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氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


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第5話「体温の等式」

 第五日目の朝、雪洞に満ちていたのは、いつもと違う種類の静けさだった。


 風は弱く、壁を叩く音も少ない。

 その代わり、内部の音がやけにはっきり聞こえた。


 歯が鳴る音。

 布が擦れる音。

 腹の奥が小さく抗議するような、鈍い鳴動。


 ストーブの炎は、細い舌のように揺れている。

 火力が落ちているのは誰の目にも明らかだった。


「発電機が……止まってる」


 未來が囁いた。

 雪洞の片隅に積まれたバッテリーユニットの表示ランプは暗く、モニタ類も沈黙している。


 いつもなら、かすかな振動と低い唸りが足元から伝わってきた。

 それが、ない。


 三条が壁にもたれかかったまま、短く息を吐いた。


「東雲がいない機械は、素直に壊れるな」


 誰も笑わなかった。

 冗談として投げた本人でさえ、口元は笑っていない。


 発電機が止まったということは、照明も、追加のヒーターも、すべてが頼れないということだ。

 灯りは減り、代わりに「音」は増える。


 自分の体が立てる微かな音が、大げさに耳へ届く。


 歯の震え。

 寝袋の布地が、互いに擦れるざらついた音。

 中途半端に満たされた胃袋が、空の隙間で小さく鳴る音。


 千石は手袋を外し、自分の指先を見つめていた。

 爪の先から第二関節にかけて、赤と白がまだらになっている。


「感覚は」


 三条が問う。


「ある。鈍いが、まだいける」


「嘘をつくと、凍傷になる」


 そう言って、三条は千石の手を取った。

 自分の掌で包み込むようにし、ゆっくりと揉む。

 冷えきった指先に、じわじわと血が戻ってくる。


 そのたびに、千石の顔が歪んだ。


 鋭い、反射的な痛み。

 まるで針をまとめて刺されたような、焼ける感覚。


 千石は声を上げなかったが、眉間の皺が深く刻まれていく。


「冷たさを感じなくなるほうが、よっぽどまずい。痛いなら、生きてる証拠だ」


 三条が淡々と言う。

 自分の指の先も、同じようにじんじんと痺れていた。


 それでも、千石の表情を見ていると、なぜだか胸がざわついた。

 この反射痛は、凍傷のせいだけではないような気がした。


     ◯


「……配給、また減らすしかないな」


 岸浪が、配給袋とノートを前にしてうなだれた。


「燃料の持ちも計算に入れると、このままの量じゃ一日半で尽きる。今日からさらに一割カットだ」


 未來が顔を上げる。


「もう、ほとんど食べてないのに」


「ほとんど、だろ。ゼロじゃない」


 思ったより強い声で言ってしまい、岸浪は慌ててトーンを落とす。


「誰かが、食べているんだ。計算上は合っていたはずなんだ。袋の数も、重量も、初日に全部録った。なのに減っている。どこかで、誰かが誤差を作ってる」


 その言葉に、雪洞の中の空気がまた冷たくなった。


 「誰かが食べている」。


 三日目にも浮かびかけた嫌疑が、再び形を持って現れる。


 視線が、自然と互いを巡る。

 長くは合わない。すぐに逸らされる。

 逸らした先に、薄く凍ったテントの内側がある。


「……もうやめませんか」


 未來が、小さな声で言った。


「こんなふうに疑っても、何かが増えるわけじゃない。減っていくのは、食料と、喋る言葉だけで」


「減っていくものの中に、自分の命が入ってるんだ。簡単にはやめられない」


 三条の言葉は冷静だが、その目には疲労が滲んでいた。


 息が浅くなる。

 凍える空気を深く吸い込めば、肺の内側まで凍りつきそうで。


 浅く、短く。

 その浅さがまた「何か隠している呼吸」に見える。


 誰も、自分の息の音を信用できなくなりつつあった。


     ◯


 昼。

 外は静かだったが、視界はまだ白さに霞んでいた。


 ハンセンが、唐突に言った。


「……足跡の文字、逆に利用できないか」


 全員の視線が向く。


「足跡の文字?」


 未來が訊き返すと、ハンセンは膝の上で指を組んだ。


「これまで向こうから一方的に書かれてるだろ。『助けて』とか『さむい』とか。なら、こっちからも書いてみよう」


 三条が顎を引く。


「通信、ってことか」


「そう。こっちが意図的にメッセージを書いて、それに向こうが反応したら、少なくとも『何かが意思を持っている』ことはわかる。それに……」


 ハンセンは、すこしだけ言いよどんでから続けた。


「こっち側の書いた足跡も、全部残るだろ。『助けて』に並べて、こっちからも返事を書けば、書いた足の型で、犯人が絞れるかもしれない」


 沈黙。


 論理は、たしかに正しい。

 文字を書くには足がいる。

 自分で書いたなら、その踏み幅、体重、癖が雪に刻まれる。


 千石が顎に手を当てた。


「……つまり、こうだな。全員で、決まったメッセージを書く。その足跡を俺たち自身が記録しておく。そのうえで、もし明日、俺たちの知らない文字が増えていたら、その足跡と照合する」


「そう。犯人が『中の誰か』なら、必ず足跡のどこかに痕跡が重なる。外からのものだったら、それはそれで、別の問題がはっきりする」


 未來は不安げに眉を寄せた。


「そんなことして、もし……本当に『外から』だったら?」


「そのときは、そのときだ」


 ハンセンは笑った。

 その笑顔は寒さでひきつっていたが、どこかで自分を試すような色もあった。


「少なくとも、このまま何もせずに、文字だけ増やされるよりはマシだと思う」


 千石は短く頷いた。


「やってみよう。メッセージは……そうだな」


「『だれがいる』、はどうでしょう」


 未來が提案した。


「ストレートだが、いいな」


 三条がうなずいた。


     ◯


 風が弱まった隙を見て、全員で外に出た。


 ロープで互いを結んだまま、例の場所へ向かう。

 雪面にはこれまでに刻まれた文字の名残が、少しだけ残っていた。


 助けて

 さむい

 あと なににち

 ごめんなさい


 凍りかけた文字の横に、彼らは新しい空白を見つけた。


「ここに書くぞ。未來が字を決めたんだ。最初の『だ』は未來が書け」


 千石に言われ、未來は足袋の上からブーツを確認し、雪の上に立った。


 左足で円を描く。

 右足で払う。

 雪を削って一筆ずつ、ひらがなを刻む。


 だ


 うまくいった、と思った瞬間、足の裏にぞわりとした違和感が走った。


 雪の下に、何か硬いものがある。

 骨のような、氷のような、区別のつかない手触り。


「……未來」


 後ろから三条の声が飛ぶ。


「一画が深すぎる。足が埋まると危ない。もっと浅く削れ」


「は、はい」


 未來は一度足を引き、もう一度、慎重になぞった。


 れ


 が


 い


 る


 その後ろに、千石、三条、岸浪、ハンセンが順番に足を乗せるようにして、文字をなぞり、踏み固めた。


 誰がどの部分を踏んだかを岸浪がノートに記録する。

 踏み幅、足の癖、体重で出来る窪みの深さ。


 ハンセンが最後に、全体を見渡した。


「よし。あとは、こっちの足跡をちゃんと覚えておくだけだ」


 未來は足先を見つめた。

 雪に刻まれた自分の文字。

 それが明日、どう扱われるのか。


 答えは、明日しかわからない。


     ◯


 その夜、雪洞の内部は一段と冷えた。


 燃料は、もう残り少ない。

 ストーブの炎は細く、照明の代わりにヘッドランプを使う時間が増えた。


 未來は、寝袋の端を握りしめたまま、口を開いた。


「……私です」


 全員の視線が、一斉に向く。


「何が」


 千石が穏やかに問う。


「配給を……一度だけ、増やしました。どうしても眠れなくて、体が冷えて。勝手に手が動いてて……気付いたら、口の中に」


 唇が震え、言葉が途切れる。


 誰もすぐには何も言わなかった。


 未來は、さらに続ける。


「一度だけです。本当に。それなのに、袋の数が合わなくなって……怖くて……言い出せなくて」


 涙が、凍るには至らない温度で頬を伝う。


「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 千石は、しばらく未來を見つめていた。

 そして、短く頷いた。


「言ったな」


「……はい」


「なら、もういい。今ここで言った。それでお前の分は終わりだ」


 未來は顔を上げた。


「許して、くれるんですか」


「許さない理由があるか」


 千石の声は静かだった。


「ここでは誰だって、いつ、我慢の糸が切れるかわからない。食べ物に手を伸ばしたことを責めるなら、俺たちは全員、明日には互いの喉元に手をかけてる」


 三条が、苦い笑いを漏らす。


「立派な隊長の言葉だな」


「本心だ」


 千石は言い切ったあと、小さく息を吐いた。


「ただ……」


 その「ただ」が、雪洞の中をまた冷やす。


「誰かが真っ先に罪を名乗り出ると、残りの『何か』が固まる。そういうもんだ」


 未來は意味がすぐにはわからず、瞬きをした。


「どういう……」


「本当の配給の誤差が、未來の分だけで説明できるなら、楽だ。だが俺たちはすでに、数日分のズレを抱えてる。お前の告白で、その全部がチャラになるわけじゃない。むしろ、他にあるかもしれない『誤差』が、顔を出しにくくなる」


 三条が低く言う。


「真っ先に罪をかぶったやつがいると、残りの罪は『沈黙』って形で固まる……か」


 岸浪はノートを見つめたまま、小さく頷いた。


「統計上も、そういう傾向はある。最初の告白で、集団の安心感が一時的に上がる。そのあと、別の違反が発覚すると、全員の信頼が一気に崩れる」


「やめろ。今は研究室じゃない」


 三条の言葉には、とげはないが、疲労が色濃い。


 未來は膝の上で拳を握った。


「でも……言わないよりマシだと思って」


「それは間違ってない」


 千石は即答した。


「だから、もういい。未來の話はここまでだ」


 許しは、たしかに暖かかった。

 それでも、雪洞の空気は一段と冷えた気がした。


 許されたという事実が、かえって他の誰かの沈黙に影を落とす。

 もし他にも何かをした者がいるなら、その口は一層、開きにくくなる。


 「体温の等式」は、誰か一人の告白で解けるほど単純ではなかった。


     ◯


 夜も更けたころ、岸浪が何気なく寝袋をずらした。


 テントの床材が、わずかに破れている部分。

 その裂け目から、何かが覗いていた。


 赤。


 岸浪は一瞬、凍りついたように動きを止めた。

 次の瞬間、破れ目を指で広げる。


「……手袋だ」


 そこに挟まっていたのは、片方だけの手袋だった。

 赤い。

 氷に汚れてくすんでいるが、もともとは鮮やかな色だったのだろう。


 サイズは小さい。

 明らかに、今ここにいる誰のものとも違う。


 子どもの手にちょうどいいくらいの大きさ。


「どこから……」


 未來が身を乗り出す。


「さっきまで、ありませんでしたよね」


「気付かなかっただけかもしれない」


 岸浪はそう言いながらも、自分の声に力がないことを自覚していた。


 千石が手袋を受け取り、裏返してみる。


 名前も、タグもない。

 ただ、内側の布地がすこしだけ擦り切れている。


 赤い手袋。

 雪庇で見た、あの凍りついた指先の布を思い出させる色。


 三条が、呟くように言った。


「……赤城」


 その名が、凍った空気の中で輪郭を帯びた。

 誰だ。

 いつからいた。

 いついなくなった。


「最初から、そんなやつ、いなかっただろ」


 自分から口を開いたくせに、三条の声には焦りが混じっていた。


「日誌には、書いてあります」


 未來が震える指で、ノートのページを示した。

 赤くにじんだインクの跡。

 雑に消された線。


「でも、俺たちの記憶には、いない」


 三条は両手をこめかみに当てた。


「低体温になると、記憶が錯綜する。実際にはいなかった人間の名前を思い込むことだって……」


「それ、自分に言ってますよね」


 未來の言葉は、責めるというより、ただの確認だった。


 三条は目を閉じた。


「……ああ。そうだな」


 自分に向けた鎮静剤。

 効いた気がするのは、最初の一錠だけだ。


 岸浪は、赤い手袋を寝袋の上にそっと置いた。


「明日、雪庇まで持っていこう。何かの手がかりになるかもしれない」


 誰も反対しなかった。

 ただ、それが「誰の手」に戻ることになるのかを想像しないようにしていた。


     ◯


 その夜明け前、千石は突然、目を覚ました。


 寒さで、ではない。

 何かが違う、と体が先に気付いた。


 横に寝ていたはずの重みが、消えている。


「……ハンセン?」


 暗闇に呼びかける。


 返事はない。

 寝袋は空っぽで、まだ、さっきまで人がいた温度をわずかに残している。


 千石は急いで身を起こし、周囲を見渡した。


 未來は丸くなって寝ている。

 岸浪はノートを抱えたまま半ばうつぶせで眠り、三条は壁際でその肩を預けている。


 誰も、ハンセンの不在に気付いていない。


「起きろ」


 千石は全員を揺さぶった。


「ハンセンがいない」


 未來の顔色が、一瞬で血の気を失った。


「外……?」


 三条が雪洞の出口を確認しに行き、そこで動きを止めた。


 出口の雪壁は、内側から滑らかに磨かれていた。

 まるで、誰かが素手で、時間をかけて撫で続けたかのように。


 そこに手袋の跡はない。

 ただ、細かな擦り傷のような線と、溶けた雪が再び凍りついた光沢だけが残っている。


 外へ出る穴は、小さかった。

 大人一人がようやく這い出せるくらいの、狭い通路。


 千石はそこをくぐり、外へ出た。


 空は蒼白く、風はほとんどない。

 息を吐けば白くなり、その白さがすぐに薄い青に飲み込まれる。


 雪面に、足跡があった。


 一列。

 まっすぐ。

 遠くへ向かって続いていく。


 その起点に、文字が刻まれていた。


 さようなら


 ひらがなの一本一本を、丁寧に踏んでいる足跡。

 踏み幅は、ハンセンのものによく似ていた。


 未來が震える声を漏らす。


「……追いますか」


 その問いに、誰一人として「追う」と言わなかった。


 追って見つけるものを、誰も見たくなかった。


 氷のように冷たい現実か。

 それとも、足跡の先で待っている「何か」の姿か。


 千石はしばらく雪面を見つめていたが、やがて目を閉じた。


「戻る。これ以上、体温を無駄にはできない」


 体温。

 体の温かさだけが、確かなものとして残っている。


 誰のものが、どれだけ残っているのか。

 何度、等式を書き直しても、答えは減る方向にしか動かない。


 雪洞へ戻る途中、未來は思った。


 足跡は文字になり、文字は嘘になり、嘘は体温を奪っていく。

 等式のどこかで、ずっと間違えている気がするのに、書き直し方がわからない。


 背後で、ハンセンの足跡は、静かに白に飲み込まれていった。

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