めていた。

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