第四話 それでマンゾク
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アユミがそう望んだわけではないが、カズマはアユミが下着をつけるところは見ないようにしている。
大体はカズマが先に服を着て、ソファでアユミが出てくるのを待っているのだ。
冷蔵庫にはカズマ用の果汁一○○パーセントの缶ジュースが買い置きしてある。
プシュッとステイオンタブを開けて、まだ二十歳にもなっていないカズマに○○後の倦怠感などなかった。
見たい番組があるわけではなかったが、テレビをつけた。
ザッピングをして選んだバラエティ番組を見ていると、意外と面白いと思った。
予約録画をして毎週チェックしたくなるほどではなかったが。
「面白いの?」
アユミがやってきて、さしたる興味もなさそうに訊いた。
「つまらなくはない。けれど、人に勧めたくなるほど面白いかと言ったら、そうでもないっていう、微妙なラインかな」
「ふうん。もっとボリューム、あげて」
カズマの隣に腰を下ろして、どちらかと言えばアユミのほうがリモコンに近いのに、カズマにさせた。
カズマは嫌な顔などせずに、リモコンを手に取った。
コマーシャルになるまで、沈黙の中でテレビを見た。
笑いこそしなかったが、たしかにつまらないというほどでもないなと、アユミも思った。
「今日、何曜日だったっけ?」
「……水曜日、だったと思う。うん、水曜日だ。どうか、した?」
「ううん。なんでもない。ただ気になったってだけ」
スマートフォンで確認したカズマは、テーブルにそれを置いて、肯いた。
またしばらくテレビの声だけが響いた。
「ねえ、この人のこと、どう思う? ああ、変わっちゃった。待って。この人、この人」
「あんまり面白いとは思わないけど、根性の悪い人ではないと思う」
「そうよね! だから許せるのよね。これで根性腐ってたら、もう最悪よね。フォローのしようがないもの。ね」
テレビを見ていてもそんなに興味をそそられなかったからか、アユミが訊き、カズマが返事をすると、アユミの声が明るくなった。
実際、嬉しかったのだ。
カズマはそれで満足だった。
手を握ろうかとも思ったが、経験上、向こうから伸ばしてくるまで待つことにした。
苛々はしないがもどかしく、しかしくすぐったいような気持ちで、じっと待った。
道路を挟んで十メートルばかりの距離ではあるが、カズマがアユミの部屋に泊まったことは一度もない。
ベッドのサイズはシングルだったし、ソファで寝て寝られないことはないのだが、わざわざそこで寝るくらいなら自分の部屋に帰って自分のベッドで寝たほうが体も痛まずに済むだろうという、アユミの見解だったのだ。
そしてそれは正しかった。
億劫がらずに部屋に帰って寝たほうが、カズマは安眠できたのだ。
と言っても、アユミの部屋で寝たことがないため、比較のしようがないのだが。
時間が迫ってきたので、アユミは手を離す。
アユミは玄関まで見送りにはいかない。
だからソファから立つときに別れを言う。
「じゃあ、また来ます。キス、してもいいですか?」
「馬鹿」
照れを隠すように怒るアユミを見てから、カズマは帰っていった。
当たり前だが、アパートの外は夜だった。
ああ、夜だ。
そうカズマは思った。
月が出ていたわけではない。
星も見えはしない。
単なる、東京の、夜だ。
ポケットから鍵を取り出して、人気のない道路を横切り、鍵穴に差し込んだ。
左に回せば開錠されるのだが、一度鍵を抜き、ドアノブをひねってみた。
鍵を閉め忘れるという失態を犯していないか確認したのだ。
テレビやBDレコーダーは、持っていくところに持っていけば、何万かの値はつくだろう。
靴だって、カズマが気に入っているブランドのバスケット・シューズならば、すべて合わせれば一万円を超えるくらいにはなるはずだ。
泥棒も、わざわざ慎ましく生活しているカズマの部屋に入るくらいなら、もっと金の匂いのする家へと狙いを定めるだろう。
鍵を開けて泥棒と鉢合わせになる可能性は極めて低い。
でも、玄関を開けたら包丁を持った泥棒がいて、財布を脅し盗られた、なんて話があるのだ。
低くはあるが、可能性はゼロではないのだ。
大丈夫、閉まっている。
カズマは確認し、ドアを開け、部屋に入り、鍵をかけ、鍵をかけたことを確認し、部屋の灯りを点けて、安い、特に褒めるべきところのない灰色で格子柄の四角いクッションに座ると、幸福感に浸った。
土下座をしていたことは、勘定に入れてはないなかった。
そう、カズマという男は、土下座をさせられていたことを勘定に入れずに、よかったことだけを掬い上げて考えるような、そういう男なのだ。
忘れるのでも目を背けるのでもなく、勘定に入れないのだ。
カズマのこういう人となりは、周りから「天然」と呼ばれる。
それを好意的に受け止める人間ばかりではなかった。
カズマはいじめられっ子だった。
だから、知り合って間もないころに、アユミが絞り出すようにして、カズマの耳元で囁いた一言が、極寒の雪山で遭難して絶望感に包まれたときのオレンジ色の炎のように温かく揺らめいたのだ。
酷暑の砂漠で遭難して死を覚悟したときに来た救助のヘリコプターの中で飲んだ一杯の水のように心を潤したのだ。
人生を変える、一言だったのだ。
あの炎。
あの水。
それがあるから、充分だった。
それに、土下座だけで済んだのだから、軽いほうだった。
最初のころはこんなものではなかったのだ。
ベッドに入り眠りに落ちるまでの十数分間に、二往復ばかり、カズマは頬をさすった。
「謝れ!」
それは唐突だった。




