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氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


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第4話「雪庇の下」

 第四日目の朝、風は嘘みたいに弱まっていた。


 昨日まで雪洞を揺すっていた唸りは止み、代わりに、耳が痛くなるほどの静寂があった。空は薄い灰色で雲は低いが、視界はある。白一色の世界に、うっすらと遠くの起伏が浮かんで見えた。


 千石は、外へ出る前に全員を集めた。


「今日は全員で雪庇まで行く。白取を見つけた場所だ。確認しなければならないことがある」


 誰も反対しなかった。反対できる空気ではなかった。


 東雲が消えて二日。

 文字は増え、食料は減り、雪洞は、何か見えないものと一緒に縮んでいる気がした。


 千石は一本のロープを取り出し、淡々と指示する。


「全員、腰に通せ。間隔は三メートル。転倒したら、必ず声を出すこと。無言で引っ張るな」


 三条が無言でロープを受け取り、未來は手袋の上からかじかんだ指で結び目を作る。ハンセンは黙ったまま、自分の結びを二度確認した。岸浪は最後尾で、ロープの余りを巻きつけながら、視線だけで人数を数えた。


 千石、三条、未來、ハンセン、岸浪。

 そして、先頭に立つ男の背中。


 六つ。


 数は合っているはずなのに、岸浪はなぜか、数え直さずにはいられなかった。


     ◯


 外気は、風が緩んだ分だけ冷たさをはっきり伝えてきた。


 一歩出るたび、靴底の下で雪がきゅっ、きゅっと鳴る。

 口数は少ない。誰も余計な話をしない。息だけが会話になっていた。


 千石が先頭で歩幅を決め、それにあわせて全員が雪面を踏みしめていく。ロープが細い蛇のように伸びたり縮んだりし、もし誰かが突然消えても、最低限の手がかりだけは残るように。


 未來は歩きながら、見張り窓から見ていた世界との違いに戸惑っていた。


 竹竿の位置。雪面の起伏。遠くの白い丘の形。


 すべてが、微妙にずれている気がする。


「……ここ、本当に同じ場所?」


 思わず漏れた声を、前を歩く三条が拾った。


「風が運んだんだろ。雪も目印も、全部」


「雪洞ごと運ぶ風なんてありますか」


「あるとしたら、今のここだ」


 三条の声は荒くないが、余裕もない。未來はそれ以上何も言わず、自分の呼吸音に集中した。


 やがて、千石が手を上げて合図する。

 全員が足を止めた。


「ここだ」


 視線の先に、白い縁があった。


 雪庇。

 空中に張り出した雪の棚。下は空洞。

 踏み抜けば、そのまま飲み込まれる。


 千石は姿勢を低くし、腹這いになって縁に近づく。ロープがたるみ、後ろの三条と未來がそれを慎重に支えた。


「一歩も前に出るな。ここから先は俺だけだ」


 千石の声は、風よりも低く響いた。


     ◯


 雪庇の縁には、スコップの新しい痕があった。


 それは明らかに、昨日、あるいは一昨日とは違う形をしている。誰かが最近になって、ここを掘ろうとした痕だ。


 千石は指先で雪を払った。

 硬い感触がある。布だ。


 わずかに露出した布の端。

 そこから、白く凍った指が一本、こちらに伸びていた。


 三条が反射的に身を乗り出した。


「引き上げられないか」


 千石はすぐに手を伸ばし、その腕を押さえた。


「駄目だ。ここで崩れたら、一緒に落ちる」


 雪庇の下から、不気味な静けさが這い上がってくる。

 どれほどの空洞が、どれほどの深さで口を開けているのか、誰にもわからない。


 ハンセンが杭を打ち始めた。

 雪庇に近づきすぎない位置に、安全のための支点を作る。

 金属が雪を貫く鈍い音が、妙に遠く聞こえた。


 岸浪は震える手でカメラを取り出した。

 記録係としての習慣は、こんな状況でも体から抜けない。


「撮るぞ」


 ファインダー越しに見る世界は、肉眼よりも単純で、残酷だった。

 白一色の中に、布の色と、指の色だけが浮いている。


 そこで、未來がぽつりと言った。


「……この手、赤い手袋じゃない」


 全員の視線が、指先から布へ移った。


 赤。

 鮮やかな赤。

 凍りついて色を失っているはずなのに、その布だけは妙に目立っていた。


「白取の手袋は青だったはずだろ」三条が低く言う。「東雲は黒だった。ハンセンはグレー。俺は…」


 彼は言いかけて、自分の手袋を見た。

 厚手の紺色。

 未來は青と白の二重、岸浪は焦げ茶、千石は黒。


 赤は、いない。


「誰のだ、これ」


 誰も答えられない。

 答えが出ないという事実だけが、雪庇の上に重くのしかかった。


 あの記録の中の名前が、未來の脳裏をかすめた。


 赤城。


 口に出しかけて、未來は唇を噛んだ。

 言ってしまったら、認めることになる。

 「知らないはずの人間が、最初からここにいた」という前提を。


     ◯


 そのとき、低い音が鳴った。


 ばき、とも、べき、ともつかない。

 乾いた木の枝を折る音にも似ているが、もっと重く、もっと広い。


 雪庇が割れた。


「下がれ!」


 千石の叫びと同時に、縁が大きく裂け、雪の棚がゆっくりと傾いた。

 空洞が口を開ける。

 真っ白な壁の向こうに、灰色の闇が広がる。


 中が見えた。


 折れたテントポール。

 二つの寝袋。

 そして、氷の壁に擦りつけられたような、長い、長い擦過痕。


 三条は息を飲んだ。


 それは、人が中から這い上がろうとした痕に見えた。

 爪で、指で、氷を引っかき、何度も何度も滑り落ちながら、出口を求めた軌跡。


 だが、おかしい。


「指の本数が……足りない」


 三条は、思わず口にしてしまった。

 氷に刻まれた線は多い。だが、それが一本の手から出た痕として数えると、本数が合わない。四本で止まっているもの、三本で途切れているもの。人の両手が残す傷跡とはどうしても一致しない。


 まるで違う形の手が、いくつもいくつも重なって、壁を引っかいたようだった。


 胃の奥がひっくり返りそうになり、三条は口を押さえた。

 吐き気をこらえる。


 千石は、一瞬だけ視線を氷壁に滑らせ、それ以上見ないようにするように顔をそむけた。


「戻る。これ以上、ここにはいられない」


 その声には、明らかな怯えが滲んでいた。


     ◯


 帰路、風はほとんどなかったはずなのに、雪はさっきより深く感じた。


 未來は足を取られ、体が前に投げ出される。


「あっ」


 ロープがぴんと張った。

 背中に強い引き。腰の結び目が軋む。


 ハンセンがすぐに体重をかけ、反対側からロープを引く。

 千石も前から引き上げた。


「大丈夫か」


「だ、大丈夫……すみません」


 未來は膝をつき、息を整えた。

 雪面に手をついた掌がひやりとして、そこから冷気が腕を這い上がってくる気がする。


 立ち上がった瞬間、遠くから低く長い音が響いてきた。


 ごう、とも、ぐう、とも言えない。

 地の底で誰かが息を吐いたような、鈍くゆっくりとした音だった。


 風の音ではない。

 雪崩の音とも違う。


 誰かがぽつりと呟いた。


「……呼吸みたいだ」


 誰が言ったのか、はっきりしない。

 ロープで繋がれた六人のうち、確かに誰かの声ではあった。


 しかし振り返っても、誰一人として「自分が言った」とは言わなかった。


     ◯


 夜。

 雪洞の中は、ストーブの火が弱まり、光と影の境界が曖昧になっていた。


 岸浪が日誌を膝に乗せ、声に出して読み上げる。

 初日から順番に、いつもの習慣のように。


「第一日。気温マイナス三十五度。移動距離十八キロ。隊員七名、全員体調に大きな問題なし……」


 未來は、その一文に引っかかった。


「七名……?」


 今は六人。

 白取が消え、東雲が消えた。

 それを差し引いても、計算が合わない気がする。


「最初、何人でしたっけ」


 未來の問いに、千石が答える。


「八だ。白取、東雲、三条、岸浪、未來、ハンセン、俺……」


 そこで少しだけ間があった。


 言葉が一つ、抜け落ちた隙間のように。


「一人、抜けてませんか」


 未來は日誌を覗き込む。

 岸浪がページをめくり、初日の名簿の欄を指さした。


 そこには、確かに七つの名前が並んでいた。


 千石

 三条

 岸浪

 未來

 東雲

 白取

 ハンセン


 七名。

 見慣れた名前。


 その下に、一本の線が引かれている。

 もともと何かが書かれていたような、かすかな跡。


 未來は、別のページをめくった。

 二日目の欄。

 三日目の欄。


 そこには、殴り書きのように一つの名前が残っていた。


 赤城


 その周りだけ、インクがにじみ、指で何度も擦られた跡がある。


「赤城……誰ですか」


 雪洞の空気が、ぴんと張りつめた。


 三条は眉をひそめる。


「そんな名前のやつ、最初からいないだろ」


「でも、ここに……」


 未來は言いかけて、指先を見た。

 自分の指が震えている。

 紙の余白に触れた跡が、細かく揺れている。


 千石が、日誌を取り上げた。


「記録ミスだ」


 短く、強く、言い切る声だった。


「極地では、疲労で書き損じることなんて珍しくない。赤城は誰かの癖字だ。赤い旗、赤外線、そんなメモを書こうとして誤って……」


 千石自身、その説明に説得力がないとわかっているような顔をしていた。

 しかし「そうだ」と言い切ってしまうことで、別の可能性を封じようとしている。


 未來は反論できなかった。

 する気力もなかった。


 自分の指の震えを止めようと、余白を親指で撫でる。

 にじんだインクが、ほんの少しだけ指先に移る。


 赤城。


 知らない名前のはずなのに、その二文字が、雪洞の内側のどこかに張り付いているような気がした。


     ◯


 その夜、雪は文字を抱かなかった。


 朝から続けていた足跡のいたずらも、雪面のメッセージも、何もない。

 テントの周りには踏み荒らされた跡だけが残り、新しい線は一本も刻まれていなかった。


 岸浪は、見張り窓の下で小さく呟いた。


「今日は、何も書かれてないな」


「いいことじゃないですか」


 未來は、そう答えた。

 そう言うしかなかった。


 外からのメッセージがないのは、何かが終わった合図なのか。

 それとも何かが始まる前の静けさなのか。


 わからないまま、全員が寝袋にもぐり込んだ。


 ストーブの火はさらに小さくなり、雪洞の天井に映る影が揺れる。

 人数分の影。

 六つ。


 ……のはずだった。


 未來は、ふと目を開けた。

 薄暗い中で、天井に揺れる影の数を数える。


 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。


 そこまではいい。

 しかし、視線を少しずらすと、テント布の端、見張り窓のそばに、もう一つ、細い影が揺れているのが見えた。


 風が布を揺らす影かもしれない。

 誰かの腕の先が伸びて映っているだけかもしれない。


 そう思い込もうとしたのに、その影は、他のどれとも違う動きをしていた。


 じっと立ったまま、微かに首を傾けるように揺れている。


 中からの光を受けているのに、影の元になっているはずの人影が、どこにも見当たらない。


 未來は声を出せなかった。

 喉が凍りついたように動かない。


 目を閉じることもできず、その余分な影だけを見つめていた。


 雪洞の外では、かすかに氷の軋む音がした。

 遠くで、大きな何かが身じろぎするような音。


 七つ目の影は、しばらく揺れていたが、やがて、ゆっくりとテント布の外側へ溶けるように消えていった。


 そのあとに残ったのは、六つの影と、凍りついた沈黙だけだった。

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