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氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


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第3話 配給表の嘘

 三日目は、覚悟していた以上に残酷だった。


 朝から風は唸り、やがて白い巨獣のようになって雪洞を叩きつけ始めた。

 視界は二メートル。白と白の境界線すら消え、空も地面も一つの平面に潰れた。

 耳を裂くような風音が、布地の骨を軋ませる。


 ブリザードだ。

 この状況で外へ出るのは自殺行為だった。


 雪洞に閉じ込められた全員は、火の前で黙りこんだ。

 ストーブの燃料残量は少なく、炎は細く揺れ、心細い光を放っている。


 三条は紙切れを取り出し、ペンを走らせた。

 そして火の前に貼る。


 外気への露出は一分以内。

 手袋の外し時間は片手十秒以内。

 湿った靴下は必ず交換。

 睡眠は二人組。


「耐寒ルールだ。守らなきゃ死ぬ」


 理性的で、正しい内容だった。

 けれど、ここにいる全員はもう知っている。

 体は冷えを選び、心は疑いを選ぶ。


 未來は新しい紙を取り出し、当番表を書き始めた。


「見張りは一時間交代にしよう。窓は千石さんが作ってくれるって」


 千石は雪洞の上部に小さな穴を開け、透明な氷片をはめ込んだ。

 外の様子を見るための、薄い見張り窓。

 しかし風が叩くたびに氷片が震え、薄くきしむ音を立てる。


     ◯


 午後。

 荒れる風音を背景に、岸浪が配給袋を数えていた。

 すぐに表情が固まった。


「……おかしい。数が合わない」


 皆が顔を上げた。


「どういうことだ」


「袋が一つ、足りない。昨日の数とも一致しない。誰かが余分に持っていったとしか思えない」


 三条が反射的に口を開きかけた。


「東雲が……」


 そこで言葉を飲んだ。

 亡くなった者を犯人にするのは簡単で卑怯だ。

 三条は唇を噛み、顔を伏せた。


 沈黙が落ちた。


 千石がゆっくりと口を開いた。


「全員、ポケットと寝袋の中を確認しよう。誰も責めない。食料管理だけを優先する」


 重い空気が雪洞を満たす。


 最初に動いたのはハンセンだった。

 黙ってポケットを裏返すと、飴玉が一個、転がり出た。


 三条が小さく言う。


「それ、低血糖の処置用に持ってたやつだろ。問題ない」


 ハンセンは恥ずかしそうに笑い、飴をしまった。


 残る全員の確認も行われたが、余分な食料は見つからなかった。

 だが、袋の数は確かに減っている。


「誰かが……夜に取ったのか」


 岸浪の声は震えていた。


 未來は配給表を握りしめたまま、言った。


「犯人捜しをしても、状況は良くならないよ」


 その言葉が正しいとわかっていながら、全員の心にざらついた影が残った。


     ◯


 夜。

 三条が貼った耐寒ルールの紙が、ストーブの風に揺れる。


 見張り窓から漏れ込む雪が、細い布の破片のようにひらひら舞い、天井の霜を落としていく。

 落ちた霜は粉雪のように浮かび、誰かの肩に触れた。


 白い肩が、音もなく立ち上がる。


 未來は半分眠った意識のまま、その白い影を見ていた。

 白取が戻ってきた、と錯覚した。


 しかし灯りを近づけると、それは千石だった。


「千石さん、どうしたんですか」


 千石はしばらく黙り、外を見張るように視線を向けた。


「……足音が聞こえた」


「誰か、外に?」


「わからない。でも、確かに近づいてきて、窓の前で止まった。そう聞こえた」


 未來は喉を鳴らし、窓に目を向けた。


 氷片の向こうは闇だった。


     ◯


 翌朝。

 ブリザードは弱まり、静かな薄明が雪洞に差し込んだ。


 岸浪が外を見て叫んだ。


「また文字だ……!」


 全員が駆け寄る。


 雪面には、新しい文字。


 ごめんなさい


 昨日までより小さく、軽い踏み幅で書かれている。

 まるで小柄な誰かが、震える足で刻んだようだった。


「誰が……何に対して謝っているんだ」


 三条は皆の唇を見比べた。

 寒さで青くなった唇の中で、特に未來の指先の震えが気になった。

 しかし何に震えているのか判断できない。


 配給か。

 見張りの怠慢か。

 あるいは、ここに存在してはならない何かを……。


 未來は文字から目を離せず、かすれた声で言った。


「これを書いた人は……まだ近くにいるのかな」


 その瞬間、外がふっと白さを変えた。


 風が止み、薄い光が差し込む。

 視界が一瞬だけ開ける。


 そこで全員が気づいた。


「あれ……竹竿の位置が違う」


 昨日まで北東にあった目印の竹竿が、信じられない方角に立っている。


 ハンセンは青ざめ、首を振った。


「地形が動いたんじゃない。僕らの位置が違うんだ」


 雪洞ごと、夜の間に滑っている。


 地面が動いたのではない。

 世界の中で、自分たちだけがずれている。


 千石は雪洞の壁に手をつき、低い声で言った。


「風で……これだけの雪洞が滑るわけがない」


 足元の地面が、確かにずれている。

 聞こえるはずのない音が、氷の下で鳴っていた。


 ぎ……ぎぎ……ぎ。


 耳の奥に、薄く、沈むように。


「動いているのは……雪じゃないのかもしれない」


 未來の声は震えていた。


 千石は外の白い世界をにらんだ。


 これは自然現象ではない。

 風でも雪でもない。


 何かが、この雪洞を運んでいる。

 ある地点へ、ある方向へ。


 その上で誰かが、

 いや、何かが文字を書いている。


 ごめんなさい

 さむい

 あと なににち


 白い世界は、消える者の記録ではなく。

 増えていく何かの足跡だった。


 千石は深く息を吸い、言った。


「全員、中へ。外はまだ危険だ。状況を整理する」


 しかし誰も動けなかった。

 皆が知ってしまった。


 外で雪洞が動いているのではない。

 自分たちが乗っている“何か”が、動いているのだ。


 音が聞こえる。

 氷の下で、巨大な何かが息をしているような音。


 ぎぎ……ぎ……。


 白い世界の中で、雪洞を抱えたまま。


 増え続ける足跡と文字を残しながら。


 何かが、確実に近づいてくる。

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