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氷の檻―極寒地で遭難した探検隊。無線も途絶え、食料も尽き、気温は−40℃。毎夜、誰かが消える。残された足跡は「助けて」という文字  作者: 妙原奇天


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第2話 足跡は文字になる

 二日目の朝は、あまりにも静かだった。

 風は落ち、昨日の暴力的な吹雪が嘘のように消えた。

 空は薄い青で、雲一つない。世界がいったん白紙に戻ったかのようだった。


 千石は、熱の消えたパンをかじりながら全員に言った。


 白取の捜索に出る。

 二班に分かれて、周辺半径二百メートル。

 探索時間は十分。それ以上は行かない。


 三条がすぐに声を上げた。


「外は昨日よりマシでも、気温は氷点下四十に近いままだ。凍傷の危険が高すぎる。十分でも長い」


 議論は短く、尖って、そして終わった。


 結論は変わらない。

 千石と三条が西へ、東雲とハンセンが北へ。

 岸浪と未來は雪洞に残り、ベースを守る。


     ◯


 西の斜面は、日の光を受けても白さが薄れない。

 一歩ごとにブーツがぎゅっと鳴り、雪が締まる。


 三条が歩みを止めた。


「千石さん、あれ」


 指さす先には、不自然な盛り上がり。

 雪の丘というほど大きくない。それでも、自然の形ではなかった。


 千石がシャベルを突く。

 がくりと、雪が落ちた。

 空洞だとわかった瞬間、全身が引き締まった。


 雪庇の縁。

 崩れる時は一瞬だ。


 三条が覗き込んだ。


 凍りついた布切れ。

 そして、その奥に、白く光る指先のようなものがあった。


 三条は喉の奥で声を吸い込み、その場に膝をつきかけた。

 千石が肩を押さえた。


「戻る。全員で出直す」


 判断は早かった。

 十分ルールの残り時間は三分しかない。


 帰り道、千石は違和感に気づいた。

 雪面の足跡が均一すぎる。


 普通、吹雪の翌日は凹凸が強く出る。

 しかしそこには、まるで歩調を完璧に合わせた隊列が進んだような規則的な間隔が残されていた。


「三条、この歩幅……」


「人のものにしては綺麗すぎる。幅も深さも揃いすぎてる」


 白い静寂の中、千石は胸にざらついたものを覚えた。


 これは、誰の足跡だ。


     ◯


 ベースに戻ると、岸浪が外へ出てきた。


「戻ったか。ちょっと来てくれ。変なのがある」


 案内されたテントの背後。

 昨日「助けて」と刻まれていた近くに、新しい文字が出現していた。


 さむい。


 震えた線で、雪面に浅く刻まれている。


「誰か、やったのか」三条が低く言う。


「踏み幅がバラバラなんだよ」岸浪が応じた。「一人の靴じゃない。四、五人分が混じってる」


 未來が顔を強張らせた。

 無線機を持つ手がわずかに震えている。


「誰かがふざけているなら、今すぐやめろ」


 千石の声は、雪洞の天井の霜まで震わせるようだった。


 しかし、返事はない。


     ◯


 文字を見つけてから十五分。

 東雲がいないことに気づいた。


「ハンセン、一緒にいたんじゃないのか」


「いた。でも、北で風の音が……変だった。気づいたら姿が見えなかった」


 ハンセンは顔を赤くし、何度も首を振った。

 東雲だけが持つ工具バッグは半開きで、ストーブのジェットも締まりきっていない。


 炎がわずかに上ずり、煤が増えていた。


 三条は酸欠を疑い、換気穴を広げた。

 岸浪は無言で配給表の数字を書き換えた。


 二日分。


 その言葉が、胸に冷たく沈んだ。


     ◯


 夕刻、北の稜線に薄墨の雲が集まった。

 温度がさらに落ちる。

 千石は見回り係を一時間交代で行うと伝えた。


 初回当番は未來。


 帳面に「一時間経過、異常なし」と書く手が止まった。


 ランタンの光の輪の外。

 靴跡があった。


 現れては消え、また現れる。


 まるで誰かが歩いているかのように、一歩ずつ近づいたり離れたりしている。


 未來は、肩越しに雪洞の中を見た。

 全員がいる。


 自分以外は、ここに。


 なのに、外で歩いている?

 誰だ。

 何人だ。


 風はなく、足跡は鮮明だった。


 未來は戸口まで行き、息を整え、外へ出た。


 冷気が肺を刺す。

 ランタンの火が揺れる。


 足跡は、未來のすぐ横まで続き、そこで止まっていた。


 誰のものともつかない深さ。

 踏み幅が途中で変わっている。

 歩き方に癖がない。


 人の気配だけを消したような足跡だった。


「……っ、戻ろ」


 未來は恐怖をごまかすように声を出し、雪洞へ戻った。


     ◯


 翌朝。

 雪面に、また文字があった。


 あと なににち


 雑な線だが、人間の文字だ。


 だが誰が書いた。

 いつ書いた。

 なぜ。


 千石は皆を集めた。

 誰も口を開かず、震える肩だけが伝え合う。


「白取も、東雲も。まだ、助かるかもしれない。探索範囲を……」


「千石さん」


 岸浪が、帳面を抱えたまま震えて言った。


「昨日の夜の人数、計算が合わない」


 全員の顔が向く。


「何がだ」


「雪洞の中で、息の音が……一人分、多かった。たぶん。いや、確実に」


 薄い沈黙が落ちた。

 喉の奥で霜が割れるような音がした。


 三条が低く言う。


「つまり、誰かが戻ってきた……と?」


「わからない。足跡は増えてる。でも、誰も見てない。増えた足跡の主が、誰なのかも」


 未來は無線機を抱え、かすれた声で言った。


「でも……あの文字。足跡。息の数。全部……誰かがいるってことじゃなくて……」


 皆が未來を見る。

 未來の唇が青く震えている。


「何かが、増えてる……ってことじゃないの?」


 雪洞の中の空気が、ひとつ、縮んだ。


 千石は息を飲み、外の青白い光を見た。


 この世界では、消える者よりも先に、

 増える者のほうが危険だ。


 それを、誰も口には出さなかった。

 ただ、その沈黙だけが、全員の体温を奪っていった。

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