第1話 白い肺
遭難は、一つのミスから始まったわけではなかった。
積み重なった不運が、最後の一押しをしただけだった。
輸送用スノーモービルのクランクが固まり、予備機のチェーンが吹き上がった粉雪に噛まれ、空転した。吹雪は斜めから水平に走り、視界は五メートルもない。気温は氷点下四十度。風速二十。数字はただの記号に見えるが、この世界でそれは死に直結する。
千石は撤退を決めかけて、無線の短波がふっと途切れたのを聞いた。
耳鳴りのような沈黙が広がり、ベースキャンプのビーコンも応答しない。
戻るべき場所が、地図の上から消えた。
その瞬間、探検隊は、白い世界の孤島になった。
雪洞を掘る作業は、いつもの訓練の延長だった。
東雲がテントの破れを縫い合わせ、二重壁にして冷気を断つ。
三条と岸浪が雪を削り、未來がストーブの燃料残量を点検する。
東雲が分解して磨いた燃焼室は、かすかに青い炎を宿した。
息をひとつ吐けば、白い水蒸気がすぐ凍り、顔に細い針のように当たる。
全員が入り終える頃には、夜が落ちていた。
◯
食料は五日分のはずだった。だが翌朝、岸浪が計算し直した配給表は「三日分」と書き換えられた。
パンが、夜の間に石のように膨張したのだ。
内部に空洞が生まれ、食える部分の半分以上が失われていた。
誰も文句は言わなかった。
ただ、配られたパンを噛むたびに、きゅ、と乾いた音がした。
◯
白取が最初に消えたのは、その日の夕方だ。
外気温の計測に出たまま戻らなかった。
千石は二分だけ待ち、出ると判断した。
腰にロープを巻き、三条と東雲に支えさせ、吹雪の壁に踏み込む。
足跡はあった。テントの背後で折れ、また折れ、まるで迷子の子供の軌跡のように巡っていた。
岸浪がヘッドランプの光を強めると、雪面に奇妙な跡が浮かび上がる。
複数の足跡が、一人分の踏み幅のまま並び、細い溝で繋がりながら曲がり、最後には円を描いていた。
そして、その真ん中に文字があった。
助けて。
三文字は、それぞれ白取のブーツサイズと一致していた。
まるで彼自身が、ぐるぐる歩き回りながら書いたように。
だが、時間が足りない。
五分どころか、一分外にいるだけで指が千切れそうだ。
誰が書いた。
どうやって書いた。
いつ書いた。
疑問は山ほどあったが、千石は言葉を飲んだ。
戻る。
それだけを言い、ロープを引いた。
テントへ戻る十数歩が、永遠のように長かった。
◯
暖かいはずの雪洞の中で、皆の顔色は吹雪の外より青かった。
ストーブは心許なく、壁の霜はぱりぱりと肺の音みたいに鳴っている。
配給は半量に落とされた。
未來は無線機を叩き続け、短波にしがみつく。
ただの雑音が、時おり言葉の形に聞こえる。
し……て。
そう聞こえた気がして、未來はヘッドセットを外した。
震えている手を見られたくなくて、膝の上に隠した。
◯
夜半、雪洞の天井が軋み、粉雪がぱらぱらと落ちた。
東雲が支柱を増し、三条が寒さで硬くなった手を擦り合わせる。
千石は記録を残せと岸浪に言い、白取について全員が口述した。
白取の癖、口調、最後の会話。
しかし、その細部が食い違う。
誰が外気温の計測を頼んだのか。
白取は返事をしたのかしなかったのか。
戻らないと気付いたのは、二分後か三分後か。
わずかな誤差が、疑いの温床になる。
眠りは浅く、息は白く、
誰もが、自分の吐息が自分の体温を奪っていく音を聞いていた。
◯
千石が眠れずに目を開けると、未來がストーブの側で固まっていた。
未來は、何かを見つめていた。
その視線の先に、テント内の入口付近の雪があった。
白い雪面に、細い線。
まるで爪で引っかいたような、短い文字。
かすれた跡は、触れば崩れてしまうほど弱い。
し
一文字だけ。
未來は喉を引きつらせ、千石は思わずその肩をつかんだ。
眠気が吹き飛ぶ音が、鼓膜の内側で鳴った。
◯
夜明け前。
外気温はさらに下がり、雪洞の内壁の霜が厚くなる。
皆の表情が、白く濁った肺のように見えた。
沈黙が、肺の中の冷気みたいに重く積もっていく。
◯
その翌朝、二人目が消える。
だがその時、探検隊はまだ知らなかった。
白い世界は、仲間を奪ったのではない。
もっと別の何かを、密かに増やしていたのだ。
雪洞の中で、息をする者の数が――
明らかに、合わなくなり始めていた。




