第九話 手と手、ツナイデ
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「お疲れ様でした」
「はーい。お疲れ様」
店主であり料理長の男は、ふさふさとしたロマンスグレーの髪の毛をセンターパートにしていた。
三十年以上も東京で洋食屋の主人をしているだけあり、身なりも話し方も洒落た印象を与える物腰の柔らかい男だった。
カズマは好意を込めてアルさんと名づけた。
店の主だから、アルさんだ。
その妻で店を切り盛りしている女はさらに物腰が柔らかく、聖母マリアやナイチンゲールといった慈愛の心を持った女性をカズマに想起させた。
と言っても、マリアやナイチンゲールがどんな人物だったのか、カズマはまったくと言っていいほど知らないのだが。
優しい女性で連想されるのがその二名だということだ。
この女性は心の中でマリーさんと呼んだ。
もちろん、ふたりにつけた名を声にして呼ぶことはない。
あくまで心の中のみでのあだ名だ。
カズマはここにアルバイトとして雇ってもらえたことを、僥倖だと思っている。
本当に居心地がいいし、店主の料理の教え方にも「上から」の圧はない。
わかりやすく的を射ていて、料理の腕が上がっていくのが実感できた。
比較的にすぐに料理を作らせてもらえるようになったことも嬉しかった。
そして、繰り返しになるが、本当に居心地がいいのだ。
あるとき、店主がカズマを呼んで、言った。
「見てみなよ。お客さん、カズマくんが作った料理、美味しそうに食べてるよ」
じんときた。
アルさんのことをコックとしてだけでなく人としても尊敬できる人物だと、早い段階から思っているし、それは一年以上経ったいまでも変わらない。
そしてマリーさんが感じのいい、優しい女性であるという評価も、変わってはいない。
だから、またも繰り返しになるが、本当に居心地のいい店だと思っている。
そして居心地のいい店なのは、アルさんとマリーさんの人柄によるものだと、思っている。
カズマの他にも数名いるアルバイターたちも、きっとふたりの人柄が気に入っているから、他の店へと移らないのだろう。
気持ち良く料理を作り、気持ち良く仲間と接し、気持ち良く客を迎え、気持ち良く送り出し、気持ち良く仕事を終え、気持ち良く別れの挨拶をした。
帰る道々、いつものルートをなぞりながら、カズマはアユミを思った。
ラインの返事でのリクエストはオムライスだった。
卵のふわふわ感を崩さずに弁当箱に入れるのが意外と難しいのだが、そこは腕の見せ所、頑張ろうと意気込んだ。
夜になっても人が多いことは変わらず、渋谷駅前のスクランブル交差点を渡って、駅のホームへと向かった。
電車は口を開けて発車を待っていた。
空席率四十パーセントのシートに座り、サラダとデザートのタッパーには保冷剤を忘れないようにと、注意する。
周りにいる人たちに気を取られることはない。
周りの人たちも、カズマに気を取られることはない。
上京してきて、よほど奇抜な容姿でなければ、東京という土地では衆目を浴びることはないと学習した。
いや、よほど奇抜な容姿でも、ほとんどの場合は一瞥されるだけで終わりで、じろじろと見られることは、まずない。
そこで、かなりの美男美女であった場合はどうだろうかと、カズマは頭をひねった。
そんなことを考えているとアナウンスがあって、電車が動き出した。
空いている向かいのシートを見ながら、カズマはポジティブに受け止めようとした。
アユミを、だ。
カズマはもうとっくに気がついている。
カズマに怒鳴るとき、アユミはカズマを見ながら、カズマを見てはいない。
カズマを殴るとき、アユミはカズマを見ながら、カズマを見てはいない。
カズマと寝るとき、カズマを受け入れながら、心はそこにはない。
八つ当たりではない。
蔑ろにしているわけでもない。
誰かの代用でもない。
無論、カズマが怒らせるようなことをしたから、アユミは怒るのだ。
だが、あそこまでヒステリックにさせる何か、その要因は、カズマの外にある。
だから、違う意味でも、心が痛む。
でも、とカズマは考える。
いや、言い聞かせると言ったほうが適しているだろう。
でも、でも、でも。
アユミさんの目を、俺にだけ向けさせればいい。
そうできない俺が悪い。
出会ってから少しずつ、少しずつ、前に進んでいる、はずだ。
そう、進展しているのだ。
このまま日々を重ねていけば、いつかきっと。
アユミが好きでもない男と寝る女ではないことは、よく知っている。
俺に好意を持ってくれているからこその、行為なのだ。
いま、アユミが必要としているのは、俺だ。
改札をくぐり、アパートまで約十分、寄り道をせずに歩いた。
カズマは思う。
次に都合がつくのは水曜の夜と、土曜の午前中だ。
残りから逆算して水曜日。
水曜日にスーパーに弁当の食材を買いに行こう。
ふたりで、新婚の夫婦のように。
でもお金を出すのはアユミさんなのだ。
自分が食べる弁当の食材なのだからとアユミさんは言うが、俺が一緒する食事代もそこには含まれているのだから、少し気が重い。
そう言ってカズマがお金を出そうとするのを、
「料理してもらう対価よ。気にしないで。ただで作ってもらうのは気が引けるから」
とアユミは止めた。
そう言われたら、手を引っ込めないわけにはいかない。
つきあいが深くなってから、アユミの機嫌がいい日は、エコバッグを右手と左手にわけて持って、手をつないで帰るのだ。
手をつなげたらいいな。
カズマは思った。




